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本 先週の土曜日(11.28)、「図書館で未来を開こう!」と題された、
 「図書館と県民のつどい埼玉2009」という集いの、
 記念講演に行ってきました。
 講師は詩人の工藤直子さん、演題が『うたが生まれるとき』。
 最初この講演のことを知ったときに、
 工藤直子さんのことを知りませんでしたから、どうしようかなと迷ったのですが、
 詩人の人ってどんな感じなのかな、
 うたが生まれるってどういうことなのかな、って思って
 参加することにしました。

本 場所は埼玉の浦和駅そばの浦和コミュニティセンター。
 会場には400人ばかりの、しかもほとんどが女性で、
 たぶん、国語の先生とか図書館関係の人とか、
 朗読会をしている人だとか、
 そんな関係の人が多かったように思います。
 やっぱりこういう講演にはもっと男性も参加しないと、
 本当に女性のこころの豊かさについていけなくなっちゃうんじゃないかと
 心配します。

本 講師の工藤直子さんは、
 『のはらうた』という詩集で野間児童文芸賞を受賞された詩人なのですが、
 そのなかの何篇かは子どもたちの教科書にも載っているそうです。
 白髪がきれいで行動力があって、
 お話もおもしろく、人をひきつけてやまない女性です。
 1935年生まれだということですから、
 私よりも20歳も年上なんですが、
 小さな体に力がみなぎっていました。
 「こういう講演では演台でかしこまって話すのが嫌なの」と言って、
 本当にマイク片手に舞台の前まで出てこられて話を始められました。

のはらうた (1)のはらうた (1)
(1984/01)
工藤 直子

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本 そうそう、今回の講演では、
 手話をされる人が横につかれて、
 工藤さんの話を手話でも伝えていました。
 これっていいですね。
 工藤さんの楽しいお話が一人でも多くの人に伝わることって
 素晴らしい。

本 工藤直子さんは、
 「読者が自分なりの読み方をすれば詩は喜ぶ」と、
 自分自身が好きなもの、それが大切だと話しています。
 その時には、「肩書きをはずすこと」ですって。
 私たちにはいっぱい肩書きがありますよね。
 私でいえば、父親であること、夫であること、働いていること、大人であること、
 そんなことをみんな取っ払って、
 残った「私」という自分自身が好きだと思う詩。
 それが本当の詩の読み方だと。
 そして、そういう詩は、書いた詩人の作品ではなくて、
 その人自身の詩になると話されました。

本 工藤直子さん自身、大好きな詩として、
 北原白秋の『薔薇』を朗読してくれました。
 そして、『のはらうた』という詩集に収められたいくつかの詩も
 朗読されましたが、
 作者自らの朗読ですから、音楽を聴いているようで、
 感動しましたね。
 本当に詩という表現は声に出さないと、その良さが
 わからないかもしれませんね。
 そのなかでも、『ねがいごと』という詩はよかった。
 ちょっと(といっても、短い詩ですから全文になりますが)書いておきますね。

     ねがいごと
                 たんぽぽはるか

   あいたくて
   あいたくて
   あいたくて
   あいたくて

     ・ ・ ・
   きょうも
   わたげをとばします

本 この『のはらうた』という詩集は、
 野原の小さな生き物だとか、草花が、言葉を紡ぎ出すように
 書かれた詩ですので、
 「たんぽぽはるか」っていう名前も詩の一節だと思って読んでください。
 短い詩だけれど、
 いろんな受けとめ方ができる作品だと思います。
 実際別の講演で、この詩を朗読しようとした若い女性が突然泣き出したと、いう話をされて
 工藤直子さん自身が二十代の頃父親を亡くされたときの
 苦痛を話された。
 そのとき、自分を助けてくれたのは(工藤さんは杖と表現されました)、
 「言葉」であったそうです。

本 つらいときに本などなかなか読めない。
 でも、本が、言葉が、私たちの生きる杖になることはあります。
 工藤直子さんの『ねがいごと』という詩にも
 そういうあたたかなものを感じます。

 二時間近い講演でしたが、
 工藤直子さんの楽しくて、深い話に
 大満足させていただきました。

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プレゼント 書評こぼれ話

  私は大阪の出身ですから、
  うどんといえばうす味のだし汁と信じこんでました。
  成長するのしたがって、
  東京の方では黒いだし汁のうどんが
  出回っているという、「黒い噂」を耳にしていましたが、
  そんなうどんなんてものは信じられませんでした。
  うどんは透きとおった湖で泳ぐ白鳥のごときもの。
  で、大学に入学して、
  東京に住み始めたのですが、
  とうとう、東京の「黒い噂」うどんと対面することになったわけです。
  でてきたのをみて、驚き、馬鹿にするなと、
  心のうちで叫びました。
  本当に黒いだしのなかで、うどんが苦しそうに泳いでいるでは
  ありませんか。
  公害に汚染された湖でうろたえる白鳥のごときもの。
  だしは飲めませんでしたね。
  ところが、私の舌は単純にできていて、
  しばらくするとすっかり馴れて、
  あれはあれでおいしいじゃないかと思うようになりました。
  だから、今でもあまり抵抗がありません。
  うどんがもたらした、
  私の青春ルネッサンスでした。

ワニの丸かじり (文春文庫)ワニの丸かじり (文春文庫)
(1996/04)
東海林 さだお

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sai.wingpen  「考える人」                     矢印 bk1書評ページへ

 「考える人」といえば、ロダンである。
 腰かけて、右手をあごの下につけている、男性の像を見た人は多いにちがいない。
 でも、本当にあの像は「考える人」だろうか。
 まず、彼は裸である。たぶん、サウナにはいっているのだろう。しかし、サウナであの格好はない。
 では、どこでならあのポーズはいいか。
 それは、トイレである。
 彼はここ何日も便がでなくて、苦しんでいる。
 だから、あれは「考える人」ではなくて、「便通に悩む人」なのである。
 それでは、本当の「考える人」はどんなポーズをとるのか。

 ついにそれを発見しました。
 これは世界の美術史の通説をみごとにひっくりかえす大発見なのだ。
 だから、あまり大きな声ではいえないのであるが、作者は東海林さだおである。
 どこで見ることができるかといえば、『ワニの丸かじり』という美術本、ちがった、食べ物エッセイに所蔵されているのだ。
 あまりにも意外な感があるが、これはなにぶん世紀の大発見なのであるから、この本を持っている人は押入れのなかでこっそり拝観していただきたいものだ。
 しかし、この話をしないことには先に進めないので、私は声を大にしていいます。
 それは、『ワニの丸かじり』のなかの「スーパー百景」という文章のなかの挿絵として、見事に、華麗に描かれているのです。
 天才東海林さだおは、その絵の脇にこう書いている。
 「考えこむ人は必ず頬に手をやる」。
 どうだ、まいったか、ロダン。
 「考える人」はあごに手をやらないのだ。
 「考える人」は頬に手をやるのだ。
 日本の東海林はあっさりとアンタ(ロダン)を超えちゃいました。
 ローダン?(どうだ、が訛った)

 しかし、これは歯痛のポーズではないかという疑惑もないではない。
 ところが、どっこい、この人は小首をこくび(こくり、が訛った)と傾げているのである。
 これこそ、考える時の世界統一角度である。
 しかし、この絵は女性である。女性は考えるか。
 ああ、言いましたね。そういうのは男女雇用機会均等法の精神に反します。きんとうね。(きっとね、が訛りました)
 男性なんて考えているのはフリです。
 考えるのは女性。
 今月の家計はどうしよう、子どもの教育はどうしょう、姑はどうしてあんなに元気なの、亭主の給料はあがるのかしら。
 女性には悩みがいっぱいあるのです。
 だから、便秘になりやすい。
 そうしたら、トイレでロダンの「考える人」になっちゃうな。
  
(2009/11/29 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今日は漫画の書評です。
  漫画の書評というのは文章で書かれた本のそれとは違い、
  漫画独自の批評の仕方があると
  思っています。
  それは、漫画ならではの技術(例えばコマわりとか絵の表現とか)を
  見ることではないかと、
  思っています。
  単にストーリーがどうのこうのでは、
  漫画の書評にはなりえない。
  だから、漫画家による漫画評というのがもっと
  あってもいいのではないかと思います。
  今回は谷口ジローさんの漫画『センセイの鞄』。
  もちろん、原作は川上弘美さん。
  私的には谷口ジローさんの描くツキコさんが
  ちょっとイメージと違います。
  どうちがうかというのも難しいですが。
  みなさんはどう感じられるでしょうか。
  
センセイの鞄 1 (アクションコミックス)センセイの鞄 1 (アクションコミックス)
(2009/09/30)
川上 弘美

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sai.wingpen  漫画で描けるだろうか                     矢印 bk1書評ページへ

 川上弘美の原作はこんな風にはじまる。
 「正式には松本春綱先生であるが、センセイ、とわたしは呼ぶ。「先生」でもなく、「せんせい」でもなく、カタカナで「センセイ」だ」。
 これが谷口ジローの漫画になると、冒頭の一コマで遠景があって小さく歩いてくる男性が描かれる。言葉は、「「先生」でもなく」とという、原作の二行めからはじまる。
 二コマめ、三コマめは小さな川を渡る鳥、四コマめで鳥と交差するように男性の側面が描かれる。「センセイ」の顔は見えない。五コマめで男性の足元と鞄が描かれ、次のコマでやや寄って男性の後ろ姿、そして「「センセイ」でもなく」と言葉がはいる。さらに男性の歩きに沿うようにしてのコマがあり、空を背景に男性の背中。「カタカナで「センセイ」だ」と、川上の文章をなぞる。そして、全ページのタイトル。
 もしかすると、これが川上弘美の描こうとして時間の緩やかさかもしれない。映画でいえば、導入部。ゆっくりとゆっくりとカメラが「センセイ」に近づいて、物語にはいっていく。
 川上弘美の小説を原作にしているが、谷口ジローの作品(漫画)だということを、感じる。
 おそらく週刊誌での連載の最後のコマだと思われる、居酒屋から出て夜の街を歩く「センセイ」の後ろ姿に、原作の冒頭の文章がはいる。この数ページで谷口ジローが自分なりの『センセイの鞄』を作り出したことが理解できる。

 川上弘美の『センセイの鞄』は川上文学の幅と深みを広げた記念的な作品だと思うが、私のなかではなかなか再読ができない作品でもあった。
 最初に読んだときの、あの胸の奥を揺さぶるような感動がふたたび戻るという保証はない。そうであれば、そのままにしておくことも、ありかもしれないと、ずっと読まずにきた作品でもある。
 それが、こうして谷口ジローの漫画作品として目にするとは思ってもいなかった。映像にしろ漫画にしろ、具象としてのツキコさんもセンセイも見たくなかったというのが心のどこかにある。
 そして、こうして漫画『センセイの鞄』を読むと、それは谷口ジローのツキコさんでありセンセイだということに気がつく。私のツキコさんではない。私のセンセイではない。
 谷口ジローの漫画を非難しているのではない。川上弘美の原作が私を離さないのだ。
 やはり漫画にはして欲しくなかったというのが本音にあるが、こういう形で再読するのも悪くない。
  
(2009/11/28 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今回紹介した五木寛之さんの『わが人生の歌がたり<昭和の追憶>』は、
  同タイトルの三部めにあたります。
  本当はきちんと一作めから読まないといけないのですが、
  これが最新刊ですから、ご容赦ください。
  いずれ時を改めて読んでみたいと思います。
  五木寛之さんというのは、
  書評にも書きましたが、本当にかっこいい人というイメージが
  強くあります。
  それに私のような年代の人なら、
  一度は五木寛之さんの著作を手にしたことがあるのでは
  ないでしょうか。
  私は小説より『風に吹かれて』とか『ゴキブリの歌』といったような
  エッセイの方が好きです。
  五木寛之さん自身、そういう雑文の表現方法が好きだと
  書かれています。
  たぶん、エッセイならではの自由感が
  五木寛之さんには
  あっているのかもしれません。
  ところで、この本に紹介されている歌ですが、
  私の青春時代と重なっていますから、
  ほとんど歌えるんじゃないかしら。

