10/31/2011 追悼・北杜夫 - どくとるマンボウ航海記(北 杜夫):書評「ここからはじまる」

それは突然の訃報でした。
作家の北杜夫さん、逝去。
10月24日に亡くなられました。84歳でした。
私はけっして北杜夫さんの優秀なファンではありませんでした。
青春期には何冊か読んだばかりです。
『幽霊』、芥川賞を受賞した『夜と霧の隅で』、
『船乗りプクプクの冒険』、
そして何冊かの「どくとるマンボウ」シリーズ。
それでいて、北杜夫さんは
どこかで私の青春期の読書の一ページに
しるしをつけています。
当時北杜夫さんを読まない大学生は
いなかったのではないでしょうか。
書評にも書きましたが、
躁鬱病ということは、
北杜夫さんの抱える有名な疾病として
初めて耳にしました。
多感な青春にその病の方が印象に
残ったといってもいいかもしれません。
ご冥福をお祈りします。
合掌。
じゃあ、読もう。
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「どくとるマンボウ」こと、作家の北杜夫さんが10月24日に亡くなった。84歳だった。
北杜夫さんをして初めて、私は躁鬱病という疾病があることを教えられた。陽気な自分と陰気な自分が変わるがわるにやってくるそうな、それは多分に自分にもあるような気分で、ひょっとして私もその疾病なのかしらんと思わないでもなかった。
特に北さんに限っていえば、斎藤茂吉という文学界の巨匠の息子として、時に暗鬱になることはあったにちがいなく、父の母校である東京大学ではなく東北大学に進学したことも忸怩たる思いがあっただろう。
北さんの逝去の報を受けて、多くの新聞がそんな北さんと父親である斎藤茂吉との関係に触れているが、時に青春期にあって目の前に頑とそびえる巨大な壁は北さんでなくとも実に重苦しい存在だっただろう。
そういう存在と同居するには、時に軽妙にふるまわざるをえない。
生涯数多く出版された「どくとるマンボウ」シリーズの初めとなったこの作品を書いて時、北さんはどんな思いであったのだろうか。そして、発表当時の昭和35年(1960年)以降、多くの読者を得たことに、何ほどかの戸惑いがなかったであろうか。
あるいは、それは父親から離れた別の人格として生きのびる快感を北さんにもたらしたかもしれない。
さて、おそらく何十年ぶりかで読み返した作品であるが、すこぶる面白かった。
時代はまさに高度成長期の初め、それでもまだほとんどの日本人にとって海外旅行など夢のまた夢の頃、北さんはわずか600トンばかりの調査船の船医となって、はるかヨーロッパの地をめざすことになる。
「どくとるマンボウ」の誕生である。
そこに描かれた各地のスケッチは、あとがきによれば「くだらぬこと、取るに足らぬこと」ばかりを書いた航海記録となった。
書かれていることのどこまでが事実でどこまでが創作なのかはわからないが、その軽妙なユーモアのある文体の奥に冷静な文明批判が秘められていて、敗戦からようやく自信を取り戻した日本人を勇気づけたといえるだろう。 まさにこの作品は、昭和の時代の「坂の上の雲」だったのだ。
北杜夫という作家はこれからも評価されるだろうが、この作品はまちがいなく戦後の人々を勇気づけた傑作として、これからもたくさんの日本人に読まれつづけるにちがいない。
(2011/10/31 投稿)

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10/30/2011 きずついたつばさをなおすには(ボブ・グラハム):書評「希望とは育むもの」

今日紹介する絵本『きずついたつばさをなおすには』は
以前このブログでも紹介しました
柳田邦男さんの『悲しみの涙は明日を生きる道しるべ』に
書かれていた一冊です。
いい絵本との出会いは
そのようにつながっていくものです。
このブログを読んで
誰かがまたどこかで
いい絵本ですよ、と伝えてくれたら
どんなにいいでしょう。
作者のボブ・グラハムさんは
オーストラリアのシドニー生まれ。
絵の感じはコミック的ですから
現代の子供たちにも
親しみをもって読まれるのでは
ないでしょうか。
じゃあ、読もう。
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人はすぐに結果を求めたがります。特に現代の人は時間と競うようにして結果を求めます。
例えば、今回の原発事故の問題。被災者の人たちは当然一日でも早い復興復旧を願います。それに対して国も企業もそのことを約束しようとしているのですが、本当にできるのでしょうか。
真の誠意とは事実をきちんと伝えることのような気がします。時間がかかるのであれば、そのことを正しく伝えるべきです。当座の言い訳としてごまかさないこと。
傷を癒すには時間がかかります。この絵本はそのことを教えています。
大きな都会の高いビル群。ある日、そのビルの窓ガラスに一羽のハトがぶつかりました。そして、たくさんの人々が行き交う地上へと落ちていきます。でも、誰も傷ついた小さな命に気づきません。気づこうとしません。たったひとり、小さな男の子ウィルをのぞいては。
ウィルはその傷ついたハトを家につれて帰ります。そして、いくにちもいくにちも看病をします。傷が癒えてもハトはなかなか飛ぶことができません。
また、いくにちもいくにちも「ときが たって・・・」、ようやく「ほら、きぼうが・・・」。
窓から射しこむ月のあかりがウィルとハトに希望を与えてくれるようです。
悲しみの心が癒えるには時間が必要です。あるいは、それはずっと癒えないかもしれません。
喪失感をうめるには時間がかかります。あるいは、それはずっとうまらないかもしれません。
それでも、ずっとそれを願うこと。希望とは育むものです。
そして、育むとは時間をかけることです。
この絵本の小さな男の子ウィルは傷ついたハトをもう一度大空に帰すために、じっくりと時間をかけます。
『きずついたつばさをなおすには』につづく、その答えはそこにあります。
(2011/10/30 投稿)

