fc2ブログ
 先日(1月10日)のNHK「クローズアップ現代」
 ノンフィクション作家沢木耕太郎さんのインタビュー番組が
 放送されました。
 沢木さんの最新作『天路の旅人』の刊行に合わせて
 沢木さんの人生観などが語られていきます。
 その後半、
 沢木さんの父のことも語られます。
 沢木さんには、その父の最後の闘病の姿を描いた作品があります。
 『無名』です。
 そこに、父のことがこう記されています。

  確かに、父は何事も成さなかった。
  世俗的な成功とは無縁だったし、中年を過ぎる頃まで
  定職というものを持ったことすらなかった。
  ただ本を読み、酒を呑むだけの一生だったと言えなくもない。
  無名の人の無名の人生。
  だが、その無名性の中にどれだけ確かなものがあったろう・・・。

 そんな父の生き方に沢木さんは今強く魅かれている。
 そして、私はまた沢木耕太郎さんの『無名』を読んでみたいと思ったのです。

  

 私の父が亡くなったのが、2012年の1月22日。
 調べると、その年のこの日も日曜日で
 ちょうど今年と同じ曜日の周期でした。
 沢木さんの父以上に、私の父は無名であり、
 町の一市井人でしかありません。
 しかし、どれほど無名であっても
 沢木さんにとって父は唯一無二であるように
 私にとっての父もかけがいのない人です。
 沢木さんのように父と映画館にはいったこともなければ
 凧を一緒にあげたこともない。
 お酒は吞みましたが、本は読まなかった。
 けれど、父はとてつもなく優しかった。

 『無名』は沢木さんとその父との姿を描いたノンフィクションですが、
 私にとっては
 私と私の父とのことを思い出させてくれる
 貴重な一冊だということが
 今回の再読でよくわかりました。

 先のインタビューで沢木さんはこんなことを話しています。

  単純なことの繰り返しで、その中で自分が充足している。
  その繰り返しというのは何か僕は尊いもののように思えるんです。

 私の父こそ何も成しえなかったかもしれませんが、
 それでも私には正しい父としてあり続けています。

    芽 「ブログランキング」に参加しています。
     応援よろしくお願いします。
     (↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 今日もクリックありがとうございます)
 
    にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
 須賀敦子さんの自身の読書体験を柔らかな文章で綴った随筆『遠い朝の本たち』の中に、
 サン=テグジュペリの『星の王子さま』が出てくる章がある。
 「1949年のころ、私は大学の三年生だったが、
 『ル・プチ・プリンス』はまだ日本語に訳されていなかったし、サンテグジュペリという人の名も知られていなかった」と、
 須賀さんは書いている。
 サン=テグジュペリがこの作品を書いたのが1943年。
 日本語訳として「岩波少年文庫」から刊行されたのが1953年というから、
 須賀さんにとても早い時期に、しかもそれほどまだおとなにもなっていない年代で、この作品に出会ったのだから、
 なんと仕合せだろう。

   

 『星の王子さま』といえば、最近では多くの出版社から新訳で出版されているが、
 有名なのはなんといっても最初の翻訳者となった内藤濯(あろう)のものだろう。
 須賀さんの文章にもあるように原題は『ル・プチ・プリンス』で「小さな王子」だが、
 これを『星の王子さま』と訳したのは内藤だ。
 その作品は世界での販売部数は2億冊を超えるともいわれ、日本でもさまざまな形で出版されている。

 今回久しぶりに本棚から出してきた私の『星の王子さま』は、
 「サン=テグジュペリ生誕100年記念」のオリジナル版で、挿絵の色調やタッチがオリジナルとなった単行本。
 2000年3月に岩波書店から刊行されたもの。

 『星の王子さま』といえば、「かんじんなことは、目には見えない」という有名な文章があって、
 私の本にも色あせた付箋紙が貼ってあった。
 久しぶりに読み返すと、人間が時間に縛られていることを風刺していたり、違った世界が見えてくる。
 何度読んでも新しい井戸が見つかる作品といえる。

    芽 「ブログランキング」に参加しています。
     応援よろしくお願いします。
     (↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 今日もクリックありがとうございます)
 
    にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
プレゼント 書評こぼれ話

  今日、10月14日は鉄道の日
  明治5年(1872年)10月14日、新橋から横浜の
  日本で初めて鉄道が開業した日を記念して制定されました。
  そして、今年は鉄道開業150年ということで
  さまざまなイベントが開催されています。
  この機会に鉄道に関係する本を読もうと
  すぐさま頭に浮かんだのが
  宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』でした。
  久しぶりに読み返しました。
  主人公のジョバンニやカムパネルラを乗せて
  銀河の世界を走る列車。
  何度読んでも、美しく、切ない。
  この作品ではジョバンニたちのまなざしをとても感じます。
  はにかみ、恥ずかしさ、ためらい、勇気、ぬくもり。
  今日は2009年に書いたものも
  再録書評として載せておきます。
  また、いつか、ジョバンニたちと銀河鉄道に乗りたいものです。

