06/22/2010 書評でふりかえるbk1書店と私 第四回 書評の仲間たちが本をつくった

オンライン書店ビーケーワンが出版社のすばる舎と
共同企画した「熱い書評プロジェクト」が動きだしました。
これはbk1書店に投稿していた書評者66人が
自分の好きな本について書評を書いて、
それをまとめて一冊の本にしようというプロジェクトです。

最初連絡をもらったときにはびっくりしました。
まさか、っていう感じですね。
それで、事前に書評を書きたい本の調査があって、
私が選んだのは正岡子規の『病床六尺』。
書評の長さは約2000字程度。
私の書評は今だいたい800字から1000文字程度かと思いますが、
2000文字というのは結構書きごたえがありました。

もう忘れてしまいました。
書評のタイトルは「秋の柩にしたがはず」と、
子規の友人だった夏目漱石が留学中のロンドンで
子規の訃報に接したときに詠んだ俳句、
「筒袖や秋の柩にしたがはず」からとりました。

最終的に私の書評は、
『熱い書評から親しむ感動の名著』の巻頭の作品に
選ばれました。
でも、残念ながら、この本は
あまり売れなかったのではないかな。
素人の書評家に書かせるというのは面白い企画だったと思いますが、
やはり選ばれた本が雑多すぎたかもしれません。
それに66人というのは、
いかにも多すぎたのではないでしょうか。
もう少し少数の書き手で、テーマを絞り込めば、
もっとすっきりした本ができあがったかもしれません。

編集部さんのご苦労はよく理解できました。
なにしろ、私だけでも何度もなんども書き直しをしましたから
これが66人なのですから、
大変だったと思います。
この本のなかの私の書評はさておき、
せっかくみんなで作った一冊なので、
今回紹介しているような書評を書いた次第です。

金原ひとみさんの『蛇にピアス』という若い二人の女性が
W受賞しています。
綿矢りささんの作品には「あなたが蹴りたいのは誰の背中ですか。」、
金原ひとみさんの作品には「がんばれなどとは死んでも言えない」という
書評を書いています。

どんどん読書数が減ってきているのが気になった年でも
ありました。
![]() | 熱い書評から親しむ感動の名著 (2004/04) bk1with熱い書評プロジェクト 商品詳細を見る |


どうして書評を書くのか、時々考えることがある。誰かに何かを伝えたいという思いがない訳でもないが、それ以上に本を読んだその時そのときの自分自身を残したいという思いの方が強い。その本がもたらしてくれる色々な思いを文章にして書きとめることで、その本を読んだ<今>の自分自身もまた残っていく。そういう意味では、書評は私にとって日記であり、自分史なのだ。
白い頁がある。そこに自分自身を書いてみなさいと云われても戸惑うばかりだ。白紙から作り上げていくことの労力は半端なものではない。自分とは一体何だろう。誰もがわかりたいと思いながらも、白い頁に肖像画を描けないでいる。そこに、本を置いてみる。本という被写体を描くことで、実は自分自身を書くことになる。文章に書けなければ、その時どきに読んだ書名だけでもいい。二十歳の時に読んだ『門』と三十歳の時に読んだ『門』とは違うはずだ。『門』と書かれた書名の向こうに、その時そのときの自分自身がいるはずだ。
そこから、書評まではもう一歩だ。その本を読んだ際の自分の生活や体調を書いてみるといい。「二十歳になった。漱石の『門』を読んでみようと思った」とか「妻と喧嘩した。むしゃくしゃして、本棚にあった漱石の『門』を思わず投げつけた。軽そうな本を無意識に選んでいたかもしれない」とか。書評は自由だ。そこに本がありさえすれば、無限に広がる世界だ。
「文学は、何をどのように描いてもいいものです。批評はまたこれをどのように論じてもいいもの−ときには論じないことで最大の肯定か否定かを示すもの−なのです」
かつて開高健はある短文(『エピキュリアンの悲しみ』)にこう書いた。そのことを実証するように、オンライン書店bk1に書評投稿している六十六人がそれぞれのスタイルで書いた書評を集めたのがこの本である。年令も職業もまったく違う六十六人ゆえの個性豊かな書評集にできあがった。ここには六十六冊の本と同時に六十六人の人たちの熱い思いがあり、<今>がある。そして、六十七番目の書評子は、もしかしたらこの本を読んだ<あなた>なのかもしれない。
(2004/04/26 投稿)