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10/29/2011 快楽Ⅱ - 熟年性愛の対価(工藤 美代子):書評「とまどいとときめき」

今日紹介する
工藤美代子さんの『快楽Ⅱ - 熟年性愛の対価』は
「Ⅱ」とあるように、
同名の『快楽』につづく
熟年世代の性の問題を描いた問題作です。
「快楽」は「けらく」と読みます。

この本にもありますが、
今や性の問題が若い人たちだけの特権では
なくなったような気がします。
むしろ、肉体的な衰えがある
熟年世代の性の問題の方が
深刻かもしれません。
この作品が連載されていた「婦人公論」の読者が
どのあたりの年齢層かわかりませんが
かなり高いのではないでしょうか。
その人たちはこの作品をどう評価しているのでしょう。
けっして興味本位で読むのではなく
真面目に議論されていい
問題提起のように思います。
じゃあ、読もう。
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雑誌「婦人公論」に好評連載されていた「熟年の性」をめぐるノンフィクション作品。発表の場が女性誌のため、「熟年の性」といっても熟年女性の視点からみた性愛といえる。もちろん、その相手はほとんどの場合男性であるから、裏返せば熟年男性の性愛でもあるのだが。
ただ惜しむらくは、その題材ゆえにほとんどが仮名となっていることだ。あるいは、本人を特定する職業なり環境も変えられているかもしれない。だから、どうしてもフィクション風に見えてしまえてしまうのは、内容がとまどうばかりの事柄ゆえだ。
冒頭の七八歳の女性と八二歳の男性の性愛にはじまり、そのほとんどが五〇代、六〇代の女性たちの性愛事情だ。不倫、アダルトグッズ、整形、女性間の性愛、離婚、老人ホームでの「婚活」、と、現実はとっくに先を行っている。とまどっている場合ではないのかもしれない。
「人生がわずか五十年だった時代は、女性は閉経するとともに死を迎えていた。しかし、いつの間にか(中略)閉経後も三十年から四十年の歳月が女性の行く手には待っている」と、自身二度の離婚経験があり、六十歳を越えている、著者の工藤美代子さんは書く。
だからこそ、この作品は「かつては置き去りにされていた熟年世代の性の問題」、あるいはそれがもたらすものが「いったいどんな形で私たちの生活に影響を及ぼすのか」という問いに答えるべく書かれたものである。
しかし、人生の終わり方が誰にもわからないように、「熟年の性」のありようもさまざまであり、答えなどない。もし、答えがあるとしたら、答えがないという答え、のような気がする。
ただいえることは、私たちも確実に老いるということだ。
そして、老いるということは常に自身にとって未知の時間との邂逅だ。
その時、自身の行動を責めるのは従来の価値基準でしかない。七八歳と八二歳の性愛に驚き、眉をひそめるのは過去の囚われにすぎない。
本人たちはいたってまじめであり、十五歳の少年と少女のときめくような恋愛と同じかもしれない。それを誰が非難できようか。
私たちはいったい誰と手をたずさえて、老いるという道を歩いていくのだろうか。
(2011/10/29 投稿)

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10/28/2011 ★ほんのニュース★ いよいよ本格化か、電子書籍

今日は先日報道されていた「ほんのニュース」を。
なにしろ10月20(木)の日本経済新聞朝刊の一面ですから
ほんのニュースどころか、大きなニュースです。


今、出版社各社と価格設定の詰めにはいっていて
年内には電子書籍購入サイトを開設する予定だとか。

実はまだまだ電子書籍は普及していません。
日本経済新聞によると、
書籍・雑誌の国内市場は約2兆円に対して
電子書籍は650億円程度。
話題先行だったのは事実です。
普及が遅れている要因のひとつは、電子化されている書籍が少ないこと。
でも、アマゾンが参入となると
一気に電子書籍は加速するかもしれませんね。

10月22日(土)の日本経済新聞の文化面にでています。

と、書かれています。
どういうことかというと、
ソーシャルネットワークの利用者が多いことから
より「参加型」の読書スタイルが増えるのではないかと
記事はしめくくっています。

私がブログで「○○っていう本はいいですよ」なんて
配信しますよね。
で、その記事を見た人が
電子書籍をダウンロードして本を読んで、
また、ツイッターかなにかで「いいよ」なんて書く。
そういう連鎖が紙の書籍よりも起こりやすいのではないかと
いうことです。
いずれにしても、
そうなると読書週間どころか読書習慣も
変わっていくような気がしますね。

スマートフォンの爆発的な普及とともに
アマゾン参入で、
予想以上早く電子書籍の時代が来そうな気がします。

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10/27/2011 読書週間始める - 読書力(斎藤 孝):書評「自分が変わる、世界が変わる、本との出会い」

