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少しだけ欠けた月―季節風 秋少しだけ欠けた月―季節風 秋
(2008/09)
重松 清

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sai.wingpen  歳時記をそばに                     矢印 bk1書評ページへ

 世の中には、音楽、絵画、映像、文芸という風に多様な表現手段があるが、その中でも俳句というのは極めて不自由な表現手段といっていい。
 五七五の十七文字の「定型」にしろ「季語」にしろ、制約が多い。
 それでいて俳句の妙味はその不自由さにあるのも事実であるし、わずか十七文字の短詩とはいえ、その広がりは無限でもある。
 特に「季語」については、寺田寅彦の「歳時記は日本人の感覚のインデックス(索引)である」という有名な言葉の通り、私たちの生活における季節感を脈々と受け継いできたという点において、日本人の至宝だといっていい。
 試みに歳時記の秋の部を開いてみても「秋の声」という季語があって、「秋になると雨風の声、物の音などの響きすべてが敏感に、しみじみと感じられる」とある。
 こういう感覚は誰に教わったわけではないが、日本人として肌身に理解しうる情感といえる。

 このように季語だけでわかりあえること、それを「季語の本意、本情」というが、俳句の世界ではこの本意、本情にもたれすぎることを嫌うことが多い。
 「月並み」な俳句とは季語にあわせていわずもがなのことを記したものだが、季語の持つ本意、本情をてこにして、どう描くかが俳句の世界に広がりをもてるかどうかだと思う。
 わずか五文字(もちろんそれ以上のものもあるが)の言葉だけで、人に何かを伝えられるとすれば、これほど素晴らしいことはない。

 重松清の「季節風」シリーズはそういう元来私たちが持っている季節感をうまく織り込んだ連作集である。
 表題作の「少しだけ欠けた月」は離婚しようという父母との最後の夜を過ごす少年の話だが、歳時記には「名月」を過ぎたあと「十六夜」「立待月」「居待月」「臥待月」といったようにきれいな日本語がつづく。ただこの物語では「後の月」という季語を思ってみたい。
 歳時記によれば「この頃はもうどことなく寒く、風物もまたもの寂びてきて」とある。そういう情景に、別れていく家族をはめてみると、作品に深みがでてくる。
 それが重松清の<うまさ>である。

 ここに描かれた12の物語は重松清の得意とする子供たちの忍耐や中年たちの悲哀で満ちている。 握りしめた拳、鼻にくるツンという感触、言葉を噛みしめる唇、思わず伝わる涙。
 重松清という書き手がいかに私たち日本人のもっている感性を巧みに表現しうる作家であるかがわかる。
 そして多分、重松は私たちの感性というのが季語としてあるように季節感と一体のものであるかということを充分に認識しているのに違いない。
 それも重松の<巧さ>だろう。

 これらの作品が季節感とどう連関するかで「月並み」な重松作品で終わるのか、あるいは作品集「季節風」の一篇として物語の深みまで読者を連れていくのかがわかれる。
 いいかえれば、重松清の<巧さ>が影をひそめて作品としての<うまさ>だけを感じられた時に、これらの物語は広がりと深みをもつのだと思う。
 歳時記をそばに読んでみるのもまた楽しい。
  
(2008/09/30 投稿)

プレゼント 書評こぼれ話
  「歳時記」というのはとても素敵な本です。
  よく、「あなたは無人島に一人流されたとしたら、どんな本を持っていきますか」
  みたいな質問がありますが、
  「歳時記」などはいいですね。
  読んでて飽きない。
  でも、これも日本という国に四季があるからかもしれませんね。
  南国の無人島で「初雪や」って詠むのは、
  やはりつらいかな。
  
僕たちのミシシッピ・リバー―季節風 夏僕たちのミシシッピ・リバー―季節風 夏
(2008/06)
重松 清

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sai.wingpen  砂時計                     矢印 bk1書評ページへ

