プレゼント 書評こぼれ話

  先日(9.21)、作家の庄野潤三さんが亡くなられました。
  そのことを書こうかと思いつつ、
  生来のなまけくせでうっちゃっていたのですが、
  たまたま本屋さんで文庫本の新刊をのぞいていると、
  新潮文庫の最新刊(10月刊行分になるのですが)に、
  庄野潤三さんの『けい子ちゃんのゆかた』が、
  ラインナップにはいっているのを見つけました。
  なんという偶然でしょうか。
  そういえば、単行本が出た2005年に、
  書評を書いていたことを思い出して、
  蔵出しをしつつ、庄野潤三さんのことを少し書きます。
  私はけっして庄野潤三さんの熱烈なファンではありません。
  文学史的にいえば、庄野潤三さんや吉行淳之介さんたちが
  「第三の新人」と位置づけられていましたので、
  庄野潤三さんが芥川賞を受賞された『プールサイド小景』(1955年)など
  数編読んだかぎりです。
  個人的には、庄野潤三さんたち「第三の新人」のあとの
  大江健三郎さんや開高健さんに強くひかれました。
  庄野潤三さんの逝去に、文芸評論家の饗庭孝男さんは、
  朝日新聞にこのような文章を寄稿しています。

    日常生活の穏やかな部分を書いていて、
    (中略)
    人生に対する透徹な目を持っていた。


  ぜひ、出たばかりの新潮文庫の『けい子ちゃんのゆかた』で、
  みなさんも庄野潤三さんの世界にふれてみてください。
  (注:下の本のイメージは単行本の表紙です)

  庄野潤三さん。享年88歳。
  私と誕生日が一緒だったんですね。
  合掌。

けい子ちゃんのゆかたけい子ちゃんのゆかた
(2005/04/27)
庄野 潤三

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sai.wingpen  失われた日本の家族               矢印 bk1書評ページへ

 若い読者にはこの本の著者庄野潤三のことから話した方がいいかもしれない。
 庄野潤三は1921年生まれというから、今年84歳を迎える最古参の作家の一人である。『プールサイド小景』で第32回芥川賞を受賞、文学史的にいえば吉行淳之介や安岡章太郎らとともに「第三の新人」と呼ばれた世代である。主な作品に『静物』(新潮社文学賞)、『夕べの雲』(読売文学賞)がある。ちなみに兄の英二は『星の牧場』を書いた童話作家で、先年亡くなった兄のことがこの作品の中でも何度も描かれている。
 
 河田ヒロの装丁がなんとも微笑ましい、この『けい子ちゃんのゆかた』は庄野潤三が『貝がらと海の音』(1996年)から、夫婦の晩年をテーマにして書き続けてきた連作の十作目にあたる。
 小説なのだろうか、それともエッセイというべきか、庄野自身は作品の中で「子供がみんな結婚して、夫婦二人きり残された「山の上」の家で、どんなことをよろこび、どんなことを楽しみながら夫婦二人で暮しているかを描く作品」(45頁)と書いている。そのようななにげない日常を描いた作品に文学的なジャンルなどは関係ないだろう。上質な作家による、丹精こもった作文である。

 ここに描かれる年老いた夫婦の日常や彼らの子供と孫たちの姿に若い読者はどれほど共感するかわからないが、ここにはかつて私たちがごく普通に目にしていた家族の肖像が描かれている。
 両親の家を訪れて先ず先祖の仏壇に手を合わせること、それぞれの家に戻る子等にささやかなものを持たせて帰すこと、近所の隣人たちと何気ない挨拶をかわすことなど、そのようなことがすっかり私たちの生活から消えていることに気がつく。
 この本の題名になった「けい子ちゃんのゆかた」は庄野夫婦の小学五年生の孫の祭りに着ていくゆかたの寸法を祖母である庄野の妻が昔習った裁縫で自ら寸法直しをするという小話であるが、そういうことも数十年前はごく普通の情景だった。しかし、今ではそのような話もあまり聞かなくなった。

 私たちは高度成長やバブル経済という狂騒の時代を経て、町や村といった社会の枠組みを壊し、今少子化により家族というもっとも小さな単位ですら失おうとしている。
 そんな時代にあって、庄野潤三が描く家族の姿はひたすら懐かしく、美しい。
 過激な物語もどぎつい表現もここにはない。緩やかな時間の流れがあるだけだ。それでいて、この作品は最も美しい家族を描いた現代の秀作である。
 ぜひ若い読者に読んでもらいたい一冊でもある。
  
(2005/05/29 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今回紹介する、谷川俊太郎さんの『詩の本』は、
  先日の「さいたまブッククラブ」で私が紹介した詩集です。
  8月の「さいたまブッククラブ」では、
  吉村昭さんの『炎天』という句集を紹介したのですが、
  詩集というのも、なかなか読む機会が少ないだろうと思い、
  紹介することにしました。
  谷川俊太郎さんの処女詩集は『二十億光年の孤独』(1950年)で、
  この時谷川俊太郎さんはまだ21歳の青年でした。
  やはり、詩の感性と青春期の感性は
  よく共鳴しあうものだと思います。
  きっとその時の詩篇は、21歳の青年でしか描けなかったと思います。
  その後、谷川俊太郎さんは常に先頭走者として
  走り続けてきました。

   ♪ 空をこえて ららら 星のかなた
     ・・・
     心やさしい ららら 科学の子

  という、アニメ「鉄腕アトム」の有名な主題歌は、
  谷川俊太郎さんの作詞です。
  私は谷川俊太郎さんの『うつむく青年』(1971年)という詩集に
  すごく感銘をうけたことがあります。
  ちょうど、高校生の頃でしょうか。
  そのタイトルとおりに、前を向いて歩き出すことが
  なかなかできない心境にあった頃のことです。

詩の本詩の本
(2009/09)
谷川 俊太郎

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sai.wingpen  声にだして                     矢印 bk1書評ページへ

 声にだして 詩の本を読もう
 あ の音と
 い の音は あたりまえだけど ちがう音
 ましてや あいは
 はずかしい

 手にとって 詩の本を読もう
 空気でもない この重さ
 花の香でもない この匂い
 これが 詩の一部だと 
 詩人はいう

 声にだして 詩の本を読もう
 わたしの声は
 誰かの声になって
 遠くの空から
 降ってくる

 光のように
 しずくのように

 詩人谷川俊太郎さんの、単行本未収録の詩篇にさらに書き下ろしの詩「詩の本」を加えた全52篇の詩集は、ずばり『詩の本』と書名がつけられています。谷川さんはいまさら書くまでもなく、そのなりわいが六〇年に及ぶ、この国の第一級の詩人です。それでも、こうして常に新しい言葉を紡いでこられていることの、なんと素晴らしいことでしょう。。
 今回の詩集には、茨木のり子さんや岸田今日子さん、市川昆さんといった故人へ捧げた詩篇も収められていますが、それらの詩はまさに天上へと立ちのぼる言霊のようでもあります。
 それらも含め、あなたを「夢のかなたの未知の朝へと」(「詩の本」より)いざなってくれる一冊です。
  
(2009/09/29 投稿)

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本 『新しい人よ目覚めよ』という、
 大江健三郎さんの小説がありましたが、
 読書会「さいたまブッククラブ」でも「新しい人」が目覚めたようで、
 先日(9.26)行われた例会では、
 初参加の人が5人もいて、11人の盛況ぶりでした。
 私が初参加したときは、4人でしたから、
 今は倍増どころか、3倍近い。
 今後の人口増加の問題にどう対処していくか、
 さっそく国連総会に議事にかかるとか(そんな話はありませんが)。

本 人数は増えても、おのおのが好きな本、最近読んだ本について
 語るというスタイルは変わらずに、
 今月も始まりました。
 11人もいますから、
 そういえば、萩尾望都さんに『11人いる!』という名作漫画があったっけ、
 テキパキといきましょう。
 
11人いる! (小学館文庫)11人いる! (小学館文庫)
(1994/11)
萩尾 望都

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本 今月のトップバッターは、先月より参加のS青年(♂)。
 『彩雪に舞う・・・』(楠勝平)、分厚い漫画作品集。
 S青年、最初から消える魔球できましたね。
 楠勝平さんは30歳で夭逝した劇画家ですが、
 S青年が持ってきてくれた本をみると、いい画を描いています。
 
彩雪に舞う…―楠勝平作品集彩雪に舞う…―楠勝平作品集
(2001/02)
楠 勝平

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 つづいて、Oさん(♂)。
 大江健三郎さんの『遅れてきた青年』。
 夜の河の場面がいい、とか。
 相変わらずに、Oさんの読み方はうまい。
 次は、初参加のOさん(♂)。
 Oさんが続きますが、Oの頭文字が一緒ということだけです。
 村上春樹さんの『ねじまき鳥クロニクル』が面白かったと。
 「人と人とはわかりあえるのだろうか」と問い、その可能性をさぐっておられます。
 主宰者のNさん(♂)は、池田晶子さんの『14歳からの哲学』。
古本 いつも思うのですが、中学生の息子さんとの共同読書体験がいい。
 Sさん(♂)は『生命40億年全史』(リチャード・フォーティ)。
 読書の幅がどんどん広くなります。
 つづく、Mさん(♀)は毎度おなじみ古本シリーズ? で、
 大正8年の『陸軍兵器学校の真髄』。
 うーむ。
 またまたすごい本を見つけてきたものです。
 「兵器学校」の学校案内と入学試験の過去問題が収められていて、
 今で言う、「赤本」みたいなものかしら。
 古くて、「茶本」になっていましたが。

本 さて、ここから「新しい人」がつづきます。
 女性の人は美しく、男性はたくましく。
 Sさん(♀)は、『抱擁』(ティク・ナット・ハン)。
 Uさん(♀)は、『朝型人間になれる本』(美波紀子)。
 Iさん(♀)は、宮尾登美子さんの『』。
 三人のお話を聞いていると、本当の本の世界って
 たくさんあるなぁと思います。
 そして、それぞれの本の魅力を、みなさん、じょうずに話される。
 読書会のいいところは、人の話をきいて、また本が読みたくなる。
 そういうことではないでしょうか。
 さらに、一つの本を媒介にして、意見を交し合えること。
 そのいい例が、「新しい人」Y君(♂)が紹介してくれた、
 野中広務さんと辛淑玉さんの『差別と日本人』。
 読書会のメンバーがそれぞれの意見や疑問を出し合う、
 濃厚な時間です。
 今回残念だったのは、あまり時間がありませんでしたから、
 少し中途半端だったかもしれません。
 差別というのは、それほど深い問題です。

本 これだけ多様な本が集まりましたから、
 次の例会までには未読の本を何冊か読みたいところです。
 案外、萩尾望都さんの『11人いる!』だったりして。
 私(♂)が今回紹介したのは、
 谷川俊太郎さんの詩集『詩の本』。
 明日、その書評を書きますね。
 私としては、一篇の詩を朗読できたから、
 いい土曜の昼下がりでした。

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プレゼント 書評こぼれ話

  今回、書評? のなかで紹介しました、
  山形米沢の「牛肉どまん中」弁当は、
  本当にある、おいしい駅弁です。
  山形新幹線の開業とともにできたらしいのですが、
  ちょっと前に山形新幹線を結構利用することがあって、
  このお弁当はよく頂きました。
  山形県産米「どまんなか」を炊き上げたご飯のうえに、
  米沢牛のそぼろ肉と牛肉煮を一面びっしりに敷き詰めた
  牛丼弁当です。
  これはぜひ食べたいところ。
  山形新幹線は福島から枝分かれした線ですが、
  そのまままっすぐ、仙台、盛岡、八戸とつづく東北新幹線も
  おいしい駅弁の宝庫。
  仙台駅ではやはり「牛タン弁当」がいいですね。
  しかも、紐をひっぱって、暖める、アレ。
  ぐい、とひっぱれば、ぷしゅっと白い煙があがった、数分でほっかほか。
  でも、あの紐、途中でプチンと切れたら、どうなるんでしょ。
  私はいつもそのことが気になっていました。
  というわけで、(どういうわけかはともかく)
  今日の「丸かじり」は『駅弁の丸かじり』です。

駅弁の丸かじり (文春文庫)駅弁の丸かじり (文春文庫)
(1999/05)
東海林 さだお

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sai.wingpen  「丸かじり」漫才                   矢印 bk1書評ページへ