  じゃあ、読もう。

  

sai.wingpen  ほんとうのさいわい                   

 何度銀河鉄道の旅にでただろう。
 少年期、青年期、そして壮年期。同じ風景を見ているはずなのに、読むたびに新鮮で、心うたれる。
 まさに名作である。
 なかでも「ルビーよりも赤くすきとおりリチウムよりもうつくしく酔ったよう」な「蝎の火」の挿話は感動が深い。
 それは生きていく意味を考えさせられる内容だからだろうか、どのように年を経ようと、何度銀河鉄道の旅にでようと、ジョバンニたちのように「蝎の火」に吸い寄せられてしまう。
 だからこそ、つづくカムパネルラの言葉は哀しく、涙のしずくになって心に沁みてくる。「ほんとうのさいわいは一体何だろう」。
 ほんとうのさいわい。
 お金でもなく名誉でもなく、生きてやがて死んでいく人間の永遠の哀しみを包みこむもの。
 それが見つかるまで、私の銀河鉄道の旅は何度でも続くだろう。
  
(2009/12/13 投稿)

    芽 「ブログランキング」に参加しています。
     応援よろしくお願いします。
     (↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 今日もクリックありがとうございます)
 
    にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

レビュープラス
 先日中谷彰宏さんの『本に、オトナにしてもらった。』という自身の本にまつわるエッセイを読んで、
 私もそうだが、そんな人はきっとたくさんいるだろうと思った。
 そういえば、この人もそうであったと思い出したのが、須賀敦子さん。
 その早すぎる晩年、須賀さんが亡くなったのは1998年3月、69歳だった、に多くのエッセイを発表し、
 その静謐な文章で人気を得、その死後も全集が出版されるなどファンが多い。
 そんな須賀さんが、亡くなる直前まで書き続けたのが『遠い朝の本たち』で、
 亡くなった翌月単行本として刊行されている。

   

 この本は本を愛した須賀さんが幼い頃から青春期にいたる読書体験を綴ったエッセイだ。
 16篇のエッセイが収められていて、特にそれが年代順にならんでいるわけではない。
 共通しているのは、それらがすべて本にまつわる話ということ。
 圧巻なのは、冒頭に収められた「しげちゃんの昇天」という一篇。
 しげちゃんという小学校からの同級生の、とぎれとぎれではあるが、その交流を描きつつ、
 自身の幼い頃の読書体験を綴っている。
 後年、須賀さんは暮らしたイタリアで夫を亡くす。
 その彼女をなぐさめるように、修道院のシスターになっていたしげちゃんから長い手紙が届いたことを、
 このエッセイの終わりちかくに書き留めている。
 しげちゃんはその後病に倒れ、亡くなってしまう。
 しげちゃんが言った、「人生って、ただごとじゃないのよね」という言葉を残して。

 須賀さんを本好きにした要因のひとつに、父親の存在がある。
 父もまた本好きであって、「父ゆずり」という一篇も印象に残る。
 須賀さんの文章の魅力は、全体に漂う空気のたおやかさ(しなやかで優しいさま)だろう。
 もしかした、秋こそ須賀さんの作品にふれる一番の季節かもしれない。

    芽 「ブログランキング」に参加しています。
     応援よろしくお願いします。
     (↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 今日もクリックありがとうございます)
 
    にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
 スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を
 初めて読んだのはいつだったろうか。
 たぶん新潮文庫版だったと思うが、
 ロバート・レッドフォードがギャツビーを演じた映画のシーンが
 表紙カバーになっていた。
 映画が封切られたのは1974年だから
 そのあとだろう。
 それにその時は映画に合わせて、
 『華麗なるギャツビー』というタイトルだったような。
 今、持っているのは
 2006年に村上春樹さんが翻訳した版で
 もちろん『グレート・ギャツビー』というタイトルになっている。

    

 久しぶりに読み返して、
 ギャツビーが長年思い続けた一人の女性のために
 彼女の住む対岸でばかみたいなパーティーを繰り返しているシーンは
 もちろん覚えていたが、
 結末はすっかり忘れていた。
 その結末はここでは書かないが。
 今回ギャツビーや彼の想い人であるデイジーやその夫トム以上に
 トムの愛人の夫で
 しがない修理工の男が気になって仕方がなかった。
 この修理工が結末に関係するが、
 ちっともグレートでない修理工がもしかしたら
 読者にもっとも近い人物像かもしれない。

 この本には村上春樹さんによる
 ちょっと長めの「訳者あとがき」がついていて、
 そこでフィッツジェラルドが死ぬまで
 「ヘミングウェイこそが現代文学の巨星」と考えていた挿話が
 書かれている。
 そう思ったのも頷けるが、
 村上春樹さんのようにずっと
 フィッツジェラルドを愛した読者もいることもまた
 真実だ。

    芽 「ブログランキング」に参加しています。
     応援よろしくお願いします。
     (↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 今日もクリックありがとうございます)
 
    にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