FC2ブログ
プレゼント 書評こぼれ話

  先日
  第162回芥川賞受賞作
  古川真人さんの『背高泡立草』を読んで
  中上健次
  1975年に第74回芥川賞を受賞した
  『』のことを思い出しました。
  本当に久しぶりに
  読み返してみて
  やはりその巧さに
  ちょっと感動さえ覚えました。
  作者の中上健次も若かったけれど
  読者である私も
  当時20歳ですから若かった。
  このあと
  中上健次の作品を貪るように
  読んだことを思い出しました。

  じゃあ、読もう。

  

sai.wingpen  これこそ芥川賞                   

 第74回芥川賞受賞作。(1975年)
 1992年に46歳の若さで亡くなった中上健次の29歳の時の作品。戦後生まれで初の受賞者となった中上は、その後期待に違わず、重厚な作品を発表し続ける。
 もし、まだ生きていたら、どんな作品を書いていただろうと思わないではない。
 そんな中上の受賞作が選考委員から絶賛されたかというと決してそうではなかったことに驚く。
 選考委員の一人中村光夫氏は「本来なら授賞作なし、だがもし強いて選ぶなら中上氏」という程度だし、吉行淳之介氏の選評にあるように「人間関係が複雑をきわめている」と同じような意見を述べた委員が多くいた。

 この作品は確かに主人公の秋幸という青年を中心にして、異父の姉たち、今ともに暮らす異父とその息子、そして母と実の父やその子といったように複雑な人間関係で成り立っている。
 その複雑な関係は短編ではなかなか描きにくかっただろうし、中上もそのことをわかったうえでこのあとにこの一族の長編小説を描くことになる。

 ただ印象としては、ここに登場する一人一人の印象がくっきりしている。
 ドラマでいえば端役であろう秋幸とともに働く名前さえ書かれない女の人夫さえ、その表情が立ち上がってくるように感じる。
 それこそ中上のエネルギーだと思う。
 「欠点も眼についたが、未知数の魅力とエネルギーに満ちていて、芥川賞の作品にふさわしい」と書いた吉行淳之介氏の選評が、この作品のすべてを語っているように思う。
  
(2020/03/24 投稿)

    芽 「ブログランキング」に参加しています。
     応援よろしくお願いします。
     (↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 今日もクリックありがとうございます)
 
    にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

レビュープラス
プレゼント 書評こぼれ話

  今日は昨日のつづきで
  長嶋有さんの作品を
  紹介します。
  長嶋有さんが2002年に第126回芥川賞を受賞した
  『猛スピードで母は』です。
  今回の書評は
  2002年に書いた
  超レアなもの。
  なんといっても
  浅野温子さんというのが
  いいですよね。
  当時W浅野といって
  浅野温子さんと浅野ゆう子さんが
  大ブレークしていた時代。
  そんな昔? から
  書評の投稿していました。
  やれやれ。

  じゃあ、読もう。

  

sai.wingpen  浅野温子さんへ                   

 第126回芥川賞受賞作。(2002年)
 もし僕が映画とかTVのディレクターだったなら、知人のコネを使いまくって、著者の長嶋さんに連絡をとるだろう。
 そして、映像化の話をする。
 「作品、読ませていただきました」
 「いい作品でした。感動しました」
 「勿論、主演のお母さんの配役も考えています。スノウタイヤを交換したり、男に振られたり、公団住宅のはしごも昇ったり、ええそりゃあもう、男まさりといいますか、それでいて哀愁があって…」
 「誰…?と、聞かれても、これは企業秘密でして」
 「ええい、先生だからいいますと、浅野温子しかいません。彼女で決まりです」
 そこまで話し終えたら、目が覚めた。 
 読んだ人、それぞれがくっきりと映像にできるなんて、近頃珍しい作品かもしれない。
 そう思いません、浅野温子さんも。
  
(2002/05/08 投稿)

