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プレゼント 書評こぼれ話

  今日は昨日につづいて
  新潮文庫の新刊として出版された
  重松清さんの自選短編集「女子編」の
  『まゆみのマーチ』を紹介します。
  昨日も書きましたが、
  今回の自選短編集は
  東日本大震災のあと
  重松清さんがどのような支援ができるかを考え、
  過去の作品の自選集を出すことで
  その著者印税を寄付するという
  試みで編まれたものです。
  つまり、私たちがこの文庫本を購入すると
  その何パーセントが寄付されると
  いうことです。
  昨日も書きましたが
  そんな重松清さんの心意気に
  賛同します。
  「女子編」「男子編」、
  あわせてお読みください。

  じゃあ、読もう。

まゆみのマーチ―自選短編集・女子編 (新潮文庫)まゆみのマーチ―自選短編集・女子編 (新潮文庫)
(2011/08/28)
重松 清

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sai.wingpen  あきらめるわけにはいかない           矢印 bk1書評ページへ

 重松清さんの言葉でいえば、「東日本大震災がなければ生まれなかった」自選短編集の、これは「女子編」です。
 「女子」というくらいですから、この自選集には過去の短編集から女の子を主人公にした物語が五編と、東日本大震災後に新たに書かれた短編「また次の春へ―おまじない」が収められています。
 重松さんのファンだけでなく、重松さんの作品を読まれていない人には入門編となる一冊です。

 重松さんは文庫巻末の「刊行にあたって」という文章のなかで「失われた風景を取り戻すには長い時間がかかるはずです」と書いています。
 津波で流された家々、火災で燃え尽きた町々、失われた風景はそれだけではありません。昨日までともに生活していた人々がいなくなることも、失われた風景です。あるいは町や人にまつわる思い出も。
 東日本大震災の時たくさんの思い出のアルバムが流されました。それらを一枚一枚ていねいに捜しつづける人々。思い出は心のなかにあるはずですが、やはり人はその縁(よすが)となるものを求めます。
 先の文章につづけて重松さんは「でも、あきらめるわけにはいかない」と記しました。あきらめるわけにはいかない。東北の人たちがもっともそのことを感じているはずです。
 失われたものをただ悲しんでいるわけにはいかない。あきらめるわけにはいかない、と。

 本書に収められた、東日本大震災のあとに書かれて短編「また次の春へ―おまじない」は、かつてたった一年間だけ被災にあった海岸沿いの町が海に呑み込まれたことを目にしたマチコさんが被災地を訪ねる物語です。
 四〇年近く前の、しかもたった一年間だけ過ごした町。さらに津波で風景が一変した町で、マチコさんはかつてそこで生きた証を見つけようとします。何もかも失われた町で、それでもきっと残っているものがあるはず。マチコさんはあきらめるわけにはいかないのです。
 なぜなら、今そこに彼女は生きているから。
 そして、彼女は見つけます。失われた町から、失われた思い出から、彼女がまちがいなくそこに生きた証を。

 津波は多くのものを連れ去りました。しかし、人の心にあるものだけは連れ去ることはできませんでした。
 だから、私たちは強く思います。
 あきらめるわけにはいかない、と。
  
(2011/09/30 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  新潮文庫の新刊の棚の前にたつと
  二冊の文庫が目をひきます。
  一冊は薄いブルーの
  もう一冊は薄いオレンジの表紙です。
  著者は重松清さん。
  あれ、こんな本あったかなと
  思いましたが
  これは重松清さんが東日本大震災のあと
  文庫本オリジナルとして
  自選された短編集でした。
  薄いブルーの表紙が「男子編」。
  薄いオレンジの表紙が「女子編」。
  それぞれに、
  新しい短編がひとつついています。
  今日紹介するのは、
  そのうちの一冊、「男子編」。
  『卒業ホームラン』です。
  明日は「女子編」を紹介します。

  じゃあ、読もう。

卒業ホームラン―自選短編集・男子編 (新潮文庫)卒業ホームラン―自選短編集・男子編 (新潮文庫)
(2011/08/28)
重松 清

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sai.wingpen  心の「支援」                 矢印 bk1書評ページへ

 重松清さんの言葉でいえば、「東日本大震災がなければ生まれなかった」自選短編集の、これは「男子編」です。
 「男子」というくらいですから、この自選集には過去の短編集から男の子を主人公にした物語が五編と、東日本大震災後に新たに書かれた短編「また次の春へ―トン汁」が収められています。
 重松さんのファンだけでなく、重松さんの作品を読まれていない人には入門編となる一冊です。

 ところで「東日本大震災がなければ生まれなかった」ということですが、この本の著者印税は将来にわたって全額寄付されます。そのあたりのことを「僕自身は直接の被災者ではなくても―いや、被災者ではないからこそよけいに、ただ報道だけを追いかけている自分がもどかしくてしかたがありませんでした。なにかできないか。ほんの小さなことでも役に立てないだろうか」と重松さんは記しています。
 新しい物語を書くのではなく、昔の物語で役立つのであれば、とまとめられたのがこの短編集です。重松さんは他の著作でも同じような試みをしています。
 その心意気に賛同します。

 東日本大震災のあと、「支援」という言葉が氾濫しました。ボランティア、寄付金、コンサート、炊き出しなど、困っている人を救済しようという行為に溢れました。そういう姿をみると、この世界はまだまだ捨てたものではないと思います。
 しかし、本当の「支援」が、それは国の「支援」ということですが、随分と遅れていることは否めません。被災された人々をほんとうに救済することは未来へとつづく国の新しい在りようではないでしょうか。

 一人の作家はそれでも立ち上がりました。
 そして、そこにまとめられた悲しくつらい物語の数々も、この国が冒してきた過去の過ちを描いているように感じます。
 いじめ、ひきこもり、家庭崩壊、離婚、少子化、家族という小さな単位での、私たちは「漂流者」です。そのことを誰も「支援」してきませんでした。
 もし、そのことに「支援」をするとすれば、それは私たち一人ひとりの心のありようではないでしょうか。
 重松さんの作品がすぐれているのは、そういった心の「支援」があるからのような気がします。
  
(2011/09/29 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  先日北京で行われた
  SMAPの海外初のコンサートは
  日本のメディアも異常なばかりに
  報道されていました。
  すごいな、SMAP、って感じです。
  彼らがそのコンサートで
  テレサ・テンさんの『月亮代表我的心』という歌を
  中国語で歌ったそうですが
  若い人、特に日本の若い人には
  テレサ・テンさんって
  わかったのでしょうか。
  そういえば、と
  以前テレサ・テンさんの生涯を描いた
  有田芳生さんの『私の家は山の向こう - テレサ・テン十年目の真実』という
  書評を書いたことを思い出して
  今日はテレサ・テンさんを知らない
  若い人に蔵出し書評で紹介します。
  SMAPが大好きな皆さんも
  テレサ・テンさんを知ることで
  何故彼らが中国で彼女の歌を歌ったのかが
  わかるかもしれませんね。

  じゃあ、読もう。  

私の家は山の向こう―テレサ・テン十年目の真実 (文春文庫)私の家は山の向こう―テレサ・テン十年目の真実 (文春文庫)
(2007/03)
有田 芳生

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sai.wingpen  彼女は歌うように泣いた              矢印 bk1書評ページへ

 《アジアの歌姫》と呼ばれた麗君(日本ではテレサ・テンという名の歌手だった)の短すぎる生涯を描いた本書には一枚のCDがついている。
 そこに収められているのは、本書の書名にもなっている「我的家在山的那一邊」(私の家は山の向こう)という、わずか三分ばかりの短い歌である。
 これは1989年に起きた中国天安門事件に抗議する形で行われた香港での野外コンサートに麗君が歌ったものを録音したものだが、麗君の声は艶やかで、高い音は伸びやかに広がり、歌姫に恥じない上手さを感じる。
 会場に向かうまでの彼女の心の振幅を読む(「第四章 悲しい自由」参照)と、彼女がどれだけ祖国の悲劇に心を痛め、どれほどの思いを込めてこの歌を唄ったかがわかる。
 だから、彼女がこの歌の終わりに思わず「イエィー」と叫ぶ音声は、作品で描かれた以上に麗君の思いを真直ぐに私たちに伝えてくる。

 私はアイドル歌手のようにして登場したテレサ・テンが好きではなかった。
 彼女の歌は何度も聴いたし、彼女の歌を持ち歌のようにしてカラオケで唄う多くの人たちを見てきたが、私にはテレサ・テンが何故多くの人を魅了するのか理解できなかった。
 当時多くのかわいいアイドルの中でいわゆる「おかめ顔」をしたテレサはけっして何かを惹きつけるものではなかった。歌が上手かったといっても、所詮は心もとない日本語の発声だった。
 そんな私がテレサのことを少し判った気持ちになったのは香港映画「ラブ・ソング」を観た時からだったかもしれない。

 96年に封切りされた「ラブ・ソング」はかつての東映やくざ映画を彷彿させる哀愁が漂った恋愛映画の名作だが、この映画には麗君の歌と死が印象的に描かれている。
 映画の主人公たちがまるで渇望するように麗君の歌を求め、彼女の死に深い悲しみを覚える。
 それは映画のワンシーンに過ぎないのだけど、中国語で歌う麗君は、日本でのテレサ・テンとはまったく違う歌手のような気がした。
 麗君の声は切なく、まるで静かに涙を流しながら歌っているかのようであった。その時、私は日本でテレサ・テンと呼ばれた歌手は、本当は《アジアの歌姫》である麗君でしか理解できない歌い手であったことを理解した。

 有田芳生は麗君の死後10年にしてやっと麗君の短い生涯を描き終えた。
 もし有田の作品を評価するとすれば、彼が決してテレサ・テンを書いたのではなく、まぎれもなく祖国の悲劇に涙した麗君を描いたことにちがいない。
  
(2005/07/26 投稿)

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  今日紹介するのは
  「百年文庫」の30巻め。
  ずばり「」。
  陰影という言葉がありますが、
  私たちが生きていくのに
  影は重い意味を持ちます。
  もちろん、
  明るい光は強く求められますが
  それだけでは
  人生の奥深さはでないのでは
  ないでしょうか。
  多くの文学作品は
  だからこそ
  影の部分をたくさん描いてきたように
  思います。
  話は変わりますが、
  昔私が手にしたロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』は
  伏字がはいっていたように思います。
  ×××、みたいな。
  昭和40年代ですよ。
  それでも、×××、ですよ。
  少年の心は妄想たくましく、
  この×××をじっとにらんでいました。
  
  じゃあ、読もう。

(030)影 (百年文庫)(030)影 (百年文庫)
(2010/10/13)
ロレンス、内田百? 他

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sai.wingpen  光と影。どちらかどうということではないが。       矢印 bk1書評ページへ

 光と影。どちらかどうということではなく、光がないと影はできない。影がなければ光は生きない。私たちの人生にもよく使われる言葉、光と影。
 光に憧れはするが、そればかりが人生ではない。光にゆっくりと忍び寄る影。影に差し込む一条の光。どちらがどうということではなく。
 「百年文庫」の第30巻めのタイトルは「影」。
 密やかに忍び込む影を描いた3篇、D・H・ロレンスの『菊の香り』、内田百の『とおぼえ』、永井龍男の『冬の日』が収められている。

 D・H・ロレンスといえば誰もが『チャタレイ夫人の恋人』を思い出す。日本でも伊藤整訳のそれが猥褻文書として裁判で争われたことは有名だ。
 そのロレンスが書いた『菊の香り』は貧しい炭鉱労働者一家の悲しい一夜を描いた作品である。こういう作品を読むとロレンスが『チャタレイ夫人の恋人』で描いた庭師の男の肉体とつながるもの、それは底辺に生きる人々といっていいかもしれないが、を感じる。
 突然の炭鉱事故で死んでしまった夫の遺体を前にして、その妻エリザベスは夫が「自分にとってどんなに縁もゆかりもない他人だったか」を自覚する。
 夫婦として身体を重ねても所詮は交わらなかった個を痛感する。それは生と死の対峙でもあり、光と影の対峙でもある。重い短編だ。