今日から読書週間です。
今年の標語は、
信じよう、本の力
です。
今年のように
大きな災害があった時こそ
本の力を信じたいと思います。
東日本大震災から半年以上経って
本屋さんの店頭には
たくさんのメッセージ本が
並ぶようになりました。
多分、今年の出版事情に
東日本大震災がしめる影響は大きいでしょう。
そんな中での読書週間です。
あなたはどんな本とふれあいますか。
今日は2002年の読書週間の際に書いた
蔵出し書評です。
じゃあ、読もう。
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僕は、この「読書力」に書かれている斎藤孝氏の主旨に、賛成します。
この本の中で斎藤氏は読書の必要性を三つの点から説明している。
ひとつが「自己形成としての読書」(この本では「自分をつくる」という章になっている。以下同じ)、二つめが「技術としての読書」(「自分を鍛える」)、そして「コミュニケーション力の基礎としての読書」(「自分を広げる」)である。
最初の「自己形成としての読書」はすでに多くの先人たちが語ってきたことであるが、読書が軽んじられている時代だからこそ、そのことの意味を再認識する必要があるテーマだと思う。
斎藤氏はその章の最初に「複雑さを共存させる」という表現で、自己形成を意味づけている。自己とは唯一の主体だが、その中に多くのものを理解しうる幅をどれだけ持つことができるか。それは自分を高めるだけでなく、生き方を豊かにする方法でもある。
斎藤氏はいう。「矛盾しあう複雑なものを心の中に共存させること。読書で培われるのは、この複雑さの共存だ」。
二つめの「技術としての読書」は、斎藤氏の従来の著作の概要になっている。
まだ「声に出して読みたい日本語」などの斎藤氏の本を読んでいない読者は、まずこの新書でその概要を読むのもいいかもしれない。
最後の「コミュニケーション力の基礎としての読書」であるが、「本を読むことで対話力はアップする」とする斎藤氏の説は会話の要約をつかむ技術が読書によって訓練されるということだが、僕は先の「複雑さを共存させる」という点からもコミュニケーション力を向上させると考えている。
自分とは違う考えが存在する事実を受け入れることで、会話が初めて成立するのではないだろうか。
最近の子供たちによるいじめ事件や少年犯罪の多くは、他者を受け入れないことから起こっている問題だと思っている。その問題を解決するためにも、読書は重要なテーマであるにちがいない。
「自分が変わる、世界が変わる、本との出会い」。これは、2002年の読書週間(10/27〜11/9)の標語である。
ほとんど本を読まないという人は、せめてこういう機会をとらえて何冊かトライしてみてはどうだろうか。何冊も読めないという人は、まずこの「読書力」を読んでみるのもいいかもしれない。
そして、それが週間でなく習慣になればどんなに素晴らしいだろう。
(2002/10/20 投稿)

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10/26/2011 祝!文化勲章 - 輝く日の宮(丸谷 才一):書評「小説版「思考のレッスン」」

おめでたい話です。
私の大好きな丸谷才一さんが
今年の文化勲章を受賞することが
決定しました。
えらいな。まったく。
丸谷才一さんは受賞決定の感想を聞かれて
「最後まで現役の作家でいたい」と
語ったそうです。
86歳にしてその創作意欲は
みなぎっています。
いつまでも若々しい。
そこで、今日は
丸谷才一さんの文化勲章を祝って
丸谷才一さんの代表作のひとつである
『輝く日の宮』を
蔵出し書評で
緊急に紹介します。
なにはともあれ、
丸谷才一さん、おめでとうございます。
じゃあ、読もう。
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この本を読んでからもう一週間以上過ぎた。何度か書評を書こうとしたが、うまく書けない。
面白くなかった訳ではない。むしろ今年読んだ本の中でもっとも面白かった一冊だともいえる。それなのに、書評が書けないのは何故だろう。
それに、この本を単に小説という範疇で論じていいのだろうか。まさに丸谷才一の魔術にかけられたみたいだ。 そこで、丸谷の「思考のレッスン」をサブテクストにして、この本を読んでいきたい。著者の思考の過程を辿ることで、ひょっとしたら、この本の面白さを伝えられるかもしれない。
「思考のレッスン」(以下「レッスン」と書く)で、丸谷は自身のものの考え方について問われてこう書いている。
「登場人物が思考の道筋を語るのではなく、本全体としてある考え方を示している場合もあります。(中略)著者のものの考え方は何が特徴か、どのように論理は展開されているか、と考えると、とてもためになります」。
そして、自身の思考の筋道を探偵小説と同じという(この物語の主人公安佐子が父親から中学生の頃探偵小説に夢中だったと指摘される場面は、「レッスン」でのこの箇所と共鳴する。そういえば、この長い物語全体が探偵小説の雰囲気を持っているような気がする)。
「レッスン」の中で、丸谷は「本はバラバラに破って読め」と書いている。
この長い物語は七章(〇章もあるので、実際には八章)に分かれているが、それがすべて別々の文体で書かれているから、この本こそバラバラにすべきかもしれない。そうすれば、小説という形式で書かれたものが意外なほど少ないことに気がつく。
章立てからもっと分解すると、実はその小説仕立ての組み立ても、ほとんど接続詞的な要素しかなしていないとなる。
では、この本には何が書かれているか。「レッスン」の「考えるコツ」そのものがこの本の主軸となっているのが「バラバラに破って読」むことで見えてくる。
この本のテーマである「源氏物語」に欠落したと伝えられる「輝く日の宮」の巻は、日本文学史の大きな謎である。その他にも芭蕉が何故東北へ行ったのかということも書かれているが、こういった謎を発することが考える上で大事だと、「レッスン」で丸谷はいう。
そして、定説に遠慮などするなと続ける。
これと同じことが、この本の中でも出てくる。二章で研究発表する主人公に、それを傍聴していた学会の長老が定説にないと一蹴してしまう場面。
「レッスン」で丸谷が云いたかったことを小説仕立てにするとこうなるという典型だろう。つまり、この物語はりっぱな小説といえる。
この「輝く日の宮」という物語は、このようにして「思考のレッスン」という丸谷のものの考え方をまとめた本をサブテクストにすると、何故面白いのかが見えてくる。
「レッスン」から最後に、長い引用をする。
「人間がものを考えるときには、詩が付きまとう。ユーモア、アイロニー、軽み、あるいはさらに極端に言えば、滑稽感さえ付きまとう。(中略)つまり遊び心がなくちゃいけない。でも、これは当り前ですよね、人間にとっての最高の遊びは、ものを考えることなんですから」
(2003/07/12 投稿)