 (つっこみ。以下、T) 秋ですね。
 (ぼけ。以下、B) いい季節になりました。
 T  秋といえば、スポーツの秋、読書の秋。そのほか、君、何を知ってる?
 B  泉アキ。
 T  また、古いね。ヒント、「し」で始まる。
 B  色欲の秋。
 T  なんでやねん。食欲の秋でしょ、まったく。「天高く馬肥ゆる秋」。
 B  天丼高く君の奥さん肥ゆる秋。
 T  うちの奥さん、関係ないやろ。
 B  でも、君の奥さん、よう太ってはるがな。
 T  読書の秋と食欲の秋を満喫できるのが、この東海林さだおさんの『駅弁の丸かじり』。
 B  昔、ようやりました。マッチ箱に、こう小指の先くらいの大きさのものいれて。
 T  ????
 B  クラスにアホなやついまして、犬のフンで間に合わした。
 T  なんや、それ。
 B  検便の丸かじり。
 T  そんなん丸かじりしてどうするんや。駅弁や、駅弁。
 B  駅のトイレですか。
 T  あほ。電車のなかで食べるやろ。
 B  ボクはポッキーしか食べません。
 T  勝手に食べてろ。駅弁といえば、幕の内弁当。
 B  東京駅の近くは、丸の内。
 T  終いに東海林先生におこられるぜ。
 B  弁当、べんとーう。
 T  お、突然、シュチエーション変えましたな。
 B  ほっかほか弁当。
 T  ちがう、駅弁や。
 B  ねえ、あなた、あの駅弁が食べたいわ。
 T  お、また、シュチエーション変えましたね。どれ、どの駅弁。
 B  ほら、隣の席の家族が食べてる、あれよ。
 T  あほ、あれは家からもってきた、ただのおにぎりやないか。
 B  えーん、怒っちゃ嫌よ。
 T  あああ、泣かないで。もっとおいしい駅弁食べようね。
 B  まあ、おいしそう。なーに、これ。
 T  これか。これこそ山形は米沢名物、「牛肉どまん中」。
 B  わー、おいしそう。早く食べましょ。
 T  次の駅で、お茶でも買って。
 B  鹿児島、かごしま~。
 T  おい、まて。今、おれは米沢名物の「牛肉どまんなか」を食べようとしているのに、なんで鹿児島に着いてしまうんや。
 B  空路、飛行機でビューンと。
 T  もう、君とはやってられんわ。
  
(2009/09/27 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今回紹介するのは、先日書いた句集『夏至』の作者、
  正木ゆう子さんの、初エッセイ集『十七音の履歴書』です。
  俳句の世界というのは、
  イメージでいえばシニア向けの趣味の世界みたいな印象が強いのですが、
  正木ゆう子さんを初めて、テレビで拝見した時に、
  たいへんお若い印象がありました。
  女流俳人で美人といえば、黛まどかさんが有名ですが、
  正木ゆう子さんも、黛さんに劣らず、
  綺麗な才女です。
  どうも私は綺麗系に弱いかもしれません。
  それに女性の年令をとやかくいうのは失礼ですが、
  正木ゆう子さんのことはとても若いと思っていました。
  実際には私より少し年上なんですが。
  そういう誤解? が、正木ゆう子さんという俳人に
  興味をもった経緯です。
  かなり不純ですね。
  そんな正木ゆう子さんの本を、たまたま本屋さんの
  俳句本コーナーで見かけて、手にしたのが、
  先の句集『夏至』と、
  今回のエッセイ集『十七音の履歴書』でした。
  たまには、ぶらっと俳句本の一隅を歩いてみるのも
  いいかもしれません。

十七音の履歴書―俳句をめぐるヒト、コト、モノ。十七音の履歴書―俳句をめぐるヒト、コト、モノ。
(2009/07/24)
正木 ゆう子

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sai.wingpen  悠といふわが名欅の芽吹くかな              矢印 bk1書評ページへ

 本書は、女流俳人正木ゆう子の、故郷の地元紙「熊本日日新聞」に四十一日間にわたって連載された自身の半生を綴った「十七音の履歴書」(原題は「わたしを語る」)を中心に、さまざまな雑誌や俳誌に掲載されたエッセイや論考を集めた、初エッセイ集である。

 熊本には阿蘇とか水前寺公園とか、高校の修学旅行で行ったきりだが、「俳句の盛んな土地」でもあるらしい。
 正木は本書の「泉」という文章のなかで、そのことに関連して、夏目漱石のことを記している。
 漱石が英国に留学するまでの四年半を熊本で過ごしたのは有名であるが、その熊本時代が漱石にとってもっとも俳句熱が高じていた時期だという。熊本に赴任する前、漱石は四国松山で正岡子規と蜜月のような一時期を過ごし、子規から学んだ俳句熱をひきずったまま熊本五高の教師として赴任した。そこで知り合うのが、「歳時記は日本人の感覚のインデックス」とまで言った寺田寅彦である。この二人の邂逅という偶然が今に至る、熊本の俳句振興につながっている。
 熊本出身の俳人といえば、「浮草の寄する汀や阿蘇の雪」と詠んだ中村汀女や長谷川櫂などが名をつらねる。そして、正木もその熊本の俳句熱をひきついだ一人であろう。

 半生記の「十七音の履歴書」にもあるが、正木を俳句の世界にいざなったのは長兄の浩一である。 そもそもが熊本という土地がもっていたものを、そこに暮らす人びとが大切に暖めていくことを風土と呼ぶならば、浩一にしろゆう子にしろ、故郷がもたらした恩恵にあずかった人びとといえる。
 その兄浩一が四十九歳という若さで亡くなる臨終の場面を綴った「その日のこと」は、肉親の死を静かに受けとめた、いい文章である。
 こういう文章を読むと、死とはそれほどに畏るるものではないかとも思えてくる。そして、今、生きていることこそが、「奇跡」なのだと、信じれるかもしれない。
 兄浩一の最後の句は「冬木の枝しだいに細し終に無し」だったらしいが、その冬木も春になれば、新しい芽をふく。
 それが、正木ゆう子の、こうした数々の文章なのかもしれない。

 なお、今回の書評タイトルは、正木ゆう子の句を引用した。
  
(2009/09/26 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  昨日、文春文庫のことを書いたので、
  今日は新潮文庫の最新刊のなかから、
  川上弘美さんの『此処彼処』。
  これでも、いろんなところに気を配りながら、
  毎日記事を書いています。
  「おれたちはどうしてくれるんだ」と、
  講談社文庫、角川文庫、中公文庫、幻冬社文庫、ちくま文庫
  その他たくさんの文庫さんから文句が出ると思いますが、
  今日のところは、新潮文庫さんということで。
  今日紹介する川上弘美さんの『此処彼処』は、
  もともとが2005年10月に日本経済新聞社さんから
  単行本として出たもの。
  今回の書評はその当時に書いた蔵出し
  でも、それがどうして新潮文庫からでたのか、
  一体どんな密約があったのか、
  よくわかりませんが、
  今や人気作家の川上弘美さんをラインナップにいれるかどうかは、
  文庫生き残りのためには
  結構重要だと思うのですが。

此処彼処 (新潮文庫)此処彼処 (新潮文庫)
(2009/08/28)
川上 弘美

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sai.wingpen  魔術                     矢印 bk1書評ページへ

 芥川龍之介に『魔術』という短編がある。
 ある時雨の降る夜に主人公の私が有名な魔術師を西洋館に訪ねていく場面から始まる、本にして数頁の掌編だ。
 私が魔術師に魔術などは誰にもできるものではないだろうと訊ねると魔術師は「欲を捨てれば魔術は使える」と答える。ならばと、私はその館で魔術の訓練をし、いつか魔術を会得することになる。その評判を聞いた仲間の前で賭けかるたをしてしまう主人公が最後の札につい魔術を使ったその瞬間、それまでのことがたちまち夢の如く消え失せ、私はまだ魔術師の洋館の部屋の中に座っている。「欲を捨てれば」という魔術師の言葉に口では大丈夫と答えた私の、実は心の奥底に潜む欲望を見破られてしまう、それははかないが厳しい現実であった。
 芥川はそんな人間の隠れた欲望を描いたのである。

 長々と芥川の作品のことを書いたが、川上弘美の「場所」について書かれたこのエッセイ集を読みながら、実は唐突にも何十年も前に読んだ芥川のこの作品を思い出したのだ。
 「この世界の此処彼処に、自分に属すると決めたこういう場所がある。固定資産税もかからないかわりに、知らぬ間に消えていたり変貌をとげていたりもする。昨日見つけたばかりのところもあれば、長く見知っているところもある。そんな場所について、書いてゆこうと思う」と書き始められた、自身の場所にまつわるエッセイは、反面川上弘美自身のことをはっきりと書くということでもあった。
 川上がいう「こういう場所」とは、自身にまつわるいとおしく、懐かしい場所である。そのようなエッセイを読みながら、どうして芥川の短編を思い出したのだろうか。

 このエッセイを読むとぼんやりとではあるが川上弘美が見えてくるのだ。
 どうしてだろう。不思議だな。まるで川上の魔術にかかったようだ。そう思ったから、芥川の『魔術』という作品を思い出したにちがいない。
 実際には数分の時間を何日間も過ごしたように見せてしまう魔術。
 表面の言いつくろいではなく心の深層をあらわにする魔術。
 ポンという小さな白煙とともにはかない夢が消えてしまう魔術。
 川上弘美のこの本を読んでいる至福の時間、読者は川上弘美という一人の作家と語り合い、川上弘美という一人の女性の過ごした時間と場所を共有する。そしてパタンと本を閉じた瞬間、それが川上の魔術だと気づかされる。
 「大切な時が、大切だったと知るのは、いつだってその時が遠く過ぎ去ってからだ」
 そんな気分で本を閉じた。いい魔術をかけられたものだ。
  
(2005/11/27 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  シルバーウィーク、いかがでしたか。
  世の中お休みしている間に、
  文春文庫の「いい男感想文」の最終回の締め切りが
  終わってしまいました。
  で、遅まきながら、
  最後の35万円をめざして、私が書いたのが、
  今日紹介する、小林秀雄さんの『考えるヒント』です。
  今回の書評を書くにあたって、
  当時(昭和49年6月10日)の「読売新聞」の「縮刷版」を
  調べてみたのですが、
  これが実に面白い。
  こんな楽しいこと、いままで知らなかったなんて、もったいないことしました。
  ちなみに、
  何故この時なのかといえば、
  もちろん文春文庫の創刊日だからです。
  ちなみにこの日の一面記事は、「関東一円に雷雨被害」。
  でも、実はこの日は、あの阿修羅でも破れなかった入館記録をもつ
  モナリザ展の最終日でもあります。
  当時の新聞をみていると、
  「求人広告」がものすごく載っています。
  この日だけでも四面あります。
  隔世の感、ここにありです。
  映画でいえば「スティング」なんかが上映されています。
  野球は、「燃えよ長嶋」なんていう記事があったりして、
  文春広告長嶋はまだ現役でがんばっていました。
  この日の読売には、
  ちゃんと文春文庫創刊の広告が出ているのですが、
  朝日新聞には出ていません。
  実は、朝日新聞には前日すでに広告がでていたんですね。
  左にあるのは、そんな朝日新聞に出た、
  文春文庫創刊の広告です。

考えるヒント (文春文庫)考えるヒント (文春文庫)
(2004/08)
小林 秀雄

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sai.wingpen  正解はひとつもありはしない          

 文藝春秋から、新しい文庫十冊が刊行されたのは、昭和四十九年六月一〇日のことである。
 私は十九歳の青年だったが、その時のことをよく記憶している。発売されたなかに、柴田翔の『されど、われらが日々ー』がはいっていたからだし、五木寛之の『青年は荒野をめざす』があったからだ。既存の文庫よりも思いのほか軽量という、手の感覚も残っている。
 あれから、三十五年。
 開高健ふうにいえば、橋の下をたくさんの水が流れ、ようやく、記念すべき第一回配本の一冊、小林秀雄の『考えるヒント』を読んだ。
 三十五年を経て、やっと小林秀雄が読めるようになったのかもしれない。
 いい書名だ。でも、ここには考える「ヒント」など書かれていない。書かれているのは小林秀雄が考えたものごとだ。
 三十五年前は本書で書かれているような文章が、考えるための「ヒント」になっていたことに気づき、感心する。
 「3」という解を導きだすものは、「1+2」でもあり、「4-1」でもあり、「6÷2」でもある。小林はこの本のなかにそんな数式をひとつも書いていない。それはみな、読み手がそれぞれに考えることだったという、感心である。
 時代が過ぎ、私たちが今、手にする多くの本には「1+2=3」と書かれている。その過程でしか解はないかのように。そして、読み手はいとも簡単に理解し、それをまねようとする。なんと窮屈で貧弱な世界になったものだろう。
 小林秀雄は本書のなかで「考えるという事は実に切りのないものだ」と書いている。果てしもない思考の、そういう豊穣な世界を私たちはどこにやってしまったのだろう。
 「いい男」なんていうものにただひとつの数式はないだろう。その解をとく方法なんていくらでもある。しかし、正解はひとつもありはしない。
 それは三十五年前から文庫本に書かれていたのだ。
  
(2009/09/19 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今日は、秋分の日
  そんな日に『夏至』という句集の紹介をするのも
  いささかなんなんですが、
  たまたま書名がそうということで、
  ご勘弁ください。
  それに、この句集『夏至』には、

    いや畏くも鷹と目の合ふ秋彼岸  正木ゆう子

  といったように、四季それぞれの句が収められています。
  この「秋彼岸」という言葉ですが、
  俳句の世界では単に「彼岸」といえば、
  春の季語になります。 彼岸花
  ですから、秋はわざわざ「秋彼岸」としなければいけない。
  面倒くさいみたいですが、
  「秋彼岸」と書くだけで、
  春とはちがう穏やかな気候を感じます。
  ちなみに左の写真は、
  道端に咲いていた、彼岸花、曼珠沙華です。
  今回のように句集の書評というのは、
  なかなか難しいですね。
  書評のなかで、「義父の死を詠んだ」と書きましたが、
  句のなかではそのことをズバリと詠んでいるわけではありません。
  「父」とあるだけです。
  ここは、正木ゆう子さんの『十七音の履歴書』という本を
  参考にしながら、書きました。  