 内田百の『とおぼえ』はその点どこか怪談めいている。
 主人公の私が迷い込んだ夜の闇。その中の小さな灯り。それは小さな氷屋だった。その店の主人とかわすちぐはぐな会話。主人公の私はまるで異界にさまよいこんでいるかのようだ。これは光の世界か、それとも影の世界か。作品もまた揺らいでいる。
 一方、永井龍男の『冬の日』はしっかりと構成された短編だ。亡くなった娘の夫とその子と暮らす主人公の登利。まだ彼女は四十四歳と若い。だから、あらぬ噂もないではないが、登利も義理の息子になる佐伯も一線を引こうとする。影に差し込む一条の光はそのようにして闇をわけるのだ。その光を登利は受け入れた。短編としてもうまくまとめた、職人芸のような作品である。

 光と影。どちらかどうということではないが、文学は影を描きながら、人生の奥深さ、光の部分を際立てようとしてきたのではないか。
  
(2011/09/27 投稿)

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  作家の吉村昭さんが
  生前最後まで筆をいれていたのが
  今日紹介する『死顔』だったそうです。
  自身の兄の死の風景を描いた
  短編です。
  自身の死と向き合いながら
  肉親の死を描く。
  作家とは、
  あるいは吉村昭さんとは
  なんと強い人でしょう。
  私が読んだのは
  新潮文庫版ですが
  これには奥様の津村節子さんの
  あとがきが付いています。
  そのあとがきにも
  吉村昭さんの
  最後の風景が描かれています。
  ご興味のある方は
  この新潮文庫版を読まれると
  いいでしょう。

  じゃあ、読もう。

死顔 (新潮文庫)死顔 (新潮文庫)
(2009/06/27)
吉村 昭

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sai.wingpen  悲しみの刻                   矢印 bk1書評ページへ

 2006年に亡くなった吉村昭さんの遺作短編集です。
 最後の遺作となった作品が『死顔』というのも不思議な予感のものを感じますが、この作品は吉村さんの次兄の死を題材にしたもので、同じ題材を扱った『二人』という短編もこの短編集に収められています。

 特に『死顔』は癌で入院していた病床で何度も推敲していた作品で、そのあたりの事情と吉村さんの死の直前の様子を綴った夫人で作家の津村節子さんがつづった「遺作について」もこの文庫版に併録されています。
 その文章の中で津村さんは「遺作となった「死顔」に添える原稿だけは、書かねばならなかった」と綴っています。その理由はその短文全体で推しはかるしかありませんが、この作品そのものが吉村さんの死とつながっているといった思いが夫人にはあったのでしょう。
 それにしても自身の死の予感にふれながら、吉村さんはどんな心境で兄の死と自身の死生観を描いた『死顔』と向き合っていたのか。そのことを思うと、作家というのも残酷な職業だといえます。

 吉村さんの死生観と書きましたが、『死顔』の中で吉村さんは死についてこう書いています。
 「死は安息の刻であり、それを少しも乱されたくない」と。だから、死顔も見られたくないと。
 その死生観そのままに、吉村さんは次兄の死の知らせのあと、「行かなくてもいいのか」と訊ねる妻の言葉に「行っても仕様がない」とすぐさま駆けつけようとしません。
 その姿を冷たいというのは簡単ですが、吉村さんにとってその刻は次兄の家族たちのみが持つ「悲しみの刻」であり、いくら弟とはいえ自分が行けばそれが乱れると思ったにちがいありません。
 次兄の死を描きながら、そしてそれを推敲しながら、吉村さんは自身の死を思ったことでしょう。そして、妻や子供たちの「悲しみの刻」にも思いを馳せたのではないでしょうか。それでも何度もなんども推敲する。それこそ、吉村昭という作家の強さだと思います。

 吉村さんはかつて最愛の弟の死を描いた『冷い夏、熱い夏』という作品を残しています。吉村さんの数多い作品の中でも名作と呼んでいいでしょう。そして、最後の作品が次兄の死を描いた『死顔』。
 吉村さんの悲しみを想わざるをえません。
  
(2011/09/26 投稿)

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  昨日千田琢哉さんの
  『人生で大切なことは、すべて「書店」で買える。』という
  本を紹介しましたが、
  今日紹介する絵本も
  本好きにはたまらなくうれしい一冊
  肥田美代子さんの『山のとしょかん』です。
  絵本の世界では
  本が好きなのは人間だけではありません。
  山の生きものたちも
  本が大好きだというのが
  うれしいではありませんか。
  こんな素敵な図書館があれば
  山暮らしも楽しいかもしれませんね。
  夢のある絵本です。

  じゃあ、読もう。
  
山のとしょかん (えほんのもり)山のとしょかん (えほんのもり)
(2010/04)
肥田 美代子

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sai.wingpen  いっぱい うれしくなりました。            矢印 bk1書評ページへ

 本は人間だけが読むものと思ってしまいがちですが、絵本の世界では動物だって本が大好きです。
 この『山のとしょかん』も、動物と絵本の物語です。

 山の中の小さな村におばあさんが一人で暮らしています。子供たちは大きくなって町にでていってしまったからです。おばあさんはひとりぼっちですが、ある日、一人の男の子がおばあさんをたずねてきました。そして、「えほんをよんでください」と頼みます。
 おばあさんには昔子供たちが小さかった頃にいっぱい読んであげたたくさんの絵本がありました。だから、男の子に絵本を読んであげるのは簡単。
 「さあ、ここに おすわり」と、お気に入りの絵本を読んであげます。それから何日も男の子はおばあさんをたずねてきます。そして毎日絵本を読んであげるのです。

 小さな村に男の子。なんだか変です。
 おばあさんはある日こっそり男の子のあとをつけます。
 山の奥の木のねっこを「そおっと のぞきこんだおばあさんは びっくりぎょうてん」。一匹の子ダヌキが小さな子ダヌキたちに絵本を読んでいるではありませんか。しかも、おばあさんとそっくりに。
 「おばあさんは、なんだかちょっと おかしくて、いっぱい うれしくなりました」。
 そこで、おばあさんは山の生きもののために「山のとしょかん」を始めるのです。

 「いっぱいうれしく」なったのは、おばあさんだけではありません。
 この絵本を読んでいる私たちも「いっぱいうれしく」なります。おばあさんの「山のとしょかん」に集まった動物たちもきっと「いっぱいうれしく」なったことでしょう。
 そんな山に子供たちが戻って、動物と子供たち、そのパパとママ、そしておばあさんたちが共存できる、そんな世界ができたらどんなに素敵でしょうか。
 本ならそんなことも可能かもしれません。
 そう考えると、「なんだかちょっと おかしくて、いっぱい うれしく」なる、そんな絵本です。
  
(2011/09/25 投稿)

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  現代社会にあってストレスというのは
  ある程度仕方がないともいえます。
  ストレス解消法は人それぞれで
  ある人は買い物だったり
  ある人は食事だったりします。
  私の場合は読書です。
  嫌なことがあっても
  本を読んでいると忘れることができます。
  だから、どんなに本に
  助けられてきたかわかりません。
  今日紹介する千田琢哉さんの
  『人生で大切なことは、すべて「書店」で買える。』には
  たくさんの読書の効用が
  書かれています。
  本は人生のすべてではないですが
  私にとっては少なくとも
  重要な一部でもあります。

  じゃあ、読もう。

人生で大切なことは、すべて「書店」で買える。人生で大切なことは、すべて「書店」で買える。
(2011/07/28)
千田 琢哉

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sai.wingpen  つらいときこそ本を                 矢印 bk1書評ページへ

 本書の著者千田琢哉さんは学生時代に自腹で一千万円を本の購入にあて、一万冊以上の本を読破したという。四年間で一万冊であるから単純に計算しても一年間で二千五百冊以上読んだことになる。学生時代だからこそできることだが、それでもその数は半端ではない。
 だから、ついこれは特別なことと思いがちだが、著者の域までたどりつくのはなかなか難しいにしても、一人の人間が成し遂げたのだから、自分はできないと端から思う必要はない。むしろ、もしかしたら自分にもできるのかもしれないと思うべきだろう。
 本を読むということはそういうことだ。
 本には奇想天外なことが書かれていることもあるが、多くは昔の人たちが考え、実践してきたことだ。それからいかに学ぶか、そのことも本が教えてくれる。

 本書では、本を活用した「行動力」「コミュニケーション力」「勉強力」「仕事力」「経済力」「成長力」が簡易な文章で説明されている。それらをすべてひっくるめて「読書力」と呼んでもいいのではないだろうか。
 生きていくことと「読書力」とは切っても切り離せない関係にある。なぜなら、本には人類が生み出し、育ててきた英知があるのだから。
 もちろん、本がすべてではない。本よりもっと大事なことは山ほどある。そのことを忘れてはいけない。

 面白いのは本書の最後に書かれている「エピローグ」だ。「つらいときには群れるな」と、まるでビジネス本のようなタイトルがついている。
 こうある。「もし、あなたが将来幸せになりたいと思うのであれば、つらいことがあった際にすぐに群がらないことです」と。
 つらい時に私たちをなぐさめてくれるのは友人であったり家族であったりする。それはそれでおかしくはない。ただ、もっと自分自身を強めたければ、一人でも耐えきれるかどうかだろう。
 そんな時に勇気をくれるのが本だ。
 「つらいときには群れるな」のあと、著者が続けたのはこんな言葉だった。
 すなわち、「本を読め」。
  
(2011/09/24 投稿)

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   東京に井戸ある不思議秋彼岸  能村研三

  今日は秋分の日です。
  お休みの人も多いのではないでしょうか。
  こんな日はいい長編小説を
  じっくり味わってみるのもいいのでは。
  ということで、今日は
  今回の第145回直木賞を受賞した
  池井戸潤さんの『下町ロケット』を
  紹介します。
  昨日第144回直木賞受賞の道尾秀介さんの『月と蟹』を
  厳しく書きましたが、
  今回の受賞については文句なしに
  大賛成します。
  とにかく面白い、というしかありません。
  こういう物語は
  面白くて読むのがやめれなくなります。
  どんどん読めちゃう。
  ひきこまれるという感覚。
  この『下町ロケット』は経済小説というジャンルに
  はいるのでしょうが、
  変なビジネス本よりもうんとタメになります。
  秋の読書には欠かせない一冊です。

  じゃあ、読もう。
  
下町ロケット下町ロケット
(2010/11/24)
池井戸 潤

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sai.wingpen  働くってこんなにわくわくするものなんだ。             矢印 bk1書評ページへ

 第145回直木賞受賞作。
 仕事ってこんなに面白いものなんだ。働くってこんなにわくわくするものなんだ。そんなことを改めて思い出させてくれる物語だ。

 舞台は日本の「ものづくり」のシンボルでもある、東京・大田区にある小さな町工場佃製作所。そこでは精密機械が作られている。その会社の社長佃航平がこの長編小説の主人公。いや、佃もまたこの長い物語にあっては一人の登場人物でしかないのかもしれない。主人公は佃製作所そのものだといえる。
 若い頃ロケットエンジンのエンジニアとして失敗の辛い経験をもつ佃、メイン銀行から出向している経理担当の殿村、技術開発部門の山崎、若い従業員の江原や迫田。などなど。
 一つの企業で働いているとはいえ、それぞれなりの仕事に対する、生き方に対する思いがあり、まったく違う個性であるのはやむをえない。それでも、会社の門をくぐれば彼らは佃製作所を構成するものとなる。
 それは会社という組織の歯車かもしれない。しかし、その歯車は別々の性格をもち、血がながれ、個性となっている。それはもはや歯車という乾いた表現ではできないものだ。