わが人生の歌がたり 昭和の追憶わが人生の歌がたり 昭和の追憶
(2009/09/26)
五木 寛之

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sai.wingpen  作家の生き方                     矢印 bk1書評ページへ

 人間は水と蛋白質と炭水化物からできているらしいが、そういう学術的な言い方でなく、もう少し詩的にいえば、人間は思い出と涙と歌でできているのかもしれません。
 五木寛之さんの『わが人生の歌がたり』を読むと、それも大きくまちがっていないと思えます。
 私たちの記憶は歌によってどれほど補完されていることでしょう。五木さんでなくとも、過ぎ去った日々にどんな流行歌(はやりうた)が流れていたかで、その人の歩んできた人生そのものがうかがえるような気がします。

 本書には「昭和の追憶」という副題がついていますが、実際には作家五木寛之と共に歩んできた歌の数々という方が正しい。
 はじまりは、昭和41年「小説現代」の新人賞を受賞した『さらばモスクワ愚連隊』です。当時五木さんは金沢に住んでいたのですが、この時の思い出の歌として西田佐知子さんの『赤坂の夜は更けて』をあげています。
 かつて自分の生活圏であった赤坂、そして今いる金沢。新人文学賞の受賞は五木さんにとって、捨てた光のふたたび点滅する思いではなかったでしょうか。
 その後、五木さんは『蒼ざめた馬を見よ』で昭和42年に直木賞を受賞し、一躍時代の寵児となります。本書にはその当時の五木さんの写真が何枚か収められていますが、そのかっこいいこと。あるいは、五木さんがいった「デラシネ」(根無し草)という言葉のセンスのよさ。硬派でもなく軟派でもない、そういう生き方にどれだけ多くの若者たちが共感したでしょう。

 そんななかで、五木さんはある歌の作詞をされている。それが『青年は荒野をめざす』(昭和44年)でした。
 その歌詞の冒頭に「ひとりで行くんだ 幸せに背を向けて」とあります。多分私がこの歌を聴いたのは高校一年ぐらいの頃ですが、そういうフレーズに胸がふるえるようであったことを思いだします。
 その後、五木さんは「休筆宣言」をされて世間を驚かせます。それとともに住まいを京都に移します。どこにいようとも、何をしていようとも、五木さんがそうであったように、私たちのまわりには歌があります。
 この「休筆」のあと、五木さんはふたたび作家の世界にもどるのですが、この作品ではていねいにそして順序よく、自身の人生が語られています。本書では「京都の龍谷大学に行き、仏教の勉強を始めたのです」が最後となっていますが、作家五木寛之を知るには格好のテキストとなる一冊かもしれません。
  
(2009/11/27 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  私の髪は少し白髪がまじりはじめたとはいえ、
  ふさふさしている。
  そう、私は「カツラー」ではない。
  関西人というのはついおちゃらけを言ってしまう悪い癖があって
  よく家の人にも叱られる。
  特に娘には毛嫌いされる。
  話を戻すと、私は「カツマー」ではない。
  「カツマー」のことは書評のなかにも書いているので、
  ここでははぶくとして、
  勝間和代さんの著作はかなり読んでいる方だと思います。
  特に私の年齢にしてはそうかもしれません。
  やはり「カツマー」のイメージでいえば、20代後半から30代前半。
  もちろん、80代の人が「カツマー」だったとしても
  一向に構わないわけですが。
  ただ、「カツマー」といってもそっくりそのまま勝間和代さんのマネを
  するのはどうかと思います。
  やはり勝間和代さんが言わんとしていることを
  そのまま実行するのではなく、
  その本質を読み解くことが大切です。
  さて、「カツマー」という言葉が「流行語大賞」に選ばれるかどうかですが、
  私は「入選」するとふんでいます。
  その会場に当然勝間和代さんが現れるでしょうし、
  なんとなく勝間和代さんってその雰囲気に似合いそうですし。
  
勝間和代現象を読み解く勝間和代現象を読み解く
(2009/07/25)
日垣 隆

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sai.wingpen  いい企画なのだが                     矢印 bk1書評ページへ

 先日、今年(2009年)の「流行語大賞」の候補語60語が発表された。そのなかに経済評論家勝間和代氏の生き方を支持し、人生の成功をめざす人たちを総称する「カツマー」もはいっていて、あらためて、昨年から今年にかけての勝間氏の活躍を再確認した思いだ。
 その一方で、「反・勝間」の声も出てきたのも今年だが、それは言い直せば「カツマー」現象の社会的認知の反証でもあるといえる。

 本書はそんな勝間ブームの「裏側を徹底検証する」することで、「なぜ女性と若者から支持される」のかを読み解こうと緊急出版されたものだが、書名や惹句のほどには「徹底検証」がなされていない。
 なんだか50歳過ぎのおじさんが居酒屋で「そういえば最近勝間という女性の本が目につくよな」といったような世間話のような内容に終始してしまっているのは残念だ。
 勝間氏が元亭主のことをどう書こうが、「ベストセラー作家が自転車で都内を走り回」ろうが、そのことで勝間ブームが解明されるとも思えない。まるで(もちろん著者の意向は別のところにあるのだろうが)「女はおとなしくしていなさい」「お金持ちはお金持ちらしく」みたいな居酒屋的おじさん会話に聞こえてしまう。これでは「カツマー」たちも納得しないのではないだろうか。

 おそらく「勝間和代現象を読み解く」には、精緻な時代背景であったり社会現象であったり、勝間氏を受け入れた土壌がどのようなものであるかを検証するしかない。
 そして、勝間本の販売には勝間氏も含めた出版社側のマーケティングが働いているはずであるから、彼らがどのような戦略のもとに誰をターゲットに販売しようとしたかが重要だろう。
 極論をいえば、勝間氏の論の何十パーセントは「カツマー」といわれる人たちにとっても有効ではないはずだ。それでも、彼らが勝間氏を支持し、「カツマー」と変化する要因があったとすれば、それこそ出版マーケティングのひとつの形を生み出したといえる。

 勝間氏の発言には大きな過ちはない。なぜなら、勝間氏の論は過去の成功事例であったり良きアイデアの積み重ねだからだ。勝間氏はある意味その実行者にすぎない。
 実行することがこんなにも新鮮に感じられたのだから、その点では勝間氏は評価されていい。
  
(2009/11/26 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  私は長い間会社で経理部門にいましたから、
  会計そのものは嫌いではありません。
  むしろ、きちんと答がでるからいいですよね。
  基本的には企業でのいろんな出来事が
  仕訳という形で表わせられますから、
  面白いですよね。
  もっとも最近はそういう簿記の基本だけでなくて
  企業買収や合併といったように
  複雑化しているのも事実ですが。
  でも、働く人は最低限の基礎知識は身につけて
  いた方がいいと思います。
  あるいは、家庭にいる人だって、
  貸借対照表の知識があれば、
  自分の家の資産がどれくらいで、
  借金がどれくらいで、大丈夫なのか、
  ぐらいの目安はたつはずです。
  そういうことは大切です。

ただいま授業中 会計がよくわかる講座ただいま授業中 会計がよくわかる講座
(2006/05)
中島 清視金児 昭

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sai.wingpen  「会計」なんてこわくない                矢印 bk1書評ページへ

 本には奥付と呼ばれる、経歴みたいなものがついている。たとえば、いつ発行されて、いくつ版を重ねて、いつ改訂されてみたいなことである。ここをみれば、その本がどれだけ読まれているのかや最新の情報が掲載されているかがわかる。
 本書のように入門書であっても専門書のような類のものはやはり最新の情報がはいっているかどうか重要なのはなおさらだろう。

 今回私が手にしたものの奥付を見ると、「2003年7月初版」、「2006年5月改訂版」、「2009年9月第3版」となっている。こまめな改訂で信用がおけると考えていい。
 特に本書が扱っている「会計」の世界では、2006年5月の、最低資本金制度が撤廃されて1円でも会社が設立できたり、有限会社の新規設立がなくなったといった 、会社法の改正が大きなポイントだろう。
 仕事でその分野に従事している人にとっては、そのつど勉強をしいられることになるのだが、時代の変化にあわせて、法律が変わることはある程度やむをえない。ただ変化のスピードが増している現代にあって、将来先まで有効である改正内容であることが大切になる。

 そういう変化はその分野を専門的に扱っている人だけが知ればいいというものではない。本書の場合、経理・財務の携わる人だけを対象にしているのではなく、これから会計のことを勉強しようとしている、広い意味でのビジネスパーソンや学生でも読める内容となっている。
 営業をしているからといって「会計」をおろそかにすべきではない。自分たちの仕事の成果がどのように会社の利益に影響するのか、「会計」の知識があるのとないのでは大きくちがう。
 もちろん、本書を読んで、それでおしまいにするのではなく、もっと「管理会計」や「経営分析」を勉強したいと思う人もあるだろう。あるいは、本書ではものたりないと感じる人もいるだろう。本書はその一歩として位置づけて読めばいい。
 まずは「会計」という言葉に恐れないことが肝心である。
  
(2009/11/25 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  映画雑誌「キネマ旬報」映画史上のベストテンを
  先日発表しました。(11.21朝日新聞付)
  それによると、日本映画の第1位が、
  小津安二郎監督の『東京物語』、
  外国映画は『ゴッドファザー』(コッポラ監督)。
  こういうのって、その時代時代によって変わりますからね。
  で、今回書評で取り上げた黒澤明さんですが、
  2位に『七人の侍』、7位に『羅生門』、10位に『野良犬』が
  はいっています。
  おや、『生きる』がはいっていない。
  これはおかしい。
  あの映画ははずれないと思うけどな。
  どう考えても、あれがはいらないのはおかしいです。
  私的には、『生きる』こそ黒澤明さんのいい意味での人間愛が
  出た作品だと思うのですが。
  面白さではほかにゆずるとしても。
  ほかにも、黒澤作品は、あれもいいじゃないか、これはどうしたという
  人それぞれの好みがあるんでしょうね。
  今回の小林信彦さんの『黒澤明という時代』は
  映画ファンだけでなく、ひろく黒澤作品に触れたい人には
  うってつけの一冊です。

黒澤明という時代黒澤明という時代
(2009/09/11)
小林 信彦

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sai.wingpen  よかっただろ、不満があるのか?              矢印 bk1書評ページへ

 私が映画にはまったのは1970年代の初めの頃だった。背伸びをして読んでいた映画雑誌「キネマ旬報」に、黒澤明の「トラ・トラ・トラ!降板事件」の記事があったことをおぼろげに記憶している。それにつづいて、黒澤の初カラー映画『どですかでん』(1970年)の特集があって、その当時から黒澤明の扱いは別格のような印象があった。
 だから、本書の著者小林信彦と私とはまったくちがう、黒澤明体験をしていることになる。(小林は黒澤明のデビュー作『姿三四郎』を実体験として劇場で観、「生まれて初めて<文化的事件>を経験した」とまでいう)
 もちろん、映像再現装置が普及した現代では黒澤明のすべての作品を家庭で見ることは出来るし、私もそのようにして初期の名作(学生時代にいわゆる名画座で多くの野心的で刺激的な作品は観たが)を見てきた。しかし、残念ながら劇場という空間のなかで、時代という空気とともに観ることとは大きく乖離していると思う。まったくもって、そういうしかない。