夏至―正木ゆう子句集夏至―正木ゆう子句集
(2009/06)
正木 ゆう子

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sai.wingpen  めぐりくるもの                     矢印 bk1書評ページへ

 本書は、俳人正木ゆう子の、平成十四年なかばから平成二十年までに発表された作品のなかから約二百五十句を収めた、第四句集である。
 一年でもっとも長く陽がふりそそぐ「夏至」が、そしてそれは彼女の生まれし日でもあるのだが、書名になっているのは、著者の「太陽を中心に捉えたい」という思いである。
 正木は「あとがき」に「この繊細な季節の変化が、太陽に対する地軸の傾きというただ一つの理由によって生じていることに気づいてから、私は以前にも増して太陽に畏れと親しみを抱くようになった」と書いているが、それだけではなく俳壇における彼女の位置や彼女の心意気が「太陽」というエネルギーを近しいものにしているのではないかと思う。
 それほどに、近年の正木ゆう子の活躍はめざましい。

 この句集はいくつかの章立てでまとめられているが、冒頭の「噴煙に日面のある大暑かな」と最後の「公転に遅れじと春の大気かな」という二つの熊本阿蘇を詠んだ句は、大いなる太陽の循環でつながっている。そう考えれば、どういう章立てであれ、それらは所詮、太陽という光の中心で廻りつづける瑣末な日常でしかない。
 逆をいえば、四季という変化に多くをゆだねながら、そういう瑣末な日常を詠む俳句は、まことに大いなる自然と人事を表現しうる、文芸だともいえる。

 人事と書いた。それは、義父の死を詠んだ「昴」の連句によく表れている。
 「骨拾ふ冬三日月の弧を思ひ」
 「老いも死も父先んじて母に夏」
 それらは単に身内の死を越えて、生と死をひとつの円環のようにして詠みきっている。そして、そういう円環の中心に、誰も侵せない、幾重にもなる四季の重なりがある。

 佐世保の鷹の渡りを詠んだ「鷹渡る」、オーロラの秀句を収める「極光」、「皿持つて河童のきもち半夏生」といった愉快な句の冴える「湖畔」(「」内はいずれも章のタイトル)など、これは正木ゆう子のひとつの成果だろう。
 なお、本句集の装丁は、彼女の夫笠原正孝氏の手によるものである。
  
(2009/09/23 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  東海林さだおさんの『親子丼の丸かじり』の文庫解説を
  コラムニストの中野翠さんが書いていますが、
  その冒頭で「2001年は私にとって失意の年」と、
  その年の秋亡くなった古今亭志ん朝さんのことを書いています。
  つづく文章。

    私はこの十数年、すっかり落語至上主義者と化していたのだが、
    古今亭志ん朝さんという現代落語界ではほとんど唯一最強の支柱
    を失ってしまい、大げさではなく、心の底がパカーッと抜け落ちたか
    のような気持になった。ガックリ来た。

  中野翠さんばかりでなく、
  この時、「ガックリ来た」人は多かったと思います。
  では、私は、といえば、
  さっぱり記憶にない。
  新聞記事や報道で訃報に接したはずなのに、
  砂つぶほどにも、残念ながら、覚えていません。
  そんな人間が、いまさらにように、
  古今亭志ん朝さんはいいね、って言ってみても、
  「100年早いやい」って、
  怒られそうですが、
  いいものはいい。
                
志ん朝復活-色は匂へと散りぬるを へ「碁どろ」「お若伊之助」志ん朝復活-色は匂へと散りぬるを へ「碁どろ」「お若伊之助」
(2002/07/24)
古今亭志ん朝

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  今回紹介しました、京須偕充さんたちのご苦労が実って、
  今は古今亭志ん朝さんが遺したCDもあって、
  何度でも聴くことができる。
  この『志ん朝の走馬灯』にも出てきますが、
  「色は匂へと散りぬるを」シリーズなんかを一生懸命
  聴いています。
  
志ん朝の走馬灯 (ちくま文庫)志ん朝の走馬灯 (ちくま文庫)
(2009/05/11)
京須 偕充

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sai.wingpen  志ん朝にめざめる                     矢印 bk1書評ページへ

 関西の出ということもあろうか、落語といえば上方落語、ことに桂枝雀の落語にいたっては先にも後にもないと思い込んできた。
 枝雀の芸風は破天荒であったけれど、英語落語に極まるような、いささか知的好奇心をくすぐる才知にもあふれていた。枝雀はよくマクラで、「落語とは緊張と緩和」ということを話していたが、彼の大げさな身振り、声の強弱は、所詮落語とは笑いに尽きるということをめざしていたように思う。
 その点、古今亭志ん朝は単に笑いだけではない、粋な江戸前の世界を現出させることにこだわった落語家だったかもしれない。

 初めてきちんと志ん朝の落語を聴いたのは最近である。
 聴いているこちら側がおもわず姿勢を正しうしてしまうほど、彼の声は折り目正しく、ハリがよく、上品そのものであった。さらに、吉原の花魁から町娘や長屋のおかみさんにいたるまでの女性の声の艶っぽさといったらない。
 残念ながら、それが志ん朝の高座でも映像でもなく、声の収録作品であったから、彼の高座での立ち居振る舞いは生前多くのTV媒体に出ていた頃のとぼしい記憶でしか再現できないが、それでも彼の声は志ん朝落語の気質のよさを伝えてくれる。

 生前、「芸は消えてこそよし、遺すものにあらず」が信条であった志ん朝をくどきおとし、CD作品として残せたのは、本書の著者である、京須偕充(ともみつ)氏の労のおかげかと思う。それあって、こうして遅れてきた志ん朝ファンにもその魅力が十分に伝わる。
 本書ではそんな著者ならではの、折々に書かれた志ん朝こぼれ話がまとめられている。特に、「その人と歩み」と題された演目では、音楽プロデューサーの耳と目が、声、調子、息、姿と、たくみに志ん朝の魅力を描いている。
 著者のいうとおり、「聴く人を置きざりにして飛んで行ってしまうことのない」志ん朝の芸は、聴く者を沈着させ、自ずと江戸のどこかの町へといざなってくれる。もっというなら、人がひととして、愚かでおかしく、それでいて心が豊かであった世界へと誘う。

 桂枝雀も、古今亭志ん朝も、噺家として天才であったにちがいない。そして、彼等の天才は楽々とその境地に達したのではないことを隠さない、そんな天才芸人だったように思う。
  
(2009/09/22 投稿)

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鉛筆 今日は、敬老の日
 いつもなら9月15日だったのですが、
 今年のように21日なんていうと、
 敬老の日もお年を召されたと、感慨ひとしおです。
 なにはともあれ、お年寄りのみなさん、
 おめでとうございます

 ということで、今回の「雑誌を歩く」は、
 どちらかといえばシニア向けの雑誌、「サライ」10月号を
 取り上げます。
サライ 2009年 10月号 [雑誌]サライ 2009年 10月号 [雑誌]
(2009/09/10)
不明

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鉛筆 「サライ」というと、私なんか、すぐ
 24時間テレビを思い出してしまいます。
 加山雄三さんが歌う、
 
  ♪ 動きはじめた汽車の窓辺を 
    流れてゆく景色だけを じっと見ていた


 でも、今回の「サライ」は今月から月刊誌になった雑誌のこと。

鉛筆 ところで、この「サライ」ってどういう意味かわかります?
 ペルシャ語で「宿」という意味だそうです。
 その「サライ」ですが、この10月号から月刊誌になりました。
 (今までは月2回刊行だったのですが、より重厚な紙面作りをめざして
 月刊誌になったそうです)
 今号の特集はすごい。
 まず、大特集として「俳句入門」(ぐっときて)、
 次の特集が「古今亭志ん朝」(ハッとして)、
 さらに「志ん朝の落語CD」がついて、
 「お買い上げありがとうございました」と
 なるわけです。
 さらにいえば、「軽量鞄」の特集まであります。
 鞄好きなんですよね、かなり。
 もうこれだけ並べられると、いうことなし。
 パーフェクト! です。

鉛筆 さて、大特集の「俳句入門」ですが、
 そのなかで、俳人の金子兜太さんがいいことを書いています。

   実作では、どんどん作ってどんどん作る。
   これに尽きます。

 けだし名言です。
 その金子兜太さんに教わる「実作と技法」もいいですね。
 俳句やってみようか、とお思いのみなさん、これは役に立ちます。
 そのほか、なんだか敷居の高そうな「句会」の様子なんかも
 うまくレポートされています。
 なんといっても、極めつけは、
 27歳で早世された女優の夏目雅子の記事でしょうか。
 ほんとうにきれいな女優さんでしたね。
 夏目雅子さんは「海童」という俳号までお持ちだったそうで、
 そんな彼女の句をひとつ。

   結婚は夢の続きやひな祭り

 まあ、この一冊があれば、句作ができるんじゃないでしょうか。

鉛筆 そして、もうひとつの特集「 古今亭志ん朝」。
 「”最後の名人”63年の軌跡を辿る」とあります。
 最近、 古今亭志ん朝さんにはまっている私としては、
 これまたうれしい。
 明日、そんな古今亭志ん朝さんのことを書いた、
 『志ん朝の走馬灯』の書評を書きますね。
 だから、今日はここまで。

鉛筆 俳句にしても、
 落語にしても、
 シニアだけのものではありません。
 若い人も楽しめます。
 ぜひ、「サライ」10月号で、お勉強してみてください。

  ♪ サクラ吹雪の サライの空へ
   いつか帰る いつか帰る きっと帰るから


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プレゼント 書評こぼれ話

  昨日にひきつづいて、
  正岡子規のことを少し。
  今回の書評にも書きましたが、
  子規はすごく重い病人でしたが、とても食欲旺盛な人でした。
  子規の『仰臥漫録』という作品のなかには、
  びっくりするような食事の数々が披露されています。
  冒頭の、明治34年9月2日(死の前年)から引用します。

    朝 粥四椀、はぜの佃煮、梅干砂糖つけ
    昼 粥四椀、鰹のさしみ一人前、南瓜一皿、佃煮
    夕 奈良茶飯四椀、なまり節煮て少し生にても 茄子一皿

  どうですか。
  すごい量。
  それでいて、このあとに、

    この頃食ひ過ぎて食後いつも吐きかへす

  と、あります。
  生きたい、という思いが強かったのでしょうか。
  ところで、奈良茶碗というのは、
  どういうご飯なんでしょうね。
  あるいは、なまり節って、どういうおかずなんでしょう。
  そんなことを思うと、
  正岡子規の、元祖「丸かじり」説も、
  満更ではないと思いますが。

タクアンの丸かじり (文春文庫)タクアンの丸かじり (文春文庫)
(1997/04)
東海林 さだお

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sai.wingpen  「丸かじり」の元祖は子規?             矢印 bk1書評ページへ

 明治の俳人、正岡子規さんの写真をみると、いつもガキ大将みたいだと思う。
 じゃんけんをしても、ぐう、しか出さなかったんじゃないかな。
 「大将、それじゃあ、ぱあ、に勝てないぞな、もし」
 なんかみたいなことは、高浜虚子さんとか云ったんじゃないかな。
 「それじゃあ、ちょき、出せ」
 みたいなことを、むん、という感じで答えたんじゃないかな。

 そもそも子規さんというのは、脊椎カリエスという重い病気になって、「痛い、痛い」と泣き叫んでいたわけです。
 その一方で、「おいしいもの食べたいよー」とごねてまくっていて、子規さんの代表作『仰臥漫録』には、今日なにを食べた、このあいだ何を食ったみたいな話がいっぱい出てくる。
 ははーん、明治の「丸かじり」俳人とは、子規のことだったかと、発見しました。
 病床六尺で「丸かじり」していたわけですから、さすがの昭和・平成の「丸かじり」漫画家東海林さだおさんも敵わないかもしれない。
 こんなところに、強敵現る。

 しかも、子規さんの「丸かじり」は俳句をつくったという強みがある。
 東海林さだおさんの「丸かじり」は漫画を描いたという強みがある。
 はっけよい、のこった、のこった。
 どっこい、子規さんの場合は日本画も描いたぞなもし。
 どっこい、東海林さだおさんの場合は「タクアン」もつくったでやす。
 のこった、のこった。
 おれは、子規い(敷居)だ。
 なぬ、ぼくは、ショージ(障子)だ。
 と、畳の上で両者のにらみ合いがつづくのでありました。

 ところで、子規さんの「丸かじり」俳句ですが、もっとも有名なのは、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」。
 これは、もともと、「柿くへば種があるなり富有柿」だったということは、広く人口に膾炙しています。(うそです)
 次に有名なのは、「鶏頭の十四五本もありぬべし」。これも、ちがうな。どうも後世の人はきれいにお化粧ばかりしようとする。
 これは、「タクアンの十四五本もありぬべし」。
 しかも、この子規「丸かじり」俳句の創作の秘密を、どこから嗅ぎ出して、東海林さだおさんが平成の世に『タクアンの丸かじり』として出版したのは、あまり知る人もすくない。(これはまだ研究途中ですから、他言なきよう。笑われますよ)
 問題は辞世の句。
 「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」。
 「丸かじり」俳人子規さんが、最後に詠んだにしてはいかがなものか。
 これは、きっと「こし餡の餅のつまりし佛かな」が正しいような気がするが、どうだろう。
  