 この物語の登場人物たちがそれほどまでに佃製作所にはまりこむのは、佃航平という社長の思いや経営の舵取りだけではない。それぞれが佃ブランドに誇りを持っているからだ。
 自分が働く会社に誇りをもてるかどうか。そのことで仕事がどんなに楽しくなるかをこの物語は示している。
 そんな時、よく聞かれるのが経営者がそのことを明らかにしないという愚痴や不満だ。若い江原や迫田は決して社長の佃がいう方向性に納得していたわけではない。彼らを突き動かしたのは、自分たちが働いているという事実だ。佃製作所で誰にも負けない仕事をしているという誇りだ。

 大企業との戦いのなかで反旗をひるがえす従業員もいる。去ろうとするその社員に社長の佃が話しかける場面がある。
 佃はその社員に「働くってことについて真面目に考えたことがあるか」と問う。
 「仕事っていうのは、二階建ての家みたいなもんだと思う」と佃はいう。そして続ける。
 「一階部分は、飯を食うためだ。必要な金を稼ぎ、生活していくために働く。だけど、それだけじゃあ窮屈だ。だから、仕事には夢がなきゃならないと思う。それが二階部分だ」と。
 そして、もしかすると、佃をはじめ佃製作所の面々はその上に「誇り」という三階部分を持ったのかもしれない。

 それにしては物語ってこんなにも面白いものなんだと、改めて思い出させてくれる作品だ。
  
(2011/09/23 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  本というのは
  読んでみないとわからないことは
  やはりあって、
  今日紹介する第144回直木賞受賞作である
  道尾秀介さんの『月と蟹』は
  同時受賞の木内昇さんの『漂砂のうたう』が
  時代小説だったが、
  『月と蟹』は現代小説で
  しかも子供がテーマの作品ということで
  期待が大きかったせいか
  失望も大きかった。
  読む前は名画「禁じられた遊び」のような作品と
  思い込んでいたのが
  いけなかったかもしれません。
  失望の分だけ
  きつい書評になって
  道尾秀介さんには申し訳ありません。
  これも選考委員の一人、
  林真理子さんが選評に書いていますが
  
   直木賞を受賞し、作家は大きく成長する。
   そうでなくてはならない。

  という期待を込めて。

  じゃあ、読もう。

月と蟹月と蟹
(2010/09/14)
道尾 秀介

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sai.wingpen  奇妙な直木賞受賞作                  矢印 bk1書評ページへ

 第144回直木賞受賞作。
 鎌倉近くの海沿いの小都市を舞台に小学五年生の慎一を主人公にして、その屈折した精神世界を秘密の場所でもヤドカリを使っての遊びと連動させて描いた長編作だが、この作品の何がよくて直木賞を受賞したのかがよくわからなかった。
 そこで、受賞時の選考委員たちの選評をあらためて読んでみたのだが、どうも評価がいま一つぱっとしない。
 渡辺淳一委員は「なんとも内攻的で独善的すぎる」とし、「現実の人間への迫力は薄く、ご都合主義で軽すぎる」と言い切っている。北方謙三委員は「暗く、重く、歪みすぎてもいる」と書きつつも、「凡百の少年小説から一頭地を抜けた」と評価もしている。
 しかし、この評価には首を傾げる。
 小学五年といえども一個の人格を形成しているだろうが、この物語に描かれた慎一という主人公もその友人の春也も身体的には子供でありながら、その内包されたものは大人のそれである。
 物語を読みすすむうちに、一体彼らは何歳なのかわからなくなるほどだ。彼らの年代であればもっと無邪気に悪意に取り込まれるはずだ。あまりにもそれは意識化されすぎている。
 だから、この物語をもって「少年小説」というのは、渡辺委員の言葉に寄り掛かれば、「ご都合主義で、軽すぎる」。

 興味をひいたのは宮城谷昌光委員の評で、この作品の文体を評価しつつ、最後にこう書く。「それはそれとして、道尾氏の小説が候補作品となる回数はふえた。そろそろ直木賞というステージを通過させてあげたい」なんて、まるで直木賞はどこかのスタンプセールの様相である。
 直木賞にしろ芥川賞にしろ新人賞であるからとやかくいうこともないが、「直木賞は作品に渡すのか、それとも作家に与えるのか、いつも議論の大きく別れるところ」という一文で書き始めた林真理子選考委員も、「作品的には決して評価が高くなかった」が、受賞に至ったのは「道尾氏が広範囲な読者を獲得し、現代の小説シーンに欠かせない人」だからだそうだ。
 もし、すでに道尾氏が広範囲な読者を獲得しているならあえてここで直木賞を出す意味がよくわからない。

 とても奇妙な受賞作だ。
  
(2011/09/22 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  昨日書いたように
  私は「ベスト・エッセイ集」が好きで
  毎年読んできました。
  読書三昧ができる無所属の時間ができれば
  またゆっくりと、
  じっくりと読みたいシリーズの一つでも
  あります。
  ところが、今年で終わりだというので
  とても残念です。
  今日は過去に読んだ一冊、
  『木炭日和 ’99年版ベスト・エッセイ集』を
  蔵出し書評で紹介します。
  書評タイトルの「作文の時間」は
  自分でもこのシリーズにつけるタイトルとして
  気にいっています。
  
  じゃあ、読もう。

木炭日和―’99年版ベスト・エッセイ集 (ベスト・エッセイ集 (’99年版))木炭日和―’99年版ベスト・エッセイ集 (ベスト・エッセイ集 (’99年版))
(1999/07)
日本エッセイストクラブ

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sai.wingpen  作文の時間                     矢印 bk1書評ページへ

 私はこのベスト・エッセイのシリーズが好きで、単行本で刊行された時に一度、文庫本になった時に一度、必ず読む。
 忙しい時間だから短かいエッセイは読みやすいのだが、できればゆったりと時間がある時にそれぞれの人生の実りを味わいたいものだ。

 99年版のこの集には小学生から主婦、著名作家の人たちの62篇の作品が収録されている。
 小学生藤本さんの作文「病気をのりこえ、律に会う」は自分の入院体験と正岡子規の生活を重ねて、小学六年生とは思えない達者な文章である。
 こういう作品を読むと、私の文章など恥ずかしくなる。書くのは嫌いではないが、いつまでたっても書くのは難しい。特に人に感動を与えるような文章はなかなか書けない。

 文章を書く時はできるだけわかりやすくから始める。最初から気取った言葉を書こうとすると、うまく進まない。
 多くの枝や葉を繁らせて、そこから余計なものを削り取っていく。あるいはこちらの枝をあちらに、あちらの枝の向きを変える。あまり力を入れすぎると枝が折れる。
 そうして書いた文章もあちこちに傷があり、作ろうとする作為が見え隠れする。
 まことに文章を書くとは難しい。

 こうして書いた文章が読み手にどのように伝わるか。書き終わった後も不安は残る。
 書くということは、まるで人生そのものかもしれない。
 だから、この本に収められた62篇の作品がそれぞれの文体で、それぞれの人生を描けるのだと思う。
  
(2003/01/21 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今日の書評にも書きましたが
  私の大好きだったベスト・エッセイ集
  今日紹介する『人間はすごいな』をもって
  終わりだそうです。
  その理由はわかりませんが
  とっても残念です。
  エッセイというか
  文章を綴るという行為は
  今やプロの書き手だけのものでは
  なくなりました。
  ブログであったり
  自費出版であったり
  アマの書き手が普段着でどんどん
  文章を書くようになりました。
  そのせいか、
  これぞ珠玉、といった文章が
  少なくなったような気がします。
  そのあたりがこのシリーズの終わる理由かと
  思ったりしています。
  せっかくですから、
  明日もこのベスト。エッセイ集のこと
  紹介します。
  お楽しみに。

  じゃあ、読もう。

人間はすごいな―ベスト・エッセイ集〈’11年版〉人間はすごいな―ベスト・エッセイ集〈’11年版〉
(2011/08)
日本エッセイストクラブ

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sai.wingpen  突然の訃報に驚きました                矢印 bk1書評ページへ

 人生齢(よわい)を重ねてくると、「突然の訃報に驚きました」みたいな場面が多くなる。ただし、そういえばそろそろ俺もそういう年なんだなと、それは驚くべきことでもないことに気づかされる。人間誰しも寿命があっていずれ終わりがくる。
 本にもそれがある。日本エッセイスト・クラブ編のベスト・エッセイ集が今回のこの2011年度版で最後だという。まさに「突然の訃報に驚きました」である。
 このベスト・エッセイ集の第一回版が出たのは1983年(昭和58年)の8月。書名は『耳ぶくろ』。以来、29年、今回の2011年度版の『人間はすごいな』が終わりのベスト・エッセイ集となった。

 毎年夏に刊行されるこのベスト・エッセイ集を愉しみにしていた。
 晩夏の蝉の声を聞きながらの楽しい読書習慣であったし、秋にはその文庫本も刊行されて、一年で二度読書の収穫の時期でもあった。
 それがなくなると思うと、淋しいかぎりだ。
 すっかり日に焼けた手元にある第一回の『耳ぶくろ』の文庫本を開くと、開高健や三浦哲郎、井伏鱒二といったすでに鬼籍にはいった人たちのエッセイが収録されている。そうなんだ、29年前には彼らもまだまだ元気だったんだ。そういう感慨がひとしおである。

 この時の「あとがき」に選考委員の殿木圭一が、「エッセイストという言葉が予想外に普及していることを知って、時代の歩みを痛感させられた。このエッセイ集が一つの引き金ともなり、さらに裾野が拡がり、それと同時に山容もまた美しさを加えるということになれば」と書いている。
 実際にこの最新巻を見ると、無名の市井の人たちの文章が目につく。裾野はりっぱに拡がり、山容は錦繍の如く美しくなったといえる。
 このシリーズは終わりだとしても、人々が文章を綴るという行為はこれからも絶えることはないだろう。

 最後につけくわえておくと、この巻には「蝋燭の光でこの手記を書く」という東日本大震災で被災された気仙沼の畠山重篤さんの体験記が胸をうつ。あれほどの体験をされてなお文章はからりとして生きる勇気がでる素晴らしいエッセイだ。
 まさに「人間はすごいな」と強く思う。
  
(2011/09/20 投稿)

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  今日は子規忌

   柿二つ一つは渋き獺祭忌  中谷孝雄

  俳人正岡子規が亡くなったのが
  明治35年の今日。
  掲句のように、その忌日を獺祭忌ともいいます。
  そこで、
  今日は正岡子規夏目漱石の俳句の世界を描いた
  坪内稔典さんの『俳人漱石』を
  蔵出し書評で紹介します。
  それにしても
  正岡子規という人は偉大な人で
  その人生は35年ばかりにですが
  その死後100年以上経って
  なおかつその関連の本が出版されるのですから
  単にその業績だけでなく
  人間的な魅力の大きかった人だと
  いえます。
  せっかくの休日ですから
  正岡子規の句でも
  読んでみるのもいいですね。

  じゃあ、読もう。

俳人漱石 (岩波新書)俳人漱石 (岩波新書)
(2003/05/20)
坪内 稔典

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sai.wingpen  いいのは少しほめ給え。                     矢印 bk1書評ページへ