 小林信彦は黒澤明作品論とでもいうべき本書を書くにあたっていくつか独自のルールを作ったという。詳細は本書のあとがきである「自分の舌しか信用しない」にあるが、ひとつだけ書きとめると、
「自分が体験したこと、直接見たり、耳にしたこと以外は、一切書かない」ということがある。そのことで、黒澤明の作品論として狭まったことはあるかもしれないが、小林が生きた時代にひきつけた、ある意味まっとうな黒澤論になっているように思える。
 <天皇クロサワ>を稀有な映像作家としてのレベルまで引き下げた功績は大きい。
 私が接した黒澤映画はすでにどの作品も「クロサワが作った名作」でしかなかった。私が実際に劇場で見たのは、本書で「小品」と書かれた晩年の三作品であるが、初期の『酔いどれ天使』や『野良犬』、中期の『生きる』『七人の侍』と比べるまでもないのは誰が観ても明らかだろう。(それでも、遅れてきた黒澤明体験者としては、晩年の小品のなかから一生懸命クロサワを感じようとしていたのであるが)

 小林は「名前が巨大になり過ぎた」と書いて、その魅力は『天国と地獄』までとしているが、時代そのものが黒澤明のダイナミックな映像の力を求めたあかしであるといえる。
 もしかすると、黒澤明自身が昭和40年以降の大衆の変化に苛々していたのではないだろうか。
 黒澤映画を観たあと、小林が目撃したという若い男女の会話、「よかっただろ、不満があるのか?」は、案外黒澤明の胸の内だったかもしれない。
  
(2009/11/24 投稿)

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鉛筆 今日は「勤労感謝の日」。
 そして、「献本感謝の日」でもあります。(勝手に決めましたが)
 ということで、今回の「雑誌を歩く」は、またまた
 「COURRiER Japon(クーリエ・ジャポン)」です。
 講談社さん、レビュープラスさん、いつもありがとうございます。

鉛筆 今回の「COURRiER Japon」12月号は、
 創刊4周年記念号ということで、今日は「創刊4周年感謝の日」でもあります。
 (きっと、「COURRiER Japon」の古賀編集長はそう思っているにちがいありません)

COURRiER Japon (クーリエ ジャポン) 2009年 12月号 [雑誌]COURRiER Japon (クーリエ ジャポン) 2009年 12月号 [雑誌]
(2009/11/10)
不明

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鉛筆 今月号は「”宇宙人”的NIPPON」というタイトルどおり、
 「世界が見た日本」の大特集です。
 私が子どもの頃は、よく世界から見られている日本人の姿として、
 出っ歯でメガネをかけて首からカメラをぶらさげているみたいな姿があって、
 富士山と芸者ガールが日本のシンボルのように思われていた時代でした。
 それが最近ではすっかり様変わりして、
 ついに「宇宙人」と化したわけです。
 日本人が宇宙人だとすれば、
 おそらくその起源はかぐや姫あたりがあやしいのですが、
 さすがにこればっかりは海外のマスコミも追求できなかったようで、
 本誌にも掲載されていません。

鉛筆 ところで今回の特集には、村上春樹さんやイチローさんといった有名人だけでなく、
 建築家の坂茂さんやWSBライダーの芳賀紀行さんといった
 日本ではあまり知られていない人たちも、
 海外のメディアに取り上げられているのがよくわかります。
 そういうことでは、
 この「COURRiER Japon」という雑誌の編集方針にも沿うのでしょうが、
 この国にいて、この国の目線だけではなかなか実像が
 つかめないかもしれませんので、
 たまには、こういう雑誌で外の目線で自分たちの姿を振り返るのは
 大事なんでしょうね。

鉛筆 今号には「ウォール街の崩壊から1年 金融危機とは何だったのか?」と
 いった興味ある記事もあります。
 アメリカの「ウォール・ストリート・ジャーナル」や「ニューヨーク・タイムズ」からの
 紹介です。
 特に「元リーマン社員を訪ねて」という記事は読みごたえがありました。

鉛筆 これはいまさらいうことでもないでしょうが、
 私たちは日本人が出っ歯でメガネをかけていた時代よりもずっと、
 「グローバル」な社会に生きています。
 これはどうしようもない事実です。
 だとしたら、やはり情報も「グローバル」な視野から手にいれていかないと
 立ちいかなくなります。
 国とかビジネスの世界だけが「グローバル」なのではなく、
 私たちの生活そのものが変わっていることを自覚し、
 それにどう対処するかを、一人ひとりが考えていかないといけません。
 この「COURRiER Japon」という雑誌が四年もつづいているのも
 そういうあたりに要因があるのかもしれません。

鉛筆 これからも「グローバル」な視点をいち早く、
 そして興味深く、紹介していただけるよう、
 編集部の人には頑張ってもらいたい。
 だから、今日は(勝手に)「「COURRiER Japon」編集部感謝の」とします。

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笑い。 今朝(11.22)の朝日新聞の読書欄の
 おなじみ「百年読書会」(ナビゲーター:重松清)に、
 先日の内田百さんの『ノラや』の書評の一部が
 取り上げられました。
 私の原稿に少し編集部の校正がはいっています。
 その違いもおもしろい。
 さすが編集部さん。感心しました。
 今朝の朝日新聞、お読みください。
 来月の宮澤賢治さんの『銀河鉄道の夜』もがんばらないと。

えんぴつ 今日は、もちろん「丸かじり」シリーズも更新していますので、
 そちらも愉しんでください。

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プレゼント 書評こぼれ話

  最近めっぽう寒くなってきました。
  寒くなると食べたくなるのが、
  冬には鍋がよく似合います。
  鍋にはいろんな種類がありますが、
  私が大好きなのは「みずだき」。
  鶏のだしがよくきいて、ポンズでいただく、アレ。
  食べ終わったあとの雑炊もいいですね。
  次は「うどんすき」。
  「キムチ鍋」もなかなかなもの。
  「寄せ鍋」はどうかといえば、よせばいいのに、これも好き。
  おっと、大御所「しゃぶしゃぶ」もいいですね。
  あの、しゃぶしゃぶ感がいい。
  箸から離さないのが、自分の所有物って感じでいい。
  「おでん」。これもいい。
  特に、玉子。王子じゃないですよ。たまご。
  というぐらい、
  冬には鍋がよく似合う。
  ただひとつ心配なのは、つい食べ過ぎてしまうこと。
  だから、冬にはダイエットも似合うというべきかもしれません。
  今夜は、鍋かな。

どぜうの丸かじり (文春文庫)どぜうの丸かじり (文春文庫)
(2007/02)
東海林 さだお

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sai.wingpen  「丸かじり」挿絵三点セット                矢印 bk1書評ページへ

 世の中に三点セットというのはよくある。
 着物、帯、ぞうり、の和装三点セット。
 実印、銀行印、認印、ハンコ三点セット。
 ハンバーガー、フライドポテト、コーラ、のマック三点セット。
 森昌子、桜田淳子、山口百恵、の「スター誕生!」三点セット。
 三という数字が座りがいいのでしょうね。
 そういえば、昔は三人ひと組のお笑いコンビもたくさんあった。
 レッツゴー三匹、かしまし娘、漫画トリオ。
 かなり古いな。
 東海林さだおさんの食べ物エッセイ「丸かじり」シリーズの三点セットといえば、エッセイのなかの挿 絵。文章はいうまでもなく、この挿絵の魅力を語らずして「丸かじり」を語るなと、街のおそば屋さんも 言っているくらいです。

 もちろん東海林さだおさんの本業は「漫画家」ですから、挿絵が面白いのは当然といえば当然。
 それにしてはエッセイがうますぎる。
 もしかして、エッセイは裏稼業かと疑われて、さらに人にいえない闇の稼業もしてるんじゃないのと、 ちょっと署まで来てもらおうかということになっているかもしれない。
 そして、このときの署というのは税務署にちがいない。
 話がよけいなところに進みそうな雰囲気だから、挿絵の話にもどします。
 もし、「丸かじり」の挿絵が手塚治虫さんだったらどうなのかということを想像してみてください。
 きっと、アトムなんかがエネルギーの注入しているところなんか描かれていて、「今回のエネルギーは和風煮干風味でこれはかなりいけます」みたいなことが書かれているような気がする。
 ちょっとおいしくない。
 もし、藤子・F・不二雄さんなら、ドラえもんがドラ焼きなんか食べている挿絵でしょうね。
 「ドラ焼きをソティーにしてみました」とか「ドラ焼きのハンバーガーを食べに行ってきました」なんてことになるような気がする。
 これはいけるかも。
 もし、赤塚不二夫さんだったら、どうなるか。
 これはもちろんチビ太がおでんの「丸かじり」をしているにちがいない。
 これもいける。
 なーんだ、誰だっていいんじゃないか。(しまった、流れがおかしい。東海林先生、早く税務署からもどって)

 東海林さんの「丸かじり」挿絵三点セットの魅力は、キャラクターに依存しない魅力なのであります。
 では、なんだと怒られそうだから、すぐにいいますね。
 一般大衆、市民、どこにでもいるおじさんおばさんおにいちゃんおねえさん。
 「丸かじり」エッセイがどこにでもある食べ物をものの見事に描くように、その挿絵でもものの見事に普通の人が描かれているのであります。
 挿絵をみただけで、いるいる、と笑えるでしょ。
 挿絵をみただけで、あるある、と納得いくでしょ。
 挿絵をみただけで、そうそう、とうなづくでしょ。
 これを「丸かじりにおける挿絵三点セットの人格形成三点セット」といいます。
 ちょうどハンバーグ定食における、にんじん、ポテト、ブロッコリーの添え物みたいです。
  
(2009/11/22 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今回紹介した、『出社が楽しい経済学 2』は
  NHKの番組から誕生した、経済本ですが、
  TVの方では楽しいコントで経済学が学べるように工夫されています。
  演じているのは、劇団SET(Super Eccentric Theater)の面々です。
  set
  この劇団SETですが、
  知っている人はいうまでもなく、
  知らない人は聞いて納得の、
  三宅祐司さんが座長の人気劇団のこと。
  その劇団SETがこのたび創立30周年を向かえました。
  ということで、まわりまわって、
  私も先日(11.18)の記念イベントに行ってきました。
  会場は東京ドームシティの一角のJCBホール。
  たくさんのファンやマスコミ関係の方が来ていました。
  ゲストも豪華。
  伊東四郎さんや小林幸子さんもお祝いに登場。
  劇団運営というのは大変だと思います。
  それが30年もつづくのですからすごいですね。
  三宅座長もりっぱだし、小倉久寛さんも欠かせない。
  いや何よりも劇団員一人ひとりの努力のたまもの。
  そういう熱意が、『出社が楽しい経済学』というTV番組にも
  生きているのでしょうね。
  劇団SETのみなさん
  創立30周年おめでとうございます。
  これからもがんばってください。

出社が楽しい経済学 2出社が楽しい経済学 2
(2009/10/10)
不明

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sai.wingpen  最近あいつ楽しいそうだなと思わせるには          矢印 bk1書評ページへ

 この春、NHK教育テレビで放映され、あわせて書籍として刊行もされた『出社が楽しい経済学』の、本書は第二弾である(もちろん、テレビの番組としてもこの秋から放映が始まっている)。
 本書の「はじめに」で、同番組のチーフ・プロデューサーである小山好晴氏自ら「まさか、こうして第2弾が出版できるとは思っていませんでした」と書いているように、番組自体ユニークであっても地味な存在だったといえる。それなのに、今春の番組終了後に多くの視聴者から続編を望む声が多数寄せられたのは、小山氏のいうように「不透明な時代に使える経済学の知識を身につけようと考えている方が多いということを、図らずも証明」している。
 経済学はもう、学者や一部の優秀なビジネスマンだけのものではなく、広く、日常生活で語られる時代になったということだろう。