 なめらかな曲線を描く硝子のフォルムの上部から細いすきまを通ってひたすら落ち続ける砂。
 さらさら、さらさら。
 同じ形をした下のフォルムの中で、静かに小さな砂山ができていく。
 さらさら。さらさら。
 そうして時を刻んでいく、砂時計。やがて、最後の砂の一粒がこぼれて、時がとまる。
 この小さな道具がそのようにして一定の時間を刻んでいくことを誰が発明したのだろうか。
 人はまた砂時計の上下を置き換えて、時を刻むことを始める。
 さらさら、さらさら。
 逆さになった砂時計はやはり同じだけの時を刻んで終える。
 重松清の短編集『僕たちのミシシッピ・リバー』を読んで、そんな砂時計のことを思った。

 友達、家族、恋人、過去、未来。重松清が得意とするどこにでもありそうな、普通の生活が夏の風景とともに描かれる、12の短編。
 シリーズ「季節風」の夏篇である。
 転校していく友人との夏休み最初の小さな冒険を描いた表題作の「僕たちのミシシッピ・リバー」をはじめ、がんに冒された父親と夏休みの宿題の工作をつくる少年の話(「タカシ丸」)や高校三年の最後の高校野球の予選に敗れた少年の話(「終わりの後の始まりの前に」)など、どこかで終わりを感じてしまう物語が多いのは、夏が燃える季節であるにもかかわらず、どこか喪失感をともなう季節であるからかもしれない。
 それは、あたかも秋の前に散っていく病葉(わくらば)のようだ。

 重松清は巧い書き手である。
 そのような喪失感を描かせれば当代一かもしれない。
 どの短編も鼻の奥がツンとしてしまうようで、まったく同じ経験などしていないのに物語に既視感を覚える。だから、すごく読みやすい作家でもある。
 しかし、ひとつの物語を読み終え、次の物語にはいる頃にはまた同じだけの納得があり、最後には同じだけの鼻ツンがおこる。さらに次の物語でも同じだ。
 まさに砂時計のようにつねに一定の感動がつづく。
 そのことをけなしているのではない。書き手としてこれほど安定していれば何もいうことはない。重松から忘れていた何かをいつも教えられる。
 しかし、重松のそのような巧さがどこかで何かを失っていきはしないか。

 この短編集に収められた悲しみや悔しさや柔らかさはまったく同じものではない。
 それでいて等分の感動を与えてしまう巧さは、いいかえれば不幸でもある。
 砂時計の正確さや時を刻む美しさを誰も否定はしないだろう。
 でも、いつか上下をひっくりかえすことに飽きてしまう。何度やっても同じ時間しか刻まないことに厭きがくる。
 上から落ちる砂がいつまでも止まることがなければ、あるいはひっくりかえしても砂が落ちなかったら。
 それはもはや時計ではないが、人の思いというのは等しく刻まれる時間のようなものではないことを、作者自身が一番知っているはずだ。
 一味違う、「季節風」秋篇を楽しみにして待つ。
  
(2008/08/04 投稿)

プレゼント 書評こぼれ話
  このシリーズを読んだのは、この「夏の巻」からでした。
  読んだ順でいうと、夏、秋、春、冬、ということになります。
  この「夏の巻」では結構キツいこと、書いています。
  でも、ここに書いたことは、実はシリーズ全体にいえることかもしれません。
  というか、重松清文学全体の危うさではないかと思っています。
  人間の、あるいは日本人の心のありようとして、
  いくら時代が変わっても変わらないものがあると思います。
  それが重松文学の魅力ですが、それを今後どう描いていくのでしょうか。
  とても興味があります。
 
  
ツバメ記念日―季節風 春ツバメ記念日―季節風 春
(2008/03)
重松 清

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sai.wingpen  故郷は遠きにありて思ふもの                  矢印 bk1書評ページへ

