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プレゼント 書評こぼれ話

  今日紹介する絵本、
  松本猛さんと松本春野さんの
  『ふくしまからきた子』は
  3度めの紹介となる再録書評です。
  最初書いたのが2012年10月、
  原発事故から半年経った頃。
  その次が2017年の3月。
  そして、今回2023年。
  東日本大震災から昨日で12年。
  ということは福島の原発事故から12年ということです。
  事故が起こった頃は
  多くの人が原発に反対していました。
  それが最近、
  ウクライナの戦火によるエネルギー危機や
  地球温暖化へ危機感などで
  またぞろ原発の再稼働などが臆面もなく出てきています。
  私たちがこれからも安心して暮らせるように
  いろんな議論が必要でしょうが、
  どうか、ふたたびこの絵本の子のような
  悲しい思いだけはさせないで欲しいと思います。

  じゃあ、読もう。

  

sai.wingpen  七代先の子どもたちへ                   

 自分の先祖を順番に並べたら、たかだか5人ぐらい前で江戸時代あたりの先祖になるのだろうか。
 私の前が父母で、その前には祖父祖母、その前が曾祖父母。このあたりになるとすでにどんな人だかわからない。
 人類の歴史などと大仰にいっても、その程度なのだ。
 本書の作者で、画家いさわきちひろの子どもである松本猛さんがこの絵本の終わりに、「七代先のことを考えて判断しなさい」というアメリカ先住民の言葉を紹介しているが、七代先とは言葉でいえば簡単だが、実は途方もないくらいの年数ということだ。

 ヒロシマやナガサキの原爆からでもせいぜい三世代前といえる。
 たったそれだけの年数なのに、この国は原子力発電を容認し、拡大していったわけである。そして、東日本大震災による東京電力福島原発での事故。
 それは、「まさか」であったのか、「やっぱり」であったのか。
 高度成長期のこの国は豊かさを国民にもたらしたが、その一方で「七代先のことを考える」ことはしなかったのだ。

 松本猛とその娘である松本春野の共作となったこの絵本は、原発事故によって福島から広島に避難してきた一人の少女と同級生となったサッカー好きの少年の物語だ。
 ひとり仲間にはいらない「ふくしまからきた子」、まや。
 彼女のことが気になるだいじゅ少年は家で彼女の事情をきいてみる。
 放射能、原爆、避難。ヒロシマとフクシマ。
 その夜、少年は母の背にしがみついて泣くまやの姿を見る。

 子どもたちに罪はない。
 「七代先のことを考え」なかった大人たちの責任だそのことをきちんと伝えていくことが、今の私たちの大きな課題といっていい。
 物語であれ、ノンフィクションであれ、本書のような絵本であれ、子どもたちに、「七代先」の子孫たちに、伝えていくことがどんな大事なことか。

 そういえば、この絵本で絵を担当した松本春野はいわさきちひろから二代めにあたる。祖母ちひろの柔らかなやさしさを受け継いでいるようなタッチの絵が、いい。
  
(2012/10/11 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  あの日から12年めの3月11日を迎えました。

  東日本大震災
  2011年3月11日14時46分、
  東北地方の沿岸部を襲った大地震と大津波。
  多くの人が犠牲となりました。
  あれから12年。
  今度はトルコで大きな地震があり、
  ここでもたくさんの犠牲者が出ています。
  私たちが暮らすこの地球という星は
  大きな生命体としてあるということを
  世界規模で私たちに何かを教えようとしているのでしょうか。
  12年という歳月は
  起こった事実を記憶の向こう側に押しやることではないはずです。
  もう一度あの日のことを
  そして、それから続いた日々のことを思い起こす
  今日はそんな日であればと願います。
  今日は2015年のこの日に紹介した
  『あの日 生まれた命』という本の再録書評です。

  今日は静かに祈ります。

  

sai.wingpen  希望をつなごう                   

 2011年3月11日に発生した東日本大震災による死者・行方不明者は2万人を超える。
 それだけではない。もっと多くの人が津波で家を失った。さらに、福島原発事故による放射能汚染で、長年住んだ土地を追われた人もいる。
 そういった被災者の人たちにとって、あの日はどんなにつらい記憶であろう。
 しかし、その一方で、あの日に命を授かった子どもたちも、いる。
 東北の被災地で110人以上の子どもたちが、あの日に生まれている。
 この本は、あの日に生まれた子どもたち18人とその家族のその後を取材したNHKの番組を書籍化したものである。