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06/19/2010 書評でふりかえるbk1書店と私 第三回 世界の中心ってどこだったのだろう

他のオンライン書店、たとえばアマゾンとかの違いは
レビューという形ではなく、
書評という形式をとっていることでしょうか。
特にbk1書店で本を購入しなくても
書評は投稿できます。
文字数制限は今は3000字。
大長編? 書評も投稿可能です。
もちろんネタばれとか、極端に短いものとか、誹謗中傷は
ダメです。
編集部の人がきちんと読んでいるようです。

基本的には掲載されます。
掲載されたときには、
「この書評をいいと思った・・・はい・いいえ」という
評価アンケートみたいなものがはいります。

この評価アンケートの「はい」が61票もはいった作品が
片山恭一さんの『世界の中心で、愛をさけぶ』です。
2003年7月22日の投稿です。
よく調べていませんが、
おそらく私の書評のなかでもっとも支持された作品だと思います。
もっとも私の書評がよかったというより、
それだけこの『世界の中心で、愛をさけぶ』が読まれていたと
いうことでしょう。
この書評のなかで書いた甥っ子のD君ですが、
一浪してこの春、大学生になりました。
この時、彼がこの『世界の中心で、愛をさけぶ』を読んだのか
どうかはわかりませんが、
案外大学生になった今、読むのもいいのではないでしょうか。

新井満さんの『千の風になって』の書評(2003.12.23)で
続編のような「冬はダイヤのように-D君の課題図書、冬。」を
書いています。
2003年の投稿数、77件。
![]() | 世界の中心で、愛をさけぶ (2001/03) 片山 恭一 商品詳細を見る |


D君へ。
今年は冷たくて長い梅雨がいつまでも続きます。山間の、君の住む小さな町もどんよりとした雨雲が張りついたままです。中学生になって初めての夏休みを迎えようとしていた終業式の日の夜、君のお父さんは突然亡くなりました。君はその悲しみも今後の不安も、まだ実感する余裕すらないかもしれないですね。でも、いつか梅雨空が消え去って夏の日差しが差し込むように、君もお父さんのいない深い悲しみにふいに襲われるかもしれません。
でも、D君、考えてみて下さい。(人の死は多くの人に考えるということを教えてくれる尊厳なものです)その時、君が感じる悲しみは誰にも理解できない程深いものでしょう。でも、君のお父さんが死の直前に感じただろう悲しみはどれほどつらいものだったでしょうか。お父さんはまだ四十三歳でした。君は背丈が大きくなったといっても、まだ中学一年になったばかりです。お父さんはこれから君と過ごせただろう日々のこと、君が素敵な彼女を連れて歩いたり進学や就職に悩んだり、やがて美しい人と結婚するだろうその日に、父親として君のそばにいてあげれない悔しさにどんなにつらい想いだったことでしょう。
「好きな人を亡くすことは、なぜ辛いのだろうか」。片山恭一の「世界の中心で、愛をさけぶ」は恋人の死をめぐっての、高校生の純粋な愛の世界を描いた小説です。中学生の君にはまだわかりにくい作品かもしれません。あるいは今の君にはつらい内容かもしれません。でも、悲しくても乗り越えないといけないことがいっぱいあるのだということを君にもわかってもらいたいし、乗り越えるということ自体が今の君の大きな課題だと思います。悲しみから逃げてはいけません。悲しみは乗り越えないといけないのです。
「ずっと以前になくしたものが、ある朝ふと、もと置いた場所に見つかることがある。きれいな、昔あったままの姿で。なくしたときよりも、かえって新しく見えたりする。まるで誰か知らない人が、大切にしまってくれていたかのように」(205頁)
D君。君もいつかお父さんの死が君に教えようとした大切なことをわかる日がくるにちがいありません。そして、それがいつもより長い梅雨の年の、中学生最初の夏休みのはじまりの日だったことを、悲しみの想いを封じ込めてなつかしく思い出す日が来るでしょう。
(2003/07/22 投稿)

