03/03/2023 コミカライズ魂(すがや みつる) - あまり表には出ないが、忘れてていけないマンガ史

「小説やドラマなどを漫画化すること」と定義されます。
「月光仮面」や「七色仮面」といったテレビ創成期の子供向け番組の多くが
当時の月刊漫画誌で漫画化されていましたから、
歴史的にはテレビとともに生まれた文化といえます。
石ノ森章太郎さんの「仮面ライダー」をはじめとした
多くの「コミカライズ」漫画を描いてきたすがやみつるさんの
この『コミカライズ魂』は、
副題に「『仮面ライダー』に始める児童マンガ史」とあるように、
自身の関わった「コミカライズ」史だけでなく、
初期の「コミカライズ」の大御所であった一峰大二さんの業績まできちんと描く
「児童マンガ史」でもあります。

「まことちゃん」で有名な、あの楳図かずおさんの「ウルトラマン」を見て
驚いたことをよく覚えていますが、
この本でもすがやさんが同じような思いを持ったと書かれています。
すがやさんは1950年生まれですから、ほぼ同世代。
そのすがやさんが石ノ森漫画と出会い、夢中になり、
そこで石ノ森漫画の「コミカライズ」を描いていく過程は、
1970年代から80年代にかけての石ノ森漫画の隆盛をよく物語っています。
その当時の子供たちが読んだ「仮面ライダー」作品の多くは
すがやさんたちによる「コミカライズ」作品だったといえます。

当時、一流の漫画家がやる仕事ではなかったという風潮が強かったと
すがやさんは書いていますが、
それでも多くの子供たちを夢中にしたその歴史を残すことは
とても意義のあることです。

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12/30/2022 漫画で知る 戦争と日本(水木 しげる) - 漫画だからこそ伝わるもの

「戦」でした。
やはりロシアのウクライナへの軍事侵攻やアジアでの中台緊張など
一気に戦争を意識する年になりました。
結果、日本も防衛費を大幅に増やすことにもなりましたが、
どうも拙速のような気がします。
戦争の不安が増すことで、軍備が整えられていく。
世界の潮流といってしまえばそうなるのでしょうが、
とても気になります。

水木しげるさんの『漫画で知る 戦争と日本』です。
水木しげるさんといえば、
「ゲゲゲの鬼太郎」など妖怪漫画で有名ですが、
戦争漫画もたくさん描いています。
自身、太平洋戦争中激戦地ラバウルに出征、爆撃で左腕をうしなったことは
よく知られています。
そんな水木さんの戦争漫画からこの本では
貸本時代の1961年に発表した「壮絶!特攻」から
後期の1995年に青年誌に描いた「鬼軍曹~それは何だったのか~」まで
全部で7篇の漫画が収録されています。

初期の頃は絵のタッチもそうですが、
勢いそのもので描かれているように感じました。
昭和39年作と記された「白い旗」という作品は
硫黄島での悲惨な戦いを描いたものですが、
その最後に水木さんはこんな文章を書いています。
「戦争という大きな運命の中にまき込まれた者のみが知る、
戦争を悲しむ涙であった。」

それでも、人類は戦争をやめることはない。
ならば、どうするか。
未来の子どもたちに残すのは、軍備であっていいはずはない。

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はっきり記憶しているのは、
表紙のとれた漫画雑誌で石森章太郎さんの「怪傑ハリマオ」を読んだこと。
調べると、この漫画が連載されていたのは「週刊少年マガジン」で
連載は創刊間もない1960年(昭和35年)4月からだという。
「週刊少年マガジン」が創刊されたのは、
1959年3月17日。
その後熾烈な販売部数を競うことになる「週刊少年サンデー」と
同日日付の創刊日となった。
それからほどなくして、私は「週刊少年マガジン」を体験したことになり、
それは漫画との出会いでもあったはずだ。

1967年生まれの伊藤和弘さんの
『「週刊少年マガジン」はどのようにマンガの歴史を築き上げてきたのか?』という
タイトルにあるように、
「少年マガジン」の歴史をたどることは
マンガの歴史を知ることでもある。
同時に「少年サンデー」やのちに漫画雑誌のトップの座につく「少年ジャンプ」との
編集方針の違いを知ることでもある。
伊藤さんは「マガジン」のそれは「編集部主導方式」で、
「サンデー」は「一流の作家に自由に書いてもらう」方式、
「ジャップ」は「アンケート至上主義」と、記している。
これらを知ることはあの漫画はどのようにして誕生していったかを知る面白さといっていい。