 本書では「ロックイン」(顧客が製品やサービスから離れなくなること)や「ヴェブレン効果」(価格が高くなるほど満足度も高まる)といった、8つの経済キーワードが説明されている。
 経済学的にはそれぞれ難しい内容なのであろうが、自分たちの身近な生活にひきよせてみると理解がしやすいかもしれない。本書の記述もそのように行われている。
 たとえば、先ほどの「ヴェブレン効果」だ。現在の不況下において、もともと高額商品を扱っていた百貨店の苦戦がよく報じられているが、そのために、百貨店も廉価な価格商品を取り扱うようにならざるをえない状況に陥っている。そのことは「ヴェブレン効果」とどのように関係していくのかというようなことを考えてみる。
 あるいはこれは前作で取り上げられていたキーワードであるが、「サンクスコスト」と政権交代後の工事進行中であったダム工事廃止の問題などのように、単に「出社が楽し」くなるだけでなく、新聞を読むときにも誰かと話すときにも「楽し」く、充実したものが得られるのではないだろうか。

 第1シリーズで紹介されたキーワードの説明や「番組制作スタッフによる初心者のための文献案内」など、ちょっとうれしい編集である。これも「心の会計」(詳しくは本書65頁以降を参照)のなせるわざか。
  
(2009/11/21 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今回の書評のなかにも書きましたが、
  重松清さんが阿久悠さんの生涯を描いた、
  この『星をつくった男』を本屋さんで見かけた時、
  もう身震いするくらいうれしかった。
  こんな取り合わせはありません。
  なんと贅沢な、と思いました。
  そういうことでは、重松清さんに書かせた、
  編集者さんの力だと思います。
  阿久悠さんのペンネームは「悪友(あくゆう)」からというのが
  定説ですが、
  私は阿久悠さんの広告会社での友人だった、
  漫画家の上村一夫さんとの関係がとても重要だと思っています。
  上村一夫さんといえば、「昭和の浮世絵師」とまで
  いわれた漫画家ですが(代表作は『同棲時代』)、
  上村一夫さんが阿久悠さんに与えた影響は大きい。
  そうしたとき、阿久悠さんのペンネームの必然性が
  見えてくるのではないかと思っています。

星をつくった男 阿久悠と、その時代星をつくった男 阿久悠と、その時代
(2009/09/19)
重松 清

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sai.wingpen  緞帳がおりて            矢印 bk1書評ページへ

 生涯五千曲以上の歌詞を書いた昭和の作詞家阿久悠と読者を泣かせることでは当代随一の直木賞作家重松清。元々ルポライターで書くことを修行した重松清が、平成19年の逝去した作詞家阿久悠の生涯とその時代をどのように描くのか興味がそそられるし、この二人の組み合わせとなれば、読まずにはいられない。
 重松は阿久の代表作のひとつである『津軽海峡・冬景色』の舞台となった青森から阿久を訪ねる旅を始める。静かだが、期待のふくらむ幕開けといっていい。
 そう、歌でいうならなイントロが静かに流れ始めて、暗い舞台に一筋のスポットライトが射し込んで、やがて。
 阿久悠の生まれ故郷である淡路島から、重松清は丁寧に阿久の生涯をたどっていく。折々に阿久自身がその著作で述懐した文章をはさみこむことでその時代のなかにいる阿久の姿を補完する手法をとりながら、重松にはひとつの企みがあったように感じる。
 それは、阿久悠という偉大な作詞家を読み解くひとつの方法として、「父と息子」という、重松が得意とする構図を取り入れることであった。
 戦後の混乱期に「父」を求めてさまよった「息子」阿久悠を描くことで、「スター誕生!」というTV番組で多くの少女たちを育てあげた「父親」阿久悠の姿が鮮明になる。重松にはどうしてもそれが必要だったのではないだろうか。
 歌はいくつかのうねりを伴いながら、間奏へとつづく。二番の歌詞へ、聴衆は何を望んでいるというのか。スポットライトの中で歌い手は誰にも悟られずに小さな吐息をつく。

 その時、聴衆は予定調和の歌を望んでいるのだろうか。
 阿久悠の歌詞は阿久以前の詞(ことば)の流れから大きく乖離していたから聴衆に指示されたはずだ。それまでの作詞家が自分たちの世界から逸脱しなかったことを阿久は時代をみすえることで楽々と超ええた。その原動力は「父」の不在としていいのだろうか。
 重松が描きたかったことは理解できるとしても、あまりにも自分の身の丈になりすきた感は否めない。
 読者は重松を読みたかったのだろうか。阿久悠を読みたかったのだろうか。
 静かに歌がおわる。それは歌い手だけのものではない。作詞家もいて、作曲家もいる。ゆっくりと照明が消えていく時、聴衆は誰に拍手をおくるというのだろう。
  
(2009/11/20 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  本屋さんに行くのは楽しい。
  ゆっくりと書棚の間を彷徨するのは至福の時間です。
  なかなか時間がとれないときは、
  とりあえず新刊の平台は必ずのぞきます。
  それと文庫本の新刊コーナー。
  最近は新書もわくわくするものが多いですから、
  その新刊コーナーも。
  私としては、
  新潮文庫とか文春文庫のそれぞれの棚のそばに
  新刊が並べられているのではなく、
  全部の文庫の新刊が一堂に陳列されている
  本屋さんの方が好きです。
  先日、本屋さんを歩いていて、
  講談社文庫の新刊に、川上弘美さんの『ハヅキさんのこと』が
  出ているのを見つけて、うれしくなってしまいました。
  懐かしいような、
  ようやく文庫本になってくれたような。
  そこで、今回はこの『ハヅキさんのこと』の蔵出し書評です。
  書評を読んで面白そうだな、と思った人は
  ぜひ文庫本を買ってみてください。

ハヅキさんのこと (講談社文庫)ハヅキさんのこと (講談社文庫)
(2009/11/13)
川上 弘美

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sai.wingpen  「森」                     矢印 bk1書評ページへ

 恋について書こうと思います。秋だから。
 それに、うまい具合に川上弘美の新しい短編集「ハヅキさんのこと」を読んだばかりで。少しばかりしんみりしています。
 川上弘美はやっぱりうまい作家です。和菓子のようなしっとりした文章がなんともいえない世界を作り出しています。
 それで、つい、五十男が恋なんて書きはじめました。齢を重ねたからといって、恋のことがわかっているのか、いささか自信はありませんが。

 「森」という短編が収められています。
 二十五年ぶりに実家の法事に戻った「わたし」は、そこで幼ななじみの祐一と出会います。「わたし」は小さい頃から祐一のことが好きでした。なんだか少しわくわくするような設定です。
 でも、二人はもう五十になります。熟年の恋に発展しそうな予感はあります。なにしろ故郷の林のような小さな森に踏み入った二人は偶然キスもしてしまうのですから。
 「わたし」はお姫様口調でふざけます。近づけたい恋をみずから押しとどめるのです。「そうだよ、五十。五十なんだってばさ。自棄のように、わたしも繰り返す」。まるで恋を押しとどめるのは年齢のせいだというように。
 川上の文章は過激ではありません。「わたし」の思いを淡々とつづります。

 そんな「わたし」の思いを受け止めるようにして祐一は年齢と恋について静かに話します。
 五十の恋はまだ若すぎる。と。そして、「わたし」は、この本の帯にもなっている、こんな感情をもつのです。
 「この人は、きっと少し前に本気の恋をしたんだろうな。なんとなく思った。そしてそれはもう、終わったんだろうな、とも」。
 この「わたし」の思いはあまりにも根拠のないものです。それでいて、「わたし」の思いは妙に確信的でもあります。
 これが恋かな、と思います。
 この本の「あとがき」で川上はこの短編集のありようを「虚と実のあわいにあるなんだかわからないもの」という表現を使いながら語っていますが、男と女のあわいにあるのも「なんだかわからないもの」かもしれません。

 ふたりの「森」はまもなく尽きようとしています。その中で「わたし」はよりそばにいる異性の存在を強く感じます。
 「森」は恋と同義語でしょう。
 尽きることのない恋なんてありはしない。尽きることがわかっているから、人は強く異性を意識する。二人はやがて「森」を出る。恋はもう終わったのです。
 最後にかわす二人の言葉が切ない。
 「また来られるかな」「きっと、いつかね」。別れ際に祐一は「わたし」に一つのどんぐりを投げる。小さなどんぐりがやがて「森」になるかのように。
 最後のこの場面こそ、川上弘美の優しさのように思えました。
 人はみなそんなちいさなどんぐりをもちながら、恋におち、やがて「森」を彷徨い、「森」を出る。恋とはそんな「森」なのです。
  
(2006/10/28 投稿)

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えんぴつ 経済評論家の大前研一さんのファンは多い。
 ファンというより心酔しているといっていいかもしれない。
 だから、大前研一さんの本はよく読まれる。
 しっかりした見識がいいのだろう。
 というわけで、今回は「大前研一通信会員限定定期雑誌」、
 「大前研一通信」の紹介です。
 この雑誌はレビュープラスさんからの献本で手にはいりました。
 なかなか読めませんよ。

えんぴつ 今回私が入手した「大前研一通信」は、11月号。
 大前研一
 通算182号です。
 38ページの(しかも広告のページをいれて)小冊子ですが、
 全頁、大前研一さんの文章がつづきます。
 大前研一さんがいくつかの雑誌に発表された文章が掲載されているのですが、
 いかに大前研一さんがそういった経済誌になくてはならない
 存在かがわかります。
 この号では、特集がふたつ。
 ひとつは「新政権への提言PartⅡ」、もうひとつが「衝撃!EUパワー」。
 なかでも、私のようなものでもたいへんわかりやすかったのは、
 「Voice」に発表した、「爆発的に経済成長する法」。
 そのなかで、大前研一さんは、マクロ経済政策は時代遅れとして、
 三つの理由を書いています。
 「ボーダレス」「サイバー化」「マルチブル化」。
 ちょっと、というかかなり難しいですが、
 なんとなく、なんとなくですが、なるほどな、と思います。
 つまり時代は変化しているということです。
 そういう時代にあって、旧来式のものごとの考えは
 やはりもう、成り立たないということかと思います。

えんぴつ 私なんか大前研一さんの本を読んでいて、
 ときどきついていけないと思うような時があるのですが、
 そういう半歩(大前さんの場合は数歩かもしれませんが)前をいく思考は
 読み手自身の考え方の整理としても有効かもしれません。

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プレゼント 書評こぼれ話

  今回紹介した『だから人は本を読む』の著者福原義春さんは、
  書評のなかにも書きましたが、
  資生堂の名誉会長です。
  だからでしょうか、この本の表紙装丁の本の色は
  きれいなピンクです。
  この本のなかで、福原義春さんは
  「書友」ということを書かれています。
  つまり、「お互い面白い本を読んだら、いち早く情報を交換する仲」のことを
  いうらしい。
  本の話がなかなかできない現代にあって、
  「書友」というのは大変面白い言葉だと思いますし、
  そういう関係は大事にしたいと思います。
  やっぱり、いい本を読んだら、
  誰かに話したいってありますよね。
  本を通じたそういうコミュニケーションは、
  大事にしたいものですし、
  このブログがそんな仲介になれれば
  いいんですが。

だから人は本を読むだから人は本を読む
(2009/09/11)
福原 義春

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sai.wingpen  福原流「読書のすすめ」              矢印 bk1書評ページへ

 著者の福原義春氏は資生堂の第十代社長であり、現在同社の名誉会長である。いうなれば、超一流企業のトップである。その氏がビジネス書ではなく、読書について書いたのが本書である。しかも、けっして片手間に書かれたものではなく、実に内容の濃い「読書のすすめ」といっていい。
 いかにして「読書人」福原義春氏が誕生したかは、たくさんの書名が列記される、本書の第一章「私の読書体験」に詳しい。その章のおわりにこうある。「私という人間は今まで読んだ本を編集してでき上がっているのかもしれない。逆にいえば本によって編集されたのが私だ」(41頁)。そんな氏だからこそ、現代の「読書離れ」現象には厳しいものがある。