 (夏の雨) 今回の書評は岩波新書から出ました坪内稔典さんの「俳人漱石」ということで、夏目漱石先生と正岡子規先生に特別ゲストとして参加して頂きました。
 (漱石)  稔典君の本の雰囲気を真似ようという魂胆だな。
 (夏の雨) そうなんです。坪内さんのこの本は、俳句を作られた漱石先生と漱石先生の俳句の師匠でもあった子規先生を登場させて、仮想座談会を進めるような形で書かれているんですよね。
 (子規)  坪内は俺たちのことが好きで仕方がないから、俺たちのことをよく知っているよな。だから、それぞれの特徴をつかんで、きっと漱石ならこう云う、子規ならこう話すって、うまく書いているよ。
 (夏の雨) だから、この本は漱石俳句の鑑賞だけでなく、漱石先生や子規先生の人柄なんかもよくわかるようになっています。それにしても、この本で紹介されている漱石先生の俳句を読んでいますと、短期間ですごく上達しているのがわかりますよね。
 (子規)  俺の指導がよかったからだよ。
 (漱石)  わしの才能だよ。
 (夏の雨) というより、俳句というのはリズムの文学だと思うんですよね。漱石先生の俳句がすごく上手くなっていったのは、ある時期集中して俳句を作られたからだと思います。明治二九年には五百以上作っています。生活そのものを五七五のリズムで実感していたんじゃないですか。だから、俳句が上手くなりたければ、とにかく作ることだと思います。漱石俳句を年代順に読んでいくとそのことがよくわかります。
 (漱石)  いいこと云うじゃないか。
 (夏の雨) それと、やはりお二人の友情が漱石先生の創作欲を高めたともいえます。私が素敵だなと思ったのは、この本に紹介されていますが、明治二八年のお二人のやりとりです。引用しますね。「わるいのは遠慮なく評し給え。その代りいいのは少しほめ給え」特に後段の部分、漱石先生の子規先生に対する甘えみたいな表現がいいですね。深い友情を感じます。
 (漱石)  ところで、君はわしの句の中で何が一番好きなのかな。
 (夏の雨) 明治四三年に書かれた「別るゝや夢一筋の天の川」ですね。でも、今日はお二人の友情ということで、子規先生が亡くなった時に倫敦で作られた「筒袖や秋の柩にしたがはず」にしておきます。
 (漱石)  うまくまとめおったな。それにしても、君の書評名の「夏の雨」は気障でいかん。
 (子規)  同感ぞな、もし。
  
(2003/06/15 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  明日は敬老の日
  私たちの世代は
  敬老の日といえば
  9月15日なんですが、
  休みにも色々な事情があって
  今年は9月19日。
  今日紹介する絵本は
  ダグマー・H. ミュラーさんの『忘れても好きだよ おばあちゃん! 』は
  アルツハイマー病を題材にしています。
  若い人には
  年をとるということが
  なかなか実感できないと思いますが
  年をとるということは
  誰もがたどる、
  これからいく道。
  そのことを忘れないようにして下さい。
  そうすれば、
  少しはちがった敬老の日が
  過ごせるかも。

  じゃあ、読もう。
  

忘れても好きだよ おばあちゃん! (あかね・新えほんシリーズ)忘れても好きだよ おばあちゃん! (あかね・新えほんシリーズ)
(2006/10)
ダグマー・H. ミュラー

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sai.wingpen  葉は散っても幹は残る、根は残る              矢印 bk1書評ページへ

 昨年の春に母が亡くなって父はすっかり表情をなくした。元々娯楽を好まなかった父で、唯一の楽しみは案外陽気な母のおしゃべりや笑い声だったのかもしれない。
 記憶も遠くにあるようで、息子である私のこともどこまでわかっているのだろうか。無表情でじっと顔をみて、そのあとぐしゃりと顔を崩して涙をこぼすのは、まだ私が息子であることを理解しているようでもある。
 息子としてそう思いたい。

 この絵本の、かわいい女の子の「わたし」のおばあちゃんは病気だ。アルツハイマー病である。
 「おばあちゃんは聞いたことを、おぼえていられない」病気なのだ。洗濯の仕方も昔のような手洗いは覚えているが、最近の洗濯機の使い方はすぐに忘れてしまう。
 「名前もすぐに忘れて」しまう。
 そんなおばあちゃんだが、小さいときのことはよく覚えている。
 「わたし」のママはそんなおばあちゃんのことを「おばあちゃんの頭には、秋がきたのね」という。
 「おばあちゃんの人生の木」は上の方の最近の葉っぱから散っていく。それは悲しいことだけど、「だれもとめてあげられない」。
 やさしい「わたし」は、だけど、そんなおばあちゃんが大好きだ。
 おばあちゃんと絵本を読む素敵な時間。女の子はおばあちゃんのゆっくりとした時間がお気に入りなのだ。

 アルツハイマー病は今や奇病でもなんでもなくて、人生の秋にはよくみられる病気だ。私の父もおそらくその初期の、あるいは中期の段階なのかもしれない。
 でも、この絵本の女の子のように、それでも私は父が好きだ。
 すべての葉っぱを落とした木であっても、根っこと太い幹がその人を支えている。私はその根っこと太い幹から生まれたのだ。そのことを大事にしたいと思う。
 父はこの秋、八七歳になる。
  
(2011/09/18 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今日紹介するのは
  おなじみ小宮一慶さんの『神様のサービス』。
  たくさんの事例を紹介しながら
  サービスの本質に迫る一冊です。
  そのための社員教育についても
  触れていて、
  その中で興味をひいた箇所を
  書きとめておきます。

   従業員は、ある日突然、機転の利く対応が
   できるようになるわけではありません。
   経営者が日ごろから、お客さま視点とはどういうことかを
   伝え続け、ダメなことはダメだと言い、
   良かったことは誉めて、従業員もその教えを咀嚼し…


  とあります。
  叱ることと誉めること。
  これって結構むずかしい。
  時にはこういう本を読んで
  お客様視点になっているか
  棚卸しをするものいいのでは
  ないでしょうか。

  じゃあ、読もう。

神様のサービス<br>感動を生み出すプラス・アルファの作り方 (幻冬舎新書)神様のサービス
感動を生み出すプラス・アルファの作り方 (幻冬舎新書)

(2011/07/28)
小宮 一慶

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sai.wingpen  小宮一慶さんは律儀だ                  矢印 bk1書評ページへ

 経営コンサルタントで、ビジネス本で数々のベストセラーを生み出している小宮一慶さんは律儀だ。
 小宮さんの著作の書評を書くたびに私のブログにまでコメントを寄せられる。単なるブロガーにとって著者から直々にコメントをもらえるほどうれしいことはない。あるいは、セミナーに参加して挨拶をすると「いつもありがとう」とお礼をいわれる。顔を覚えてくれたのかと、これもうれしい。
 そうなると、小宮さんの新しい本が出るとまた読もう、また書評を書こうという気になる。これぞ、小宮流のサービスの極意、「満足」と「感動」である。

 小宮さんはこれまでもたびたび「リレーションシップ・マーケティング」について書いてきた。本書は特にそのことに特化した、神業の接遇とは何であるかを説いた内容になっている。
 では、「リレーションシップ・マーケティング」とはどんなものか。それはお客様を、①潜在客②顧客③得意客④支持者⑤代弁者⑥パートナー、の6段階に分類して考えるものだ。小宮さんの本でいえば、私は⑤の段階、代弁者にあたる。なにしろ書評を書くという行為において、自然と小宮さんの本を広めていることにつながっている。
 少し話を広げると、書評そのものが書き手あるいは作品の代弁者だろう。あるいは応援者といってもいい。どんなにつまらない本であってもひとつぐらいはいいところがあるはずだ。
 書評を書く際にはそのことを見落としてはいけない。

 お客様は黙っていては代弁者になることはない。小宮さんがブログにコメントを寄せたり、顔を覚えて声をかけるという、そういったサービスの徹底が代弁者を生むのである。
 出版の世界はそういうサービスを軽視しているような気がする。売れなくても内容がよければというのはもはや神話だろう。内容がよければどんどん売れるための仕掛けをすべきだ。
 作家、編集人、出版社、それに書店の皆さんこそ、サービスを極める必要があるのではないだろうか。
  
(2011/09/17 投稿)

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  昨日は歌人の河野裕子さんと永田和宏さんの
  愛の賛歌『たとへば君』を
  紹介しましたが、
  今日もまた家族愛を描いた、
  といってもこれは小説ではありません、
  佐々木常夫さんの『ビッグツリー』を
  紹介します。
  副題にあるように
  「自閉症の子、うつ病の妻を守り抜いて佐々木常夫さんは
  上場企業の役員にもなっています。
  ビジネスマンのあなたなら
  佐々木常夫さんのような苦境に対し
  どのように対処するでしょう。
  家族を守るために
  あなたならどんな選択をするでしょう。
  この本はそのことを
  強く迫ってきます。
  昨日につづいて、
  恋人同士で。
  ご夫婦で。

  じゃあ、読もう。  

【新版】ビッグツリー~自閉症の子、うつ病の妻を守り抜いて~【新版】ビッグツリー~自閉症の子、うつ病の妻を守り抜いて~
(2009/07/16)
佐々木 常夫

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sai.wingpen  あなたならどうしますか                 矢印 bk1書評ページへ

 本書の著者佐々木常夫さんは『そうか、君は課長になったのか。』の著者でもあります。新聞の『そうか、君は・・・』の広告で、にこやかで穏やかな佐々木さんの笑顔の写真があって、この人はどんな人なのだろうと興味がわきました。それで調べてみて見つけたのが本書でした。
 東京大学を卒業し、東レに入社。その後、大企業東レのなかにあって同期トップで取締役になり、その後関係会社の社長まで昇りつめた佐々木さんですから、傍からみるといかにも順風満帆の人生に見えます。
 『そうか、君は・・・』もとてもよく売れているようです。誰もがこんな上司の下で働きたいと思ったのでしょう。しかし、佐々木さんには優秀なビジネスマンの顔とは別の、家庭人としての苦悩の顔がありました。自閉症の長男、うつ病の妻を抱えて、父としての夫としての顔です。

 本書はそんな佐々木さんの家庭を描いたものです。責任のある仕事をこなしながら、その一方で、家族を守り抜く姿は確かに多くの人の胸を打ちます。でも、この父親のもとで生活をしたいと思うでしょうか。こんな父親、夫になりたいと思うでしょうか。
 私は、「NO」です。
 自分ならこんな父親には拒否反応を示すでしょう。また、私なら会社を辞めるでしょう。
 確かに家族を守ったのは、「ビッグツリー」だった佐々木さんです。
 本書に書かれているようなことはなかなか出来るものではありません。結果として、家族はひとつにまとまりました。しかし、それは結果です。うつ病だった妻がなくした何年間はどこにいってしまうのでしょう。

 これは美談でしょうか。
 私にはとてもそうは思えませんでした。かといって、けっして不快ということでもありません。佐々木さんはきっと正しいことをされたのだと思います。
 でも、それだけが美しいのではありません。もし、これは女性だったらどうでしょう。仕事を続けることはできたでしょうか。「ビッグツリー」になることを選んだでしょうか。
 困難を乗り越えることは大事なことです。ただし、乗り越え方は人それぞれの価値観の違いとなってでてきます。困難を乗り越える、その過程が大事であって、その方法は自分自身に問われるのです。困難を乗り越えた時、あなたも「ビッグツリー」になれるのです。
  
(2011/09/16 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今日紹介するのは
  昨年の夏亡くなった歌人の河野裕子さんと
  そのご主人である永田和宏さんによる
  相聞歌と河野裕子さんの文章をまとめた
  『たとへば君』です。
  読書の秋にふさわしい
  愛の一冊です。
  永田和宏さんと河野裕子さんには
  二人のお子様、ともに歌人ですが、が
  おられます。
  でも、ここでは出会いから
  河野裕子さんの死という別れまでの
  二人の恋の時間がつづられています。
  恋人未満、恋人、
  そして夫婦。
  二人の関係は時間とともに
  移り変わりましたが、
  互いへの想いは変わりませんでした。
  とってもいい本です。
  ぜひ恋人同士で。
  ご夫婦で。

  じゃあ、読もう。

たとへば君―四十年の恋歌たとへば君―四十年の恋歌
(2011/07/08)
河野 裕子、永田 和宏 他

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sai.wingpen  濃厚な愛の時間                   矢印 bk1書評ページへ