あまりにももったいない。
それが残念だ。

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昨日今江祥智さんの『ぼんぼん』という
児童文学を紹介しました。
その際に
手塚治虫さんの「戦争漫画」と
よく似た匂いがすると書きました。
せっかくなので
今日は2019年8月に書いた
手塚治虫さんの『手塚治虫「戦争漫画」傑作選』を
再録書評で紹介します。
手塚治虫さんが宝塚歌劇のファンだったことは
よく知られていますが、
今江祥智さんの『ぼんぼん』にも
戦時中の宝塚歌劇の最後の公演の様子が
描かれています。
じゃあ、読もう。

手塚治虫は昭和3年(1928年)に生まれ、昭和が終わって間もない平成元年(1989年)2月、60年の短い、けれど激動の生涯を閉じた。
ほとんど昭和とともに生きた人だったといえる。
幼年期、少年期は戦中、そして昭和20年8月の終戦時には多感な青年前期で、すでに漫画に夢中になっていた。
戦後手塚は売れっ子漫画家として数多くの名作を世に生み出すことになるが、少年期青年期に体験した戦争のことは、生涯忘れることはなかった。
手塚の作品の膨大なことは、彼の漫画全集が全400巻に及んでいることからもわかる。
そして、手塚は「戦争漫画」と呼べる作品も数多く描いている。
この本はそんな手塚の「戦争漫画」から7つの短編を収録している。
これらの作品が発表されたのは1968年から1979年にかけてで、発表誌も「少年ジャンプ」や「少年サンデー」など、手塚の主戦場ともいえる少年漫画誌であった。
「戦争漫画」といっても、手塚の場合戦争を肯定するものではない。
名作の誉れが高い「紙の砦」では戦争が終わったもののその直前の空襲で自分の夢をくじかれた少女の姿を切なく描いている。
あるいは、「すきっ腹のブルース」では戦争が終わったものの食べるものがなくいつもすきっ腹を抱えている漫画家の卵を描いて、飢餓のために恋さえ実らせることのできない悲哀を描いている。
また、戦争による環境破壊を描いた「ゼフィルス」など、手塚のこだわりを感じる。
これらの作品は、昭和を生きた手塚だからこそ描けた「戦争漫画」だったような気がする。
(2019/08/09 投稿)

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05/25/2022 トキワ荘の時代(梶井 純):書評「寺田ヒロオを覚えていますか」

漫画家藤子不二雄Aさんが亡くなって
あらためて
彼らが青春期を過ごした
「トキワ荘」というアパートのことが
気になりました。
それで、たどりついたのが
今日紹介する
梶井純さんの『トキワ荘の時代』でした。
この本では
仲間たちから「テラさん」と慕われた
寺田ヒロオという漫画家を中心にして
当時のことが描かれています。
寺田ヒロオさんが残した作品は
「背番号0」「スポーツマン金太郎」「暗闇五段」などで
とっても記憶に残っている
漫画家の一人でした。
この本は1993年に刊行されていますが
漫画史の貴重な資料といえます。
じゃあ、読もう。

「かつて豊島区椎名町(現南長崎)にあったトキワ荘は、手塚治虫をはじめとする現代マンガの巨匠たちが住み集い、若き青春の日々を過ごした伝説のアパートです。」
これは、東京・豊島区にある「トキワ荘マンガミュージアム」のHPにある「開館にあたっての挨拶」の冒頭の文章です。
「トキワ荘は、昭和57(1982)年12月に解体されました」が、漫画の聖地を残そうと活動され、2020年春に当時の外観や内装が忠実に再現されて、ミュージアムとして復活しました。
行政の「ハコモノ」施策が問題化される中、「トキワ荘」がこうして新しい一歩を歩み始めたのは、いかに漫画という文化が日本に根付いているかのあかしともいえます。
ただ「トキワ荘」は今に始まった伝説ではありません。
むしろ、かつてそこで暮らした藤子不二雄さんや石ノ森章太郎さん、あるいは赤塚不二夫さんたちが現役で活躍していた頃より「トキワ荘」伝説はありました。
そして、そのなかにあって、異彩をはなっていたのが、この本でも中心となって描かれている寺田ヒロオさんです。
寺田さんの活躍時期は決して長くありませんが、昭和30年代に漫画を夢中になった人には忘れられない漫画家です。
そして、もし寺田さんは「トキワ荘」にいなければ、漫画史も随分違った様相になったことでしょう。
「血わき肉おどるようなものはなにもなく、しかしさわやかな温かさによって忘れがたく記憶されている」漫画家寺田ヒロオを知ることは、「トキワ荘」を知ることでもあり、日本の漫画史にも欠かせないことなのです。
(2022/05/25 投稿)

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