 重松清の、季節の風物を素材にした短編集の、本作は「春」の巻である。
 ここに収められたのは12編の短編だが、春は「雛飾り」や「鯉のぼり」といった子供の節句が多い季節だから、重松の得意とする親と子の世界をたっぷり味わうことができる。
 また、卒業入学といった人生での別れとか出会いを経験することが多い季節で、どうしても人の感情が揺れ動くので、それもまた重松の世界である。
 そんななかで田舎(故郷)と都会という構図を描いた作品もいくつか描かれている。(「島小僧」「ジーコロ」「霧を往け」「お兄ちゃんの帰郷」)

 「故郷は遠くにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」(小景異情)と詠ったのは、詩人室生犀星である。
 今でこそ通信手段や交通手段が発達しているから、故郷といっても物理的には近いものかもしれないが、気持ち的には一旦離れた故郷は遠い存在である。
 嫌な言い方をすれば、捨てるに近い思いであろうか。
 重松清自身が岡山の出身ながら大学の時に東京に出てきた経歴があるから、どうしてもそのような思いが強く匂う作家である。私も大阪の地方都市から東京に出た人間だから、そのあたりの匂いに敏感なのかもしれない。

 「ジーコロ」は東京の大学に入ったばかりの自身を回想する男の物語だ。
 知った人など誰もいない東京での淋しさと不安でふさぎこんでいた青年に田舎の母から一通の手紙が届く。それは<元気ですか?>に始まる短い文面だが田舎への電話を求めるものでもあった。青年は下宿の電話ではなく、「なるべく遠くの、話し声が誰にも聞こえない」公園の電話ボックスまでいって、故郷に電話をかける。
 題名の「ジーコロ」とは、ダイヤル電話の、回したダイヤルが戻る音である。
 実は同じような経験を私もしている。私の場合は下宿に電話がなかった。携帯電話が普及した時代に電話がない世界は想像しにくいだろうが、30年前にはたしかにそんな世界があったのだ。ましては当時はテレホンカードもなかった。百円硬貨や十円硬貨を握りしめて、公園の電話ボックスに行ったものだ。(電話ボックスというのは不思議な空間で、かぐや姫が唄う「赤ちょうちん」という歌の中に「公衆電話の箱の中/ひざをかかえて泣きました」というフレーズがあるが、今でも泣ける一節である)
 また「お兄ちゃんの帰郷」は、東京での淋しさにまけて田舎に逃げ帰ってきた兄を妹の視点から描いた作品である。
 家族の立ち居地など出来すぎている印象は否めないが、田舎(故郷)というのはそういう甘さもふくめて故郷なんだと思う。
 「霧を往け」も夢に破れ、東京で死んだ男の故郷を訪ねる作品だが、ここでも故郷の年老いた両親はつまらない死に方をした息子であってもどこまでも愛して、信じているものとして描かれている。

 故郷は、単に生まれた土地をいうのではない。それは親と同義語なのだ。
 いつでも、どんなときでも、自分をうけとめてくれるそんな存在なのである。だから、重松の故郷を描いた物語は、親と子の物語でもあるのだ。
 犀星の詩もそのような甘やかな書き出しだが、実はそのあとこう続く。  「よしや/うらぶれて異土の乞食となるとても/帰るところにあるまじや」と。
 犀星は重松よりも、あるいは私よりもうんと厳しい目で故郷を、自分自身を見つめていたのかもしれない。
  
(2008/11/13 投稿)

プレゼント 書評こぼれ話
  この書評の中でも書いていますが、
  私が大学生の頃は、もちろん、携帯電話などありませんでした。
  100円硬貨でかけられる、黄色い公衆電話が出た頃だったと思います。
  故郷に電話するのは、たいがい、お金がなくなったというようなことでした。
  故郷とは、そういう距離感にあるのではないでしょうか。
  最近の若い人は、もしかして携帯電話があることで便利にもなったでしょうが、
  そういう故郷の電話などは「ウザい」のではないのかな。
  どこでもかかる携帯電話があることで、やはり私たちの時代とは、
  意識というか、思いというか、
  かなり違うのでしょうね。
  
