05/11/2011 黄色い本(高野 文子):書評「娘の言い分父の言い分」

今日も昨日につづいて
漫画本の紹介です。
蔵出し書評になりますが、
いつかぜひ紹介したいと思っていた本です。
高野文子さんの『黄色い本』。
この書評にはすこしばかり工夫がしてあって
娘と父親の会話のように
書いています。
この時の娘は上の子を想って書きました。
この漫画、実に文学の香りのするもので
娘には手ごわかったかもしれません。
あれから何年もたって
もしかしたら娘も読めるように
なってくれてたらいいのですが。
はたしてどうだろう。
じゃあ、読もう。
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父は今までアタシに漫画を読むなと云ったことがない。
父が子供だった頃、よく漫画ばかり読んでと叱られたそうだ。漫画はけっして悪いものではないのに、と父はずっと思っていた。だから、娘のアタシから漫画本を取り上げることはしなかった。
それどころか、アタシが読んでいる漫画を父が読むこともある。父は今でも漫画が好きなのだ。
そんな父がアタシに読んでごらんと勧めてくれたのが、高野文子さんの「黄色い本」だった。でも、アタシにはどうもわかりづらかったので、「難しいよ、これ」って父に返したら、父は「そうか」と少し悲しそうな顔をした。
娘の部屋にいっぱい並んだ漫画本を見ると、私の時代との違いを感じる。なんだか原色だけでつくられた世界のようだ。
私の子供時代の漫画はもっとゆったりしていたような気がするし、教科書や文学書にはない独特の世界観があったようにも思う。「名探偵コナン」も「ヒカルの碁」もすごく上手な漫画だと思うが、文学や詩に匹敵するとは言い難い。私が読んできた真崎守や永島慎二の漫画はもっと深く心に残ったように思う。
高野文子の「黄色い本」はそういう点では、現代漫画の中では稀有な作品だろう。娘が読めないと私に返してきたが、なんだかそれもわかる。今の漫画世代には重過ぎる作品かもしれない。
父は「黄色い本」の題名の謂れでもある『チボー家の人々』を学生時代に読んだことがあるらしい。箱入りの五巻本は、箱から出すと本当に黄色い本だったそうだ。
「どんな本だったの?」と訊くと「よく覚えていない」と云う。そんなの読んだことにならないよ。父は恥ずかしそうに、高野さんの「黄色い本」をぱらぱらとめくった。
今年(2003年)の第7回手塚治虫文化賞の「マンガ大賞」に「黄色い本」が選ばれた。そして、同賞の「新生賞」が娘の好きな「ヒカルの碁」だった。
選考委員の一人である荒俣宏氏が高野の作品を「現代の日本マンガにおける一方の極北」と評しているが、「ヒカルの碁」と比べると荒俣氏が云おうとした意味がよくわかる。娘には「ヒカルの碁」こそ漫画なのかもしれない。しかし、「黄色い本」が描こうとした世界もわかってほしいと、私は思う。
今の娘と同じ年令の頃読んだ『チボー家の人々』のことはほとんど覚えていないが、それでも私はその本を読むことで何かをつかもうとしていた。
そんなことを、父さんはこの本を読んで思い出していたんだよ。
(2003/06/08 投稿)

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