09/15/2011 たとへば君 四十年の恋歌(河野 裕子/永田 和宏):書評「濃厚な愛の時間」
書評こぼれ話
今日紹介するのは
昨年の夏亡くなった歌人の河野裕子さんと
そのご主人である永田和宏さんによる
相聞歌と河野裕子さんの文章をまとめた
『たとへば君』です。
読書の秋にふさわしい
愛の一冊です。
永田和宏さんと河野裕子さんには
二人のお子様、ともに歌人ですが、が
おられます。
でも、ここでは出会いから
河野裕子さんの死という別れまでの
二人の恋の時間がつづられています。
恋人未満、恋人、
そして夫婦。
二人の関係は時間とともに
移り変わりましたが、
互いへの想いは変わりませんでした。
とってもいい本です。
ぜひ恋人同士で。
ご夫婦で。
じゃあ、読もう。
濃厚な愛の時間 bk1書評ページへ
相聞歌というのは相手の消息をたずねたり相手への思いを綴る歌である。
歌人河野裕子とその夫である歌人永田和宏は学生時代の出会いから、2010年8月の河野の死までの四十年間、互いに相聞歌を詠み続けてきた。その数は二人合わせると1000首近くになるという。なんという幸福な関係であろう。
本書はそんな二人の相聞歌を380首紹介するとともに、河野が生前綴った文章からその折々に関係するものを抜粋し、短歌の世界により深みをもたせている。
河野には相聞歌についてこんな記述がある。「誰の為にも私は短歌を作るまい。まして相聞はと思うのである。それは女の生き方の一種のいさぎよさ、真摯さであるまいか」と。
ただし、これは河野の第一歌集『森のやうに獣のやうに』に書かれたもので、まだ若い河野の強がりであろう。のちの、特に晩年の歌は、相聞以外の何物でもない。確かに「誰の為にも」詠わなかったかもしれないが、あきらかに夫である永田に伝えようという思いがひしひしと伝わってくる。それは心の寄り添いといっていい。
河野の代表作のひとつで、本書のタイトルにもなった「たとへば君 ガサッと落葉すくふように私をさらつて行つてはくれぬか」の相手について、永田は自分ではないかもしれないと述懐している。河野の生前にそのことを確かめなかったと。
しかし、この「君」は永田である必要はない。若い河野が書いたように、これは女の真摯さが生んだ相手なのだから。それでいて、ある人への心の傾斜が見事に描かれている。
こんな二人であるが、その夫婦生活がすべて順調であったかといえばそうでもない。時に争いもした。
河野にこんな歌がある。「逆上してこゑをあぐれどこの家はつらら垂る家誰もひそひそ」。なんとも寂しい光景である。こういう歌を読むと互いに歌人という職業を営む難しさを思わざるをえない。永田はこの歌をどんな思いで読んだことだろう。
それでも河野も永田もどんなに深く相手のことを思ったことか。「米研ぎて日々の飯炊き君が傍(へ)にあと何万日残つてゐるだらう」と詠う河野。「たった一度のこの世の家族寄りあいて雨の廂に雨を見ており」と詠む永田。
この一冊の流れる濃厚な愛の時間。
「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」は河野裕子の絶筆のひとつだ。
そうか、愛し合うとは同じ世界で息をすることか。そんな当たり前のことをいまさらに思う。
(2011/09/15 投稿)
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昨年の夏亡くなった歌人の河野裕子さんと
そのご主人である永田和宏さんによる
相聞歌と河野裕子さんの文章をまとめた
『たとへば君』です。
読書の秋にふさわしい
愛の一冊です。
永田和宏さんと河野裕子さんには
二人のお子様、ともに歌人ですが、が
おられます。
でも、ここでは出会いから
河野裕子さんの死という別れまでの
二人の恋の時間がつづられています。
恋人未満、恋人、
そして夫婦。
二人の関係は時間とともに
移り変わりましたが、
互いへの想いは変わりませんでした。
とってもいい本です。
ぜひ恋人同士で。
ご夫婦で。
じゃあ、読もう。
たとへば君―四十年の恋歌 (2011/07/08) 河野 裕子、永田 和宏 他 商品詳細を見る |
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相聞歌というのは相手の消息をたずねたり相手への思いを綴る歌である。
歌人河野裕子とその夫である歌人永田和宏は学生時代の出会いから、2010年8月の河野の死までの四十年間、互いに相聞歌を詠み続けてきた。その数は二人合わせると1000首近くになるという。なんという幸福な関係であろう。
本書はそんな二人の相聞歌を380首紹介するとともに、河野が生前綴った文章からその折々に関係するものを抜粋し、短歌の世界により深みをもたせている。
河野には相聞歌についてこんな記述がある。「誰の為にも私は短歌を作るまい。まして相聞はと思うのである。それは女の生き方の一種のいさぎよさ、真摯さであるまいか」と。
ただし、これは河野の第一歌集『森のやうに獣のやうに』に書かれたもので、まだ若い河野の強がりであろう。のちの、特に晩年の歌は、相聞以外の何物でもない。確かに「誰の為にも」詠わなかったかもしれないが、あきらかに夫である永田に伝えようという思いがひしひしと伝わってくる。それは心の寄り添いといっていい。
河野の代表作のひとつで、本書のタイトルにもなった「たとへば君 ガサッと落葉すくふように私をさらつて行つてはくれぬか」の相手について、永田は自分ではないかもしれないと述懐している。河野の生前にそのことを確かめなかったと。
しかし、この「君」は永田である必要はない。若い河野が書いたように、これは女の真摯さが生んだ相手なのだから。それでいて、ある人への心の傾斜が見事に描かれている。
こんな二人であるが、その夫婦生活がすべて順調であったかといえばそうでもない。時に争いもした。
河野にこんな歌がある。「逆上してこゑをあぐれどこの家はつらら垂る家誰もひそひそ」。なんとも寂しい光景である。こういう歌を読むと互いに歌人という職業を営む難しさを思わざるをえない。永田はこの歌をどんな思いで読んだことだろう。
それでも河野も永田もどんなに深く相手のことを思ったことか。「米研ぎて日々の飯炊き君が傍(へ)にあと何万日残つてゐるだらう」と詠う河野。「たった一度のこの世の家族寄りあいて雨の廂に雨を見ており」と詠む永田。
この一冊の流れる濃厚な愛の時間。
「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」は河野裕子の絶筆のひとつだ。
そうか、愛し合うとは同じ世界で息をすることか。そんな当たり前のことをいまさらに思う。
(2011/09/15 投稿)
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