 「どうして本を大学や図書館や書店の店頭に積み上げたままにしておくのか。それは人生にとっての”偉大な損失”ではないだろうか」(2頁)「忙しい時期にこそ一日十分でも本を読んで、吸収した栄養をその時からの人生に、仕事に役立てるべきなのだ」(4頁)。まことに同感である。
 本がすべてではないが、少なくとも本は私たちの人生をより豊かにしてくれる。氏の「読書のすすめ」に教えられることは多い。

 そして、福原氏は読む側だけに厳しいのではない。本を作る側、あるいは販売する側にも、第六章「出版・活字文化の大いなる課題」で苦言を呈している。
 「本を消費財化してしま」っている出版界、書き手の意欲を高めない編集者、プロデューサー不在の出版社、不親切な書店、ベストセラーばかりを揃える図書館。そして、無関心な読者。
 本を愛するゆえの苦言だと思うが、それらはやはりそれぞれ真摯に受けとめるべきだ。そうしないと、本当に本文化は滅び去ってしまう。

 読書は楽しいだけではない。時には悲しい思いもするし、記憶することに終始することもある。あるいは、深く感銘し、生きる糧ともなるだろう。
 読書を苦手にする人もいること自体は致し方ない。そういう人にも読書の素晴らしいさを、少しでもわかってもらいたい。読書を愛するものとして、本に満たされるものとして、福原義春氏のこの本を強く薦める。
  
(2009/11/17 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  朝日新聞日曜書評欄の「百年読書会」(重松清ナビゲーター)の、
  11月の課題図書は、内田百(ひゃくけん)さんの『ノラや』。
  内田百さんは漱石門下として有名で、
  多くの百ファンがいます。
  黒澤明監督の晩年の映画『まあだだよ』は、
  内田百さんがモデルでした。
  百さんの評判はずっと聞いていて知っていたのですが、
  今回は私にとって百さん初体験になります。
  そういう点では、この「百年読書会」はありがたいですね。
  朝日カバーところで、先日、朝日新聞社から「ブックカバー」が届きました。
  「百年読書会」に半年間参加(投稿)したごほうびです。
  うれしいな。
  もらえるものは拒まず。
  「百年読書会」のロゴ入りなのもいいですね。
  人間、継続すればいいことがありますね。
  来月は宮沢賢治さんの『銀河鉄道の夜』です。
  みなさんも、チャレンジしてみてはいかがですか。

ノラや (中公文庫)ノラや (中公文庫)
(1997/01)
内田 百けん

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sai.wingpen  百の時代      

  愛猫の 行方たづねて 春の風

 内田百の飼い猫ノラの失踪にかかわる哀惜極まる文章の数々。猫ごときになんと女々しいと思われる人もいるだろうが、ノラが失踪した当時、百はすでに70歳間近の高齢者だったことを思えば、百にとってのノラは単に猫以上の「生命」としての愛着があったものにちがいない。
 それにしても、なんという文章の温かさだろう。ノラの失踪で激情があるにもかかわらず、文章は過敏にならず、悠々としている。これこそ内田百の魅力に相違ない。あるいは、昭和三十年初頭の時代の緩やかさだろうか。猫の失踪に涙する男、それをなぐさめ、奔走する妻や友人や隣人たち、そして無数の無名人たち。そういうおせっかいさもまた時代の風潮だったにちがいない。
 内田百を愛する人は多い。人間的な魅力もあるだろうが、百をとりまく時代そのものの磁力でかもしれない。
  
(2009/11/16 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今日は七五三
  七歳と五歳と三歳の子どもの成長をお祝いする日です。
  男の子は三歳と五歳、女の子は七歳と三歳。
  三歳が男も女も同じなのは、三歳だと「わたしもしたい」と
  泣きわめくからだという説があるかどうかは
  残念ながら定かではありません。
  七五三といえば、千歳飴。
  私の娘の時にもちゃんと手にもたせました。
  でも、持つだけだよ。
  食べて、よだれべとべとになって、
  貸衣装についたらどうしようかと
  結構あせったりしていました。
  でも、あの千歳飴があるから、
  七五三も様になりますよね。
  あれが千歳串とか千歳焼きだとあまり似合わない。
  千歳ケーキも千歳饅頭もダメ。
  あれはやっぱり飴でないと。
  そんな11月15日なんですが、
  私にとっては父親の誕生日でもあります。
  そっちもめでたい。
  今年、85歳になります。
  いやあ、めでたい、めでたい。  

スイカの丸かじり (文春文庫)スイカの丸かじり (文春文庫)
(2001/05)
東海林 さだお

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sai.wingpen  食べに行きたい                     矢印 bk1書評ページへ

 東海林さだおさんの食べ物エッセイ「丸かじり」シリーズの魅力はたくさんあるが、お店探訪も欠かせない魅力のひとつである。
 この『スイカの丸かじり』でも、その魅力は存分に発揮されているのであります。
 冒頭の「スイカのフランス料理」は銀座のホテルのフランス料理店「R」(本書ではしっかり実名で書かれています)、つづく「フラメンコの夜」は新宿の「E」(本書ではしっかり実名で書かれています)。
 なんだ、なんだ、モザイクばかりじゃないか、と怒っている人もいるでしょうが、そこは著作権の問題とか書評権(あれ? 商標権だったっけ)とかでご容赦願います。
 あるいは、鳥越の「おかず横丁」、「レバーフライ」の月島、御徒町の「コリアン・マーケット」とつづく。うらやましいかぎり。

 と、ここで思い出したのが、「遠くへ行きたい」という歌のこと。
 知ってます?
 知らない人のために書きますね。
 知っている人は、しばらくハミングでもしていて下さい。
 少し前に、かなり前かな、永六輔さんとかジェリー藤尾さんとかが歌って、一人、旅に出たい時などはよく部屋で荷造りしながら歌った、旅定番の歌なんですよね。
 ハミングしてた人もここからはいって下さい。
 あの歌を歌うと「旅情」をかきたてられますよね。
 あ、今ハミングしてた人なんかトランクひっぱりだしましたね。
 そんな人はおいておくとして、東海林さだおさんの「丸かじり」シリーズを読むと、「食情」をかきたて られてしまうという事実に気がついたわけです。

  知らない街を歩いてみたい
  どこか食べに行きたい

 みたいに、歌ってしまうわけです。
 ここはぜひ、「遠くへ行きたい」の曲にあわせて読んで下さい。

  知らない料理をながめていたい
  どこか食べに行きたい

  遠い街遠い店
  腹へった昼ごはん

  愛する食とめぐり逢いたい
  どこか食べに行きたい

 どうです? お腹すいてきたでしょ? よだれ出てきたでしょ?

  奪い合い 食いくらべ
  いつの日か満腹を
  愛する食べ物とめぐり逢いたい
  どこか食べに行きたい

 ぜひ、この歌を今年のレコード大賞、紅白歌合戦のトリ曲に強く推します。
 だれに歌ってもらうか。
 それはこれから考えます。
  
(2009/11/15 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  昨日、丸谷才一さんの薀蓄エッセイは素晴らしい、と
  書きましたが、あの多くの作品には、
  もう一人、
  忘れてはいけない人がいます。
  イラストレーターの和田誠さん。
  丸谷才一さんの文章はもちろんあれはあれで素晴らしいのですが、
  和田誠さんの装丁と挿絵の組み合わせで、
  その魅力が倍増、どころか三倍にも四倍にもなっています。
  そこで、今日はその魅力を書評に書いた、
  丸谷才一さんの『絵具屋の女房』の蔵出しです。
  よく、「○○小論」とかありますよね。
  でも、小にもならないので「微小」とタイトルをつけました。
  結構長い書評ですが。
  いつか、きっと
  丸谷才一さんの全集が刊行されたりすることがあるでしょうが、
  その時の出版社はどこか知りませんが、
  なんとしても和田誠さんの挿絵は残して欲しいと
  切に、切に、
  お願いします。

絵具屋の女房 (文春文庫)絵具屋の女房 (文春文庫)
(2007/03)
丸谷 才一

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sai.wingpen  「装丁」微小論                     矢印 bk1書評ページへ

 おなじみ、丸谷才一さんの薀蓄エッセイ集の最新版である。
 宮本武蔵は実在しなかった?!とか甘栗をめぐる歴史的?考察とか、話題そのものも楽しいが、丸谷さんの思考過程が満喫できる一冊である。
 でも、どうしてこの本の書名が「絵具屋の女房」なのか。
 和田誠さんが描いた表紙の絵具屋の奥さんを見るたびに気になって仕方がない。たまたまこの本の中にも「本のジャケット」というエッセイがあることだし、今回は「装丁」の話をしてみよう。

 丸谷さんの本によれば、英語でカバーというのは本の表紙のことで、私たちが日頃本屋さんとかで見ている表紙を覆っているものはラパーというらしい(もうこれだけですごく得した気分になるでしょ?)。
 丸谷さんの最近の本のラパーはほとんど和田誠さん(私は大ファン)の手によるもので、丸谷さんも満足しているようだ。粋っていう言葉を使っている。
 この本からの孫引きになるが、アラン・パワーズという人がこんなことを言っている。「本は女と同じで、いいドレス・メイカーがついていても悪くない。いや、そのほうがいい」(72頁)。そこからすると、丸谷さんはとても仕合わせなもの書きだといえる。

 最近で印象深い作品といえば、丸谷さんが十年ぶりに書き下ろした「輝く日の宮」のラパーである。あの本は内容もよかったが、和田さんの絵の方がもっとよかった(丸谷さんには悪いが)。
 私の2003年の装丁ベスト1だ。物語の内容をそこなわず(つまりはラパーの役目がよくわかっているということ)、それでいて見て楽しむというイラストとしての魅力を失わない傑作である。
 あの作品では表紙だけでなく、背表紙から裏表紙、そしてできれば折り返しまで広げて鑑賞してもらいたい。特に折り返しに光源氏らしい人物と女房を配置した(あえて表面から隠したとしか思えない)手腕は、物語以上に粋であるとしか云いようがない。

 装丁というのは、あまりでしゃばるものではない。
 本はやはり書かれた内容が優先する。あまり目立ちすぎると、裏ラパーについているバーコード・マークのように悪く言われるにちがいない(和田さんの偉いところは、あのマークに断固反対しているところで、自分の装丁にはつけさせないらしい)。
 それでいて、イラストとしての魅力をださないといけないし、本の売れ具合にも影響するだろうから責任重大でもある。
 私たちも本を買う時、そんな装丁家の苦労を少しでも理解すべきだろう。丸谷さんも「本のジャケット」というエッセイの最後にこう書いている。「美を尊重し大切にするのは、人間として自然なこと。本好きな人なら、なほさらの話です」(75頁)。

 それでこの本の書名のことだが、ここでいう「絵具屋」って和田さんのことで、「女房」が丸谷さんのことではないかというのが私の推理である。
 いつもいい装丁をしてもらっている和田さんをひきたてて、自分はあなたの奥さんみたいなものです、と丸谷さんは和田さんに賛辞を送ったのではないだろうか。
 この推理、結構いい線いっていると思うのだが、いかがですか、皆さん?
  