(2009/09/20 投稿)

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足   道を歩いていると、ときに方角がわからなくなる。
     私にはそんな癖があり、ここ十数年、上根岸の子規庵を何度もたずねていながら、
     そのつど迷ってしまう。

 これは、最近新装改版が本屋さんの店頭に並んだ、
 司馬遼太郎さんの『ひとびとの跫音(あしおと』の「子規旧居」の冒頭の一節です。
 この『ひとびとの跫音』は正岡家の養子だった忠三郎さんを中心に、
 子規ゆかりのひとびとを描いた、司馬遼太郎さんの作品です。

ひとびとの跫音ひとびとの跫音
(2009/08)
司馬 遼太郎

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足 今日は、糸瓜忌(へちまき)。
 俳人正岡子規の忌日です。
 子規はカリエスになって「病床六尺」の不自由な生活のあと、
 明治35年(1902年)9月19日、34歳の若さで絶命します。
 絶筆三句のひとつが、

    糸瓜咲て痰のつまりし佛かな

足 先日、司馬遼太郎さんのように迷子になることもなく、
 根岸にある子規庵に行ってきました。
 子規1左の写真が子規庵の正面です。
 子規庵には何度か行っていますが、
 今回は現在展示されている
 「子規遺品展」が見たくて。
 この「遺品展」は、今年の糸瓜忌にあわせて
 開催されています。(~9.30まで)
 日清戦争従軍記念のシャープペンシルとか、
 友人から贈られた一本足の蛙とか、
 寒川鼠骨よりお年玉として贈られた地球儀とかが
 展示されています。
 いずれも想像していたものより、うんと小ぶり。

足 子規庵は玄関をはいって、すぐの左の部屋が
 妹のの部屋です。
 襖ひとつ隔てて、子規の病室の部屋。
 そこから、庭が望めます。
 今、その庭が見頃。

    ごてごてと草花植ゑし小庭かな

 という子規の句のとおり、さまざまな植物が茂っています。
 もちろん、有名な糸瓜の棚もあって、黄色い大きな花を咲かせていました。
 萩、鶏頭もきれいな花をつけて、小さいながらも、
 俳味のある、趣きのある、いい庭です。
 鶏頭といえば、

    鶏頭の十四五本もありぬべし

 という子規の有名な句がありますが、
 最近ようやくこの句のすばらしさがわかる感じがします。
 簡単そうですが、こういう句はなかなか詠めません。
 子規のすごさは、早逝したにもかかわらず、
 そういう未練さを感じないことかもしれません。
 やることをやっちゃったみたいな、
 完成度を感じます。

子規2足 子規庵をでて、日暮里駅に向かう途中に、
 子規も愛した芋坂の羽二重団子のお店があります。
 そこで、私も団子を食べました。
 餡と醤油をうすくひいた焼きの二種類。
 この団子を子規も食べたかと思うと、また
 感慨深いものがあります。


足 小さな旅の最後に、私も一句。

  糸瓜忌や襖へだてて兄のこゑ    夏の雨


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鉛筆 新企画、二号めにして早くも困難です。
 なんと、今回は「週刊ダイヤモンド」9/14号の、
 デジタル版なんです。
 ひゃー、オジさんに読めるの?
 と、恐怖で足が(手かな)すくみました。
 だから、係の人に私できません、ってすがってみたのですが、
 (係の人というのはこのデジタル版を献本? してくれたR+の人なんですが)
 その係の人が「大丈夫、できますよ」って、多分やさしく
 背中をドンと押すわけです。
 昔、カメラのCMで扇千景さんがにっこり笑って、
 「わたしにも写せます」なんていうのがありましたが、
 オジさんにもデジタル雑誌が読めますよ、と
 いうわけです。

鉛筆 そこまで言われたら、ダイアモンド
 森田健作千葉県知事じゃないですが
 「俺も男だ!」って頑張りました。
 実際には別に頑張ることもなく、
 オンライン書店で書籍を注文するのと全く同じ。
 注文すればさっそく雑誌がパソコンで読めるのですから、
 情報化の波は、すごい土用波です。
 これだと日本全国どこでも同じ。
 山であろうと川であろうと海であろうと、読めちゃう。
 海外の人も大丈夫。
 しろくまくんと一緒に「週刊ダイヤモンド」が読めます。
 コアラちゃんと一緒に「給料全比較」を嘆けます。

鉛筆 その「給料全比較」が、今回の「週刊ダイヤモンド」9/14号の特集。
 こういう企画というのは、よくありますが、
 実にいやらしい。
 かつ、実に楽しい。
 ほほう、とうなり、
 こいつら、働いてるのかと吼え、
 なんでオイラの給料はこうなんだ、となる。
 これは絶対そうなる。
 なぜなら、そうやって私は何度も同じような企画を読んできたから。
 思うに、
 こういう企画は高給取りの御方は読まないだろうな。
 読むのは、もっともらえるはずだと思っている人。
 となりの芝生はなんとか、とかいいますが、
 本当はよその会社で働いている人よりも、
 となりの席でネットを見ている同僚の給料が気になる。
 こいつには負けないだろう。
 あ、でもさっきこいつ、人事部長にゴマすってたしな。
 と、どんどん目が充血してくる。
 その点、「週刊ダイヤモンド」のこの企画、
 すごく平和でいいですね。
 だって、どうしようもないから、
 血はみない。
 「いいな、この会社。私、辞めようかな」
 「やめときな、転職してもいいことないよ」
 「そうだよね、ところで、あのさ・・・」
 ああ、平和だ。

鉛筆 コアラちゃんに、「日本の企業戦士は大変ですな」と
 ぜひ話してあげてください。
 ところで、そんなデジタル雑誌ですが、
 私は「Fujisan.co.jp」という雑誌のオンライン書店から
 入手しました。

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09/17/2009    おとうと :書評
プレゼント 書評こぼれ話

  朝日新聞日曜書評欄の「百年読書会」(重松清ナビゲーター)の、
  9月の課題図書は、幸田文さんの『おとうと』。
  いまでも幸田文さんのファンは多いです。
  本当にいい文章を書かれますね。
  今回の『おとうと』は初めて読みましたが、
  本当にいい本を課題図書にしてもらったと、
  重松清さんにお礼がいいたくなります。
  いい物語というのは、
  書き出しもいいものですが、
  この幸田文さんの『おとうと』も、本当にいい。
  葉桜の土手、この川は隅田川です、にこまかい雨が降っていて、
  そのなかを姉と弟、二人の主人公が走っていく。
  今回の書評句は、
  そんな風景を詠みましたが、
  本当にうまい導入部です。
  しかも、この土手は、その後、いろんな場面に
  登場してきます。
  後段、弟が結核となり、姉の看病の姿が描かれていくのですが、
  その切り替えの場面もいい。
  新潮文庫でいえば、141ページ。
  うまいですよ。
  こんないい物語を今まで読まなかったなんて。
  読んでいない人に絶対オススメの一冊です。
  
おとうと (新潮文庫)おとうと (新潮文庫)
(2000)
幸田 文

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sai.wingpen  透きとおるような美しさ    
             
 葉桜の 雨駆けてゆく おとうとよ

 高名な作家の父と冷たい継母をもった、姉と弟の哀しく切ない愛情物語である。
 けっして幸福であるとはいえない家庭で、不良になっていく弟であっても、彼の優しさを信じる姉の心は美しい。このげんという姉の造形がみごとだ。
 そういえば、山田洋次監督の『男はつらいよ』という映画の、こちらはおろかな兄としっかり者の妹という設定だが、つねに兄の愚行に翻弄されながらも兄を信じ、慕いつづける妹さくらの心情に、げんはよく似ている。もしかすると、山田洋次監督はこの幸田文の名作から『男はつらいよ』を考えついたのかもしれない。
 結核になった弟を必死に看病する姉げんであるが、死期の迫る弟とともにげんもまた不仲の父や継母と心のなかで和解していく。最後には死んでゆく弟碧郎が最後に願ったものは、やはり寅さんのように帰るべき家だったのだろうか。
  
(2009/09/14 投稿)

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レビュープラス
鉛筆 アクセス数が10000件を超えたので、
 さらに、本の世界を広げようと、
 新しい企画を始めます。
 題して、「雑誌を歩く」。
 不定期になるでしょうが、お楽しみに。
 今回は、その第1号をお届けします。

鉛筆 最近本屋さんの店頭で、
 勝間和代さんの写真を見かけても驚かなくなったし、
 いささか食傷ぎみでもあったのですが、
 「COURRiER japon クーリエ・ジャポン」10月号の表紙には
 お、と魅きつけられました。

COURRiER Japon (クーリエ ジャポン) 2009年 10月号 [雑誌]COURRiER Japon (クーリエ ジャポン) 2009年 10月号 [雑誌]
(2009/09/10)
不明

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鉛筆 勝間和代さんの写真の横に、
 「いま、なぜ「アフリカ」なのか」という、勝間和代さん責任編集の
 特集記事の案内です。
 勝間和代さんと「アフリカ」、いい取り合わせですね。
 アフリカの大地の太鼓が、ボボンボンボン、ボボンボンって聞こえてきそうです。
 勝間和代さんといえば、「Chabo!」の活動が有名ですが、
 え、知らない?
 では、お教えしましょう、
 「Chabo!」というのは本の印税の20%を難民の人たちの教育支援にあてる取り組みで、
 勝間和代さんとか小宮一慶さんの本に
 「Chabo!」のロゴがはいっているのを見たことがあるかと思います。
 それで、勝間和代さん自身スーダンに行かれたりして、
 結構ご縁があります。
 しかも、アフリカは天然資源だけでなく、約9億の人口もあって、
 ライオンだけの大陸ではないのです。

鉛筆 今回紹介する「クーリエ・ジャポン」10月号で、
 勝間和代さんは「アフリカ」について、こんなことを話しています。

   直接的・間接的を問わず、アフリカの問題は常に日本の経済情勢にも
   影響を与えています。

 そして、

   この特集を読むことで、アフリカの存在、そして、海外支援について、
   私たちが持っていた旧来的な考え方の枠組みに対して、大きな刺激を
   得ることができると確信しています。

 と結んでいます。
 昔、ジョン・ヒューストン監督で『アフリカの女王』という映画がありましたが、
 勝間和代さんもなんだか『アフリカの女王』をめざすのかな。
 今回の特集では「政治」とか「情報」、「AID」といったさまざまな観点から、
 海外のメディアがどのように「希望の大陸」をみているのかが
 紹介されています。

鉛筆 ここで、「COURRiER japon クーリエ・ジャポン」という雑誌について
 少し説明しましょうね。
 フランスの国際ニュース週刊誌「クーリエ・アンテンナショナル」と提携して、
 世界のさまざまな地域のメディアのなかから記事を選んで編集している雑誌なんですね。
 そういう点で、今回のもう一つの特集、
 日本の政権交代を世界のメディアがどう報道してきたかをみる、
 「世界が見た”日本のCHANGE” 」は、
 この雑誌ならではのいい企画です。
 アメリカの「ロサンゼルス・タイムズ」は、

   チェンジを公約に掲げた民主党だが、どういう未来を目指すのか、
   オバマのように明確ではなかった

 といい、スペインの「エル・パイス」は

   日本を再生する作業は、この選挙に勝つこと以上に大変だろう

 と書いています。
 ほっとけよ、おれんちのことなんだから、
 ではなく、そういうことは日本という国への期待もあるんだから、
 謙虚になって、知ることが大事なんですよね。
 グローバルにものごとを考えること、というのは、
 こういう世界の目も意識するということです。

鉛筆 世界はいまやひとつの共同体。
 「♪ふたりのため 世界はあるの~」っていう唄がずっと昔に流行ったけれど、
 今は
 「♪人類のため 世界はあるの~」って感じですね。
 でも、ライオンさんのこともやっぱり考えましょうね。

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レビュープラス
本 お礼ではありません。
 御礼(おんれい)。
 、が付くだけで、感謝の気持ちが深くなる。
 おかげさまで、この「本のブログ ほん☆たす」のアクセス数が
 10000件を超えました。
 ありがとうございます。

   ものの始まりが一ならば、国の始まりは大和の国、島の始まりは淡路島。
   泥棒の始まりが石川の五衛門なら、助平の始まりが小平の義雄。ね。
   続いた数字が二。仁吉が通る東海道、憎まれ小僧が世に憚る。仁木(にっき)の
   弾正お芝居の上での憎まれ役。ね。三三六法で引け目がない。
   産で死んだか三島のお千 ・・・        
                                 (映画『男はつらいよ』から)

 と、寅さんの口上にありますが、
 そうすると、
 10000はどうなるのでしょうか。

本 毎日かかさず読んでくれる人、
 ちょいとのぞいてくれた人、
 ひやかし半分できてくれた人、
 いろんな人がいての、10000件
 あたしゃあ、うれしい。
 イチローさんの大リーグ9年連続200本安打の大記録に、
 小さな花を添えられたかな。

