プレゼント 書評こぼれ話

  今日は
  重松清さんが1996年に発表した
  『幼な子われらに生まれ』を紹介しますが
  この本を読むきっかけは
  書評にも書きましたが
  まもなく封切られる映画でした。
  それが重松清さんの原作で
  しかも20年以上も前の作品だったと
  いうわけです。
  重松清さんは
  この映画に
  こんなコメントを寄せています。

    原作を書いたのは21年前でした。
    でも、映画は「いま」の物語になっていました。
    それが原作者としてなによりうれしい。
    最高の勲章です。


  この作品のテーマは
  決して古びていません。

  じゃあ、読もう。

  

sai.wingpen  家族とは何だろう                   

 重松清が『ビタミンF』で第124回直木賞を受賞したのは2000年。
 その後、『流星ワゴン』や『その日のまえに』などの作品でさまざまな家族を描いてきたが、直木賞以前の作品でもすでに壊れつつある家族とそれに直面する人たちの姿を描いたものがある。
 それが1996年の刊行されたこの作品だ。
 それから20年以上の月日が過ぎ、もしかしたら重松がこの20年間で描いてきた多くの作品の中で埋没しかけていたかもしれないのが、この秋、現代の日本映画の脚本家にあっておそらくトップランナーである荒井晴彦の脚本と「しあわせのパン」などの話題作を連発している三島有紀子監督で映画化された。
 20年経っても、重松がこの作品で描いた血のつながらない親と子の問題は古くなることもなく、それ以上に現代のテーマとして深刻度が増しているかもしれない。

 37歳になる主人公の「私」はバツイチ。別れた妻との間には娘がいた。その娘と同じ年の娘とまだ幼いその妹をかかえた現在の妻と再婚して4年になる。
 そんな「私」たちに子どもができる。
 それをきっかけに連れ子の薫が「ほんとうのパパ」に会いたいと言い出す。ためらう「私」。けれど「私」もまた離婚後も別れた娘沙織と会い続けている。
 やがて、薫との確執に自分を抑えきれなくなる「私」。
 私が願った家族の姿が崩壊していく・・・。

 さすがに重松は初期の頃から抜群にうまい。
 「私」の家族が最後にどうなっていくのかはここでは書かないが、重松はもしかしたら今でもその答えを持っていないかもしれない。
 その答えはこの作品を読む読者の一人ひとりが出すものだろう。
  
(2017/08/18 投稿)

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  今日は終戦記念日
  戦争が終わった日を
  「記念日」と呼ぶことにやや抵抗がある。
  だったら
  単に「終戦日」「終戦の日」でいいではないかと
  思う。

    いつまでもいつも八月十五日     綾部 仁喜

  最近思うことは
  自分が終戦からわずか10年後に生まれたということ。
  戦争を知らない子供たちなんて
  気取っていたが
  実際まだその当時は戦争のことを知っている人が
  たくさんいたのだ。
  私はそんな時代に
  生まれたのだ。
  今日は韓国文学を紹介します。
  書評サイト「本が好き!」さんから献本を頂いた
  金呂玲さんの『優しい嘘』。

  
じゃあ、読もう。


  

sai.wingpen  私たちは何も特別ではない。                   

 「韓国女性文学シリーズ」の一冊。
 韓国の文学事情に詳しくないのでこの本につけられた略歴のまま書くと、著者の金呂玲(キム・リョリョン)は1971年生まれの女性作家で『ワンドゥギ』という作品は2008年にベストセラーとなって注目をあびたという。
 この作品を読んだ限りでいえば、金さんは描く世界観はきっと韓国の若い女性たちの支持を得たのではないだろうか。
 おそらくこの作品の主人公であるいじめで自殺するチョンジという少女に思いを寄せる読者もいれば、妹の悩みに気づかなかったマンジという姉に自分と同じものを感じる読者もいるだろう。
 それはきっと日本とか韓国ということではなく、作品と読者の、どこの国であっても変わらない関係性だと思う。