(2003/11/23 投稿)

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本 今回の「私の好きな作家たち」は、
 好きというより敬愛しているという方が正しいだろう、
 丸谷才一さんです。
 このブログでも「書評の明日」とかで
 丸谷大兄には何度も登場願っていますが、
 私の本の読み方であったり書評の書き方であったり
 ものごとの考え方であったりといったことに
 大変影響をくれた作家だといえます。

丸谷才一本 丸谷才一さんは、私の好きな庄内の鶴岡出身。
 それだけでもうれしくなります。
 1968年に『年の残り』で芥川賞を受賞したのですが、
 そして、私は一度はこれも読んでいるはずなのですが、
 どうも記憶がぼやけています。
 それから、何年ぶりかで発表した『たった一人の反乱』も、
 ぼやけています。
 それじゃあ、「好きな作家」じゃないじゃないかと
 お怒りになるかもしれませんが、
 だから最初に書いたように、尊敬する作家なのです。

本 丸谷才一さんは、小説以外にたくさんの薀蓄エッセイを
 書かれています。
 そう、私はそれらのエッセイの大ファンなのです。
 『青い雨傘』『軽いつづら』『花火屋の大将』『絵具屋の女房
 『猫のつもりが虎』『綾とりで天の川』『双六で東海道』・・・。
 そのほか、あれもあります、
 これもあります状態なのです。
 みなさんもどれでもいいですから、
 一冊読んでみてください。
 必ずはまります。

本 極めつけは、『思考のレッスン』。
 これはいい。
 考えるってことの本質に迫ってきます。
 ところが、前回の川上弘美さんの『センセイの鞄』と同じで
 再読できずにいるんですよね。
 でも、『思考のレッスン』はいいですよ。
 それだけで、目からうろこ
 うーん、これって丸谷大兄の書名みたい。

思考のレッスン (文春文庫)思考のレッスン (文春文庫)
(2002/10)
丸谷 才一

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sai.wingpen  人間は考える葦であったはず            矢印 bk1書評ページへ

 知的生活というのは時代の要請でたびたびブームのような広がりを見せるが、実際には生きて行くすべてが知的生活といえる。若い時代の勉学といい、働き出してからの専門知識といい、どうも人間は生涯知的生活をおくる動物らしい。

 ところがどうも本さえ読んでいれば知的生活を送っていると勘違いしている気配がある。本当はもっと考えなければいけないのだ。何しろ、古代より人間は考える葦であるのだから。

 この丸谷才一さんの本は知的生活にうってつけの本である。こういう本を読むと、本の代金よりもずっと得をした気分になる。ずばり、いい本です。
  
(2002/07/31 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  先日、「私の好きな作家たち」で
  川上弘美さんを取り上げた時、
  サムシングブルーさんから、
  「私のお気に入りは『ニシノユキヒコの恋と冒険』」というコメントをもらって、
  ずっと気にはなっていました。
  私はこの『ニシノユキヒコの恋と冒険』を2004年に読んでいました。
  そこで、当時書いた書評の、
  今回は蔵出しです。
  書評にも書きましたが、この作品はニシノユキヒコという男性の
  恋の遍歴を描いた連作集です。
  私は彼を通して、川上弘美さんは恋を求める
  淋しい女性を描きたかったのではないだろうかと
  書評を結んでいますが、
  サムシングブルーさんはどうだったのでしょうか。
  本を読むこと、本で感じること、は自由です。
  それぞれの人の心の翼で
  空を自由に飛ぶことが大事です。
  そんなことが語り合えればどんなにいいでしょう。

ニシノユキヒコの恋と冒険ニシノユキヒコの恋と冒険
(2003/11/26)
川上 弘美

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sai.wingpen  お芽出度き男の一生                     矢印 bk1書評ページへ

 ニシノユキヒコ(作品によっては西野幸彦と漢字表記もされている)という男の、中学生からそれこそ幽霊となってまでの女性との愛の遍歴を、十人の女性を語り部にした、川上弘美さんの異色の連作集である。
 異色ではあるが、いかにも川上さんらしい作品集だ。
 特に連作一作めの「パフェー」は幽霊となってかつて関係があった女性の家に現れるニシノさんを描いているが、川上さん得意の霊異な説話めいて、私たち読者をすでに不思議な空間に誘う。
 ニシノユキヒコってどんな男だったのか?

 ニシノユキヒコはすでに中学生の頃から同級生の女の子の心の奥に突き刺さる怪しい雰囲気があった(「草の中で」)ようだし、五十才になっても何歳も年下の女性を虜にする魅力をもっていた(「ぶどう」)みたいだ。
 そんなニシノユキヒコでありながら「どうして僕はきちんと女の人を愛せないんだろう」とうなだれる。連作最後の作品である「水銀体温計」は、そんなニシノユキヒコ(この作品では西野くんだが)を切なく描いた。この作品でニシノユキヒコから姉の形見である水銀体温計をもらった「わたし」は最後に彼のことをこんな風に述懐する。「生きて、誰かを愛することができただろうか。とめどないこの世界の中で、自分の居場所をみつけることが、できたのだろうか?」(249頁)

 誰にも愛されながら、誰をも愛せないニシノユキヒコながら、この男の一生は<お芽出度い>ものであったように思う。
 芽出度いとは愛でたいという字の当て字らしいが、そもそもが好み愛したい感じがするという意味らしい。ニシノユキヒコらしい言葉ではないか。
 うるわしいという意味も彼らしいし、この言葉から派生する<めでたくなる>とは死ぬという忌み言葉らしいから、彼が幽霊となって現れる第一作はまさに<お芽出度い>男がめでたくなった物語といえる。

 そう考えると、ニシノユキヒコの一生はそれほど悲しいものではなかったかもしれない。むしろそういう男を愛してしまった女性たちの方が淋しく切ないものであったともいえる。
 川上弘美さんは<お芽出度き男>ニシノユキヒコの一生を描きながらも、実はそういった淋しい女性たちのことを書きたかったのではないだろうか。
  
(2004/01/18 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  子どもの頃、
  家で「毎日小学生新聞」を購入していたことがあります。
  その当時でいえば毎日コロッケが主のおかずでしたから
  けっして裕福な家ではなかったのですが、
  どうしてそんな子ども向けの新聞を購読してくれたのか
  わかりませんが、
  小学館の学年誌とかも買ってくれていましたから、
  割と教育に力をいれてくれていたのだと思います。
  もっともあの頃、家の新聞も毎日新聞だったことは
  記憶にありますから、
  新聞の勧誘員の人にうまくのせられたのかもしれません。
  もっとも、だからといって、
  新聞を読む癖がついたかどうかはわかりません。
  今日紹介する本は、TVでおなじみの
  池上彰さんの『小学生から「新聞」を読む子は大きく伸びる!』ですが、
  私の場合は措くとしても、
  大きく伸びるかどうかはともかく
  けっして悪いことではないと思います。
  ただ新聞を読んで、問いかけてくる子どもたちに
  親たちがどう答えていくかが
  大切ではないでしょうか。
  そんなことを思って、読みました。
  
小学生から「新聞」を読む子は大きく伸びる!小学生から「新聞」を読む子は大きく伸びる!
(2009/07/24)
池上 彰

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sai.wingpen  親の背中             矢印 bk1書評ページへ

 普段何気なく開いているが、新聞の情報量は多い。「各誌一面は一万~一万二〇〇〇字以上」で、「新書一冊の文字数は優に超え」という。といっても、新書一冊を毎日読む人はほとんどいないように、新聞を隅々まで読みという人は少ない。見出しなどで結構自分なりの価値軸で取捨選択しているものである。
 それでも、端から端へは読むのは疲れる。経営コンサルタントの小宮一慶氏はだからテレビ欄から読むのではなく、一面から読むことを提唱しているほどである。

 本書はフリージャーナリストとして活躍著しい池上彰氏が「我が子の教育に悩んでいる親御さん」向けに書いた、新聞を読むことで子どもたちの「地頭のよさを育てるメソッド」本である。
 池上氏は、「新聞は、生きたニュースを題材に学力を高めることができる、最高の教材」だという。それは、子どもたちだけでなく、大人にとっても同じことである。新聞に書かれていることを全部理解している大人なんていない。大人も日々新聞の記事から学習しているのである。
 そういう点では、本書は「教育に悩む親御さん」だけでなく、大人が読んでも随分役に立つ。

 最近若い人たちが新聞を読まなくなったという話をよく聞く。インターネットの普及でわざわざ新聞を読む必要性を感じなくなっているようだ。
 しかし、自分の興味だけでなく幅広く知識を吸収しようと思えば、やはり新聞という媒体は大切だろう。オンライン書店と街の書店での本の購入の仕方が違うように、新聞の紙面をふらふらと読み歩くことには価値がある。やはり、そのことを子どもたちだけでなく、若者にも、そして大人たちにも理解してもらうことが必要だ。

 池上氏は、「ニュースについて親子で会話すること」を推奨している。そのためには、子どもに新聞を読ませるだけでなく、大人たちが率先して新聞を読むことが必要だろう。もしかしたら、子どもたち以上に辞書を片手に新聞を読まないといけないかもしれない。
 子どもたちは、そんな親の背中を見て育つものなのである。
  
(2009/11/11 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  ずっと佐野洋子さんのことが気になっていました。
  佐野洋子さんといえば、
  絵本のロングセラー『100万回生きたねこ』を書かれた人で、
  今でも新刊が常に本屋さんの平台に積まれている程の
  人気作家なのです。
  で、読もう読もうと思い続けていたのですが、
  なかなかご縁がなくて読まずにきた作家の一人です。
  今回はその奇妙な書名『クク氏の結婚、キキ夫人の幸福』にまずひかれ、
  表紙の佐野洋子さんの絵にひかれ、
  やっとめぐり合えた作品です。
  二編の恋愛小説が収められていますが、
  私は『クク氏の結婚』の方が愉しく読めました。
  そして、官能度もこちらの方が高いのではないかと
  思います。
  わずか93ページの本ですから、
  眠る前にでも読むと、
  案外いい夢を見れるかもしれません。

クク氏の結婚、キキ夫人の幸福クク氏の結婚、キキ夫人の幸福
(2009/10/07)
佐野 洋子

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sai.wingpen  助数詞                     矢印 bk1書評ページへ

  助数詞とは、
  数を表す言葉のうしろについて、どのような事物の数量であるかを
  あらわすのだという。

  では、
  男にはどんな助数詞がつくのだろう。
  では、
  女にはどんな助数詞がつくのだろう。

   男が一匹、女が三匹。
   男が二本、女が三穴。
   男が一体、女が三体。

  性はどうか。

  単に、一回、二回だろうか。

  詩のように
  一篇、二篇では、よくないだろうか。
  戦いのように、
  一戦、二戦では、よくないだろうか。

  男がひとつ、
  女でふたつ、
  死んだように眠っている。


 絵本作家でエッセイストである佐野洋子さんがもう二十年近く前に書いた恋愛小説二編である。
 自身、本書の「あとがき」に「すけべで嫌らしい」と書いているが、官能とはなんだろう、男と女とは何だろう、と少々愉しませてもらった。
 佐野さんがこの物語を書いた時は五〇を過ぎたばかりのことで、まだまだ「嫌らし」かったのにちがいない。そんな気分に溢れている二編である。
  
(2009/11/10 投稿)

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花束 昨日(11.8)は、甥っ子のK君の結婚式でした。
 私の結婚式はかれこれ30年近く前になりますが、
 やはりこの日のK君のように幸せな気分だったのでしょうかね。
 さすがに30年近くも経つと忘れてしまいます。

花束 場所は大阪のホテル阪急インターナショナル。
 料理 りっぱな式場です。
 料理もよかったし、
 会場の雰囲気も申し分ありませんでした。
 結婚式といえば、
 吉野弘さんの「祝婚歌」という詩を思い出します。

   二人が睦まじくいるためには
   愚かでいるほうがいい
   立派すぎないほうがいい


花束 この詩に初めて出会ったのはいつだったか、
 どういうきっかけだったかは、すっかり忘れましたが、
 初めて読んだ時、とても胸をうたれた記憶だけがあります。
 今回K君の結婚に際して、この詩が載っている詩集をさがしたのですが、
 手にすることができませんでした。
 だから、ブログに書きます。

   正しいことを言うときは
   少しひかえめにするほうがいい
   正しいことを言うときは
   相手を傷つけやすいものだと
   気付いているほうがいい


 夫婦になって、やはり互いの悪い点も初めて気付くこともあるでしょう。
 でも、この詩は、正しいことだから、すべていいのだとは言っていません。
 正しいことであっても、相手のことを慮(おもんばか)ることは
 必要です。
 なぜなら、二人はこれから先も共に歩む夫婦だから。