本 これからも、
 この「本のブログ ほん☆たす」で、
 「豊かな本のある暮らし」を紹介していきますので、
 応援よろしくお願いします。

  今日は、『「ふるさと」の発想』(西川一誠)という、
  まじめな本の書評も書いていますので、
  ぜひお読みください。

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プレゼント 書評こぼれ話

  ちょっと昨日のこぼれ話のつづきみたいになりますが、
  今日紹介する、西川一誠さんの『「ふるさと」の発想』に、
  東京大学の玄田有史教授の「希望学」のことが
  少し書かれています。
  昨日のNHKの「クローズアップ現代」でも取り上げられていました。
  本書から引用しますね。

   希望は安心のように結果を求めるのではなく絶えず模索し続ける、
   希望は個人のものであってイメージを押し付けてはならない、
   希望は過去を見つめ未来を語る、
   希望はムダやゆとりを好む         
 (138ページ)

  お金や勝つことがすべてではないと思います。
  そういう苦しい、行き場のないような生き方はやめようではないか、
  と「希望学」ではいっているのではないでしょうか。
  都市と地方との格差の問題にしても、
  別に都市のありようがすべてではありません。
  地方の豊かさは、これはまちがいなくあります。
  ただ、人びとの価値基準が都市優先になっているだけです。
  「ふるさと」という言葉の、ゆるやかさを
  これからは大事にしないといけないのではないでしょうか。
  読書も同じ。
  生活を豊かにする、そんな読書が
  私は好きです。

「ふるさと」の発想―地方の力を活かす (岩波新書)「ふるさと」の発想―地方の力を活かす (岩波新書)
(2009/07)
西川 一誠

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sai.wingpen  あなたの「ふるさと」はどこですか             矢印 bk1書評ページへ

 都市と地方の格差の問題がいわれて久しい。
 にもかかわらず、地方における雇用の崩壊、少子高齢化、人口流出、中心市街地の衰退、と事態はますます深刻化している。
 本書は、そのような地方の現状をレポートしながら、国の国土政策がいかに都市偏重であったかを考察するとともに、小泉政権下の「構造改革」による規制緩和や効率主義が地方をどのように疲弊させていったかを見ていく。
 そして、地方を活性化させる手がかりとして、外へとつながる開かれた側面と内なる結びつきを強める側面をもった「新しいふるさと観」を示す。
 著者は「ふるさと納税」の提唱者のひとりでもある、現職の福井県知事西川一誠氏だが、難しい地方の問題をじつにわかりやすく整理し、その提言もやや情緒的かもしれないが納得感がある。
 なによりも、もしかすると地方は新しい価値を見つけられるかもしれないという、希望のような明るさを感じる。

 地方の問題で早急に手をつけないといけないのは人口減少への歯止めだと、私は思っている。それは単に少子化による減少ではなく、人口流出の問題である。
 本書の福井県の場合でいけば、「人口は約八二万人であるが、毎年三〇〇〇人の学生が都市圏に流出し、福井に帰ってくるのはそのうち一〇〇〇人程度」(99頁)である。
 若者たちが「ふるさと」を嫌がって帰らないのではなく、「ふるさと」に彼らの雇用をまかなうだけの余地がないのだ。雇用がないかぎり、人はそこにとどまりようがない。それは都市の快適さを求める以前に、生活の場として成立しないということである。
 西川氏のいう、外と内の「つながりの協動社会」が成り立つためにも、そこに暮らす人びとがいてのことである。
 本書でも「地方圏に限定して法人税の大幅な投資減税を設けることにより、海外ではなく国内(地方)投資への流れをつくれないだろうか」(102頁)と書かれているが、農業などの第一次産業の活性化策、起業への支援、地場産業への応援など、実施していかなければならない課題は多い。

 最後に「ふるさと納税」について書いておくと、西川氏は「納税の形を借りた寄付であることから、都市と地方の対立関係を見直」(150頁)すものとしている。寄付する側は自身の生まれ育った地域だけでなく、寄付先の自治体を選べるのだという。だとしたら、今後行政は魅力に溢れた施策を作っていくことをより求められるし、そのことが地方の人びとの生活も変えていくにちがいない。それが西川氏のいう「外に開かれたつながり」だろう。
 新しい政権のもと、地方が活性化することを願わずにはいられない。
  
(2009/09/15 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  どうもお金の話に弱い。
  お金は穢いものではなく、生きていく上で
  とっても大事なものだと思います。
  では、それが一番かといわれると、
  やはりそうではないと言いたいのだけど、
  やはりあるにこしたことはない。
  このあたりが、難しくて、どうも自分でも釈然としていない。
  今回紹介した松宮義仁さんの『A6ノートで読書を超速化しなさい』ですが、
  副題にあるように「ビジネス書をお金に変える」という言葉に
  いささか抵抗を感じるのも、そういうことだろうと思います。
  まして、「読書術で」といわれると、
  うーむ、となってしまいます。
  少なくとも、私が考える「読書」とは何かちがうなぁと感じます。
  お金は欲しいですよ。
  いくらあってもいいですよ。
  でも、本を読むということは、
  お金ではない、もっと大切なことを
  教えてくれると思うのですが。
  いいよ、いいよ、そんなあなたにお金はあげない、って
  言われるのも嫌なんですが。

A6ノートで読書を超速化しなさい―たった一週間でプロフェッショナル! ビジネス書をお金に変える魔法のノート術「シンA6ノートで読書を超速化しなさい―たった一週間でプロフェッショナル! ビジネス書をお金に変える魔法のノート術「シン
(2009/04/25)
松宮 義仁

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sai.wingpen  「読書術」ではなく「仕事術」?              矢印 bk1書評ページへ

 どうも最近の読書のありように困惑している。
 「リターン」を求めることを強調する読書のすすめに、あえて昔がよかったみたいなことはいうつもりもないが、すごい時代になったものだと、一種やりきれなさを感じてしまう。
 この本でも、それは感じる。
 著者である松宮義仁氏は、初めから「趣味は読書です」と「明るく答える」読者にはこの本は向いていないとし、松宮氏が提唱する「大人の読書術」で手にはいるものとして「お金」を筆頭に「スキル」、「使えるノウハウ」と続けていく。
 「大人」って、お金を絶対優位におく人ばかりではないだろうに。
 こんなやりきれなさは、一体どこからくるのだろう。

 松宮氏の「A6ノート」を使う「シンプルマッピング流読書術」を読書のひとつの方法として面白いと感じたし、「本の読み方」として、「スキャン読み」「通常読み」「拾い読み」の段階手法もいい読み方だと思う。
 あえて、「お金」を筆頭にするまでもなく、限られた時間のなかで本を読むのであるから、うまく読むこと、身につくこと、はどうしても求められるだろう。
 そして、この読書術で、「読みっぱなし」読書が、記憶や知識として定着する(そして、それはA6ノートを使用することで、携帯性を増し、いつでもどこでも「復習」ができることである)のであれば、それはけっして悪いことではない。
 それでも、何かの「リターン」を求め、そしてそれをあたかも特色のように喧伝することに、今の社会のやりきれなさを感じてしまう。

 いくらビジネス書に限ってとはいえ、松宮氏が「「お金」を生み出す読書に徹底的にこだわ」って「読書を超速化」させたのであれば、そういうことではない「ゆるさ」をもった読書術だってありえるだろう。 そして、そのときは「趣味は読書です」と、明るく答える読書人でいたいと思う。

 ここまで書いてきて、ふと思った。
 本書は「読書術」ではなく、「仕事術」の本なのかもしれない、と。
 それなら、いささか腑に落ちた。
  
(2009/09/14 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今日の「丸かじり」は、タケノコがメインです。
  ここから薄い記憶で書くのですが、
  以前山形県酒田に行ったときに、
  おいしいタケノコ料理を食べたことがあります。
  細いタケノコを焼いてあって、
  皮をむいて、なにか(うーむ、記憶曖昧ですね)につけて
  食べたような。
  あれは、何だったんでしょうね。
  すごくおいしかった。
  まあ採れたてのタケノコというのは、
  見た目よりはうんと柔らかいですし、おいしいですよね。
  「タケノコの丸かじり」で東海林さだおさんが食しているのは、
  京都の「錦水亭」というところの、
  12000円のコース料理。
  いいな、
  おいしいだろうな、
  うらやましいな。
  「丸かじり」シリーズでいつも思うのですが、
  東海林さだおさんが食べに行くのは、
  取材費なんでしょうか。

タケノコの丸かじり (文春文庫)タケノコの丸かじり (文春文庫)
(2002/11)
東海林 さだお

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sai.wingpen  タケノコ物語                 矢印 bk1書評ページへ

 タケノコさまは由緒正しいお生まれでございます。
 私どもは、お竹様のお嬢様とお呼び申しております。
 あらま、女のお子様だとご存知ありませんでしたか。
 お召し物をお脱ぎになられる、そのお姿のかわいいこと、まあ、恥ずかしい。それに、裸体の初々し さといえば、そりゃもうお美しゅうございます。
 まあ、恥ずかしい。
 お嬢様のご両親でございますか。
 それはそれはご立派でございますよ。背筋まっすぐ、しかもお堅い。お身持ちがおよろしんでございますよね。それでいて、しなやかで。
 お唄もおじょうずでございますよ。節がきいています。
 おうちもご立派でいらしゃいます。
 私どもは、竹林とかお呼びいたしておりますが、一族郎党大変お仲もよろしくて。野分けが来ようものなら、私どもでございましたら、他人様は他人様でなのですが、タケノコ族のみなさまは一族郎党お集まりになって、ざわざわと対処に、それはそれはご熱心でございます。
 そういうご家庭でお育ちですから、タケノコさまにはどんなご心配もございません。
 そうそう、上のお子様はなかでもひときわお綺麗で、みなさま、「かぐや」「かぐや」と可愛がっておられました。あまりにお美しく、そのせいでしょうかね、月にお嫁に往かれたとかお聞きしましたが。

 え、数の子ですか。そりゃあ知っていますが。
 ニシンのとこのがきんちょでしょ。
 あれはいけません。第一、親がいけません。数の子ですから、一、二、三、が親かと思えば、ニシンだという。そりゃあ、二四(にしん)が八とか申しますが。
 それにあんなに兄弟が多くてどうするのですか。黄色いお顔をなさって、もう。
 すじこ、ですか。
 あれもいけません。
 私なんぞはあの子の親は筋肉隆々のヘラクレス様とか思っていましたよ。ところが、きくと、サケというじゃありませんか。
 こちらもご姉妹が多くていらっしゃる。しかも、里子に出されたら、名前までいくらに変えるとかいうじゃありませんか。
 私なんか、すっかりだまされました。

 まあ、お名前もタケノコ様のように氏素性がはっきりとなさらないと。
 パンダのお子様はパン粉ですか、ちがいますでしょ。
 鯛のお子様は太鼓ですか、ちがいますでしょ。
 ええい、まぎらわしいったらありゃしません。
 そうそう、これからどこへ、とお聞きでいらっしゃいますか。
 ええ、もちろん、タケノコ掘りに。
  
(2009/09/13 投稿)

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えんぴつ 先日(9.9)、東京書籍創立100周年記念出版
 五木寛之さんの『人間の運命』刊行記念のトークショーに行ってきました。
 まずは、東京書籍さん、100周年おめでとうございます
 子供の頃、大変お世話になりました、といっても、
 東京書籍さんはもちろん覚えているはずもなく、
 五木1なんでお世話になったかというと、
 東京書籍さんというのは、教科書の大手なんですよね。
 だから、たぶん、みなさんも一度はお世話になったはずです。
 だから、声をそろえて、
 100周年おめでとうございます

えんぴつ 今回も場所は丸善丸の内本店さん。
 夜7時からの講演開始なのですが、
 すでに6時過ぎには開場を待つ列ができはじめて、
 お、お、さすが五木寛之さんの人気はすごいな、と
 私も並びました。
 今回は、150人ということで、『人間の運命』を購入して
 はいります。
 五木2この本、ただの新刊ではありませんぞ。
 五木寛之さんのサイン本なのであります。
 左の写真がそれ。
 五木寛之さんのサインが素敵なのであります。
 丸善丸の内本店さんには、
 本田直之さんとか小宮一慶さんとかのセミナーでも
 お世話になっているのですが、
 今回はちょっと雰囲気がちがいます。
 まず、聴衆の年令層が高いこと。
 (五木寛之さんは昭和7年生まれですが、
 この会場には昭和3年生まれの人も来られていました)
 女性が多かったこと。
 半分近くが女性で、しかも「奥様」です。
 うーむ、五木寛之さんは、モテるのだ。
 全体的には、よくTVで見るような選挙演説会場のような雰囲気でしょうか。

えんぴつ 五木寛之さんといえば、
 私にとっては『さらばモスクワ愚連隊』とか『青春の門』とか『風に吹かれて』とか、
 若い頃に夢中になった作家のひとり。
 最近は蓮如とか親鸞の話とかが多くなっていますが、
 いつまでもベストセラー作家ですよね。
 だから、誰もが知っていると思っていたのですが、
 娘に聞くと、「五木ひろしなら知っている」とほざく。
 まったくもう、我が子ながらあきれてしまう。
 「本をもっと読め」と、いいたくなる。

