プレゼント 書評こぼれ話

  今日は遠藤周作の『沈黙』。
  この本を読むに際して
  私が手にしたのは
  昭和51年52刷の新潮社の「純文学書下ろし特別作品」です。

  CIMG1865_convert_20170325163533.jpg

  初版は昭和41年3月とあります。
  この本をかつて読んだ日付は
  はっきりしています。
  どうしてかというと
  昔の手帳に
  この本のことが記されているからです。
  読んだのは1980年4月4日、金曜日。
  「再読」と書いていますから
  もう何回か読んでいたのでしょう。
  手帳にはこんな一節が
  書き留められていました。

    罪とは人がもう一人の人間の人生の上を通過しながら
    自分がそこに残した痕跡を忘れることだった。


  うーん。
  今回読んで、この一節に気がつかなかったのは
  感性の劣化かな。

  じゃあ、読もう。

  

sai.wingpen  わたしもまたキチジロー                   

 遠藤周作は2016年に没後20年を迎えた。
 それに合わせてさまざまな企画があったが、なんといってもこの『沈黙』がマーティン・スコセッシ監督によってハリウッドで映画化されたということが大きい。
 その影響も大きかったのだろう、新潮文庫の同作品が累計で200万部を超えたという。
 そういう機会も再読には必要だ。
 私も何十年ぶりかで本棚からこの作品を引っ張りだした。

 この作品はキリシタン禁制の江戸時代に自らの師である司祭が棄教したという噂の中、危険を賭して日本に渡ってきた一人の青年司祭ロドリゴの苦悩を描いている。
 日本までの案内人としてかつてキリシタンでありながらその弱さゆえに転んだキチジローという塵のような男を描くことによって、ロドリゴの苦悩がより鮮明になっている。
 この作品を最初に読んだ時にはこのキチジローの、弱い者ゆえに持つ苦悩が重要なテーマであると思っていたが、今回読むと、やはり主人公はロドリゴであり、キチジローは彼の合わせ鏡に映る人物設定だということがわかる。
 誰の心にも神がいれば、キチジローという弱き男もいる。

 「人間には生まれながらに二種類ある。強い者と弱い者と。(中略)お前はどちらの人間なのだ。」
 ロドリゴは何度もこういった問いかけを自分にし、神はどうして黙ったままなのかと問う。
 最後に彼は神の言葉に導かれて、踏み絵に足をかけるのだが、本当はキチジローの姿を通して何度も神は語っていたのだろう。

 神とは何かを問うたこの作品は、弱さとは何かを問うた作品でもある。
  
(2017/03/28 投稿)

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 歳時記では
 時候・天文・地理・生活・行事・動物・植物といった
 くくりに分かれているが
 さすが「春の部」は植物の季語が多い。
 街を歩いていて
 一面の花にハッとさせられることがある。
 こういう時に
 植物の名前を知っていたらと悔やむ。
 わかるのは
 タンポポぐらい。

  CIMG1873_convert_20170325163139.jpg

    たんぽゝと小声で言ひてみて一人     星野 立子

 畑でも花が見られる。

  CIMG1880_convert_20170325163400.jpg

 これは菜の花っぽく見えますが
 よくみると
 コマツナのトウが立って
 きれいな花を咲かせたようです。

 こちらは
 イチゴ

  CIMG1877_convert_20170325163247.jpg

 可憐な白い花です。
 俳句の世界では
 イチゴ夏の季語
 イチゴの花春の季語に分類されています。

    敷藁のま新しさよ花いちご      星野 立子

 なんだか今日は
 星野立子の俳句ばかりだな。

 こちらは畑ではないのですが
 この花わかりますか。

  CIMG1881_convert_20170325163435.jpg

 これはソラマメの花。

    そら豆の花の黒き目数知れず     中村 草田男

 ベランダ菜園のソラマメです。
 ちなみに
 ソラマメを漢字で書くと
 蚕豆

 そんな野菜の花たちも
 順々に咲いてきた畑で
 3月25日は
 夏野菜のための畝づくりを
 しました。

  CIMG1879_convert_20170325163324.jpg

 春の季語には
 春耕という美しい季語もあります。
 
    春耕のときどき土を戻しをり    井上 弘美

 畑のそばを流れる
 鴻沼川の桜並木も
 ぽつりぽつり。
 4月1日には
 花見もかねての
 カレー大会が
 畑で行われます。
 楽しみだな。

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プレゼント 書評こぼれ話

  先日の火曜日(3月21日)、
  東京で桜の開花宣言 がありました。
  去年と同じ日の宣言でしたが
  全国で一番早いものでしたから
  びっくりでした。
  私の畑のそばの桜並木も
  開花し始めました。

  CIMG1876_convert_20170325163213.jpg

  いよいよ春本番です。
  いのちの恵みを感じる季節です。
  今日の絵本は
  宮内婦貴子さん文、
  いせひでこさん絵の
  『おさびし山のさくらの木』。
  いのちの尊さを感じる絵本です。
  桜が満開になったら
  ぜひ読んでみて下さい。

  じゃあ、読もう。

  

sai.wingpen  言葉を自由に羽ばたかせて                   

 言葉は広がる枝木のようなものです。
 広がり、そこにつく葉、咲く花、実る果実。読者はどこまでも想像の翼を広げられる。
 この絵本の作者宮内婦貴子さんはかつて映画やドラマで活躍された脚本家でした。
 2010年に76歳で亡くなられましたが、この作品は1987年に書かれたものです。
 それに、いせひでこさんが新たに絵を制作され、2015年にこの絵本が出来ました。
 新たな生命の誕生です。