 相聞歌というのは相手の消息をたずねたり相手への思いを綴る歌である。
 歌人河野裕子とその夫である歌人永田和宏は学生時代の出会いから、2010年8月の河野の死までの四十年間、互いに相聞歌を詠み続けてきた。その数は二人合わせると1000首近くになるという。なんという幸福な関係であろう。
 本書はそんな二人の相聞歌を380首紹介するとともに、河野が生前綴った文章からその折々に関係するものを抜粋し、短歌の世界により深みをもたせている。

 河野には相聞歌についてこんな記述がある。「誰の為にも私は短歌を作るまい。まして相聞はと思うのである。それは女の生き方の一種のいさぎよさ、真摯さであるまいか」と。
 ただし、これは河野の第一歌集『森のやうに獣のやうに』に書かれたもので、まだ若い河野の強がりであろう。のちの、特に晩年の歌は、相聞以外の何物でもない。確かに「誰の為にも」詠わなかったかもしれないが、あきらかに夫である永田に伝えようという思いがひしひしと伝わってくる。それは心の寄り添いといっていい。

 河野の代表作のひとつで、本書のタイトルにもなった「たとへば君 ガサッと落葉すくふように私をさらつて行つてはくれぬか」の相手について、永田は自分ではないかもしれないと述懐している。河野の生前にそのことを確かめなかったと。
 しかし、この「君」は永田である必要はない。若い河野が書いたように、これは女の真摯さが生んだ相手なのだから。それでいて、ある人への心の傾斜が見事に描かれている。
 こんな二人であるが、その夫婦生活がすべて順調であったかといえばそうでもない。時に争いもした。
 河野にこんな歌がある。「逆上してこゑをあぐれどこの家はつらら垂る家誰もひそひそ」。なんとも寂しい光景である。こういう歌を読むと互いに歌人という職業を営む難しさを思わざるをえない。永田はこの歌をどんな思いで読んだことだろう。

 それでも河野も永田もどんなに深く相手のことを思ったことか。「米研ぎて日々の飯炊き君が傍(へ)にあと何万日残つてゐるだらう」と詠う河野。「たった一度のこの世の家族寄りあいて雨の廂に雨を見ており」と詠む永田。
 この一冊の流れる濃厚な愛の時間。

 「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」は河野裕子の絶筆のひとつだ。
 そうか、愛し合うとは同じ世界で息をすることか。そんな当たり前のことをいまさらに思う。
  
(2011/09/15 投稿)

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  昨日荒川洋治さんの『ラブシーンの言葉』という
  本を紹介しましたが、
  そういえば、よく似た本があったなぁと
  思い出したのが
  石川三千花さんの『ラブシーンの掟』です。
  ね、よく似たタイトルでしょ。
  ということで、今日は蔵出し書評
  紹介します。
  『ラブシーンの言葉』が聴覚なら
  『ラブシーンの掟』は視覚。
  『ラブシーンの言葉』が文学なら
  『ラブシーンの掟』は映画。
  でも、ラブシーンって
  なんだかちょっとむずむずして
  いいなぁ。
  大人の皆さん、
  若い皆さん、
  どんどんラブシーンを楽しんで下さい。

  じゃあ、読もう。   

ラブシーンの掟 (文春文庫)ラブシーンの掟 (文春文庫)
(2007/01/10)
石川 三千花

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sai.wingpen  笑えて、ちょこっとそそられて              矢印 bk1書評ページへ

 この本の魅力を著者の石川三千花自身が「あとがき」に書いている。「単行本になるのが自分でも楽しみだった。だって、毎回ページをめくる度にキスシーンやベッドシーンのイラストが出てくるんだもの。笑えて、ちょこっとそそられて。」
 でも、石川のイラストではそそられるまでに至るかどうかは読者にまかせるとして、少なくともこの本を読み終わったら、ここで紹介されている何本かの映画を観たいと思いたくなる、映画のラブシーンばかりを集めた映画お楽しみ本である。(実は私もさっそくこの本で紹介されていたキム・ベイシンガー主演の『ゲッタウェイ』をレンタル店に借りに行った一人である)

 映画はいろいろなことを教えてくれる。家族のあり方、戦争の是非、愛の姿…。ラブシーンもそのひとつだろう。キスの仕方を映画で勉強した人もいるのではないだろうか。あるいは美女と美男が繰り広げる華麗で淫靡なベッドシーンに胸ときめかせた人も多いだろう。
 石川はこう書く。「ラブシーン。それは、ひとつの作品においての、ここ一番の見せ場である」。けだし、名言である。西部劇でいえば、ヒーローと悪者の一騎打ちみたいな場面である。ただただ息をのんで観るだけだ。

 その一番いいところを石川はイラストにしているわけだが、その一部は表紙画になっている。表紙には3本のラブシーンが描かれているが、本書には48本のラブシーンが紹介されているから、これは予告編みたいなもの。できれば全編カラーで読みたいところだが、予算の関係もあるのだろう、残念ながらカラーで読めるのは数本しかない。
 若い人は知らないかもしれないが、昔ポルノ映画がピンク映画と呼ばれていた昭和40年代の頃はあの場面になるとカラーになる作品が作られていた。まさに一番の見せ場だけを当時の言い方でいえば<総天然色>で見せていたことになる。

 ぜひとも、<総天然色>版の続編を読みたいものだ。
  
(2005/05/20 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  最近ラブシーンという言葉を使わなくなりました。
  私が使っていないのか
  それとも言葉として流用されなくなったのか
  わかりませんが。
  では、男女のそういう場面を何というのか。
  うーむ。
  どうも私がそういうことから縁遠くなったせいかも。
  言葉がでてきません。
  今日紹介するのは、
  詩人の荒川洋治さんが書いた
  『ラブシーンの言葉』。
  最近そんな言葉使っていないという
  大人の皆さん。
  これからそういう場面に遭遇するだろう
  期待を寄せている若い皆さん。
  予習、復習を怠らないように
  たまにはこういう本を読んでみるのも
  いいですよ。

  じゃあ、読もう。
  
ラブシーンの言葉ラブシーンの言葉
(2005/10)
荒川 洋治

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sai.wingpen  官能小説はいつも、男たちのうしろを歩く         矢印 bk1書評ページへ

 人間には五感があります。視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚です。それぞれ目、耳、舌、鼻、皮膚で感じます。ラブシーン、ここでは官能の場面と思って下さい、では、この五感が総動員されて、より官能を高めていくことになります。
 そのなかで、聴覚というのは重要な感覚といっていいでしょう。なぜなら、人間には声があるからです。言葉があるからです。
 官能小説は文章のつらなりでいえば視覚ともいえますが、あれは聴覚の文学といえます。言葉を目で読み、それを音に変換して聴いているのです。
 だから、言葉は官能を高める武器でもあります。

 そんなラブシーンの言葉のひとひらひとひらを集めたのが本書です。
 集めたのは言葉の専門家でもある、詩人の荒川洋治さん。
 まじめな試みであるのは、この本のほとんどが「週刊朝日」初出だったということでわかります。「週刊朝日」だからいいというのではなく、広く読まれている雑誌だからということです。
 紹介されているのは官能小説ばかりではありません。古典もあれば詩もある。純文学もあれば、海外文学だってあります。
 そうやって見ていくと、言葉はどれほど「ラブシーンの言葉」をつづってきたことでしょう。

 荒川さんは「ふだん静かな人も、性愛の場面では燃える。男であり女であるときの、口もとからもれる言葉は熱く、冷たく、香り高く、めずらしい。そして、神秘的」と書いています。この「神秘的」というのがいい。
 言霊という言い方をしますが、ラブシーンの現場で発せられる言葉こそ霊感を感じるほど神秘的なものかもしれません。言葉の行ったり来たりが互いの感覚を高めていくのは、乗り移りの感覚に近いのではないでしょうか。

 官能小説論ともいえる「男のあとを歩いている」という文章のなかで、「官能小説はいつも、男たちのうしろを歩くことになる。男のあとに、何か落ちていないか。とりこぼしていないか。それを読者に気づかせてくれる」と荒川さんは書いています。なるほど、詩人はうまいことをいうと感心しました。
 男たちは官能小説を読みながら、予習をしているのでしょうか。復習をしているのでしょうか。そんな姿はまた滑稽でもありますが、いじらしくもあります。
  
(2011/09/13 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  東日本大震災から半年が過ぎました。
  被災地に復興の光はさしてきたのでしょうか。
  原発の影響はちっとも進んでいないように
  思えてしかたがありません。
  土地を奪われた人たちへの心の保障は
  どうなるのでしょう。
  いいえ。
  心の欠落に保障など存在するはずもありません。
  今日紹介するのは
  福島県出身の作家古川日出男さんの
  『馬たちよ、それでも光は無垢で』です。
  この本の宣伝コピーにひかれて
  読みました。

   震災から一月、作家は福島県浜通りをめざす。
   被災、被曝、馬たちよ! 
   目にした現実とかつて描いた東北が共鳴する、
   小説家が全てを賭けた祈りと再生の物語。

  フクシマとカタカナで呼びたくはありません。
  福島は実り多い、豊かな大地なのです。

  じゃあ、読もう。

馬たちよ、それでも光は無垢で馬たちよ、それでも光は無垢で
(2011/07)
古川 日出男

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sai.wingpen  新しい「物語」を求めて                矢印 bk1書評ページへ

 ちょうど「あの時」、朝日新聞に連載小説を執筆していた川上弘美さんは連載終了後のコメントで「あの時」のことを「津波。原発。たくさんの苦しんでいる同胞。亡くなったひとびと。手をつかねて見ているしかない自分。手がとどこおる、という易しいものではありませんでした。書こうという気持ちに、一切なれなかったのです」と書いています。
 書くことのプロである作家の、手をとめ、その気持ちすら起こさせないほどの惨事。
 「あの時」、三月十一日。
 古川日出男さんはその体感を「時間の消滅」と、この作品のなかに書き留めました。「具体的には日付の意識の、そして曜日の感覚の喪失だった」と。そして、それを「神隠しの時間」だと。

 この物語は川上さん同様「あの時」を境に書けなくなった福島県出身の作家古川日出男さんが書くことを求めて、それは「物語」を求めてと同義語かもしれない、描いたフィクションです。
 古川さんは執筆後のあとのインタビューで、「ノンフィクションを書く気は一貫してなかった」と語っています。では、この作品は何なのか。「嘘を一個も書かないフィクション」だといいます。小説家は小説を書くしかない。古川さんの強い決意がこの作品を生みました。

 福島の被災地へ、特に原発の避難区域と抱える福島浜通りへ、福島県出身の作家が行く。
 行って現地の風景を視る。視る。視る。そして、書く。
 それだとノンフィクションになってしまう。これは小説ですから、古川さんは自身の作品の挿話を交えながら、それと交流しながら、言葉をつづっていきます。
 古川さんの作品を知らない読者にはそれは苦痛でもあります。それでいて、読むことをやめれない。小説家が小説を書くことを義務のようにするように、読者は読むことをやめてはいけない。どんなことがあっても。

 連載途中で書くことをやめそうになった川上弘美さんが書くことをつづけることができたのは、「言葉の力」「物語の力」を信じることができたからだといいます。
 大きな悲しみを乗り越えるその時、人はまた新しい「物語」を手にいれるのです。
  
(2011/09/12 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今日、米国同時多発テロ事件、
  いわゆる9.11から
  丸10年を迎えます。
  あの日、2001年9月11日のことは
  よく覚えています。
  仕事から帰ってTVをつけると
  飛び込んできたのが
  あの飛行機がビルに激突する衝撃の映像でした。
  その後、ビルは崩壊。
  言葉が適切ではありませんが
  まるで映画の一シーンを見ているような
  感じさえしました。
  さらに次々とはいってくる
  テロの情報。
  一体米国は、世界はどうなってしまうのだろうと
  思いました。
  あれから10年。
  まるで9.11と対のようにして
  私たちの国は3.11を持つことになります。
  人災と天災。
  あるいは、人災と人災。
  人間はどのような悲劇であっても
  それを乗り越える力を持っています。
  9.11で犠牲になった人々。
  3.11で犠牲になった人々。
  たくさんの悲しみを無駄にしないためにも
  明日に向かって生きつづけるしかありません。