えんぴつ さて、五木寛之さんの登場です。
 私は今回ぜひ見たかったのは、
 洗髪嫌いで有名な五木寛之さんの御髪(おぐし)。
 なるほど、なるほど、ちょっと固そう。でも、きれいにウエーブしてます。
 さすがに、私の青春期にグラビアとかで拝見した時よりはお年をめされてますが、
 なんのなんの、まだまだお若い。
 聴衆の「奥様」たちが「ヒロちゃーん」と叫びださないかと心配していましたが、
 さすがそれはありませんでした。
 五木寛之さんは新刊『人間の運命』にも書かれていますが、
 先日公開されたスティーブン・ダルドリー監督の『愛を読む人』から
 話をはじめました。
 「原作(ベルンハイト・シュリンク)を大切にしてつくられた映画」と
 評していました。
 で、過去の自身の作品の映画化について、
 「満足いかなかった」と、ぼやかれた。
 特に、『青春の門』を撮った浦山桐郎監督とは、殴り合い寸前だったとか。
 なにしろ、浦山桐郎監督は撮影前に『日本資本主義発達史』とかを
 読んでいたとか。
 五木寛之さんは『青春の門』を坪田譲治さんの『子供の四季』のように
 描きたかったと話していました。
 だから、五木さんと浦山監督が合うはずもないんですよね。
 私も浦山監督の『青春の門』を観ましたが、
 そんなに悪い映画じゃなかった。
 ちなみに、大竹しのぶさんの織江がいいんですよね。
 こんな話をしていると、長くなりますから、先を急ぎましょう。

えんぴつ 先ほどの『愛を読む人』に関係して、
 やはりああいう時代であれば、いくら正義だとかいっても、
 悪に染まってしまうことがあるんだということを忘れてはいけない、
 と、五木寛之さんは話されています。
 このあたりのことは、『人間の運命』を読んだあと、
 また書評で書いてみたいと思います。
 五木寛之さんは「ゆるやかな感覚」とか、
 「人間実存の不安定さ」とかいっていましたが、
 そういうことを認識しないと、あまりにもギスギスし過ぎていますよね、
 やっぱり。

えんぴつ と、あっという間に、
 1時間15分経っていました。
 ここからが、五木寛之さんのえらいところで、
 このあと、五木さんがクイズを出されて、それに正解すると、
 五木さんが選んだ本がいただけるという、
 「クイズ・ショー」がありました。
 五木3ここからですよ、いいですか、
 それに私は見事正解したんです。
 問題は「浦山桐郎監督のデビュー作は?」、
 そこで、私、「キューポラのある街」。
 五木寛之さんから、じきじきのごほうびの本をいただいて、
 しかも、握手までしてもらいました。
 この日から、私の右手は「五木寛之握手記念右手」となりました。
 そして、いただいた本ですが、
 石黒健治さんの『沸騰時代の肖像』という豪華写真集。
 さらに、そのなかの五木寛之さんを撮った写真のページに、
 サインまでしてありました。
 わたしゃ、泣けましたね。

えんぴつ いやぁ、いい初秋の夜でした。

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09/11/2009    白い紙/サラム:書評
プレゼント 書評こぼれ話

  9.11
  2001年9月11日に起こった、アメリカ同時多発テロ事件のことはよく覚えています。
  仕事から帰って何気なくTVを見ていて、
  筑紫哲也さんの「News23」だったように思いますが、
  これはあとだったかもしれません。
  まるで映画のように、
  飛行機がワールドトレードセンターに激突したことが伝えられます。
  最初はあまりピンとこなかった。
  きっとあまり事態をよく認識していなかったのでしょうね、
  すると、もう一機がまた高層ビルに突っこみ、
  さらにアメリカ国防省にと、事件がどんどん拡がっていきました。
  またたくま、という感じでした。
  そのうちに、ビルが倒壊を始めます。
  この夜、遅くまでTVの前でじっと事のなりゆきを見ていました。
  ああいうように、TVで刻々と悲惨な映像を見せられると、
  やはりTVという力のすごさを感じます。
  今回紹介しました、シリン・ネザマフィさんの、『白い紙/サラム』の、
  『サラム』という一篇に、
  この9.11同時多発テロのことも描かれています。
  当時日本に居住するアフガニスタンの人の様子なども
  描かれています。
  どういう違いがあるにしろ、
  やはりああいう悲惨なこと、そしてそれに続く報復のような戦争が、
  二度と起こらないことを、
  祈ります。
  今回の書評タイトルは『サラム』のなかにでてくる言葉から
  引用しました。
  
白い紙/サラム白い紙/サラム
(2009/08/07)
シリン・ネザマフィ

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sai.wingpen  日本は冷たい国かもしれない                矢印 bk1書評ページへ

 非漢字語圏から初めて「文学界」新人賞を受賞し、その後芥川賞の候補ともなった、イラン生まれのシリン・ネザマフィさんの二編の短編が収録された一冊である。
 『白い紙』(「文学界」新人賞・芥川賞候補作)は、芥川賞の選考委員から「文章がたどたどし過ぎて」(山田詠美)などと酷評されたが、この国の視点ではない、別の文化圏からみたこの国の姿を今後も期待したいところである。

 物語は、イラン・イラク戦争下でのイランの地方都市の高校生男女の幼い恋愛を描いたものだが、戦争や宗教や民族といった現代の日本ではなかなか理解しづらい世界にあって、主人公たちの淡い恋愛はどこかで『野菊の如き君なりき』(伊藤左千夫)のような甘酸っぱさを感じるし、国のために戦争へと向かう青年ハサンにしても、なんどもこの国にあって製作されてきた戦争映画の、若者が常に犠牲者であるような図式に見えてしまう。
 ネザマフィさんは日本に住んで十年あまりだというが、この国のそういう型の表現方法が余分な力を彼女に与えている。
 もし、この物語を彼女が母国語で描いたとすれば、主人公の高校生たちの性格形成ふくめて、まったく違うものになったのではないだろうか。その時、主人公たちのもっている紙は、「白い紙」ののっぺりさではなく、もっとざらざらとしつつも、自分たちの「色」の紙だったような気がする。

 もう一篇、『サラム』(留学生文学賞受賞)の方が作品の出来としては上かなと感じた。『白い紙』のあとの作品かと思ったのだが、こちらが『白い紙』(2009年)より二年ばかり早い。
 主人公はアフガニスタンの言語ダリ語を話せる中東からの留学生である女子大生。難民認定のための通訳のアルバイトでアフガンの少女レイラと知り合うことになる。2001年に同時多発テロ事件が起こって、急速に悪化していくアフガニスタン事情と相まって、少女レイラはアフガンに「強制送還」されていく。
 難民の受け入れに慎重である日本という国を、ディズニーランドからの帰りで談笑する家族の肖像にだぶらせた著者の、まちがいなくこの国の人間ではない視点で、この国の薄っぺらさを描いた一篇である。
 ちなみに「サラム」とは、「平和」という意味らしい。
  
(2009/09/11 投稿)

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09/10/2009    こうちゃん:書評
プレゼント 書評こぼれ話

  朝日新聞朝刊に、今日から
  川上弘美さんの『七夜物語』の連載が始まりました。
  読む前からとっても楽しみにしています。
  その挿絵が、絵本作家の酒井駒子さんで、
  そんなに絵本のことが詳しくないので、
  酒井駒子さんの絵を見ながら、ずっと考えていたのですが、
  そうだ、酒井駒子さんは、須賀敦子さんの『こうちゃん』という作品の
  挿絵を描いた人だと気がつきました。
  それで、今回は2004年に書いた、
  須賀敦子さんの『こうちゃん』の書評を蔵出しします。
  須賀敦子さんの本でも、
  酒井駒子さんの挿絵がとても作品の深みを描いていますが、
  今回の朝日新聞の川上弘美さんの『七夜物語』でも、
  きっと川上弘美さんの世界と相まって、
  すてきな世界をみせてくれるのだろうと、
  楽しみにしています。

  追記  『七夜物語』の第一章が「図書館」なんて、
       これだけでもうれしくなってしまいます。


こうちゃんこうちゃん
(2004/03/11)
須賀 敦子

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sai.wingpen  涙さしぐみ(なきそうになって)              矢印 bk1書評ページへ

 日本語の文章は誰が書いても同じようなものと思いがちだが、須賀さんの文章を読むと書き手によって大きな違いがあることがわかる。同じ言葉を使いながら下品な文章になってしまう人もいれば、須賀さんのように品のいい文章を書く人もいる。
 須賀さんの文章は例えていうなら、文字の一つひとつをピンセットで拾いだしながら言葉にし、ゆっくりと文章に仕上げていく活字拾いの職人さんのようだ。
 須賀さんが好きだった宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の一節に、主人公ジョバンニがこの活字拾いの仕事をしている場面が描かれている。

 「ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平たい函をとりだして向うの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁の隅の所へしゃがみ込むと小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました」(宮沢賢治『銀河鉄道の夜』) 

 印刷業界ではこの活字を拾う工程のことを「文選」というが、須賀さんの文章はこの「文選」という美しい言葉にふさわしい。試みに、須賀さんの「ただ一つ のこされた ちいさな物語」である、この『こうちゃん』のどの頁でも構わないから読んでみるといい。童話仕立ての掌編ではあるが、言葉の一つひとつが柔らかな調べを奏でていることに気がつくはずだ。

 そんな須賀さんがこの作品で描こうとした「こうちゃん」って何だろう。
 この本の挿絵を描いている酒井駒子さんの画があまりにも素敵すぎて、つい表紙画の幼児をイメージしてしまうだろうが、この本を読んだ全ての人にそれぞれの「こうちゃん」がいるように思えてならない。
 この作品が須賀さんのミラノ在住と同じ年に書かれたことを思うと、須賀さんがこの作品で描きたかった「こうちゃん」が日本という国のことであり、日本語という豊かな言葉であり、先へ進もうという自身の背を押しやってくれた「そのまんまの」須賀さんだったように思える。

 作品集『遠い朝の本たち』に収録されている『赤い表紙の小さな本』という作品の中で須賀さんは級友の言葉に触れ、その言葉にどれほど勇気づけられたことかと書いている。
 十五歳の須賀さんにあてて書かれた級友の言葉、それは「個性を失ふという事は、何を失ふのにも増して淋しいもの。今のままのあなたで!」というものだった。そのまんまでいい。そのことが「どちらを向いても、変ってる、といわれつづけて頭の上がらなかった」須賀さんにとってはありがたい言葉であった。
 「そのまんまの」須賀さんは、だからミラノに住むことを決意し、言葉を一つずつ集める丁寧な文章を書き続けことができた。
 須賀さんの傍らにいつづけた「こうちゃん」こそ、「そのまんまの」須賀さん自身だったのではないだろうか。そして、この本を読んだ全ての人にとっても、「こうちゃん」とは「そのまんまの」自分自身ではないだろうか。
  
(2004/04/11 投稿)

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えんぴつ 雑誌を読むのはむずかしい。
 週刊にしろ月刊にしろ、一冊の雑誌にどれだけの情報量が詰まっていることか。
 たとえていうなら、上にぎり寿司の寿司桶三人前みたいなもの。
 新聞とか電車の吊り広告で雑誌の広告をみて、
 「お、なかなか面白そうな特集だな」と思って、
 (これが大トロとかウニのにぎりにあたります)
 コンビニとか本屋さんで、
 「これ下さい」みたいに買うわけです。
 さっそくまずは興味をもった特集記事(大トロです)を読んで、
 「おや、これも面白そうだな」(ハマチとかヒラメです)とかいくつかつまみ食いをして、
 で、残り(タコとかタマゴ)はどうするかというと、捨てるに忍びなしで、
 かといって今すぐ読むかといえば、そうでもないし、
 では、帰りの電車のなかでも読むかみたいになって、
 鞄にしまわれます。
 この優柔不断なところがよくありません。
 どっちみち読まないのだから、あっさり「さようなら」しないといけません。
 これが、つらい。
 タコやタマゴのことを考えると、悲しい。

えんぴつ では、大トロばかりの寿司桶だったらどうするか。
 しかも、老舗の寿司あり、新進気鋭の寿司あり、現地調達あたりまえの寿司あり、
 と、きたら、どうするか。経営エイジ
 いやぁ、これは得したな、と思うに決まってる。
 あるの? と疑っているあなた。
 あるんですよね、そんな雑誌が。

えんぴつ それが、『経営予測エイジ』っていう雑誌。
 なにしろ月刊週刊のビジネス情報誌、業界紙、専門誌、
 あるいはシンクタンクのレポートまで、
 100種類以上の情報誌から選りすぐりの記事を、
 しかも、1~2ページに要約してくれるのですから、
 これはすごい。
 大間のマグロ、インド洋のマグロをお口のサイズで
 調理しました、 みたいなもの。
 あのレバレッジシリーズの本田直之さんも『レバレッジ勉強法』で絶賛している。

レバレッジ勉強法レバレッジ勉強法
(2007/09/25)
本田 直之

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 『経営予測エイジ』の並んだ記事に、
 さあどれから食べちゃおうかな、と迷っているあなた。
 この場合は、迷い箸もマナー違反になりません。
 もう満腹しちゃいます。