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10/25/2011 緑の毒(桐野 夏生):書評「不謹慎な面白さ」

時に面白さを読書に求める。
爽快感といっていい。
では、今日紹介する
桐野夏生さんの『緑の毒』に
爽快な面白さがあるかといえば
それは違うだろう。
面白さの質がちがう。
ねばっとした面白さ、とも違う。
物語全体がもつ
怪しげでどこか滑稽な
面白さといっていいかもしれません。
人間は時に喜劇的です。
それはどんなに悲惨な悲劇であれ
時に喜劇の仮面をかぶっています。
そういう毒にひかれます。
じゃあ、読もう。
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こういう、医者の仮面をかぶったレイプ犯の苛立ち、その妻の離反、そしてレイプ被害者の憎悪を描いた作品をもって、面白いというのは不謹慎だろうか。
それぞれの心の葛藤、愚かな行い、切ない思いが一つひとつの章立てになって描かれている本作は、レイプという犯罪が巻き起こす波紋を描きながら、やがて映像が逆回転するかのように、波紋が中心点に収斂されていき、犯人に近づいていく。
波紋は閉じ、投げられた一個の石にたどりつく。
謎解きがあるのではない。犯人は初めからわかっている。被害者たちがどのように彼に近づいていくか、が物語の構成を形作っている。
太宰治の『人間失格』に主人公が喜劇名詞と悲劇名詞の当てっこをする有名な場面がある。この物語はその場面へと誘われる。
その段の終わり近くに罪の対義語をさぐるやりとりがでてくる。つまり、「罪のアントは善さ」「いや、善は悪のアントさ」といったやりとりである。
主人公たちは罪の対義語を求め、あれやこれやと議論をかわす。そして、最後に「罪の対語はミツさ。蜜の如く甘しだ」とさらりと言いのけてしまうのは、太宰の巧さだ。
そんな太宰を引用するならば、この作品もミツの甘さを持った罪の物語といえる。
不謹慎な面白さは犯罪の悲惨さではない。犯人である三九歳の既婚者のクリニックの開業医の心の在りようであり、被害者たちの生活の複雑さだ。あるいは犯人と関係する妻であったりクリニックの看護師たちの人間関係だ。 それらは物語として、蜜のように甘い。
では、悲劇の対義語は何だ。この物語の主人公川辺ならなんと答えるだろう。嫉妬か。いや、それは同義語だ。愛情か。いや、それも同義語ではないか。
教えてやればいい、悲劇の対義語は喜劇だと。
悲劇にはおろかな道化師が必要だ。主人公の面白さはそんな道化者としても面白さだ。
(2011/10/25 投稿)

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10/24/2011 はふはふの季節 - 「みんなで食べたい うち鍋55」

はふはふ、って何ですって。
はふはふ、ですよ、はふはふ。
もぐもぐでもなく、ぱくぱくでもない。
はふはふ、はふはふ、ふー、はふはふ、といえば、
日本人ならすぐにわかるはず。
そう、お鍋、お鍋です。
おでん、すき焼き、しゃぶしゃぶ、湯豆腐。
もう日本の冬はお鍋に決まりです。
だから、全国どこに行っても、はふはふしちゃいます。
水炊き、キムチ鍋、石狩鍋、
えーと、それから、それから。
はふはふの季節なのに、
私のような料理オンチに浮かぶ料理ってこの程度。
東海林さだお先生に教えてもらわないと。


ダイエーにいる友人がすすめてくれたのが
「みんなで食べたい うち鍋55」という
雑誌みたいな小冊子。
なにしろこの本には55もの鍋料理がレシピ付で
紹介されています。
例えば、
「せんべい汁」。
今やすっかり全国的に有名になった八戸名物のお鍋。
鍋の中にいれる南部せんべいのとろーり感がいいんですね。
地元の八戸には「せんべい汁音頭」まであって
そういえば、何年か前に踊ったことがありました。
つづいて、おしゃれなところで
「ぷるぷる美人鍋」。
なにしろコラーゲンたっぷりの鶏がらスープを使いますから
お肌つるつる。
いいな、これ。
湯気の向こうにぷるぷる美人。
温泉なんかで食べたいな。
今度は定番でいきましょう、定番で。
おすもうさんが大好き、「ちゃんこ鍋」。
最近相撲人気も下降気味ですが、
「ちゃんこ鍋」をしっかり食べて
迫力満点の取り組みを見たいもの。
のこった、のこった。
もちろん、お鍋は残りませんよ。