 あの日に生まれた子どもを持つ親の多くが「大きな悲しみを前に、3月11日がわが子の誕生日だということを言えなくなっ」たという。
 普通であれば当たり前のようにして祝う誕生日会を前日にしたり、部屋のカーテンを閉め切って行ったりしたこともある家族もいる。
 あの日に生まれたことは、親のせいでもないし、ましてや子どもたちのせいでもない。
 そういう生に対する負い目のようなものを、あの日は感じさせる程、悲しみは大きかったということだ。
 けれど、どのような形にしろ人は死ぬことから逃れられない。と同時に、誕生があるからこそ人間として生きるということだ。
 誕生と死は、命あるものとして避けられない営みなのだ。
 だから、あの日を生まれた命は、それ以前やそれ以後生まれた命と何も変わることのない命だ。
 あの日生まれたことを責め続けた親たちも、成長する我が子の姿とともに、そのことを自覚していく。
 さらには、あの日生まれた意味を見つけていく姿は、あの日の震災で傷ついた被災者たちの姿を重なっているような気がする。
 あの日生き残った意味を多くの被災者たちは理解し、復興への思いにつなげているに違いない。

 「多くの命が失われた中で、そうした子どもたちは私たち社会の希望であり、未来だ」という、あの日誕生した一人の少女の出産に携わった医師の言葉が紹介されている。
 この子どもたちは特別ではない。
 生まれてくる新しい命そのものが特別であり、希望であり、未来なのだ。
 そのことは、等しくある。
  
(2015/03/11 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  あの日から11年めの3月11日を迎えました。

  東日本大震災が発生した
  2011年3月11日も金曜日でした。
  東京の空は曇天として
  被災地となった東北の町々では
  まだ冷たい雪が舞っていました。
  今でもあの日見た空や揺れる電線といった光景を
  忘れることはありません。
  きっと
  それぞれにとって
  それぞれのあの日があるはずです。
  そのことを忘れないようにしたいと思います。
  このブログでも
  震災関連の本をたくさん紹介してきました。
  「3.11の記憶」というカテゴリーになっていますから
  忘れそうになったら
  開いてみて下さい。
  今日はその中から
  2014年1月に紹介した
  津村節子さんの『三陸の海』を
  再録書評で紹介します。

  今日は静かに祈ります。

  

sai.wingpen  海は静かに眠っている                   

 「津波は、自然現象である。ということは、今後も果てしなく反復されることを意味している」と書き、『三陸海岸大震災』や『関東大震災』で地震の危険性を警告していた吉村昭が亡くなったのは、東日本大震災が起こる5年前の2006年の7月だった。
 もし、吉村が生前東日本大震災を目にしていたとしても、「だからいわんこっちゃない」とは口にしなかったであろう。ただ、瞑目し、静かに涙したのではないか。
 吉村と三陸の海とは深いつながりがある。
 芥川賞の候補に何度も選ばれながら結局は受賞にはいたらない日々。再起をかけて取材したのが岩手県田野畑村だ。そこから生まれたのが『星への旅』で、この作品で第2回太宰治賞を受賞し、作家として実質的なデビューを果たす。
 その縁で吉村はその後何度となく「日本のチベット」とも呼ばれた村を再訪することになる。
 吉村の唯一となる文学碑が田野畑村にある。そこには「田野畑村の空と海 そして星空の かぎりない美しさ」と印されている。

 これらのことは吉村昭の妻で作家の津村節子が書いたこの本の中に書かれている。
 震災のあった2011年3月11日、津村はこれもまた吉村にとって思い出深い長崎にいた。
 その記述から書き起こされ、吉村とともに行商に行った三陸の町々のこと、吉村のデビュー当時の思いなどが綴られていく。
 田野畑の被災を聞いた津村は「村が心配で行きたい」といち早く村役場に電話をいれるのだが、村はまだ混乱状態で津村の希望は実現しなかった。
 強引に行くのではなく、落ち着くのを待つ。このあたりは津村の大人の対応といっていい。
 吉村が生きていてもそうしたかもしれない。
 興味本位で行くのではない。待つこともまた、祈りに近い思いだったに違いない。

 そんな津村が田野畑にはいることができたのは、2012年の6月だった。
 そこで津村は「吉村がいつも釣りをしていた突堤」が残っているかと淡い期待をするが、目にしたのは「コンクリートの残骸」で「漁港としての賑わいは、遠い昔の夢のよう」であったと、作品の後半、被災後の田野畑を描いた訪問記の中に書いている。

 この作品には深い慟哭はない。吉村の警告が生きなかった悔悟もない。
 ただ静かに、吉村が愛した田野畑をじっとみつめている。何故か、そんな津村の横に悲しそうに佇む吉村の姿がいつもあるかのように感じる。
  