    芽 「ブログランキング」に参加しています。
     応援よろしくお願いします。
     (↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 今日もクリックありがとうございます)
 
    にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

レビュープラス
プレゼント 書評こぼれ話

  今回の芥川賞
  第162回でしたが
  さて前回の受賞作はとすぐには思い出せず
  記憶に残っているのは
  第158回の若竹千佐子さんの
  『おらおらでひとりいぐも』まで
  とんでいきました。
  今回の受賞作
  古川真人さんの『背高泡立草』も
  覚えていられる自信はありません。
  それにしても
  もう少し、いいタイトルを
  つけられなかったのかな。
  昔石原慎太郎さんが何かの新人賞の選評で
  タイトルにも神経をそそぐように
  言っていたことを
  思い出します。

  じゃあ、読もう。

  

sai.wingpen  賞は授けるためにあるのであって                   

 第162回芥川賞受賞作。(2020年)
 正直これが令和という新しい時代の新しい(新人という意味ほどの)作品だろうかと感じた。
 選評を読んでも、選考委員のこの作品に対する熱を感じない。
 小川洋子委員が「最初の投票のあと、議論を重ねてゆく中で」この作品が「不思議な静けさをたたえて浮上」と書いているが、それは選考会の気分ということなのだろうか。
 あるいは、島田雅彦委員の「今回は危うく受賞作なしになりそうだったが、賞は授けるためにあるのであって」という意見はそうなのだろうか。
 今回の選評の中で松浦寿輝委員の「結局はただわからぬまま書いているように見える」は過酷だが、今は亡き中上健次との比較はそのとおりであろう。
 つまり、中上の作品と比べて、この作品は「いかにもフラット」とある。

 この作品は長崎平戸の小さな島を舞台に、現在と過去が交互に描かれる手法を取っている。
 つまりはその土地が持っている地の縁が描かれているのだが、現在の時制で描かれる草刈りをする家族のありさまが何も浮かんでこないのだ。
 むしろ彼らはこの土地の地霊ともいえる過去の人々を呼び戻すための巫女たちだったのだろうか。
 読んでいる途中で、中上健次の作品との既視感が出てきて、中上の芥川賞受賞作を再読したくなったりしたのは、ある意味、この作品のありようと皮肉にもリンクしているようであった。

  確かに「賞は授けるためにあるのであ」るかもしれないが、それだけでいいのだろうか。
  
(2020/03/04 投稿)

    芽 「ブログランキング」に参加しています。
     応援よろしくお願いします。
     (↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 今日もクリックありがとうございます)
 
    にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

レビュープラス
プレゼント 書評こぼれ話

  総合誌「文藝春秋」9月号に掲載された
  第161回芥川賞の選考委員の選評を読んで
  一番驚いたのが、
  そして感銘を受けたのが
  川上弘美委員の選評でした。
  その中で
  川上弘美委員は古市憲寿さんの作品について
  こう記しています。

    小説家が、いや、小説に限らず何かを創り出す人びとが、
    自分の、自分だけの声を生みだすということが、
    どんなに苦しく、またこよなく楽しいことなのか、
    古市さんにはわかっていないのではないか。

  古市憲寿さんの作品への批判ですが
  そこには川上弘美さんの
  創作にかかわる姿勢がうかがえます。
  今日は第161回芥川賞受賞作
  今村夏子さんの『むらさきのスカートの女』を
  紹介します。

  じゃあ、読もう。

  

sai.wingpen  「むらさきのスカートの女」は本当にいたのだろうか                   

 第161回芥川賞受賞作。(2019年)
 選考委員の選評を読むと、おおむね好評で、宮本輝委員は候補作の中でこの作品だけが「人間というミステリアスな存在へと筆を向けていた」と褒めている。
 今回が最後の選考委員となる高樹のぶ子委員の評がこの作品を端的に語っているように思った。引用すると「語り手と語られる女が、重なったり離れたりしながら、最後には語られる女は消えて、その席に語り手が座っている。」となる。
 タイトルの「むらさきのスカートの女」が「語られる女」で、「語り手」である「わたし」は「黄色いカーディガンの女」として登場する。