「お鍋で食エコ! 5か条」なんてものがあって、
その第1条にこうあります。
鍋を囲めば、照明も暖房も一部屋分でOK!
ムダな電気の使用は控えて。
そうか、昔の人はお鍋を囲んで
寒い冬を暖かく過ごしていたんですね。
それに、熱燗を一本そえて、
あったかい人情話のひとつもあれば
幸福な食卓になるんですね。

みんなが、はふはふしている光景は
幸せです。

全国のダイエーのお店にあるそうですから
幸せになりたい人は、ぜひ
ダイエーに行きましょう。
はふはふ、ふー。

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10/23/2011 ごめんね!(ノルベルト・ランダ):書評

うまく使えないと困る
言葉ってあります。
そのひとつが、
今日紹介する絵本の題名『ごめんね!』にある
「ごめん」ではないでしょうか。
間違いは誰にもあります。
だけど、なかなか謝れないということが
よくあります。
素直に「ごめん」がいえない。
特に年上の人から年下の人は難しいですね。
あるいは親から子には難しい。
「ごめん」という言葉が
沽券にかかわるとでもいうのでしょうか。
間違ったら、素直に「ごめん」と言えたら
どんなに関係がうまくいくでしょう。
この『ごめんね!』を読んで
ちょっと考えてみて下さい。
じゃあ、読もう。
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子どもたちの絵本を読んでいると、けんかして仲直りするという系列の作品がたくさんあることに気がつきます。
誰しも、仲のいい友だちとささいなことで諍いとなって嫌な思いを味わったことがあるはずです。謝りたいのに最初の「ごめんね」がなかなか言えないもどかしさ。
けれど、そんなもどかしさは子どもだけのものではありません。大人だって同じです。いえ、もしかしたら大人こそ自分の間違いを素直に謝れないかもしれません。
この絵本のうさぎくんとくまくんも大の仲良しです。二人は山のなかの「うさくまハウス」で仲良く暮らしてします。一緒に料理をしたり、本を読んだり、眠ったり。だから、ふたりは「ともだちが いるって すてきだなあ! だれかの ともだちになれるって しあわせだなあ!」って思っています。
ところが、ある日山のなかでみつけたキラキラしたものをめぐって諍いをはじめます。それがどちらのものかという、ちいさなもめごとです。何しろそのキラキラしたものをのぞくと、それぞれの顔しか見えないので、うさぎくんもくまくんもどちらも自分のものだと言い張るのです。
互いにゆずらないので、キラキラしたものは半分にちぎれてしまいます。うさぎくんとくまくんの気持ちもちぎれてしまいます。
でも、二人は大の仲良しですから、ひとりぼっちになるとさびしくて仕方ありません。「どうすれば もういちど ともだちになれるかな・・・」と悩みます。
最初に「ごめんね」っていえるのはどちらかな。
キラキラしたものに映るのは二人のどんな表情でしょうか。
「ごめんね」といえる人はきっといい表情です、この絵本のうさぎくんとくまくんのように。
大人が子どもの絵本に教えられることはたくさんあります。「ごめんね」って大切だよと子どもに教える大人こそ、素直に「ごめんね」といえる人にならないといけないのではないでしょうか。
この絵本のキラキラしたものを、あなたものぞきこんでみて下さい。
何が映っていたでしょう?
(2011/10/23 投稿)

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10/22/2011 漱石のユートピア(河内 一郎):書評「著者に敬服」