  今日はジリアン シールズさんの
  『だいすきがいっぱい』という絵本を紹介します。
  たくさんの悲しみに捧げます。
  
  じゃあ、読もう。

だいすきがいっぱい (主婦の友はじめてブック―おはなしシリーズ)だいすきがいっぱい (主婦の友はじめてブック―おはなしシリーズ)
(2007/09)
ジリアン シールズ

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sai.wingpen  心の中にある、大切なもの                 矢印 bk1書評ページへ

 人は憎しみでは生きていけません。愛する心があれば生きていけます。
 でも、愛するってどんな気持ちなのでしょう。その答えがこの絵本のなかにあります。

 「おおきくもなく、ちいさくもない、どこにでもいるような、ちょうどいいくらいの おんなのこ」と、その女の子に届けられた「ふわふわの しろい けがわに つつまれた」くまのぬいぐるみがこの絵本の主人公です。
 見た目はかわいいくまのぬいぐるみですが店頭で売られていた時に「さわらないで!」と書かれた札がそばにあったせいで、自分の名前は「さわらないで!」と思い込んでいます。だから、少し生意気。
 女の子はそんなことがわかりませんから、くまのぬいぐるみをとってもかわいがります。外で遊んだり洗濯したり。だから、いつしか白い毛皮はぼろぼろになっていきます。くまのぬいぐるみはそれが悲しくてたまりません。でも、女の子はそんなくまのぬいぐるみが大好きです。
 二人の気持ちのずれを見事に表現したページがあります。すやすやと仕合せそうに眠る女の子と悲しそうな目に涙を浮かべているくまのぬいぐるみ。
 愛するって何でしょう。

 ある日、女の子はお母さんとデパートに出かけました。もちろん、大好きなくまのぬいぐるみも一緒。ところが気がつくと、くまのぬいぐるみがいません。女の子は必死で探します。見つかりません。
 その頃、くまのぬいぐるみは遺失物の部屋におかれていました。くまのぬいぐるみはさびしくて、女の子にとても会いたくなります。
 「あのこが そばに いてくれたら、ぼく、ほかには なんにも いらないよ!」
 くまのぬいぐるみの心の叫びでした。
 愛するって何でしょう。

 憎しみは人を拒みます。愛は人を求めます。愛することは互いに求めあうことにちがいありません。そのことを女の子とくまのぬいぐるみが教えてくれます。
 ちなみに、このくまのぬいぐるみの最後のせりふが最高です。
 「ぼくは くま。だいすきが いっぱい つまった、ぬいぐるみのくまだよ!」
 あなたの心には何がつまっていますか。
  
(2011/09/11 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今日紹介する「百年文庫」は
  「」がテーマ。
  里といっても遊里、遊郭です。
  書評の中にも書きましたが
  先日読んだ木内昇さんの『漂砂のうたう』と一緒に読めば
  これであなたも遊郭通まちがいなし。
  もっとも遊郭通になっても
  あまり役立つとも思えませんが、
  人間いつなんどきどんな知識が必要にならないとも
  かぎりませんので、
  それもまたよしとしましょう。
  といっても、
  私がこの本を読もうと思ったのは
  木々の生い茂る山あいの故郷のことかと
  思ったのも事実で、
  書評を書く際には唱歌「ふるさと」を
  引用してみました。
  
  じゃあ、読もう。

(019)里 (百年文庫)(019)里 (百年文庫)
(2010/10/13)
小山清、藤原審爾 他

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sai.wingpen  夢はいまもめぐりて                矢印 bk1書評ページへ

 「うさぎ追ひし かの山/小鮒釣りし かの川」、「里」といえば唱歌「ふるさと」に唄われたイメージをつい浮かべてしまうが、「百年文庫」19巻目の「里」は里は里でも「遊里」。遊郭のこと。粋な里である。
 藤原審爾の『罪な女』(第27回直木賞受賞作)、小山清の『朴歯の下駄』、そして広津柳浪の『今戸心中』の三篇が収録されている。
 第144回直木賞受賞作は木内昇の『漂砂はうたう』という明治初めの根津遊郭を舞台にした物語だったが、ここに収められた作品はいうまでもなく木内がほとんど垣間見なかった本当の遊郭を知る世代のものであるから、あわせて読むと面白いのではないだろうか。

 小山清は太宰治に師事した作家であるが、太宰の死後井伏鱒二との交流はつづく。『朴歯の下駄』はそんな小山の若い頃の遊郭の思い出を描いたものであるが、遊郭という男女の遊びの場であっても純な思いはあるという見本のような作品である。
 肉体のつながりはあったはずなのに、そういうことがまるでなかったような感じさえ受ける。「郭で働く女の多くがそうであるように」主人公の「私」が通いつめることになる妓もまた「百姓娘」であった。そういう素朴な匂いに主人公はひかれていくが、いまだ定職さえなく、夫婦になるなどは夢のまた夢。それでも時には将来は作家になりたいなどと夢物語に語るほど、心ひかれるのだが、所詮は叶わぬ夢。
 この里もまた、唱歌「ふるさと」のように、「志(こころざし)を果たして/ いつの日にか 帰らん」場所でもある。

 一方、藤原審爾の『罪な女』と『今戸心中』は遊郭で働く女が主人公の物語である。
 『罪な女』の主人公お愛は想い人大町との夢の生活が始まる直前に刑務所にいる夫が出所してくることになり、すべてを捨てて恋する大町の前から姿を消すことを決心する悲劇を描いている。遊郭で働く女性は里という縛りだけでなく、どうしようもない男性にもまた縛られている場合が多かったのだろう。
 妓ゆえの悲しみは、広津柳浪の『今戸心中』でも同じだ。ちなみにこの『今戸心中』は本巻の解説によれば、「明治時代屈指の名作」といわれたらしい。惚れた男に去られて悲嘆にくれる吉里という花魁と、その花魁に嫌われつつも足繁く通いつめる善吉という、男女のすれちがう思いが二重の同心円のようにして描かれている。そして、その同心円が交わる時、悲劇が訪れるのであった。

 遊里には男と女がいるから悲しい恋物語が生まれるのか、それとも恋を求める男と女がいるから里があるのか。やはり「夢はいまもめぐりて/わすれがたき」ところなのかもしれない。
  
(2011/09/10 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今日紹介するのは
  庄野潤三さんの没後発見された
  中編小説『逸見小学校』です。
  逸見は「へみ」と読みます。
  庄野潤三さんがデビュー前に書いた作品ということで
  今回の発見は庄野文学の今後の研究に
  役立つことだと思います。
  もっとも私は
  庄野潤三さんのすべての作品を読んだわけでは
  ありませんから、
  庄野文学をどうのこうのと論じられるものではないので
  この小説についても
  感想を書きとめるしかありません。
  ただ、庄野潤三さんのファンの方はたくさんおられますので
  そういう人にとってこの作品は
  たまらなくうれしんじゃないでしょうか。

  じゃあ、読もう。

逸見小学校逸見小学校
(2011/07)
庄野 潤三

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sai.wingpen  眠っていた原稿の目が覚める時                矢印 bk1書評ページへ

 2009年9月に亡くなった庄野潤三さんのデビュー前の中編小説が発見されたのがこの夏のはじめでした。
 本書の巻末にある解題から引用すると、この作品の「脱稿は一九四九年(昭和24年)一月二一日」だったそうです。それが一度も発表されることなく、「庄野氏の書斎に長く保存されて」いて、庄野夫人があらためて発見したものです。発表されなかったのは、「作品に登場する軍人たちにも実在のモデルがあって、そのことで迷惑がかかることを恐れたのではないか」といいます。
 実際この作品は敗戦間近の昭和20年3月に横須賀にあった逸見(へみ)国民学校に駐屯していた体験を描いたもので、主人公の千野少尉は多分に自身を反映しているものと思われます。

 庄野潤三さんといえば「第三の新人」に分類される作家ですが、その家庭小説とも呼べる一連の作品は多くのファンをいまでも持っています。そんな庄野さんが戦争小説ともいえる作品を書いていたことはファンには興味が尽きない話題といっていいでしょう。
 もっとも戦争小説といってもここには戦闘場面もありませんし、悲惨な軍隊生活も描かれていません。敗戦間近でありながら、千野たちが駐屯していた逸見小学校そのものが時代のエアーポケットのような感じさえします。
 あるいは、庄野さんという個性が禍々しい戦争の気配を嫌っていたのかもしれません。そういったものを排除してできあがったものとすれば、これは戦争小説という範疇にいれるべきではないでしょう。

 特に主人公の千野と千野の妹の同級生である江原みちことの交流を描いた場面などは悲惨な時代の背景をもちながらどちらかといえば牧歌的ともいえます。恋愛未満の淡い関係です。
 千野も最後には「多分何事もなく終わるだろう」と予感しています。敗戦が濃厚なこの時期にあって、人々は、軍人だけでなく一般人も、死のそばにいたはずです。それでもこの二人は燃え上がることを慎重に避けて、「何事もなく終わ」ろうとしています。そのあたりが庄野さんらしいといえばいえるかもしれません。
 思えば庄野潤三という作家は時代というものに影響されない人間の本質を描きつづけてきたのではないでしょうか。そして、それは生前発表されなかった若い作品にもうかがえる特長だったといえます。
  
(2011/09/09 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  二日間にわたって
  芥川賞の落選作を紹介しましたので
  今日は芥川賞受賞作を紹介します。
  第134回芥川賞受賞作
  絲山秋子さんの『沖で待つ』。
  さすがに受賞作だけあって
  いい作品です。
  たくさんある受賞作のなかでも
  上位に位置するのではないでしょうか。
  この受賞の時、絲山秋子さんはすでに
  芥川賞を三回、直木賞を一回落ちていました。
  で、今度ダメだったら次回は辞退しようと
  思っていたそうです。
  よかったですね、受賞できて。
  だから、山崎ナオコーラさん、
  めげずことなく
  がんばって下さい。
  あれ?
  また、ナオコーラさんにいっちゃった。

  じゃあ、読もう。

沖で待つ沖で待つ
(2006/02/23)
絲山 秋子

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sai.wingpen  新しい波                   矢印 bk1書評ページへ

 第134回芥川賞受賞作。
 選評のなかで河野多恵子委員がこの小説の新しさを絶賛しているが、男と女の関係を描きながら、恋愛でもなく友情でもない、仕事場での同僚としての関係を見事に描ききった作品として、その「新しさ」が目をひく。同時に、女性が粘質な体質を削ぎ落とすところまできていることに感嘆する。
 どころか、河野委員が「この作品で本物の純文学のおいしさを知ってもらいたい」とまで書いているように、物語としても実に「おいしい」。

 書き出しがしゃれている。
 主人公の「私」と牧原太は住宅設備機器メーカーの同僚である。牧原のマンションに出向く「私」と会話する太は、すでに死んでいるのだという。この二人の関係はなんだ。太はどうして死んだのか。はたしてどんな物語が始まるのだろう。そんな期待が後押しをする。
 「私」と太の間に恋愛感情はない。たまたま同期として福岡の支店で働きはじめたにすぎない。でも、よく考えてみれば、それは同じ日に誕生した双生児のようでもある。
 やがて、太は結婚をし、私は埼玉営業所へと転勤する。それでも二人の関係はつづく。同期として。
 そして、太は突然の事故で死んでしまう。二人はけっして交わることもない。ただ、同期としてある。

 選考委員の一人黒井千次は「二人が女と男であるために、一見遠ざけられたかに思える性の谺(こだま)が微かにに響き返して来るところに味わいがある」と書いているが、題名の『沖で待つ』が潮の大きなうねりを喚起させ、それはまるで黒井のいう「遠ざけられた性の谺」のようである。
 そして、同時に文学の新しい波を感じさせる佳品である。
  
(2011/09/08 投稿)

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  今日は第145回芥川賞落選作の二作目。
  山崎ナオコーラさんの『ニキの屈辱』。  
  最初に書いておきますが
  私はこの作品は芥川賞受賞であっても
  ちっともおかしくなかったと思います。
  山崎ナオコーラさんの作品の中でも
  上位にある出来ではないでしょうか。
  以前にもそんな風に感じたことがありますから
  私にとっては山崎ナオコーラさんは
  芥川賞に縁のない作家に思えてしまいます。
  もちろん、山崎ナオコーラさんはまだ若いですから
  これからもチャンスがいっぱいあると
  思います。
  ヤケ酒飲むことなく、
  またいい作品を書いてもらいたいなぁ。
  山崎ナオコーラさんなら
  きっとそれができると思います。
  がんばれ! ナオコーラ!