(2014/01/11 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  先日の土曜の夕方、
  宮城県で大きな地震がありました。
  津波注意報が発令され、
  10年前の東日本大震災のことを思い出した人も
  多かったのではないでしょうか。
  たまたまその時
  私が読んでいたのが
  今日紹介する
  三浦英之さんの『災害特派員』。
  あの『南三陸日記』の著者によって書かれた
  10年前と向き合う一冊でした。
  この本の中で
  三浦英之さんはこう書いています。

    人を殺すのは「災害」ではない。
    いつだって「忘却」なのだ。

  私たちは地震のある国に住んでいることを
  忘れていけない。

  じゃあ、読もう。

  

sai.wingpen  もう一つの『南三陸日記』                   

 2011年3月11日に起こった東日本大震災。その翌日には被災地に入った新聞記者は、それから程なくして宮城県南三陸町に赴任し「災害特派員」となった。
 そこで彼が見聞きした被災地の様子や被災者の人たちの姿をのちに一冊の本にまとめられていく。
 それが『南三陸日記』だ。書いたのは、朝日新聞の記者である三浦英之さん。

 あれから10年。
 被災地の人々にも10年という月日が流れたように、記者である三浦さんにも同じだけの月日が流れていった。
 それだけの時間を経た今だから書けること、あの時に「描ききれなかった、もう一つの『南三陸日記』」というきっかけはあったとしても、三浦さんにとっては「個人的な取材体験を綴った「手記」」であり、あの時現地の人たちと生活を共にした「回想録」でもある。
 だから、『南三陸日記』に象徴的に登場する震災直後に生まれて少女とその家族の話は本書にも登場するし、新米記者として初めて宮城県に赴任した三浦さんを励ましてくれた恩人で、津波で亡くなった消防士とのことなども描かれている。
 その一方で、「災害特派員」の勤務のあと三浦さんが米国留学で学んだ「ジャーナリズム」の話など刺激的なものもある。

 10年という月日は、あの直後に生まれた赤ちゃんを10歳に少女に成長させただけではない。
 三浦さんとともに被災地を駆けまわり取材し続けたライバル紙の記者はガンで亡くなった。
 あるいは、当時の環境とはまったく違うところにいる人もいる。
 それぞれが迎えた、震災からの10年。
 本書は三浦さんの「回想録」だけでなく、それぞれの人にとっての「回想録」でもある。
  
(2021/03/23 投稿)

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 昨日(3月13日)の朝日新聞朝刊に
 作家の川上弘美さんが寄稿された
 「生きている申し訳なさ」という文が掲載されていました。
 「二十七年前、「神様」という短いお話を書いた。」という文章で始まる長文の
 東日本大震災10年にあたっての寄稿です。
 
  その「神様」を、東日本大震災の一週間後に書き直したものが
 「神様2011」である。



   『神様2011』は福島第一原発の事故に誘発されて書かれたもので、
 川上弘美さんはもしかしたら住んでいた東京を離れるしかないかもと感じながら
 これを書いたといいます。

   あれから十年。(中略)
   「神様2011」を書いた震災の一週間後は、
   自分は原発事故の「当事者」だと思っていた。
   けれどいつの間にかわたしは「当事者」ではなくなり、
   「傍観者」となっていたのである。

 それは川上弘美さんだけではないでしょう。
 震災があった日、東北で大きな津波被害を受けた人たちだけでなく
 あの日の夜帰宅困難となって暗い街を歩き続けた人も
 それからあと緊急地震速報のアラーム音に震えていた人も
 あの時「当事者」だったのです。
 しかし、いつの間にか「傍観者」となってしまった。
 もしかしたら、そういう意識もなくなっているかもしれない。

 そして、川上弘美さんはこう思うようになります。

   解決できないことをこまぎれに考えつづけること。
   たぶんわたしにできるのは、それだけなのだ。

 川上弘美さんの『神様2011』の書評はこちらからお読み頂けます。      再読する

*   *   *   *   *   *   *

 今日は日曜日なので
 東日本大震災関連の絵本の話を書こうと思っていたのですが
 昨日新聞で川上弘美さんの寄稿文を読んだので
 そのことを書きました。
 東日本大震災から10年。
 だからと言って、すべてが元に戻ったわけでも
 鎮魂が終わったわけでもありません。
 地震大国のこの国で生活する限り、
 またいつか大きな災害がこないとも限らない。
 そのいつかのために
 私たちは東日本大震災のことを忘れないでいよう。
 それが
 生き残った私たちの使命だと思います。

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