昨日の正岡子規に続いて
今日は夏目漱石の登場です。
あの子規とこの漱石が友だちだったなんて
すごいですよね。
もし、子規がいなかったら
文豪夏目漱石は誕生しなかったかもしれません。
あるいは、子規が乗り移って
漱石を小説家にしたのかも。
子規ならやりそうな気がしませんか。
今日紹介するのは
河内一郎さんが書いた『漱石のユートピア』。
書評にも書きましたが
河内一郎さんは
普通に会社員を定年退職された人ですが
漱石が大好きで漱石を研究している人です。
そんな生き方、
素敵です。
あこがれますね。
しかも、しっかり読ませてくれる一冊です。
じゃあ、読もう。
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漱石ほどいつまでも読まれつづける作家はいない。
漱石の作品がほとんど揃う新潮文庫だけで出版総数は二二〇〇万冊強だといわれる。その他の出版社もあわせると、本書の著者である河内一郎さんの推計では一億冊を超えるのではないかという。
なにしろ漱石の作品は一時的なブームではなく、今も読まれつづけているわけで、漱石が「国民的作家」といわれるのも頷ける。
日本人は夏目漱石という文豪をもっている仕合せを喜ぶべきだろう。
本書の著者河内一郎さんはプロの文芸評論家ではない。大学卒業後総合食品商社に入社し、定年まで勤め上げた会社員である。
漱石に興味を持ったのが高校時代というから、漱石歴は古い。
いつまでも漱石である。ずっと漱石である。
すでに漱石関係の著作もいくつか出版されている。
本書はその研究で見つけ出したこぼれ話をまとめたものだが、さすがに食に関する話題が多い。
例えば、「漱石、ライスカレーを食う」「漱石の食べた米」「漱石とみかん」「漱石の食べたおでん」といった具合である。
そのそれぞれに漱石の魅力があるのだが、漱石以上に河内一郎という人物に感心している。
会社員であることの厳しさ、忙しさはあったに違いない。漱石ばかりでなくビジネス本にも目を向けなければならない場面もあっただろう。愚痴もこぼれただろうし。成功の余韻にもひたっただろう。
それでいて、ここまでの本を書き上げるのであるから、河内さんの頭から漱石が離れることはなかったに違いない。
こつこつと資料を漁り、作品を何度も読み、関係する人にも会ってきた結果がここにある。
会社員は何かと忙しくて、自分がしたいことなどできるはずがないと多くの人が思っている。しかし、河内さんのように、自分がしたいことを見失わず、成果をあげる人がいることを忘れてはいけない。
やればできる。
そういう河内さんも偉いが、河内さんを夢中にさせた漱石もまた偉い。
夏目漱石の魅力は偉いというよりも奥が深いのだろう。誰もがそれぞれに愛する漱石をもっている。そこがいつまでも愛される作家である要因にちがいない。
この本でまたひとつ漱石の魅力が増した。
(2011/10/22 投稿)

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10/21/2011 笑う子規(正岡 子規):書評「子規は宇宙人」

ふとしたきっかけで手にした本が
とっても素敵だと
得をした気分になります。
今日紹介する正岡子規の『笑う子規』も
そんな一冊でした。
もちろん、子規が亡くなって
百年以上経っていますから
子規が新しく書いた本ではなく
子規の俳句を天野祐吉さんが編集したものです。
でも、子規っていいですね。
もう、絶対にいい。
こんな人、二度とあらわれないんじゃないかな。
俳句で笑うのもなんですが、
ともかく、くすりとなる本です。
じゃあ、読もう。
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子規は宇宙人だ。
わずか34歳という短い生涯ながら、しかも後半生はわずか六尺の狭い空間に仰臥しながら、俳句革新、新しい日本語の創造など膨大な業績を残した。それはまるで宇宙の広大なエネルギーを集約したかのごとくである。
それに、死後百年以上経ちながら、その本が続々と出版されるという現象はまるでけっして消滅しない生命体のごとくなのだ。
明治という時代に子規のような人物が現れたこと自体、奇跡だ。
子規は生前二万四千ほどの俳句を詠んだという。本書はその中から「おかしみの強い句、笑える句」を広告コラムニストでもあり松山市立子規記念博物館名誉館長でもある天野祐吉さんが厳選し、それに南伸坊さんが軽妙な絵を描いた、俳句本である。
子規の代表的な俳句のひとつに「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」があるが、柿が大好物だったという子規の満足そうな表紙装画を見るだけで、本書全体が持っている雰囲気がわかる。
紹介されている「笑える句」でお気に入りは読者それぞれが持てばいいが、私の好みはごく普段の会話がそのまま俳句になった「毎年よ彼岸の入に寒いのは」であったり、「ツクツクボーシツクツボーシバカリナリ」といった句だ。
前者は子規の母親のつぶやきが原型だそうだが、布団にふせながら、ほくそ笑む子規の顔が浮かぶようであり、後者はカタカナ表記が蝉のうるさい鳴き声をうまくとらえている。
これから俳句をはじめたいと思っている人には、俳句の持つ妙味を実感できる入門書になるだろう。俳句をかじった人には、あらためて俳句の原石を味わえる一冊だろう。
こういう俳句をよむと、ますます子規が不思議でならなくなる。
(2011/10/21 投稿)

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今月の文春文庫の新刊です。
文庫の新刊がでるたびに
あ、この本読んだな、
この本は読みすごしたなと
思います。
今日紹介する『美女という災難』は
’08年版ベスト・エッセイ集です。
以前も書きましたが
単行本で出て読んで
文庫本で読む。
二度おいしい一冊です。
それにその時書いた書評を読むと
なかなかいいこと書いてるじゃない、とか
ひどい文章だな、とか思ったりします。
今日は蔵出し書評ですが
なかなかいい部類の書評ではないかと
自分では思っています。
いかがでしょうか。
じゃあ、読もう。
![]() | 美女という災難―’08年版ベスト・エッセイ集 (文春文庫) (2011/10/07) 日本エッセイストクラブ 商品詳細を見る |