 小説で「わたし」として語られる「一人称」の場合、当然自分が見た世界だけが描かれることになる。
 この作品でも「むらさきのスカートの女」の奇行ともいえるさまざまな行為は「わたし」の視点で描かれているはずだし、同じ職場で働きだした女の職場での行為を克明に描けるとすれば「わたし」は女の近距離にいたことになる。
 それでいて、女は「わたし」の存在にほとんど気づかない。
 まるで女の視界に「わたし」がいないかのように。

 いや、「むらさきのスカートの女」こそ最初から不在であったかもしれない。
 まさに最後の場面で二人の女が入れ替わったような印象を残しているが、入れ替わったのではなく、最初からの不在を証明したのではないだろうか。
 堀江敏幸委員は「いびつさをなにか愛しいものに変えていく淡々とした語りの豪腕ぶり」と選評に書いているが、その豪腕ぶりを今後も期待したい。
  
(2019/08/29 投稿)

    芽 「ブログランキング」に参加しています。
     応援よろしくお願いします。
     (↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 今日もクリックありがとうございます)
 
    にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

レビュープラス
プレゼント 書評こぼれ話

  今日は憲法記念日

    憲法記念日天気あやしくなりにけり      大庭 雄三

  昨日、東京・荒川の
  ゆいの森あらかわのことを書きましたが
  そこには吉村昭記念文学館があって
  吉村昭さんの原稿とか創作ノート、
  生前執筆していた書斎など
  作家記念館としてもりっぱなものです。
  現在は「吉村昭と俳句」という
  企画展も開催しています。
  順番に見ていくと
  その最後には
  奥さんである津村節子さんのコーナーもあります。
  今日はそんな吉村昭さんでなく
  奥さんの津村節子さんの芥川賞受賞作
  『玩具』を紹介します。

  じゃあ、読もう。

  

sai.wingpen  この作品で描かれた夫は吉村昭がモデルかな                   

 第53回芥川賞受賞作。(1965年)
 100枚に満たない短編で、しかも当時の選評を読むとかなり厳しい評価である。
 この前の回が「受賞作なし」で、石川達三委員などは「もし前回に受賞作があったら、「玩具」は当選にならなかったと思う」と、身も蓋もない。
 津村さんは受賞はしたけれど、夫の吉村昭さん同様、芥川賞とは馬が合わないのかもしれない。
 吉村さんもそうだが、津村さんもその後の活躍を見ると、津村さんが賞にふさわしいと評価した選考委員の慧眼はさすがだ。

 この作品に登場する夫は作家志望というだけでなく、結核で肋骨をとるという手術までしたところは実生活の夫である吉村昭さんを彷彿とさせる。
 吉村さんがこの作品の夫のように小動物を「玩具」のように愛したかどうかは知らないが、骨へのこだわりは実際でもそうで、吉村さんの初期作品には骨を題材にした秀作が多い。
 妊娠中の妻はそんな夫に手を焼きながらも遠くで珍しい骨だけで泳ぐ魚がいることを聞いて、つい夫に行ってみればと勧めている。
 男にわがままに従うだけの妻に見えながら、いざ出産となれば途方に暮れる夫を抱きとめるぐらいは訳ない。
 「玩具」とは妻にとっての夫の存在だったのかもしれない。

 井上靖選考委員の「夫婦間の心理的機微を描いて、この作者はいささかの危気もない」という評は、この作品だけでなく、これ以後の津村吉村夫妻の生活全般を指してもいあるようで、さすがだ。
  
(2019/05/03 投稿)

    芽 「ブログランキング」に参加しています。
     応援よろしくお願いします。
     (↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 今日もクリックありがとうございます)
 
    にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

レビュープラス