 物語は一人の少女の死から始まる。
 誰か特定の人物の視点からではなく、時には姉のマンジの目で、時にはチェンジを愚弄する友人ファヨンの目で、時にそのいじめを知りながらも無視したチェンジの同級生ミラの目で、チェンジの死の真相に迫ろうとする。
 日本の読者は日本のいじめと同じようなことは韓国でも問題となっていることに驚くかもしれない。あるいは、父親のいない母子家庭の生活の厳しさにも同じものを感じるのではないか。
 そして、それらは韓国の少女の問題ではなく、日本の、あるいは世界のどこであっても起こりうることかもしれないことに、もしかしたら一抹の安堵を感じるかもしれない。

 私たちは何も特別ではない。
 それは明日を迎えられなかった少女ともつながる思いでもある。
  
(2017/08/15 投稿)

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  今日は山の日
  昨年から出来た祝日なので
  歳時記には載っていない。
  だったら
  自分で作ってしまいましょう。

    山の日や白き列なす登山行    夏の雨

  そして、今日あたりから
  お盆休みになる会社も多いのでは。
  せっかくお休み、
  せめて短い本でもいかがでしょうか。
  今日紹介するのは
  芥川龍之介の『蜘蛛の糸・杜子春・トロッコ 他十七篇』。
  芥川龍之介の作品は
  いろんな文庫でも読めますが
  岩波文庫から。
  岩波文庫の表記は「芥川竜之介」ですが
  書評では龍之介にしています。

  じゃあ、読もう。

  

sai.wingpen  芥川っていいじゃない                   

 ふいに芥川龍之介が読みたくなった。
 多分芥川は私が日本文学を読んだ最初の作家だと思う。
 教科書で「蜘蛛の糸」あたりを読んだような。
 それよりもほとんど読書の習慣がなかった私の家で、何故か、日本文学全集の中の一冊だけ「芥川龍之介」集があって、それを読んだ覚えがある。
 確か挿絵もあったから、児童向けの一冊だったと思う。

 芥川がもし不幸であるとすれば、子どもの時に読んでしまえるからではないか。
 だから、大人になるともう芥川は卒業した気になるのではないか。
 今回読んだ岩波文庫のこの一冊は特に「子どもむき」の作品として定評のあるものが収録されている。
 「蜘蛛の糸」「杜子春」「トロッコ」「魔術」(あまりの懐かしさに胸が押しつぶされそうになった)「白」(この作品もそうで、きっと何十年ぶりに読んだのにどうしてこんなに覚えているのだろう)「三つの宝」といった短編が20篇収められている。
 きっと誰もがそのうちに何作かは読んだことがあるにちがいない。

 あらためて読むと、「子どもむき」であっても実にうまく書かれていることがわかる。
 淀みがないのだ。
 子どもが読むことに飽くことがないというのが、芥川の「子どもむき」の作品の特長ではないだろうか。
 もし、子どもの頃の自分に会いたいと思っている人がいれば、この文庫は最適かもしれない。読んでいるうちに、あなたは十歳のあなたになっている。
  
(2017/08/11 投稿)

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  JR東海の人気CM
  「そうだ京都、行こう」だが
  最初、「そうだ、京都に行こう」だとばかり思っていた。
  今日紹介する
  葉室麟さんの『古都再見』の書評タイトルを
  そのマネしようと思って調べたら
  「そうだ京都」で一旦切れて
  「行こう」となっていることに
  驚いた。
  そうなんだ、京都。
  この本は書評にも書きましたが
  京都に暮らしだした
  葉室麟さんが
  京都の街を文章でガイドしてくれる
  いいエッセイ集です。
  京都に行きたくなる一冊です。