須賀敦子さんの『遠い朝の本たち』という本の中に「父ゆずり」というエッセイがあります。
そのエッセイはこんな書き出しで始まります。「おまえはすぐ本に読まれる。母はよくそういって私を叱った。また、本に読まれてる。はやく勉強をしなさい。本は読むものでしょう」。
本好きの人なら、誰しも同じような経験があるのではないでしょうか。
実はそのように少女の頃の須賀さんを叱ったお母さんもまた若い頃同じように叱られていたということですから、血は争えないものだと思います。
そんな母親をもちながら、須賀さんは「私の本好きは、たぶん、父ゆずりだった」と同じエッセイの中で書いています。本が好きなご両親であったこと、そのことだけで須賀さんがうらやましくなります。
私の父も母も本好きではありませんでした。
そもそも娯楽というものをあまり知らなかったのではないかと思います。
だから、我が家に須賀さんのような本にまつわる環境があったかというとそれは決定的にちがいました。日本文学全集が揃うこともなく何冊かあっただけのような記憶しかありません。
まして父も母も本を読んでいる姿を見たことがありません。それなのに、私のように「本に読まれている」子供が育つのですから不思議な思いがします。
そして、そんな父親をみて育ってきたはずなのに、私の子供たちは「本に読まれる」ことも「本を読む」こともありません。それも不思議な気持ちです。
そのような両親でしたが、なにかの時に『ジャングル・ブッグ』という本を買ってくれたことがあります。いくつだったのか忘れましたが、狼に育てられる少年の物語です。それをきっかけにして私は「本に読まれる」少年になりました。
毎年新酒やボジョレー・ヌーボーが市場に出るのを楽しみにされている人は多いと思います。私はそれらの出荷よりも、このベスト・エッセイ集が年に一度出版されるのが楽しみでしょうがありません。ボジョレー・ヌーボーばりに今年の出来はどうだろうかと読む前からわくわくしているのです。
今年の書名はどうだろうか(今回は有馬稲子さんのエッセイの題名が書名の「美女という災難」に見事選ばれていますが、いい書名です)、安野光雅画伯の装丁はどうだろうか(今年も素晴らしいウィーンの街並みです)、いい作品に出会えるだろうか(今回の中では主婦の横溝美津子さんがお書きになった「蟹とガニ」が私にはとてもあいました)。そんなことを思うのですから、いまだに私の両親にとっては「本に読まれている」、不肖な息子ということかもしれません。
須賀さんは「父ゆずり」というエッセイの最後でこう書いています。
「父におしえられたのは、文章を書いて、人にどういわれるかではなくて、文章というものは、きちんと書くべきものだから、そのように勉強しなければいけないということだったように、私には思える」と。
この本におさめられた五十四篇のエッセイはいずれも「きちんと書」かれたものです。もしかすると、五十四人の筆者のみなさんも「本に読まれる」子供だったのかもしれません。そう考えると、そのこともうれしくなります。
(2008/10/12 投稿)

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10/19/2011 7つの制約にしばられない生き方(本田 直之):書評「「制約」をどうとらえるか」

何度か書いたかもしれませんが
仕事に行きつまった時とか
惰性に流されているなと感じた時には
ビジネス本はとても有効だと思います。
私はビジネス本を
車でいうガソリンのように考えていて
一種のエネルギー源だと思っています。
昨日は清宮普美代さんの『質問力』を
紹介しましたが、
今日は本田直之さんの
『7つの制約にしばられない生き方』です。
本田直之さんのファンは
若い人が多いようですが、
本田直之さんのようなビジネススタイルは
誰もができるわけではありません。
この本の中でも
本田直之さんは繰り返し
書いています。
単に本田直之さんのコピーをするのではなく
自分流のビジネススタイルを
考えてみて下さい。
じゃあ、読もう。
![]() | 7つの制約にしばられない生き方 (2011/04/23) 本田 直之 商品詳細を見る |


書名にある「7つの制約」とは、時間、場所、人、お金、働き方、服装、思考、を指しています。著者の本田直之さんはこれら「7つの制約」から自由になる生き方、すなわちこの大変化の時代を賢く楽しく生き抜こうとする生き方を提案しています。
ただ、なるほどその通りだと、すべてのことごとを本書から受け入れることはよくありません。
著者も何度か本書のなかで書いていますが、「まったく制約がない方が幸せだと感じるのか、ある程度の制約がある方が安心だと思うのか、自分がどちらのタイプか見極めることが重要」です。
お金の話をすれば、銀行や郵便局でコツコツと貯める人もいれば、ハイリターンでハイリクスの投資で増やそうとする人もいます。いくらハイリターンであっても性格的にコツコツ貯金でないと受け入れない人がいるように、制約もある方がいいという人もいます。
本書を読む前には自身の性格がどちらなのかを見極めることが必要ですし、読んだあとも参考にすべきこととできないことを分別することが必要です。
また著者は「自由に生きたいと本気で思うならば、人からどう思われてもいい、と覚悟すること」と書いています。
すべての人が自由に生きれば軋轢が生じます。自由に生きることと自由気ままとは、本質的に違います。
「覚悟もリスクも受け入れず、かつ努力もしたくもないのであれば、しばられない生き方など目指さないほうがよい」と著者もいいます。
まるで読む前の諸注意を書いているようですが、それほどに「制約にしばられない生き方」というのは誤解を与えやすいのです。
俳句の世界は「制約」にしばられています。五七五の定型、季語の存在など、です。もちろん、そんな「制約」にしばられないと、自由律の俳句も誕生しました。
ただ、俳句は「制約」があるから文芸としての面白みがあるのだと思います。「制約」の中でどれほど自由に想像し、描写していくか。
私たちの生き方もこの俳句の世界によく似ているように感じます。「制約」のなかでどれだけ自分の生き方を全うするか、それもまた新しい生き方ではないでしょうか。
(2011/10/19 投稿)

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10/18/2011 20代で身につけたい 質問力(清宮 普美代):書評「部下がダメだとぼやく前に」

