06/11/2010 組曲虐殺(井上 ひさし):書評「井上ひさしさんの映写機」

今日は入梅。
立春から135日めあたりがそれにあたるそうです。
樹も草もしづかにて梅雨はじまりぬ 日野草城
作家・戯曲家の井上ひさしさんが亡くなって
もう二ヶ月あまり経ちます。
人が亡くなっても、
季節はまちがいなく移ろい、
花は紫陽花(あじさい)の季節になりました。
そのことは当然なのですが、
何故か不思議な感じがします。
人の一生とはなんでしょうか。
どんなにすごい人生であっても
草花の移り変わりにまさることは
ないのかもしれません。
今日紹介するのは、
井上ひさしさんの最後の戯曲『組曲虐殺』です。
表紙の装丁は和田誠さん。
じゃあ、読もう。
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先日TVで井上ひさしさんの元気な姿を拝見しました。もちろん、残念ながら、生前撮影された昔の映像ではあったのですが。
番組(NHK教育テレビの「ETV特集」)のタイトルには、井上ひさしさんの最後の戯曲となった『組曲虐殺』の一節、「あとにつづくものを信じて走れ」が使われていて、タイトル通り、井上さんがこの戯曲の主人公小林多喜二にどのような思いを託したのかを関係者の話を交えながら構成されたものでした。
その番組のなかで小林多喜二のことを井上さんがどんなに描きたかったかが紹介されていましたが、同時に、それは井上さんの早世した父親に重ねる姿としてもとらえられてもいました。
井上ひさしさんの父修吉は作家になることを夢みていた文学青年でした。そして、小林多喜二とも同時代の人でした。作家になることを願いながらも志なかばで亡くなった父のことを井上さんは終生忘れませんでした。
小林多喜二を描くことは暗い昭和を描くことであったし、多喜二の無念を書くことでもあったでしょう。
しかし、井上さんは時代の悲劇としての多喜二を描こうとしただけでなく、作家になるという夢を果たせなかった父親に代表される、多くの人たちの悔しさを、たくさんの戯曲を通じて描いてきたのかもしれません。
舞台の終盤近く、主人公の多喜二はこんな台詞を口にします。
「体ごとぶつかって行くと、このあたりにある映写機のようなものが、カタカタと動き出して、そのひとにとって、かけがえのない光景を、原稿用紙の上に、銀のように燃えあがらせるんです。ぼくはそのようにしてしか書けない」
多喜二の台詞なのですが、井上さんのこれが思いだったと思います。
カタカタと動き出した井上さんの映写機は、父親を映し出し、井上さん自身をうつしだし、やがて多くのそれにつづく人々を浮かびあがらせたのではないでしょうか。
(2010/06/11 投稿)

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