花束 詩の最後はこうです。

   健康で 風に吹かれながら
   生きていることのなつかしさに
   ふと 胸が熱くなる
   そんな日があってもいい
   そして
   なぜ胸が熱くなるのか
   黙っていても
   二人にはわかるのであってほしい


花束 おめでとう。K君。H子さん。
 いつまでも幸せに。

  本 吉野弘さんの「祝婚歌」の全文はハルキ文庫の
  『吉野弘詩集』で読むことができます。 

吉野弘詩集 (ハルキ文庫)吉野弘詩集 (ハルキ文庫)
(1999/04)
吉野 弘

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プレゼント 書評こぼれ話

  昨日から大阪にいます。
  何故かというと、今日は甥っ子の結婚式なんですよね。
  兄貴の長男です。
  私の母親(つまり、甥っ子にとってはおばあちゃん)なんかは、
  初めての孫の結婚式ですから、
  張り切っています。
  私なんかは、お嫁さんの親族に会う訳ですから、
  昨日から発声練習しています。
  「あ、あ、あ、あのう・・・」
  みたいにならないように、
  渋くキメたいと思っているのですが、
  「ワタクシ、生まれも育ちも大阪で、」みたいな
  寅さん口調についなってしまうのはどうすべきか。
  困った。
  そこで考えました。
  声出さずに挨拶できないものか。
  「あのう、新郎のおじ様でいらっしゃいますか」
  黙って、うなづく。
  「本日はまことにおめでたく」
  黙って、うなづく。
  「失礼ですが、おいくつで」
  黙って、指を出す。
  でも、指が足らないので、
  思わず隣の人の指も借りるのだが、それでも足らずに。
  あーあ、今日はめでたい。  

ゴハンの丸かじり (文春文庫)ゴハンの丸かじり (文春文庫)
(2006/02)
東海林 さだお

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sai.wingpen  何を読みながら「丸かじり」をするか            矢印 bk1書評ページへ

 昔、喫茶店が流行っていた頃、新聞紙も週刊誌も流行っていた。
 昼食を食べ終わって、「サテン(喫茶店のことです)行くか」と誰からともなく会社の近くの喫茶店に繰り出すわけですが、店にはいってまず何をするかというと、レジ横、観葉植物の下、あたりに置かれていた新聞とか週刊誌を手に取ったもの。
 ママさんが「何にします?」と注文取りに来る時には、もう新聞が開いていて、その後ろあたりから、「あ、おれ、いつもの」みたいな遣り取りが行われたものです。
 だいたい、こんな場合の新聞はスポーツ紙ですね。
 そもそも日本経済新聞なんて置いてない。
 日刊スポーツ、報知、トウスポあたりが主流。
 ところが、すでに先客がいて、一般紙しか残っていなかったりすると、「グヤジー」気分になって、午後からの仕事にポカが出、部長にポカポカ殴られたりしたものです。

 これがラーメン屋になると、週刊誌が主流となるわけです。
 「少年マガジン」「少年サンデー」なんかは本屋さんよりラーメン屋で読んだ方が多いのではないかしら。
 そして、当然のごとくそこに置いてある週刊誌は、ごわごわしています。
 理由その一。ラーメンのおつゆが飛んでいます。
 理由その二。お箸でページをめくります。
 理由その三。たまには器のなかでしゃぶしゃぶします。(しませんが)
 でも、よく考えてみると、あのごわごわに膨れた方がページめくりがうまくいくんですよね。
 だから、気のきいたラーメン店で仕込みの時に「週刊誌ごわごわ」仕込みも行っているわけです。(してませんて)

 では、定食屋さんではどうか。
 アジフライ定食には「週刊新潮」、生姜焼き定食には「週刊現代」、コロッケ定食には「週刊ポスト」が良く合います。
 なんとなくですが。
 定食屋でなんでも合うのが、「週刊大衆」。
 「ヤクザ抗争」の記事なんか読んでいると、ケチャップを手につけたくなったりしますよね。(しないって)
 「豊満熟女」なんかのグラビア見てると、哺乳瓶注文したくなります。(だから、しないって)

 こうみてくると、食べ物と新聞紙及び週刊誌とはよく合うものです。
 ところが、サルトル全集なんかはまったく合わない。
 詩集もどうかな。
 美術全集なんかも広げにくい。
 では、わが東海林さだおさんの「丸かじり」シリーズはどうか。
 きっと書かれている方がおいしすぎて、食べ物はイマイチになってしまう。
 ですから、「丸かじりシリーズの店内持込みは固く禁ず 店主」なんていう張り紙を出す店もあったりする。(しないって)
  
(2009/11/08 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今日は、二十四節気のひとつ、立冬
  先日各地で初雪が降ったり、木枯らし一号が吹きましたが、
  暦の上では今日からが冬。
  今年の冬は寒いのでしょうか。
  そこで、今日紹介するのは、
  江國香織さんの児童書『雪だるまの雪子ちゃん』。
  季節にぴったりの本でしょ。
  人には夏派と冬派があると思うのですが、
  私はどちらかというと冬の方が好きです。
  雪に閉じ込められるような感じがいいです。
  もちろん、雪っていうのは都会ではロマンチックに風物に思えますが、
  豪雪地方に住んでいる人にはかなり深刻だと思います。
  雪かきや雪おろしは大変ですからね。
  しかも、そういう寒い国には若い人がどんどんいなくなって、
  過酷な生活がお年寄りの負担になっています。
  それでも、雪に閉じ込められた空間で、
  静かに春を待つという感じが、私は好きです。

    立冬のことに草木のかがやける  沢木欣一

雪だるまの雪子ちゃん雪だるまの雪子ちゃん
(2009/09)
江國 香織山本 容子

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sai.wingpen  会いたいな、雪子ちゃんに                     矢印 bk1書評ページへ

 直木賞作家江國香織さんの、大人も楽しめる児童書です。
 なんといっても、主人公の雪子ちゃんが「正真正銘、野生の雪だるま」というのが素敵です。なにしろ、野生の雪だるまなんて聞いたことがないし、もちろん見たこともありません。それでいて、本当にいるなら、ぜひ逢ってみたいものだと誰でも思うのではないでしょうか。
 野生の雪だるまは、やはり雪でできているそうです。大きさは大人でもせいぜい一メートルしかありません。だから、子どもの雪子ちゃんはもっと小さい。手足はちゃんとありますし、言葉だって話せます。でも、私たちと少し違うのは、「ひとりでこの世に生まれてくる」のです。それでいて、雪子ちゃんにはお父さんもお母さんもいます。「どこにいるのかといえば、記憶のなか」なのだそうです。

 雪子ちゃんがこの世界にやってきたのは何日も何日も雪が降った日でした。「風にのって空からまいおちてき」て、「カシの枝にひっかかりました」。それを見つけたのが、「ずいぶん年をとっていて、しわしわですが、元気で陽気な」百合子さんでした。その日から、雪子ちゃんは百合子さんの家の物置に住むことになります。
 雪でできた雪子ちゃんですから、彼女とお話をするのも遊ぶのも大変です。お家のなかでは窓を開けておかないといけません。彼女のために氷を浮かべた水たらいも用意します。人間の方が厚着をして、寒さに耐えないといけません。でも、この物語にでてくる百合子さんも百合子さんのお友達のたるさんも、小学生のりゅうもちなみも、そのことを嫌だなとは思いません。だって、野生の雪だるまと話ができたり、遊べたりできるのです。
 これは彼らの幸福なのです。

 野生の雪だるまはただそこにいるだけで、人間たちを幸せにしてくれます。だって、雪がふって、小さな雪の玉からこしらえる人工の雪だるまだってしばらくは新しい友人がやってきてみたいでうれしくなるでしょう。
 でも、私たちが作る雪だるまはやがて溶けてなくなるのですが、野生の雪だるまはいつだって、ずっと雪だるまのままなのですから。
 そうそう、野生の雪だるまは、ちょうど熊とかが冬眠をするように、夏に夏眠をします。そして、また雪が降り始めると、起きてくるのです。

 この本には、銅版画家の山本容子さんによる素敵な挿絵が何枚もはいっています。山本さんの描く雪子ちゃんもかわいいのですが、あなたが想像する野生の雪だるまを自由に描けばいいのではないでしょうか。
 私なら、雪子ちゃんの頭に赤い南天の実でできたリボンをつけてあげたいのですが。
  
(2009/11/07 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  三日続けての、俳句の本になります。
  今日は、俳人正木ゆう子さんの『ゆうきりんりん』。
  実はこの本のなかに、
  おととい紹介した高浜虚子のことについて書かれた
  小さな文章があります。
  それは高浜虚子が大正6年に熊本を訪れた際の記念写真の
  記述です。
  その写真を見ながら、正木ゆう子さんは、
  「写真の虚子はとても精悍だ」と書かれています。
  その言葉が、おととい紹介した文庫本の表紙の
  虚子の肖像画を思い出させてくれます。
  なんとなく、不思議な円環のような気分です。
  今回の書評のなかでも一句、
  正木ゆう子さんの俳句を紹介していますが、
  ほかにもこんな句にひかれました。

    空瞑の微塵となりて鷹渡る

  この句の、空瞑という言葉の、なんと素敵なことでしょう。

ゆうきりんりん―私の俳句作法ゆうきりんりん―私の俳句作法
(2009/09)
正木 ゆう子

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sai.wingpen  空に鷹                  矢印 bk1書評ページへ

 今年、俳人正木ゆう子の活躍がめざましい。
 六月に句集『夏至』、七月にエッセイ集『十七音の履歴書』を上梓し、自作の俳句に関するさまざまな文章を収めたこの『ゆうきりんりん』が三冊めの出版となる。ちなみにその装丁のすべてがご主人の笠原正孝氏の手によるものである。
 自身の俳句についての文章と書いたが、「自句自解」というよりもエッセイにそえられた俳句という方がそれらしい。
 本書の中心となる「俳句の生まれる瞬間」と題された文章群は、もともとが「週刊日本の歳時記」(小学館刊)に連載されていたもので、この時のタイトルが「遊季りんりん」であった。単行本化するにあたって、「遊季」を「ゆうき」とひらがな表記に変えているが、俳句とは季節を遊ぶ(楽しむ)文芸である点では、原題の方が俳句の楽しみ方としてよく伝わっているようで惜しい。

 俳句の本には句集と呼ばれる俳句のみを集めたものと、この本のように作句の背景を記した「自句自解」の類のものがある。後者の場合その俳句が詠まれた作者の心情や場面などが理解しやすいのであるが、それはある一面において俳句そのものの自由度を制約してしまうこともある。
 できうるならば、俳句単独で読んで読み手の感情のままに味わい、その後自解を読みながら作者の作句の心のありようと比べてみるのが面白い。

 本書に「かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す」という句がある。
 作者の正木によれば、これは檻のなかの豹を見ていて詠んだ句だという。
 囚われの豹の悲しげな表情にうたれた俳人が、なぜ豹ではなく鷹と詠み変えたのか、その理由は書かれていないが、完成された句と俳人の思いの段差をまさに風のように楽しめる。
 この句についた文章のなかで、正木はこんなことを書いている。
「言葉が力を持つかどうかはわからない。しかし少なくとも言葉とは祈りのようなものである。祈りならば確かに力を持つはず」(64頁)
 この文章が、「風」という言葉になったにちがいない。そんなことを思いつつ、俳句に戻ると、これは確かに鷹なのだと思えてくるから不思議である。
  
(2009/11/06 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今日も昨日につづいて、
  俳句の本、しかも句集です。
  それにただの句集ではなくて、
  あの寅さんこと、渥美清さんの句集『赤とんぼ』ですから、
  これは一読の価値ありです。
  あ、押さないで、押さないで。
  その線から前にでちゃいけません。
  早く読みたい。
  お客さまの気持ちはよくわかりますが、
  焦っちゃいけません。
  寅さんというのは、映画『男はつらいよ』の主人公。
  だんだんそういう説明もしないと知らない人も増えてんだろうな。
  おじさん、泣けちゃいます。
  ええい、もうこうなったら、