  じゃあ、読もう。

ニキの屈辱ニキの屈辱
(2011/08/05)
山崎 ナオコーラ

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sai.wingpen  男と女、どちらが強いか              矢印 bk1書評ページへ

 第145回芥川賞は残念ながら「受賞作なし」という残念な結果でしたが、雑誌に発表された選考委員の選評を読むとなにやら面白い男女のせめぎ合いがあったようです。
 そのもとが山崎ナオコーラさんのこの作品、『ニキの屈辱』であったことを村上龍さんが「選考会雑感」という題された選評に書いています。
 現在芥川賞の選考委員十人のうち四人が女性選考委員で、その四人の選考委員全員がこの作品に批判的だったといいます。村上さんにいわせると「否定したといってもいい」くらいだったそうです。
 その理由を村上さんは「これまで小説を書き続けてきて、現在ももちろん書き続けていること」で、そういう書き手としての困難さが「ストーリーの脆弱さ、安易さを、四人がそろって否定したのは当然かもしれない」と無難にまとめていますが、これでは女性選考委員がこぞって「否定したといってもいい」理由にはいたっていません。
 島田雅彦さんがこの現場を「女性選考委員の猛烈な反発の前では」どうしようもなかったというように、実は彼女たち四人は「男なんて全然わかっていないわね」みたいな、そういう男子と女子の闘いが繰り広げられ、結果として山崎ナオコーラさんの作品は受賞に至らなかったと推測されます。

 そんなにこの作品に欠陥があるかといえば私にはそうとは思えなかったし、むしろとてもいい作品だったように思えました。写真家のニキとその助手である加賀美の、女と男の恋の誕生から別れまでを描いた作品ですが、ニキにしても加賀美にしてもその造形に不足もなかったし、物語の終わりも過不足ない及第点だったと思います。
 一点加賀美の新しい恋人がニキの友達の写真家だったというのは余計だったのではないでしょうか。
 言葉の選択、表現の仕方、どれをとっても芥川賞受賞で問題なかったと思います。
 でも、四人の女性選考委員は「猛烈に反発」しました。村上龍さんではありませんが、それは何故なのでしょう。

 村上さんはさりげなく「四人全員が「作家として」だけでなく「女性としても」魅力的」と書いていますが、四人の女性選考委員が「女性としても」魅力的だからこそこの作品のニキという女性の心の動きに作為的なものを感じ取ったのかもしれません。女性はこんなに単純なものではないわよ、みたいな反発です。
 時に女性は強いものです。それが同性であっても、あるいは同性ゆえに強くなります。こういう選考経過を、山崎ナオコーラさんはどう受けとめたのでしょう。
 そのことを思うだけで、まけるな、とエールをおくりたくなります。
  
(2011/09/07 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今週のオンライン書店bk1書店
  書評ポータルというコーナーで
  私のブログのことが取り上げられました。
  その中で、「読書の達人」という
  過分のお褒めを頂いて
  舞い上がっています。
  ブタもおだてりゃなんとかで
  これからもしっかりと本のある豊かな生活を
  紹介していきます。
  ありがとうございます。bk1書店さん。

  さて、第145回芥川賞は受賞作なしでしたが
  その「落選作」がそろそろ書店に並び始めました。
  今日と明日、その「落選作」を読んでみようと
  思います。
  芥川賞もひとつの賞ですから、
  受賞も落選もあります。
  どちらに転ぶかは時の運ということもあります。
  だから、受賞したとかしなかったということを
  あまり大きくいうべきではないのかもしれません。
  落選したにしろ、
  書き手の皆さんは次なる作品を求めて
  さらに書いていくしかないのだと
  思います。
  あえて「落選作」と書きますが、
  そんなことを気にしないで、
  これからもがんばってもらいたい。
  そんなつもりで書きました。
  今日は本谷有希子さんの『ぬるい毒』を
  紹介します。

  じゃあ、読もう。

ぬるい毒ぬるい毒
(2011/06)
本谷 有希子

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sai.wingpen  ぬるさよりきつさの方が効く             矢印 bk1書評ページへ

 「小説はストーリーとキャラクターから成る。わかりきった話だ」。第145回芥川賞の選評にそう書いたのは、今回の選考を最後に選考委員を降りる池澤夏樹氏である。
 今回の芥川賞は受賞作なしという残念な結果であったが、それぞれの選考委員の選評を読むとそれもまたやむなしかと思う。では、実際にそうだったのか。
 若手演劇人ですでに才能の萌芽のある本谷由希子の候補作『ぬるい毒』を読んでみた。

 ある日高校時代に借りたお金を返したいと電話をかけてきた男。しかし、「私」には記憶がない。それがきっかけになって、「私」と男向伊の奇妙な交際を描いたのが本作である。
 冒頭の池澤夏樹氏の言葉ではないが、ストーリーはなんとかわからないでもないが、キャラクターが全く理解できないのを小説といえるのだろうか。
 主人公の「私」にしても向伊にしても、はたまた向伊の友人たちもその顔かたち造形が見えてこないのだ。
 のっぺらぼう。
 演劇人の本谷にとって、作中のキャラクターは演じる俳優のものかしらと考えてしまうくらいである。俳優Aが演じたらAの個性が、俳優Bが演じたら主人公はBの個性になるといった具合に。でも、それってどうなんだろう。

 この作品の山田詠美選考委員の選評がふるっている。「この小説に生息するのは、ただのいっちゃってるお姉ちゃん。つき合いきれない」。
 ここまで言われたら作者としてはショックだろう。
 いい評価をつけたのが、宮本輝選考委員。「顕在化しない狂気を感じて、私はいちばん高い点をつけた」とあるが、この作品は変に狂気が顕在化しているから「つき合いきれない」のではないかと思う。
 そして、おそらく川上弘美選考委員の評、「向伊の、どこがそんなに魅力的なのだろう。それさえわかれば、もっとこの小説の中の中まで入りこめたかもしれません」というのが一番的を得ている。

 本谷にとって今回の選考委員の各評はけっして「ぬるい毒」ではなかったはずである。
 きつい毒をどう薬に変えていくか、本谷有希子の闘いは始まったばかりだ。
  
(2011/09/06 投稿)

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  今日紹介するのは
  前回の、第144回直木賞を受賞した
  木内昇(のぼりって読む)さんの『漂砂のうたう』。
  最初読み始めた時は
  なんか読みにくいなあと感じたのですが
  そのうちにぐいぐいひっぱられていくような
  力がある作品です。
  女性でこのような作品を書くのですから
  さすがに力のある作家です。
  ただ舞台が遊郭ということで
  まあ男の人が楽しむ場所なのですが
  いろんな役目があるようで
  そのあたりがよくわかっていると
  面白さもより一層増すかもしれませんね。
  もちろん、私もどういうところか
  よく知りません。
  絶対に。

  じゃあ、読もう。

漂砂のうたう漂砂のうたう
(2010/09/24)
木内 昇

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sai.wingpen  時代といううねり                     矢印 bk1書評ページへ

 第144回直木賞受賞作。題名につけられた「漂砂」というのは、波の動きなどで砂が移動するさまをいうのだが、この物語に登場する人々もまた、時代という波に翻弄されるものたちである。
 舞台は明治十年の根津遊郭。御家人の次男坊であった主人公の定九郎は維新のあと、遊郭の立ち見にまで落ちぶれていく。
 定九郎ばかりではない。しっかり者であった兄もまた新参の車夫として定九郎の目の前に現れる。
 その兄の繰り言が印象的だ。「徳川の世が続いておれば、わしは今頃家を継ぎ、御家人として立派に務めを果たしておったのだ。あのような動乱さえ起きていなければ、わしは今頃…」。
 「あのような動乱さえ起きていなければ」という思いは、明治十年の人々には数限りなくあったにちがいない。徳川の世が終わり、新しい時代はきっと今までとは違う、仕合せな世界であったはずなのに、何かがちがう。
 そういった時代の閉塞感がこの物語の主人公だといってもいい。

 人気の花魁の足抜けを巡る策略に加担しようとする定九郎だが、何故危ない橋を渡ろうとするのか。「生簀を出たかったのだ。更地からやり直したかった」と定九郎は自身の心と向かい合う。
 浅はかにも、「今いる場所を裏切りさえすれば、次に行けると信じ込んでいた」のだ。
 それは名もない定九郎ばかりではないだろう。この物語のなかでしばしば遠景のようにして語られる西南戦争の西郷隆盛の心境もまたそうでなかったと誰がいえよう。
 この物語の面白いところは、そういった時代の真実とシンクナイズするところだ。
 後半は、当時の人気噺家圓朝の幽霊噺とまるで歩調を合わせるかのようにぐんぐん読ませていく。

 それにしてもと思うのは、主人公にまとわりつくポン太という噺家の弟子の存在だ。彼は一体何者であったのか。その答えがあるようでないのはどうしてか。
 私には彼こそ時代におきざりにされた先人たちの霊に思えてしかたがなかったが。
 そのポン太が定九郎に「漂砂」について語る場面がある。
 「海だの川だのでもさ、水底に積もってる砂粒は一時たりとも休まないの」「水面はさ、いっつもきれいだけどなんにも残さず移り変わっちまうでしょう。でも水底で砂粒はねぇ、しっかり跡を刻んでるんだねェ」
 市井の人々はいつの時代でも「漂砂」ではあるが、もっとも強いものたちでもあるのだろう。
  
(2011/09/05 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今日紹介する
  いわむらかずおさんの『ひとりぼっちのさいしゅうれっしゃ』も
  先日紹介した柳田邦男さんの
  『夏の日の思い出は心のゆりかご』で
  紹介されていた一冊です。
  今日の絵本は見開きで絵が、
  次の見開きで文がついています。
  ですから、文章の読み応えとしても
  絵本というより童話のような
  感じがします。
  それに、絵はいわむらかずおさんの
  大胆なアングルで描かれています。
  映画的な視線といっても
  いいでしょう。
  だから、十分に大人の鑑賞にたえる
  作品といっていいでしょう。
  書かれていることも含めて
  大人の皆さんに、ぜひ。

  じゃあ、読もう。

ひとりぼっちのさいしゅうれっしゃひとりぼっちのさいしゅうれっしゃ
(1985/12)
いわむら かずお

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sai.wingpen  あなたの手のなかの乗車券                 矢印 bk1書評ページへ

 いい表紙絵です。
 夜の闇のつつまれた山あいを二両編成の列車がコトコトと走っています。列車のあかりだけがぽわっと浮かびあがります。果たしてこの列車はどこに行こうとしているのでしょうか。
 一緒に乗ってみようか、そう思わせる表紙絵です。