えんぴつ もちろん、大トロばかり食べたくないという人もいるでしょう。
 今日は並でいこうよ、という人もいる。
 もちろん、それでもいいと思いますよ。
 でも、情報というのは、にぎり寿司に似ていて、
 新鮮なネタですよ、やっぱり決め手は。
 これは、忘れないように。
 それに、私は、タコもタマゴも大好きですよ。

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プレゼント 書評こぼれ話

  昭和40年、私は10歳の少年でした。
  昭和49年、私は19歳の青年になっていました。
  私にとっての、昭和40年代というのは、
  このように、実に「青くさい時代」とリンクしています。
  今回紹介した、鴨下信一さんの『ユリ・ゲラーがやってきた―40年代の昭和』は、
  そんな10年を映画とかTVとか歌といった、
  どちらかといえば、サブカルチャーで俯瞰した「社会史」ですが、
  その書名に「ユリ・ゲラー」を持ってきたのは、
  ぐっと引き付けられました。
  もし、この時代を経験された人は、
  ほとんどの人がスプーン曲げに挑戦したのではないですか。
  私は成功しませんでしたが、
  実体験として、曲げたよ、という人もいるかもしれません。
  ほんとうのところは、どうだったのでしょうね。
  この本の「映画」の項では、
  懐かしい東映の仁侠映画(待ってました、健さん!)とか、
  大好き日活ロマンポルノ、
  さらにはATG映画(いやぁ、これもまた懐かしい)とかが
  書かれていて、
  この項目だけでもうれしくなってきました。
  玉手箱のような一冊かもしれませんね。

ユリ・ゲラーがやってきた―40年代の昭和 (文春新書)ユリ・ゲラーがやってきた―40年代の昭和 (文春新書)
(2009/08)
鴨下 信一

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sai.wingpen  傘がない                     矢印 bk1書評ページへ

 書名にある「ユリ・ゲラー」について少しばかり説明しないとわからないかもしれない。昭和40年代(1965~1974)というのは、それくらい「そろそろ歴史にしていい」くらい昔のことになった。
 さて、そのユリ・ゲラーなのだが、彼は昭和49年の春、念力でスプーンの柄を曲げるということで社会の耳目を集めた「超能力者」である。彼がTVのブラウン管ごしから念力を発して、動かなくなった全国の古時計を動かしてみせるという番組があったことを確かに覚えている。
 そんなことあるはずがない、と思う一方で、あってもおかしくないという気分みたいなものが、昭和40年代のこの国には蔓延していた。確かなものが見えにくくなっていた時代だ。

 昭和10年生まれの演出家鴨下信一にとっての昭和40年代とは、「ひどく毎日が慌ただしく、外界の変化もまるで急流の中にいるよう」な「変化」の時代であり、「さまざまな傾向が錯綜し混乱している時代」であった。そんな10年間を、鴨下は「不安の時代」としている。
 それは、鴨下が本書のなかで示した、時代の理解のための「補助線」によく表れている。
 鴨下はこの時代を大家族から核家族、そして個人へと移行していったとみている。
 このことの意味は大きい。
 集団の時代にあっては長(おさ)なるものが一定の方向性をしめしてきた。家制度の家長も同じであろう。それがどのような無理難題であれ、従わざるをえないものとして厳然とあった。
 それが、個人の時代に移ることで、それぞれが自身の姿を探すしかなくなっていく。そのことが一層「不安」を醸成したのではないだろうか。

 鴨下の既刊三冊『誰も「戦後」を覚えていない』シリーズにつづく、昭和40年代なのであるが、あえて本書ではその冠を使っていない。「そろそろ歴史にしてもいい」のではないかという、鴨下の思いもあるだろうし、さすがに昭和40年代は雰囲気として「戦後」というには隔世の感があった。
 本書では、政治も経済も書かれていない。鴨下がいたTV界に近い「映画」「歌」「テレビ」「犯罪と事件」といったサブカルチャーの昭和40年代である。しかも、年表的にこの時代をみても、あまりに多岐にわたって、このような整理の仕方もやむをえないと思うしかない。
 ただ文学の世界がほとんど書かれていないのは、いささか残念だし、この10年間の芥川賞の受賞作をみても、昭和30年代の作品よりも時代の激しい変化に対応しきれていない印象はある。文学の世界は、昭和51年の村上龍の登場まで待つしかないのかもしれない。

 昭和40年代という時代を思うと、自殺する若者の増加よりも、この国の将来の問題よりも、今の自分にとっては君に会いに行くための傘がないことが一番問題だ、と歌う井上陽水の『傘がない』(昭和47年)がもっともこの時代をシンボライズしている気がする。
 それは、一所懸命、スプーンの柄をこすっていた自分とみごとに重なり合うのでもあった。
  
(2009/09/08 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  本が再販商品だというのは、
  みなさんご存知だと思います。
  出版社が定価を決めて、その価格でないと書店では
  売れない商品です。
  だから、本はどこで買っても同じ値段ですよね。
  その再販制度が揺らいでいるようです。
  ちなみに、今回紹介した、永江朗さんの『本の現場』という本は、
  「非再販」となっていますから、
  実際にはいくらで売っても構わない本です。
  また、今、いくつかの出版社が返品率を改善しようと、
  買取を増やす動きもしています。
  でも、これは街の小さな本屋で成り立つのでしょうか。
  在庫をもつ本屋さんという商売で、果たしてこの仕組みが
  うまく回るのでしょうか。
  結局、小さな本屋さんが街から消えていく、
  ということにならないのでしょうか。
  それ以外にも、
  発行点数の膨大であるとか、
  携帯端末の問題であるとか、
  本を取り巻く環境は厳しいものがあります。
  本が好きな私としては、
  なんとか生き残って欲しいと
  願っています。

本の現場―本はどう生まれ、だれに読まれているか本の現場―本はどう生まれ、だれに読まれているか
(2009/07/14)
永江 朗

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sai.wingpen  本はどこにいくのだろうか               矢印 bk1書評ページへ

 出版社が発行するPR誌(編集者の人が「函」という言い方をするということを、永江朗氏の本書で初めて知った)が好きである。
 岩波書店の「図書」であるとか新潮社の「波」であるとかは随分以前から本屋さんでもらっていたが、最近この種のPR誌の点数が増えて、まるで現在の出版事情を見ているようである。しかも、単に新刊広告的な著者インタビューやエッセイだけでなく、まるで文芸誌のように多くの小説の連載が行われている。
 永江氏によれば「売上に左右されず、返品も関係ないPR誌は、編集者にとってはとても都合のいい連載媒体」ということだ。たしかに、「文学界」や「オール読物」といったような文芸誌の発行部数は多くない。それよりは、PR誌で連載し、それを本をして出版した方が効率がいいのかもしれない。

 そんなPR誌のひとつ、「図書」(岩波書店)の9月号で、上野千鶴子氏と姜尚中氏が「岩波現代文庫創刊一〇年に寄せて」、『一夜干しの「中古典」が今おもしろい』と題して、対談を行っている(これはこれで面白いので、興味のある人は読んでもらいたい)。
 対談の最後のくだりで、昨今の出版事情をレポートした本書にも関係するのだが、「活字離れはなぜ食い止められないか」というテーマに話が進んでいく。
 「出版市場の長期低落傾向は覆いがたい」という上野氏は、若者の活字離れについて「ネットの情報は基本的には無料で入る。この常識が拡がって、本が高いという感覚が増大して」いるとみている。姜氏も「学生と話しても情報はただで入るものと思って」いると同意している。
 本書でも「情報の無料化」の問題は一項目として、フリーペーパーなどがレポートされている。
 永江氏は「情報0円というのは錯覚にしかすぎない」としながらも「回り回って本の首を絞めることになるかもしれない」と危惧している。これはPR誌の事情でも同じことである。それらは定価はついているものの、ほとんどは本屋さんの店頭で無料で入手できる。

 先の対談で上野氏は「本とは情報を入手するための選択肢の一つで、本が必需品である時代は終わった」といい、姜氏も「出版が構造不況業種であることは、説明するまでもない」と言い切る。
 しかし、続けてこう言及する。「でも、斜陽産業でもそれなりに生き残っていくと思う」。
 このなんとか生き残るだろうとか、それでもなくなることはない、というトーンは本書にもある。
 永江氏は「出版業界は夢のある分野」といい、それは正しいのだろうが、夢だけで産業が成立するかどうかはわからない。
 出版業界をとりまく外的要因の整理、内部要因の把握を早急に再整理しないと、生きた化石化しないともかぎらない。
 本はどこに行くのだろうか。
  
(2009/09/07 投稿)

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  文春文庫版の『丸かじり』シリーズの面白さは、
  文庫ならではの「解説」にあります。
  たくさんの書き手が、
  無謀にも東海林さだおさんのエッセイに「解説」をつける。
  怖いものしらず、というしかない。
  文庫の解説には、時に「これは!」というものもないではありませんが、
  こと『丸かじり』シリーズでいえば、
  勝負は初めからついちゃっているというか、
  双葉山(古いな)に挑む序二段の山田(という力士がいたらごめんなさい)
  みたいなもの。
  かなり不利。
  この『親子丼の丸かじり』では、エッセイストの中野翠さんが挑んでいますが、
  これがなかなかいい。
  立会いの張り手がよかった。(これ、たとえですよ)
  つづく、上手まわしが早かった。
  でも、さすが横綱、東海林さだおさんの「さばおり」が効きました。
  今の取り組みをスローモーションでみると、
  
    表現の形は違っていても落語の心はちゃんとしぶとく生き続けて行くんだな

  という中野翠さんの洞察がよかったんでしょうね。
  中野翠さんに、殊勲賞、です。
  
親子丼の丸かじり (文春文庫)親子丼の丸かじり (文春文庫)
(2002/04)
東海林 さだお

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sai.wingpen  「親子丼」って三字熟語?               矢印 bk1書評ページへ

 ニーハオ!
 本当は、漢字で表記したいんですが、パソコンではなかなかでないので、カタカナ表記でごめんなさい。
 でも、これは漢字なんだと思って読んでください。
 ニーハオ!
 ううん、やっぱり何かちがうな。
 絶対的にちがうのが、画数。棒の数。
 たとえば、バラ。棒の数(画数)でいったら、ほんのわずか。
 これが漢字だと、薔薇。
 わーっ、いったい棒の数は何本だ、ってことになる。
 それほど、漢字はエライのであります。

 別に漢字のことを書こうとしたわけではないんですが、東海林さだおさんの「丸かじり」シリーズを楽しく読むためには、この漢字の魅力が満載の(というのも変ですが)「四字熟語」のことを探求すべきだと、突然目覚めたわけであります。
 そもそも(と、エラそうですが中身は軽いですから、続けてお読みください)、「丸かじり」と「四字熟語」は深い関係にあります。
 深い関係がどれくらい深いかというと、二度くらいは一緒に「焼き肉」を食べに行った程度の深さです。
 これをもって、怪しい関係とみなすかどうかは、読者の皆様の良識に委ねたいと思います。
 つまりは、それぐらい深い。

 もし、「丸かじり」に「四字熟語」がなければ、クリープのないコーヒーみたい(懐かしいな、このフレーズ)だし、キムチのない韓国料理みたいなもの。
 思わず、「ない、ない」とあわてますし、店員さんに「四字熟語がないんですが」と怒りたくなります。(ならなければ、それでもいいのですが)
 たとえば、本書の「日本トマト史」のなかの一節。
 「青天の霹靂。驚天動地。前代未聞。言語道断。悲憤慷慨」と、あります。
 さらに「佐渡で食べる蕎麦は」では、
 「議論百出、百家争鳴、喧々囂々、読んだあとは周章狼狽、呆然自失の・・・」とあります。
 どうです、全部で棒の数(画数でしたね)がどれくらいあるかわからないほどです。
 いかに「丸かじり」シリーズが教養高いものかわかりますよね。
 だって、なかなか書けませんよ。
 霹靂って書けますか。
 囂々と書けますか。
 書ける前に、読めますか。

 しかも、「丸かじり」シリーズでは、連発ですよ。「四字熟語」が。
 花火でも、ドーン、パッ、ではさびしいでしょ。
 やっぱり、ドーン、ドーン、パッ、ドーン、パッ、パッ、、ぐらいないと、「たまーや」って声でないでしょ。
あれと同じ心境です。
 でも、これは東海林さだおさんが「ボク、漢字大好き、四字熟語たくさん知っているんだ」という自慢で書いているんじゃなくて、こういう面白いエッセイを読んでも「お勉強」になるんですよって、書いていると思うんですよね。
 絶対自慢で書いていないと信じます。
 絶対自慢じゃないでしょう。
 けっして東海林さんに限って、そんなことはしない。
 うん、どうかな。
 もしかして、東海林さんならやるかもしれない。
 自慢なのかな。
 絶対自慢だ、これは。
 なんて、ことはありません。

 ところで、「親子丼」は「三字熟語」なのでしょうか。
 「吉野家牛丼」は「五字熟語」なのでしょうか。
  
(2009/09/06 投稿)

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本 久しぶりの、「私の好きな作家たち」です。 宮本輝
 今回は、今、最新作『骸骨ビルの庭』が好評の、
 宮本輝さんです。