   ヤケのヤンパチ日焼けのナスビ、色は黒くて喰いつきたいが、
   あたしゃ入れ歯で歯がたたないよ

  って、きたもんだ。
  そんな寅さんの香具師(やし)口上も懐かしく、
  そういえば渥美清さんの少し鼻にかかった声で
  俳句を読むのも面白いかもしれないと
  気がつきました。
  
渥美清句集―赤とんぼ渥美清句集―赤とんぼ
(2009/10)
渥美 清

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sai.wingpen  寅次郎、渥美清の夢                  矢印 bk1書評ページへ

 俳優、渥美清さんが亡くなって、もう十三年経ちました。歳月の早さに驚きます。
 まして、昨年固まった休暇がとれて、渥美さん演じる、映画『男はつらいよ』シリーズ四十八作を立て続けに観ていた身にとっては、信じられないような時間に思われます。
 シリーズ第一作が昭和四四年(1969年)で、最後の作品『寅次郎 ハイビスカスの花』が平成七年(1995年)ですから、渥美さんは二十六年に亘って、あの憎めない風来坊である車寅次郎という人物を演じ続けたことになります。そのことを思えば、今、渥美さんの死からの年数はまだ半分。いかに寅さんとしての、渥美清という俳優の役どころが長かったことがわかります。

 ただ渥美さんにとって、あの車寅次郎はきつい役だったと推測します。特にあの映画が国民的な人気シリーズになってからは、他のどんな役を演じても、寅次郎に見えてしまうというつらさはあったと思います。渥美清は『男はつらいよ』の寅さんだけでは終わりたくなかったのではないでしょうか。
 生前、渥美さんが「風天」という俳号で句作をおこなっていたことはよく知られていますが、もしかすると句作をすることで、寅さんではない自分自身を取り返そうとしていたのかもしれません。

 本書は、そんな渥美清さんが詠んだ俳句を年代順に編んだ句集です。
 読み手としては「さくら幸せにナッテオクレヨ寅次郎」(昭和四八年)のような句にどうしても惹かれがちですが、俳句の出来としてはやはり後半になるにつれ、形が整ってくるのがよくわかります。
 特に初期の頃は自由律(十七字、季題の有無にとらわれない句の形式)の句が目立ちますが、後半は堂々と俳句表現を存分に楽しんでいるのがわかります。
 本書の書名となった「赤とんぼじっとしたまま明日どうする」は、平成三年の時の句ですが、「乱歩読む窓のガラスに蝸牛」「あと少しなのに本閉じる花冷え」など一人静かに本を読んでいた俳優の秀句が光ります。

 俳優、渥美清さんは俳諧の異端児山頭火や尾崎放哉を演じたかったといいます。
 渥美さんは彼らの姿に何を見ていたのでしょうか。それこそ、寅さんとはまったくちがう、故郷をもたない人の哀しみだったのかもしれません。
  
(2009/11/05 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今日紹介するのは、高浜虚子が書いた俳句の入門書、
  『俳句の作りよう』ですが、
  俳句というのは簡単に詠めそうで、
  なかなか詠めないものです。
  思いつきや想像では詠めません。
  それでいて、うんうんうなりながらも詠めないのが
  俳句ではないでしょうか。
  私が俳句を作る場合も、
  うんうんうなっていてもいい句はできません。
  むしろ、するっと浮かんだ方がいい句だったりします。
  これからはいい季節ですから、
  吟遊など楽しいでしょうが、
  そういった華やかさではなく、どこにでもあるような
  街の風景を俳句に詠めたらと
  常々思っているのですが、
  そう上手くはいきません。
  すっと詠めたら、どんなにいいでしょう。
  それにしても、この文庫本の表紙の
  虚子のにがお絵はいいですね。


俳句の作りよう (角川ソフィア文庫)俳句の作りよう (角川ソフィア文庫)
(2009/07/25)
高浜 虚子

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sai.wingpen  皆俳句                     矢印 bk1書評ページへ

 高浜虚子はいわずと知れた、明治の俳人の大御所であり、現代の俳句の基礎を成した巨人である。正岡子規が種をまき、虚子が大きく成長させたといっても過言ではない。
 そんな虚子が大正二年から初心者向けに俳句雑誌「ホトトギス」に掲載したのが、本書のもととなった『俳句の作りやう』である。
 虚子の俳句談は、岩波文庫から『俳談』や『俳句への道』など何点か出版されているが、今回本書が角川ソフィア文庫の一冊に収められたことはとてもうれしい。
 なによりも、この本の俳句の話はとてもわかりやすいのだ。俳句をこれから始めたいと思っている人や俳句を始めてまもない人には最適ではなかろうか。

 まず、虚子は俳句が十七字でできている、という誰もが知っている常識的なことから書きはじめる。そして、季語であったり「切れ字」であったりという約束事をやさしく語っていく。虚子は「十七字、季題という拘束を喜んで俳句の天地におるもの」と自身を語っているが、私も俳句の魅力とはその拘束性にあると思っている。自由俳句や無季句のものはあるが、あれらは短詩として評価されるもので俳句というものにいれてしまうと収拾がつかなくなる。
 十七字、季題という「拘束があればこそ俳句の天地が存在する」と書かれているが、そういう窮屈な表現方法のなかでどう表現していくかが俳句の醍醐味だと思う。

 だからこそ、「じっと眺め入ること」や「じっと案じ入ること」が大事になる。
 本書のなかで、虚子は江戸時代の俳人去来の句「湖の水まさりけり五月雨」をテキストにしながら、「案じ入る」とはどういうことかを説明している。あたかも事実だけを詠んだ句でありながら、去来がいかに真剣に自身と向かい合った句であるかと賞賛する。こういうことはなかなか現代の俳句入門書では説明されていない。
 また、虚子が子規から教わったという「埋字」の章も役に立つ。
 これは、古い句の一部を空きにして、それを埋めていくという訓練法である。たとえば、これは虚子の句だが、「秋風や眼中のもの○○○○○」として、自分なりに完成させるというものだ。(この句の元の句は本書55頁を参照)そういうことの修練が秀句につながっていく。

 高浜虚子といえばなんだか古臭い俳人のように思うかもしれないが、本書に書かれていることはけっして古びてなどいない。むしろ、わかりやすいという点では、これほどの本はない。
  
(2009/11/04 投稿)

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本 今日は、文化の日
 数ある祝祭日のなかでも、
 なかなかこうるさい日でもあります。
 子供の日? みなさん、大きくなったらおじさんみたいにエラくなるんですよ。
 海の日? めじゃありません。
 体育の日? それも大事ですが、やはり頭脳明晰。わたしゃ、インテリですよ。
 みたいに、結構こうるさい。
 文化の日に勝てるのは、
 元日ぐらいじゃないかな。
 「オレがいないと一年始まんないんだからな」みたいなことはいうでしょうね。
 あれ、文化の日、プイと横向いちゃったです。
 なにはともあれ、今日はそんな文化の日。

本 この季節、大学とか高校では
 文化祭も盛況で、
 ついでに市民の文化祭も各地で開催されているんじゃないかな。
さいたま市民文芸 今日紹介する一冊は、
 たぶんそんな活動のひとつ(だと思うのですが)、
 『さいたま市民文芸』です。
 なんじゃそれ? と思っている方もたくさんいると思いますが、
 「広く市民の文芸創作活動を促すとともに、優れた作品を市民に提供し、
 本市における文芸活動の普及向上を図ることを目的
」に
 編まれた本なのです。
 ね、文化的でしょ。
 本市というのは、さいたま市のこと。
 対象は、詩・短歌・俳句・川柳・小説・随筆・評論で、
 一般応募でできているのですが、
 もちろん対象はさいたま市民のみなさんです。

本 さいたま市民である私も俳句部門に応募しました。
 そうしたら、「入選」通知が来て、
 本も贈呈されました。
 でも、よく読むと、
 たとえば俳句部門であれば、応募者数231名に対して入選者数201名。
 これってどこから考えても、
 全員入選ですよね。
 選ばれなかった30名って、名前を書かなかったり、
 さいたま市民じゃなかったりするんでしょうね。
 なんだか「入選」ってかすれてしまいそうですが、
 市民文芸は参加することに意義があるんです。
 そうです、だから満足。
 しかも、こうして本になるのですから。
 ちなみにこの本、さいたま市役所で
 一冊1000円で購入できます。

本 ところで、私の「入選」作ですが、

  蕪白し老婆居眠る朝の市

  パプリカを耳におしあて星月夜

 うーむ。
 やっぱり、「入選」ですかね。
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プレゼント 書評こぼれ話

  新しい靴に履きかえて、一ヶ月が経ちました。
  靴ずれや豆が出来て痛くなったりしましたが、
  (あ、これ、比喩ですよ)
  なんとか馴れてきたところです。
  通勤電車にも久しぶりに乗っています。
  今回紹介するのは小池昌代さんの『通勤電車でよむ詩集』ですが、
  書評にも書きましたが、
  少し家を早くでて、少しでも本が読める時間を確保するように
  心がけています。
  だいたい、行きで70~80ページぐらいは読めるでしょうか。
  帰りの方がなかなか読めないです。
  空間はあるのですが、
  やはり疲れているのでしょうか。
  読んでいると、
  つい眠ってしまいそうになります。
  本好きにとっては、やはり往復3時間程度の通勤時間を
  うまく使いたいものだと思います。

通勤電車でよむ詩集 (生活人新書)通勤電車でよむ詩集 (生活人新書)
(2009/09)
小池 昌代

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sai.wingpen  最近電車の窓が開かない                矢印 bk1書評ページへ

 通勤電車で本を読むのはつらい。
 東京の場合でいえば、なかなか読めるものではない。まして、単行本での読書は困難だ。
 こちらが人の背中と背中の間でどう読書の空間を確保しようかと四苦八苦しているときに、座席に座って悠々と読書に勤しんでいる人をみると、なんとうらやましいことか。だから、少しでも通勤時間を早 めたりするのだが、それでも通勤電車で本を読むのは難しい。

 本書は、四十一篇の詩を収めたアンソロジーである。編んだのは、詩人の小池昌代さん。
 小池さん自身、「むかし、通勤電車で詩を読ん」でいたことがあるらしい。もっとも、「朝はひどい混みようだったから、本を読むということすら無理だった」という。
 そうはいっても、一日のなかで、自由になる時間などそうあるものではない。小池さんは、「帰りは会社から解放され、一人に戻った時間のなかで、次から次へと詩集を読んだ」。
 電車の窓からは夕闇に溶けていく街並みがみえ、やがて夜のとばりが電車を静かな空間に変えていくとき、人は詩を読む空想の翼を広げる。その日の疲労感はあるだろうが、心は詩によって癒されていく。

 詩は通勤電車のなかで読むだけの夢中を与えてくれるだろうか。
 詩は周りの人々を遠ざけ、自身の自由を与えてくれるだろうか。

 小池さんは「電車のなかほど詩を読むにふさわしい空間は、他に見つからないというくらいの気持ちになってくる」と書いているが、私にはあの空間は詩を読むには重すぎる。心が言葉の宇宙へと飛びゆかない。やはり、詩はもう少し広い時空間が望ましいのではないだろうか。
 試みに、この本に収められている一篇、中原中也の「少女と雨」を、通勤電車と日曜の午さがりに読んでみたい。やはり、読んだときの印象はまるでちがう。
 詩をもってしても、過酷な通勤電車には対抗できないかもしれない。

 詩を窮屈にしたくはない。言葉の飛翔のまま、自由に、私をつつんでほしい。
 詩とはそういうものだと思う。

 通勤電車で詩を読むのは、やはり、つらい。
  
(2009/11/02 投稿)

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