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06/15/2010 書評でふりかえるbk1書店と私 第二回 おいしいねじりパンができあがりました

この年の秋、村上春樹さんの『海辺のカフカ』が刊行されて、
その記念としてオンライン書店ビーケーワンでは
書評コンテストを実施しました。
今回紹介した書評は、その時私が応募したもの。
選考の結果、「優秀賞」に選ばれています。

(大西絢子さん・新潮社) 物語に出てくるキーワードを一つ一つ
読み解こうとする人が多いなかで、「夏の雨」さんは
『海辺のカフカ』全体を”ねじりパン”に喩えていて、
暖かみを感じました。
(斎藤bk1書店店長) ねじりパンというのはイメージ沸きましたね。

ほくそえんでいるのですが、
村上春樹さんの長編小説は最近の『1Q84』でもそうですが、
いくつかの物語がからまりあいながらできあがっている
イメージがありますよね。
砂糖のまぶしかたが作品によってちがうのでしょうが。

石垣りんさんの『略歴』という本の書評で
「ワールドカップも終わったことだし、詩でも読もうか」なんていう
タイトルをつけています。
この2002年にbk1書店に投稿した書評は116件でした。
![]() | 海辺のカフカ〈上〉 (2002/09/12) 村上 春樹 商品詳細を見る |


村上春樹の新作「海辺のカフカ」を、ゆっくりと時間をかけて読んだ。パン生地がふっくらと焼きあがっていく時の暖かな匂いが身体の隅々に染み込んでいくような、読書の時間を過ごした。そして、たぶん、僕は少し無口になった。
章立てされた物語のストーリーを語ることに意味はない。奇数章は記憶を求める<田村カフカ>という十五歳の少年の、偶数章は記憶を失った<ナカタさん>という初老の男の物語である。具象と抽象。現実と夢。癒しと暴力。ふたつの物語は、それぞれにねじれて絡み合う。そして、ひとつの長い物語になっていく。ちょうどねじりパンみたいに。
できあがったねじりパンには、ふたつの材料が使われている。ひとつは哲学の方法である。ここでいう哲学とは、生きていくための技術みたいなものだ。長い物語の中で交わされる登場人物たちの多くの会話は、ソクラテスの対話法の実践ともいえる。鷲田小弥太の「はじめての哲学史講義」(PHP新書)によると「ソクラテスの対話法は、説得術であるとともに、真の認識へと人々を誘う教育術でもある」という。特に奇数章で語られる多くの会話が、十五歳の少年が未来に向けて生き続けるための教育術であるといえる。物語を読み終えた時、僕たちは生きることの意味を、少し考えている。
もうひとつの材料は、村上春樹流の比喩の使い方である。直喩と隠喩。多くの比喩が対話法の哲学の狭まで、パン生地を膨らませるためのイースト菌の役目を担っている。これがあればこそ、物語は豊かで柔らかに完結しているといえる。困難な主題が多くの人たちに読まれるのは、この材料の力が大きい。
村上春樹はこの長い物語の最後にこう書いた。「本当の答えというのはことばにできないものだから」(下巻・413頁)もう十五歳の少年ではない僕にとってできあがったねじりパンは少しつらい味だった。ことばにされない答えを見つけるのに、僕はやや年をとりすぎたかもしれない。
(2002/09/29 投稿)

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06/12/2010 書評でふりかえるbk1書店と私 - 第1回 2002年、bk1書店と出会った頃