サンタ・エクスプレス―季節風 冬サンタ・エクスプレス―季節風 冬
(2008/12)
重松 清

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sai.wingpen  ものがたりの歳時記                     矢印 bk1書評ページへ

 重松清の人気シリーズ「季節風」もこの「冬」の巻である『サンタ・エクスプレス』で完結である。
 この機会に、全四巻の帯のコピーを書き留めておく。括弧内は文藝春秋のホームページに掲載されていたそれぞれの装丁の色のイメージ。

 春 … 記憶の中の春は、幾度となく巡り来てひとびとの胸をうるおす (青<青春>)
 夏 … 忘れられない一瞬を焼き付けた夏が、今年もまたやってくる  (赤<朱夏>)
 秋 … 澄んだ光に満ちた秋が、かけがえのない時間をつれてくる   (白<白秋>)
 冬 … 鈴の音ひびく冬が、いとしい人の温もりを伝えてくれる      (黒<玄冬>)
 そして、それぞれのコピーの終わりには、いつも「ものがたりの歳時記」と。

 今回も十二篇の短編が、「焼き芋」や「クリスマス」や「お正月」といった冬の風物詩とともに描かれている。
 しかも重松清らしさを失わずに。
 それは先の「春」「夏」「秋」も同じである。
 親がいて、故郷があって、子供がいて、都会にあこがれて、友人がいて、おとなになって。それぞれが喜びとか悲しみとか後悔とか憧れとかをひきずって。
 でも、重松清らしさとはなんだろう。
 重松清の文学の核とはなんだろう。
 それはおそらく重松が信じている日本人の心の機微のようなものだと思う。あるいは、読み手である私たちが「そうだったよな」と思い返せる感情のようなものだと思う。

 例えば、青春の男女のほろ苦い別離(わかれ)を描いた「コーヒーもう一杯」のこんな文章。
 「十九歳の僕は、ひとの心は言葉や表情よりもまなざしにあらわれるということを、まだ知らなかった」(38頁)
 例えば、故郷に一人残した母親を正月にたずねる「ネコはコタツで」に描かれる、故郷から届いた荷物を開封するこんな場面。
 「親父さんが「ぎょうさん入れてやれ」と言うのか、おふくろさんがどんどん詰め込むのか、どっちにしても、そういうところが田舎で-親なのだ」(109頁)
 例えば、家族四人の現代風の正月風景を描いた「ごまめ」の主人公の思い。
 「昔-まだ香奈が小学生で、敏記は両親を「パパ、ママ」と呼んでいた頃、正月を家族で過ごすのはあたりまえのことだった。あたりまえすぎて、それがいつかは終わってしまうのだと考えもしなかった」(131頁)

 これらの思いは次の世代には伝わらないかもしれないし、そうしていつか苦い思い出のようになっていくのかもしれない。
 重松清が描く世界はいずれ理解されなくなるのだろうか。
 それでも、春。巡り来る季節に人は夢みて。
 それでも、夏。汗で涙を隠して。
 それでも、秋。思い出にひたって。
 それでも、冬。温もりを求めて。
 四季はまちがいなく繰り返すにちがいない。
 
(2008/12/26 投稿)

プレゼント 書評こぼれ話
  このシリーズは基本的には「産経新聞大阪本社夕刊」に
  毎週土曜連載されていたものですが、時折、単行本化にあたって
  別の雑誌とかに発表されたものもはいっています。
  この「冬の巻」では、「コーヒーもう一杯」がそう。
  でも、これがいいんですよね。
  私の大学時代はこの物語よりももっとみじめでしたが、
  「わたし、東京っていう魔法にかかってたんだろうね、きっと」(58頁)
  っていう、ヒロインの言葉に、じん、ときました。