 宮内さんは「おさびし山のさくらの木」と一人の旅人の話を書いています。
 花は散るけれど、生命はめぐりくるのでまた会うことは叶いますというさくらの木の言葉を信じ、季節がもう一度めぐった春におさびし山を訪ねます。
 しかし、さくらの木は切られ、風車になっていました。
 呆然と泣くしかない旅人に光が差し込みます。
 それはさくらの木であった光でした。
 「もう花はさかないのですか」と尋ねる旅人に「さきますとも」と光は答えます。
 「生命はめぐりめぐるものですから」。

 宮内さんの言葉には繰り返される生命の尊さが描かれています。
 その文章にいせさんは私たちが想像するような旅人を描きませんでした。
 何を描いたかというと、一頭のくまです。
 いせさんにとって、宮内さんが書いた「旅人」というのは人ではなかった。くまとして生きているものであったのです。

 もとさくらの木であった、そして今は風車になった光の前にたたずむ一頭のくま。
 それはまさに宮内さんの言葉に生命が吹き込まれた瞬間のような気がします。
 私たちは言葉からもっと自由であるべきなのでしょう。
 きっと一人ひとりに「おさびし山のさくらの木」があるかのように。
  
(2017/03/26 投稿)

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  NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」を
  毎回楽しみに見ている。
  その中で徳川家康(ドラマではまだ松平元康の時代)を演じているのが
  阿部サダヲさん。
  その妻瀬名(のちの築山殿)は菜々緒さんが
  演じている。
  今日紹介する
  司馬遼太郎さんの『覇王の家』を読もうと思ったのは
  もちろん大河ドラマに誘われてである。
  面白かったのは
  家康と瀬名との関係。
  瀬名の方が10歳も上だったという。
  この上巻では二人の関係が詳しく描かれていて
  ドラマと関連して
  面白さは倍増だった。
  早く、下巻も読もうっと。

  じゃあ、読もう。

  

sai.wingpen  臆病者、家康                   

 司馬遼太郎さんの『街道をゆく』の未完となった最後の旅は「濃尾参州記」であった。
 すなわち美濃、尾張、三河。となれば、信長だけでなく家康もまたこの旅の主人公になるはずであっただろう。
 未完となる最後のくだりが「家康の本質」で、その中で司馬さんは家康についてこう書いている。
 「若い頃の家康は、露骨に臆病だった。ときに茫々と思案し、爪を噛みつづけた。」と。
 そんな家康に光をあてて描いたのが、この『覇王の家』で、文庫本で上下2巻となっている。

 書誌的にまず書いておくと、この作品は1970年初めから1年半かけて雑誌「小説新潮」に連載された。
 タイトルの「覇王」というのは、「徳ではなく武力・策略で諸侯を従えて天下を治める人のこと」とあるが、もちろん、ここでは家康を指していることは間違いない。
 しかし、家康に「徳」がなかったかといえば、どうもそうではないように思える。
 家康に仕えて三河人の忠と実は、家康の「徳」がもたらしたといえなくもない。

 この上巻に妻と息子を信長に斬れと迫られ、それを苦渋の末に断行した家康の姿が描かれているが、その際信長によからぬ話をした老臣酒井忠次が描かれている。
 家康はその酒井に対しても、仇と思わないよう「驚嘆すべき計算力と意志力」でもってそうし、片鱗でもそう思わないようにしたとある。
 何故なら、そう思うだけで人の心は感応するからと司馬さんは書いた。
 まさに、家康はそういう人であったのだろう。

 上巻では本能寺の変のあと、秀吉が天下とりに名乗りをあげるところまでが描かれている。
 家康が動き出すのは、これからである。
  
(2017/03/25 投稿)

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  今日紹介する
  『「本をつくる」という仕事』を
  本屋さんの平台で見つけた時
  ぐっとひかれて
  これは読まないといけないと
  思いましたね。
  書いたのは稲泉連さん。
  この本のはじめに
  稲泉連さんはこの作品を書くきっかけになった
  『復興の書店』という本のことを
  記していますが
  そういえば
  『復興の書店』っていい作品だったことを
  思い出しました。
  だから、この本も
  いい作品になっています、ということを
  書いておきたかったのです。

  じゃあ、読もう。

  

sai.wingpen  本は「もの」なのだ                   

 雑誌の編集者でもあり装釘家でもあった花森安治は「一冊の本というものは、著者と装釘者と印刷者の共同作品である」と装釘家としての自信の程を滲ませたが、晶文社の作品のほとんどを装幀した平野甲賀氏は「本と読者をつなぐのは、あくまでもその本の中身だと思う。装丁は、ちょっとしたサービス。」と書いたことがある。
 平賀氏の言葉は謙遜したものだろうが、それにしてもここにも職人としての自信がみなぎっているように感じる。

 本というものがどのようにしてつくられているのかを、ノンフィクション作家の稲泉連氏がドキュメントで追いかけたのが、本書である。
 本というものをそれを作り手側から見ると、それが工業製品であることがよくわかる。
紙の本か電子書籍か、出版業界の未来が取り沙汰されるが、この本を読むと、もしかするとそれらはまったく違うものかもしれないと思えてくる。
 本という「もの」を愛する限り、紙の本はなくならないのではないか。

 この本では活字を作る、製本をする、印刷をする、校閲をする、紙をつくる、装幀をする、海外の本を紹介する、そして子供の本を書く、といった「本をつくる」仕事が取り上げられている。
 大手の印刷会社や出版社の人たちや作家もいてひとくくりにするのはおかしいかもしれないが、何故か不思議と皆それぞれが「職人」と呼んでいいような気がする。
 職人気質といわれる、仕事に対する姿勢の気質が、どなたも一途なのだ。

 こういう人たちがつくる本だからこそ、大事にしたいし、しなければいけない。
  
(2017/03/24 投稿)

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