 ところが、この列車には作者を思わせる一人の男しか乗っていません。やがて、駅に着くたびに山の生きものたちが乗ってきます。
 まずはじめは、四匹のねずみ(この絵本の作者はねずみたちのかわいい姿を描いた『14ひきのあさごはん』のいわむらかずおさんですから、この四匹のねずみもまたそれぞれに個性があります)。
 つぎに乗ってきたのは二頭のいのしし。なんだか山の生きものたちの寄合いがあるようです。次に乗ってきたのが、ちゃぼとくじゃくの夫婦。彼らはどうも人間に大きな不満をもっているようです。
 さらには、くま、きつね、さると、いつの間にか列車は山の生きものたちでいっぱいになりました。どうやら、今夜の寄合いは「生きものが、みんなで ちえだしあって、これからのこと考えて」みることのようです。
 どうして、彼らがこんなにも怒っているかというと、人間は人間の役に立たないはんぱものをすぐに苛めたり捨てたりする、そのことに怒っているのです。
 さて、今夜の寄合いはどうなるのでしょう。山の生きものたちは暗い山の中で降りていきました。

 あとには一人の男が残りました。男はまわってきた車掌にそのことを話しますが、もちろん信じてくれません。 車掌はただぽつんと、この列車が廃線になることを告げます。「こんな山おくの ローカルせんなんか、やくにたたねえ はんぱもんと、おもわれるでしょうな」と、さびしそうな表情を浮かべるのです。
 私たちが暮らすこの社会に「はんぱもの」なんてないはずなのに、どうして人間は「はんぱもの」をこしらえてしまうのでしょう。山の生きものも山のローカル線も、人間とともにあったはずなのに、人間の都合で「ほんぱもの」にされて、捨てられてしまいます。
 やがて、人間たちは年老いたということだけで同じように「はんぱもの」にしてしまいかねません。いえ、現実にそうなっているかもしれないのです。

 山の生きものたちの寄合いがどんな結論になったのか。興味のあるところです。
  
(2011/09/04 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今日紹介するのは
  重松清さんの新刊『ポニーテール』。
  さすがに重松清さんらしい
  いい味出してる、家族小説です。
  さて、『ポニーテール』というのは
  女の子の髪型ですが
  男子のなかでは「女の子の髪型で好きなのは?」みたいな
  話題がでないわけではありません。
  長い髪の女の子もいいし
  ショートカットの髪型も捨てがたい。
  もちろん、仔馬の尻尾のおうなポニーテールもかわいいし
  三つ編みのおさげ髪だって
  悪くない。
  結局どの髪型が好きかどうかではなく、
  その時好きな女の子が
  どんな髪型をしているかによって
  決まるみたい。
  それって、私だけかも。

  じゃあ、読もう。

ポニーテールポニーテール
(2011/07)
重松 清

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sai.wingpen  家族とは何かなんていう答えはないのかもしれない           矢印 bk1書評ページへ

 今年のお盆は故郷に帰らなかった。
 母が亡くなって二度目の夏。生前母は「自分たちが死んだらあんたも帰って来にくくなるんだから今のうちに精々帰っておいで」とよく云っていた。
 母のいない故郷の家にはほとんど話をしなくなった父と兄夫婦がいる。自分の故郷であることにはちがいないが、どこかに他人の家のような気がしないでもない。
 故郷を遠く離れた土地で私は別の家族を持っている。私が、昔の言い方をすれば一家の大黒柱である、ちいさな家族である。故郷の家では私はもう家族ではないのかもしれない。
 家族って何だろう。血のつながりの人の集まり? 戸籍上の人の組み合わせ? 企業のように同じ志の集まった集団? どれも合っているようで、でもちがう。
 あんまり考えることさえないのだろうが、重松清さんの小説を読むと、ふと、家族って本当に何だろうって考えることがよくある。
 この『ポニーテール』という長編小説もそうだ。

 小学四年生のフミは二年前に母を亡くして父と二人暮らし。小学六年生のマキは両親が離婚して、母と二人暮らし。それぞれが別の苗字をもった小さい家族だった。二組の家族はフミの父とマキの母が結婚をすることで、新しい家族となって、フミとマキは新しい姉妹になった。
 この物語はそんな「家族の始まりの半年間」を描いている。
 どこかぎこちない姉と妹。何もわからない年齢ではない。互いに気をつかい、互いに寄り添おうとする。そのきっかけは原っぱに捨てられていた一匹の「しっぽの曲った野良猫」。この野良猫への接し方でフミは新しい姉のマキのことが少しばかりわかったような気がした。
 だから、マキのようなポニーテールにしたいとあこがれる。

 でも、家族って何だろう。血のつながりがないフミとマキ、フミと母、マキと父、そして、父と母。ここにはそんな四人の家族になるための、すれちがいや和解や涙や寂しさが描かれていく。
 そして、それは何かあってもいつも元の生活に戻る「仲直りの物語」でもある。

 重松さんはけっして家族とはこういうものだと答えを出すことはない。こういう家族がありました、と描くだけだ。
 答えをさがすのはいつだって読者の仕事。
 しかし、答えがあると決まったわけではない。もしかしたら家族とは何かなんていう答えはないのかもしれない。あるとすれば、そんな難しいことをごちゃごちゃ考えずに、まずはごはんだな、という親や兄弟の妻の、一言に隠れているかもしれない。
  
(2011/09/03 投稿)

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 突然ですが、
 皆さんは雑誌って本箱にしまっています?
 そもそも雑誌ってどういうふうに保存されています?
 私はほとんど何年か経ったら新聞紙と一緒に廃棄処分です。
 情報という面ではやはり新聞とよく似ていますからね。
 ところが、どうしても捨てられない、そんな雑誌がいくつかあります。
 よく永久保存版とかうたっている雑誌もありますが、
 例えば、以前にも紹介した「これぞ、開高健」とか
 「ユリイカ臨時増刊 村上春樹の世界」などは、
 ちゃんと本箱に収まっています、ずっと。
 今日の「雑誌を歩く」は
 多分この一冊も本箱に収めると思っている
 「文藝春秋9月臨時増刊号 吉村昭が伝えたかったこと」(文藝春秋・980円)です。

文藝春秋増刊 吉村昭が伝えたかったこと 2011年 09月号 [雑誌]文藝春秋増刊 吉村昭が伝えたかったこと 2011年 09月号 [雑誌]
(2011/08/05)
不明

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 昨日吉村昭さんの奥さんだった津村節子さんの『紅梅』という
 本を紹介しました。
 その書評にも書きましたが、
 吉村昭さんが亡くなって5年になります。
 それが、今、こうして一冊の雑誌となるほど
 注目をあびているには理由があります。
 ひとつは、奥さんの津村節子さんが吉村昭さんの死を描いた
 『紅梅』を刊行したこと。
 この「吉村昭が伝えたかったこと」には
 その津村節子さんのロングインタビュー「長い間、字まで似てきた」
 掲載されています。
 このインタビューの最後に津村節子さんの近影が掲載されていますが
 その姿がまたいいんです。
 女性はご主人が亡くなったらきれいになるのかなんて書くと不謹慎ですが、
 本当にとってもきれいなんです。

 それと、3月11日に起こった東日本大震災で
 吉村昭さんの旧作『三陸海岸大津波』『関東大震災』が
 見直されていること。
 ブームに左右されない吉村昭さんの作家魂が大きな悲しみのあと
 正統に評価されているということでしょう。
 この雑誌の中には、
 今回の被災地である田野畑村で平成11年に行った講演、
 
  災害と日本人 - 津波は必ずやってくる

 も、掲載されています。
 ここで今回の「吉村昭が伝えたかったこと」の全体のリード文を
 紹介しておきます。

  史実にこそ、ドラマがある―。
  一貫した創作理念に貫かれた、吉村昭の作品世界。
  (中略)
  再生を期す日本人は、遺された作品群から何を学ぶべきか。

 さらに、この号には吉村昭さんが太宰治賞受賞した
 初期の名編『星への旅』が再録されていたり、
 沢木耕太郎さんとの異色対談「ボクシングに酔い、時代に出会った」など
 興味がつきません。
 もちろん、「吉村昭 - 人と作品」といった
 ブックガイドと年譜もついています。

 この雑誌を頼りにして
 「吉村昭が伝えたかったこと」をこれから少しずつ
 探していこうと思います。

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プレゼント 書評こぼれ話

  今日から9月

   空ふかく二百十日の鳥礫  青木泰夫

  そして、このブログはまた新しい物語を
  紡ぎます。
  生きるってことは物語を書くことって言ったのは
  小川洋子さんだったでしょうか。
  その新しいページに
  こんなにも素晴らしい作品を
  紹介できるなんて
  とてもうれしい。
  津村節子さんの『紅梅』。
  以下は、この物語の広告からの引用です。

    吉村昭との最期の日々

    一年半にわたる吉村氏の闘病と死を、
    妻と作家両方の目から見つめ、全身全霊をこめて
    純文学に昇華させた衝撃作

  まさにこれぞ文学という絶品です。
  ぜひ×ぜひ×ぜひ、お読みください。

  じゃあ、読もう。

紅梅紅梅
(2011/07/26)
津村 節子

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sai.wingpen  心の結晶のような傑作                矢印 bk1書評ページへ

 作家吉村昭さんが亡くなって五年が過ぎました。「自分のことは三年間は書くな」と妻である作家の津村節子さんに言い残したそうです。
 津村さんは夫との約束を守りました。しかし、もし遺言がなかったとしても津村さんは書けなかったのではないでしょうか。いくら作家だとはいえ、最愛の夫であり尊敬すべき作家の死の真実をそうたやすく描けるはずもありません。
 津村さんには三年以上の歳月が必要だったのだと思います。
 そして、できあがったのがこの『紅梅』。みごとな心の結晶です。
 津村さんはこの小説を描くことで、吉村昭という人物を自身のなかで永遠に保存されました。今後どのような吉村昭像が描かれようと、妻であり書くことの戦友であった津村さんにとっての吉村昭は、この作品のなかの「夫」以外に現れないでしょう。

 人は生まれ、そして死んでいくものです。永遠の生命(いのち)などありません。
 死んでいき、なおかつ残されたもののなかで生き続けるから、人は美しいともいえます。
 はかなさは美しい。
 癌の発病から闘病、そして死へとつらなる一年半のある作家夫婦の、それはもちろん吉村昭さんと津村節子さん夫婦の姿ではありますが、生活を描いて、感傷に流されず、淡々と描く手法は、すでに吉村昭さんが自身の弟の死を描いた名作『冷い夏、熱い夏』でとられたものと同じですが、津村さんの本作の方がより物語化を意識しているように感じました。津村さんの作品は近づこうとする事実を手に押しのけるようにして描かれています。そうでもしないと描けなかったのだろうと推測します。

 いくたびか自身を苛める言葉がでてきます。
 癌と闘う夫が妻である育子に毎日病室に来ることはないといいます。そんな時、「物を書く女は最低の女房だと言われている。そんな女を女房にして気を遣っている夫の不幸を思わずにはいられない」と、自身を責めます。
 また、死が近づいた夜、「せめて隣のベッドにいてやったら、孤独がいくらかまぎれたかもしれない」と、「生涯救われることはない」と思います。
 死にいくものにあれもしてあげたらよかったという感情は喪失感と相俟って、残されたものを責めます。そのことへの贖罪のためにも、作家はこうして一篇の作品に仕上げなければならなかったのです。

 夫の死の直前、育子はこう叫びます。「あなたは、世界で最高の作家よ!」と。
 それは妻として「あなたを愛しているわ」でもなく、「私もすぐ行くから」でもありませんでした。
 しかし、津村節子さんにとって、若い頃から吉村昭さんとともにめざしたのが「最高の作家」だったのです。
 きっと津村さんの胸には、自分が夫として選んだ男はやっぱり「最高の作家」だったという満足感が去来したことでしょう。

 そんな吉村昭さんを描いたこの作品もまた、近年まれにみる傑作です。
  
(2011/09/01 投稿)

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