  じゃあ、読もう。

  

sai.wingpen  そうだ京都、住もう                   

 京都の夏は暑い。
 暑いだけでなく、祇園祭や送り火などで人いきれも熱い。
 北九州小倉に生まれ、九州を舞台にした歴史小説や時代小説を書き続けている直木賞作家葉室麟さんだからてっきり九州に住んでいるかと思っていたが、2015年2月から京都で暮らしているという。意外だった。
 その理由を冒頭の文章「薪能」でこう記している。
 「これまで生きてきて、見るべきものを見ただろうか、という思いに駆られたからだ。何度か取材で訪れた京都だが、もう一度、じっくり見たくなった」と。

 葉室さんのデビューは遅かった。
 2004年『乾山晩愁』でデビューした時、葉室さんは53歳。そのせいもあって、葉室さんはデビュー後精力的に書き続けてきた。
 それでも、葉室さんは時に人生の終りの気配を筆先に示すことがある。
 先の文章の前には「人生の幕が下りる。近頃、そんなことをよく思う」といった。どきっとするような文章があったりする。

 こんな文章もある。
 「ひとは輝かしい光に満ちた夢のごとき何かに駆り立てられて生き急ぐ。それが「青春」かもしれないが、近頃、同じものが「老い」の中にもあるのではないかと思わぬでもない。」
 葉室さんはそうはいっても1951年生まれであるから、決して老け込んでいるわけではない。
 おそらくそれが葉室麟という作家がもっている死生観だろう。

 このエッセイ集は京都の場所や京都に関係した人物、事件を題材に描かれているが、読みようによっては作家葉室麟の本質にも迫る、一冊でもある。
  
(2017/08/08 投稿)

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  また原爆の日がめぐってきます。

    子を抱いて川に泳ぐや原爆忌     林 徹

  大きな悲劇を風化させてはいけない。
  それは
  広島や長崎の人たちだけの思いであっては
  いけない。
  日本という国、
  世界というもっと大きな単位で
  私たちはあの日のことを
  風化させてはいけないのだと
  思います。
  けれど、そのためには
  一人ひとりができうることを
  していく。
  井上ひさしさんは戯曲を書くことで
  風化をとめようとされた。
  それがこの
  『父と暮せば』という作品だったと
  思います。
  だったら、
  私たちはその戯曲を読むことで
  風化をとめることができるのではないでしょうか。
  これからも
  読み続けていく
  そんな作品なのです。

  じゃあ、読もう。

  

sai.wingpen  何度も読み続けることの意味                   

 演劇は舞台という場で肉体を持った俳優たちが演じることで成立する。
 もちろん、劇作家や演出家、音楽担当、大道具小道具たちの裏方の人々といった大勢の役割があって出来る、総合芸術である点は、映画やドラマと変わることはない。
 ただ演劇と映画の大きな違いは、観客の位置だろう。
 演劇の場合、観客は間近に演じられる空間と時間を感じとることができる。
 しかし、演劇を観る機会はうんと限られている。
 では、どうするか。
 戯曲を読んで、自分だけの演劇空間を作り出すのだ。想像として。

 井上ひさしが「知らないふり」をしないということで、ヒロシマとナガサキに関わっていくことを表明した、その最初の作品として書かれたこの作品は、そうはいっても映画にもなって、戯曲だけではなく、私たちは鑑賞の機会を持つことができる。
 それでも、戯曲を読み、私たちが私たちだけの演劇空間を作りあげることで、私たちは私たちのヒロシマを、ナガサキを心に刻むことができる。
 この作品を読むことで、私たちはもう「知らないふり」はできない。

 被爆というだけではない。
 生き残ったものたちの仕合せもまた、私たちは考えないといけない。
 1945年8月6日の「広島では死ぬるんが自然」で、生き残ったものは「しあわせを求めちゃいけん」と考える人たちに、生きる意味を、仕合せになる勇気も、考えないといけない。
 テキストはただひとつ、井上ひさしのこの戯曲。

 だからこそ、それはただの一度で終わるのではない。
 何度もなんども読み続けることに意味があるのだと、私は思う。
  
(2017/08/05 投稿)

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