本 宮本輝さんにはまったのは、
 三〇代前半の頃ですね。
 やっぱり、『錦繍』でとりこになりましたね。
 今でも、秋が深まる頃には読みたくなる一冊です。
 書き出しがいい。
 
   前略
   蔵王のダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラ・リフトの中で、まさかあなたと
   再会するなんて、本当に想像すら出来ないことでした。

 この『錦繍』は、元夫婦の間でやりとりされる書簡体文学なんですが、
 本当にきれいで、深い、愛の物語です。
 作中に出てくる、

   生きていることと、死んでいることとは、もしかしたら同じことかもしれない。

 なんて、今でもふっとすぐに思い出されます。
 本当にこの『錦繍』は何度読んだことでしょう。

本 もちろん、宮本輝さんの初期の川三部作、
 『泥の川』『蛍川』『道頓堀川』もいいですし、
 『青が散る』『ドナウの旅人』『優駿』の長編もいいし、
 『二十歳の火影』『命の器』といったエッセイ集もいい。
 本当にあの頃は宮本輝さんの本が出るたびに読みふけっていました。
 これほど、いっときにはまった作家も少ないですね。
 たぶん、三〇代の私の心のありようと、
 宮本輝さんの描く作品がうまくあったのでしょうね。

本 そもそも、私がbk1書店というオンライン書店に書評の投稿を始めたときに
 使った「夏の雨」というネームも、以前書きましたが、
 宮本輝さんの『朝の歓び』という長編小説にでてきた一節、

   あなたが春の風のように微笑むならば、
   私は夏の雨となって訪れましょう。

 からとったものです。
 慈愛の風と慈愛の雨。
 この『朝の歓び』が単行本で出たのが1994年ですから、
 本当に私の三〇代は、宮本輝さんの作品にどんなに癒されたことでしょう。

 宮本輝さんの作品のような色合いの物語は、
 人生でたった一度きりの出会いなのかもしれないと思います。

本 それに、宮本輝さんの本の装丁で、
 有元利夫さん(1946-1985)という画家に巡り逢えたのはよかったと思います。
 もし、宮本輝さんの本を読まなかったら、
 有元利夫さんの、深い悲しみをこめたような作品を知ることは
 なかったでしょうね。
 それもありがたい。
 今回掲載した、新潮文庫の『錦繍』のカバーも、
 有元利夫さんの作品です。

本 最近でこそ、あまり宮本輝さんのいい読者ではありませんが、
 この人をはずして、自身のあの頃がないと思うと、
 やはり、大切な作家のひとりです。

 紅葉が織りなす、秋の一冊として、
 『錦繍』はぜひおすすめします。

錦繍 (新潮文庫)錦繍 (新潮文庫)
(1985/05)
宮本 輝

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プレゼント 書評こぼれ話

  映画の本というのは、
  どちらかというと好きなジャンルです。
  本当は本を読むのではなく、
  映画に観ることがいいのでしょうが、
  観た映画にしろ、観そこなった映画にしろ、
  今回紹介しました、中野京子さんの『恐怖と愛の映画102 』のような本を読んで、
  この映画また観たいな、とか
  面白そうだから今度TUTAYAに行こうとか、
  考えるわけです。
  そう考えている時間が好きですね。
  ところで最近の映画は長くなったと思いませんか。
  ひと昔前だったら、2時間超えたら大作だったのに、
  最近はそんな映画がザラにあります。
  長いからいいってものでもないと思いますし、
  もう少し絞り込んだ方がいいのでは、と感じられる映画もないわけでは
  ありません。
  もっともいい映画は、時間を忘れさせてくれますから、
  長さそのものが気にならないのでしょうね。

恐怖と愛の映画102 (文春文庫)恐怖と愛の映画102 (文春文庫)
(2009/07/10)
中野 京子

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sai.wingpen  映画はさびしんぼう            矢印 bk1書評ページへ

 映画批評の世界で、淀川長治さんの果たした役割は大きい。
 どんな映画でもいいところがあるはずだと、淀川さんが三十年以上解説を続けた、テレビの映画番組では批判がましいことは言わなかったといいます。たぶんそれだけ長く放映してきたのですから、きっとつまらない作品だってあったはずですが、それでも言わない。しかも、誰にもわかりやすい言葉で話しつづけた。よく淀川さんの話芸とかいわれますが、淀川さんの場合、純粋な映画ファンの気持ちが終生失われることがなかったのだと思います。
 見終わったあと、誰かに話したくなるのは、映画ならではの興味ある現象です。本の場合も少なからずないわけではありませんが、映画ほどではありません。あるいは、一人で観るよりは、映画館の暗闇のなかで誰かと観る方がうんと楽しいのも、映画の特徴ではないでしょうか。
 そういう映画の性格と淀川さんの批評の仕方がうまく合っていたのでしょう。
 映画とは、さびしんぼうなのかもしれません。

 本書は、美術エッセイ『怖い絵』シリーズで人気を博した中野京子さんの映画エッセイです。肩のこらない文章ということでいえば、淀川長治さん同様で、中野さんも映画が大好きなのでしょう。
 「電話」とか「家」とか九つのテーマで102本の映画が紹介されていますが、読者が好きな映画から読みはじめてもいいですし、興味のあるテーマから読むのも自由です。
 でも、できれば、「はじめに」は開演ベルを聞くつもりで、最初に読むといいでしょう。
 そのなかで、中野さんは「小さな箇所から、あるいは少し変わった視点を当てることで、これまでとは違う作品の魅力を発見してもらえれば」と書いていますが、これは「歴史的または文化史的観点から見直せば、もっと(美術が)楽しくなるはず」という、『怖い絵』シリーズの執筆動機とほぼ同じです。
 たとえば、本書で紹介されている『サウンド・オブ・ミュージック』(「いとしのミュージカル」というテーマがあるにもかかわらず、この作品は「戦争の真実」というテーマのなかに括られています)ですが、あのトラップ一家がスイスに亡命したあとの、映画が終わってからの現実のエピソードが書かれていて、それでもっとあの作品が楽しめるだろうなと感じます。
 そういうさりげないことが、映画鑑賞をもっと楽しませてくれるのだと思います。

 さあ、そろそろ開演です。
 本書を読み終わったあと、あなたは誰とどんな話をするでしょうか。
 映画の本も、案外さびしんぼうなのかもしれません。
  
(2009/09/04 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  「セレンディピティ」という言葉を聞いたことありますか。
  最近よく耳にしたり、目にします。
  勝間和代さんや小宮一慶さんの著作にも何度も出てきます。
  簡単にいえば、
  ふとした偶然をきっかけに幸運を手にいれる、こと。
  でも、単に運がよかったと括ってしまわないことが大切です。
  この言葉は、イギリスのホレス・ウォルポールという人が作ったということは、
  今日紹介しました、茂木健一郎さんの『セレンディピティの時代』にも
  書かれています。
  ただ、これは「能力」ですから、
  それを高めるための学習もあるはずです。
  茂木健一郎さんはこの本のなかで、
  そういうことを書いています。
  この本は、カバー装画をみればわかるとおり、
  西家ヒバリさんの、可愛らしいイラストがたくさんはいっています。
  ただ、茂木健一郎さんらしいのですが、
  男性のイラストの目が、少女マンガみたいに、
  目キラキラ、なのが、笑ってしまいますが。
  茂木健一郎さんを宝塚で演じたら、
  こうなるのかな。
  ちょっとひきます。
  興味のある人は、ぜひ本屋さんでこっそりのぞいてみてください。
  
セレンディピティの時代―偶然の幸運に出会う方法 (講談社文庫)セレンディピティの時代―偶然の幸運に出会う方法 (講談社文庫)
(2009/06/12)
茂木 健一郎

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sai.wingpen  いい本との出会いもまた「セレンディピティ」            矢印 bk1書評ページへ

 本屋さんに行く。あるいは、図書館に行く。書棚いっぱいに並んだ本を見て、あなたはどう感じるだろうか。私はこんなにいっぱいは読めないなと、いつも思う。でも、もしかしたら、私にとっての一冊がどこかにきっとあるのだろう、とも思う。だから、まずは気になった本、それは著者であったり書名であったり本の雰囲気であったりするのだが、に手をのばす。そして、できるだけ多くの本を読もうとする。
 これは、偶然の幸福に出会う方法に似ている。

 最近よく「セレンディピティ」という言葉をよく目にする。偶然の幸運に出会う能力だという。
 でも、よく考えるとこの説明はおかしい。偶然に出会うのは、能力の問題だろうか。だって、偶然は必然ではない。それに、能力は偶然の力ではない。運まかせのことを能力とはいわない。
 だとしたら、「セレンディピティ」とはなんだろう。
 脳科学者茂木健一郎氏のこの本は、そういう疑問に答える一冊である。
 結論をいえば、「セレンディピティ」とは、行動し、出会い、気づき、受容する能力のことである。だから、出会いは偶然かもしれないが、それ以外はけっして偶然の産物ではなく、能力の問題である。

 書棚に並んだすべての本を読めるはずはない。さらにいえば、それらの本を読んだからといって、すべてが自分の感性に合うものではない。
 あなたの行動をたどれば、自分の好みのジャンルが並んだ書棚の前を歩いていることが多くないだろうか。もし、あなたが一歩、いつもと違う本棚の前を歩いたとすれば、まるで今まで見向きもしなかった本に出会うかもしれないし、その本に深く心うたれるかもしれない。茂木氏も「区別することとか区分することからは」「セレンディピティ」は生まれない、と書いている。

 読書もまた、「セレンディピティ」のひとつだろう。
 いい本に出会うとは、まさに幸運に出会うことなのだから。
 そして、もしかすると、書評を書くということは、見知らぬひとの「セレンディピティ」を後押しすることなのかもしれない。
 そんなことを思って、この書評を書いた。
  
(2009/09/03 投稿)

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足 先日、東京国立近代美術館で開催されている、
 「ゴーギャン展」に行ってきました。

 ゴーギャン会場となった東京国立近代美術館は、
 昨日紹介した山崎ナオコーラさんの
 『ああ、懐かしの肌色クレヨン』で
 主人公の女の子が密かに好意を寄せている青年と
 「藤田嗣治展」を見に行く、
 「竹橋の美術館」として登場します。
 山崎ナオコーラさんの物語では、
 東京の東西線という地下鉄の、
 竹橋駅1b出口で待ち合わせして、美術館に行きます。
 私は東京駅の日本橋口から出ている
 無料シャトルバスで行きました。

えんぴつ 今回の「ゴーギャン展」は、
 ゴーギャンの最晩年の大作、
 『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか』(1898年)が
 日本初公開ということで話題を呼んでいます。
 ちょっとその前に、ゴーギャン(1843~1903)のことですが、
 ゴーギャンといえば南海の孤島タヒチの「野生」を描いた画家として、
 人気のある画家ですし、
 一度はみなさんも「上半身裸」の島の娘を描いた作品などは
 目にしたことがあると思います。
 ゴーギャンはもともとは株式仲買人として成功をおさめるのですが、
 どうしても絵を描きたいと
 四十歳近くになってその道にはいっていきます。
 ここで、あのゴッホが登場するのですね。
 ゴッホの絵画を好きな人はたくさんいると思いますが、
 ゴーギャンはあのゴッホとアルルで二ヶ月共同生活をします。
 強烈な個性の激突、ですよね。
 もっとも、やっぱり破綻するのですか。
 そのあと、運命ともいえるタヒチ行きを決行します。

えんぴつ ゴーギャンはこの「タヒチ行き」で、
 「西洋文明」に背を向けた、孤高の画家として評価されるわけですが、
 実際彼のタヒチでの作品をみると、
 当時の文明にはない、生命の強さを感じます。
 生身の人間の強さとでもいえばいいのでしょうか、
 ゴーギャンの描いたタヒチの女性たちの姿態こそ、
 なんだか「母なるもの」、そんな感慨を覚えます。

えんぴつ さて、今回の展覧会の目玉である、
 『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか』ですが、
 これは大きな絵画です。
 横は389cmありますから、圧倒される大きさです。
 やはり、気になるのは、この長い題名。
 ちゃんと、絵の左上に描き込められていますが、この金色の地が、
 この作品をぐっと詩的にしています。
 やっぱりどんなに絵画をみても、私たちは素人ですから、
 このように文字で説明されると、
 少しほっとしますよね。
 ほほー、右の赤ん坊が「我々はどこから来たのか」(誕生)か、
 へー、左のうずくまる老人は「 我々はどこに行くのか」(死)か、
 みたいな素人談義ができますよね。
 そういう点では、なんか話せる作品といえます。
 それに、この題名って、
 深い意味をもっていますよね。
 誰もが一度はそういうことを考えたのではないですか。

えんぴつ 今回の「ゴーギャン展」では、この作品をはじめとして、
 油絵とか版画とか約50点が展示されています。
 ちょっと少ないかな。
 まあ、『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか』を
 見れたから、いいんですが。

 山崎ナオコーラさんの『ああ、懐かしの肌色クレヨン』のなかの二人は、
 展覧会を見終わったあと、近くの毎日新聞社ビルの近いのカレー屋さんで
 カレーを食べます。
 私は、カレーも食べずに、またシャトルバスに乗って、
 帰りました。

足 展覧会は9月23日まで。
 ぜひ、どうぞ。


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