10年を迎えるそうです。
いつもお世話になっているbk1書店なので、
書評を読みながら、私とbk1書店の思い出を
振り返ってみたいと思います。

2000年7月11日にサービスを開始したそうですが、
私がbk1書店と出あったのは、2002年4月。
サービス開始から2年になろうというところです。
このブログにも書いたことがありますが、
もともと私はワープロを使って「読書ノート」を書いていました。
書き始めたのは、1989年ですから、もう20年以上前になります。
時代はまだパソコンよりもワープロ全盛でした。
親指シフトのワープロ使った人も多いと思いますが、
そんな時代です。
2台使ったでしょうか。
いよいよ2000年にはいって、ワープロ専用機ではなく
パソコンが家庭にも普及し始めた頃です。
まだまだパソコンで「読書ノート」のシートを作る自信もありませんでしたし、
ブログなんていうのもなかったのではないでしょうか。
その当時、ブログを知っていたら、
bk1書店には出会えなかったかもしれませんね。

探していました。
その時、見つけたのがbk1書店でした。
書評の投稿を募集しているという内容だったと思います。
しかも投稿すると、何ポイントか、本が購入できる特典が付与される
ということだったと思います。
(ちなみに今はこのサービスはありません)
そして、初めて投稿したのが、
川上弘美さんの『センセイの鞄』(2002.4.27投稿)。
(残念ながら、この作品をはじめ当時の頃の書評は
今のbk1書店では全文を読むことができません)
この時使ったハンドルネームが「夏の雨」です。
このハンドルネームは今でもbk1書店への投稿には使っていますが、
宮本輝さんの『朝の歓び』という作品の一節、
「あなたが春の風のように微笑むならば、私は夏の雨になって訪れましょう」から
とったものです。
自分の文章が
活字となってインターネットに掲載されるというのは
今もそうですが、
とてもわくわくします。

個人的な事情をまぜながら、本の紹介や感想を書いていることが
よくあります。
おかげで、日記風に読み返すこともできます。
(もともと、私の「読書ノート」はそのようにして書いていました)
2002年11月24日に投稿した同じ川上弘美さんの
『あるようなないような』という本の書評を読むと、
あの頃の私が浮かびあがってきます。
それができるのも、bk1書店のおかげかもしれません。
![]() | あるようなないような (1999/11) 川上 弘美 商品詳細を見る |


十一月も終わりに近づくと、背中をとんとんと押されているように慌ただしくなる。街にクリスマスツリーが何本もにょきにょきと立ち並び、山下達郎の切ないメロディが流れる。今年もあとわずか。今年もきつかったなあと思ったり、何も変わらないやとため息をついたり。そして、今年の一〇大ニュースの投票が始まったりする…。
今年。年明け早々、生まれて初めての入院をした。大腸にポリープが、ふたつ出来ていた。何人かの人にそのことを云うと、よくできるんだよと澄ました顔で反応されるのがこそばゆい感じだった。なにしろこちらは、生まれて初めての入院なのだ。真剣に入院の支度をした。ちょうど明日から修学旅行に行く小学生みたいな気分である。「うたのしおり」の代わりに、川上弘美の本を二冊、パジャマの下に入れた。「神様」と「おめでとう」。その時は気にしなかったが、今からすると入院するのにふさわしい書名であった。
病室に一〇日いた。昼はそうでもないが、夜になるとじわじわと寂寥感が広がってきた。これが入院というものかと、すこし悲しくもあった。そんな僕に川上弘美の文章はほかほかした日溜りのようであった。四角ではなく丸いような。フロージングではなく畳のような。夜ではなく昼、そう夕暮れが近い冬の午後三時四〇分のような。そこだけが暖かい幸福な時間だった。同室のカーテンがひかれたもう一人のベッドから、携帯電話でメールしている淋しい音がカチカチとした。
この本は九九年に刊行された川上弘美の、第一エッセイ集の文庫本である。彼女の文章を読むと、あの病室の淋しい音を思い出す。あの音は自分の存在を世界に伝えようとしていたにちがいない。川上弘美も、そう感じる瞬間(とき)があったはずだ。「時が過ぎて、わたしの文章の癖みたいなものも多少変わって、今読むと気恥ずかしいようなところもあるのですが、あの頃の空気がなつかしくもあります」(文庫判のためのあとがき)。
生まれて初めての入院の間に、四十何回めかの誕生日を迎えた。今年もあと一ヶ月となったが、あの病室の空気がなつかしくもあります。
(2002/11/24 投稿)

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