今日紹介する
清宮普美代さんの『20代で身につけたい 質問力』は
ラーニングデザインセンターさんから献本頂いた一冊です。
私のブログをごらんになって
「書評をお願いします」と頂いたものです。
うれしいですね。
なんか一所懸命読まなくちゃと思いますよね。
うまく書評を書かなくちゃと思いますよね。
力がはいりました。
「読書力」かな。
この本を読ませて
試に書評を書かせてみるかとご検討される出版社の方は
ぜひご一報ください。
そんなことで書いたのですが
予想以上に(失礼しました)
面白く、ためになった一冊でした。
じゃあ、読もう。
![]() | 20代で身につけたい 質問力 (2011/07/01) 清宮 普美代 商品詳細を見る |


「○○力」という言葉が大はやりだ。赤瀬川原平が「老人力」という本を出したのが1998年だが、かなり流行の先端をいっていたのではないかしらん。
特にビジネス本の世界では今や「○○力」は当たり前のように使われている。
「コミュニケーション力」、「対話力」「問題解決力」、はては「人間力」なんていう言葉もあります。何かわかったような気になるから不思議なものです。
本書もずばり「質問力」。ありそうでなかなか目にしなかった「質問」に力点をおいた一冊です。
「考える力」(ここでも力ですが)を後押しするのが「質問」、「効果的な質問をつくれるかどうか」でビジネスシーンが変わると、著者はいいます。
本書には「リフレクション」という言葉が何度も登場します。「振り返り」と本書のなかでは訳されています。この「リフレクション」が問題解決には必要だとあります。
私たちはごく単純にわかったふりをしてしまうことが多くあります。特に過去自分がしてきたことなどはそうです。問題があろうとなかろうとです。その時、効果的な「質問」があれば、流れがとまります。立ちどまって、この道が正しかったかどうか、振り返ることができます。
仕事の現場でこの振り返りを喚起できるのが、「質問」というわけです。
仕事ができる人はつい自分で道筋をつけてしまいがちです。それでいて、「部下が育たない」とぼやきます。
実は、部下に「リフレクション」をさせない、自身の「質問力」のなさが、部下を育てていないことに気がついていないのです。
一方的にいわれることほど部下は嫌います。いわゆる「やらされ感」です。それを避けるためにも「質問力」が必要になります。
本書にはビジネスの現場でよく見かける場面が多く収められています。読んで反省すること、多々あります。
「20代で身につけたい」とありますが、30代でも40代でも、いえいえ、50代の人にはぜひ読んでもらいたい一冊です。
「質問力」を身につけて、あなたの「人間力」を上げてみてはどうでしょう。
(2011/10/18 投稿)

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10/17/2011 ★ほんのニュース★ - 朝読は「ワンピース」!?

10月12日の日本経済新聞の朝刊から。
本というのも出版社、出版流通、書店と
経済の枠組みにあるのは致し方ありませんから
日本経済新聞にも本のニュースはもちろんあります。

興味をひく見出しでしょ。
2011年の1月から8月までに出版された書籍の金額は
2631億円で前年同期比2.8%減少しているそうです。
やっぱり出版業界は厳しいようです。
そんななか、児童書だけは7.1%増加しています。
その要因を記事はこう伝えています。

自分好みの本探しが習慣になっている。

十数年前から徐々に広まってきた読書運動。
実施している小学校は90%近くになっているそうです。
私が子どもの頃はそういうことなかったですね。
いい取組みですよね。
だから、
「今一番本を読んでいるのは小学生」と話す
編集者もいるほどです。
会社もこういう取組みをどんどんすればいいのに。
そのうち子どもたちにバカにされますよ。

とあるように、どうも子どもたちは
母親たちが薦める、
いわゆる名作とか古典とかは読まないようで
表紙がかわいいものが選択の基準にあるようです。
そのなかでも人気が高いのは
やっぱり『ワンピース』というのも微笑ましい。
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本を手にする子どもたちが増えるのはいいことです。
読書が習慣になれば
いずれ名作や古典といった世界も読んでみようかと
思うはず。
大事なことは、
読書が身近な生活の一場面になることです。

ぜひ、子どもたちと一緒に「朝読」してみては
どうでしょう。

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10/16/2011 ソメコとオニ(斎藤 隆介/滝平 二郎):書評「鬼より強い子ども」

カレーって不思議な食べ物で
時々無性に食べたくなります。
特に日曜なんぞは
あれっ? このあいだカレー食べたのいつだっけ、
みたいな気分になります。
絵本の世界でもそんなカレーのような
作品があって、
あれっ? このあいだ斎藤隆介さんの作品読んだのいつだっけ、
みたいな気分になります。
そこで今日は斎藤隆介さんと滝平二郎さんの
名コンビによる
『ソメコとオニ』。
ユーモラスたっぷりの
作品をお楽しみ下さい。
でも、
斉藤隆介さんがカレーなら
まるで滝平二郎さんが福神漬けみたいですが
そんなことありません。
さしずめ二色カレーというところです。
じゃあ、食べよう。
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鬼というのは強くて、怖い、と相場が決まっています。
だから、それがやさしいとか気が弱いというギャップが物語を生むことになります。浜田廣介さんの代表作『泣いた赤鬼』もそのギャップが切ないものとなっています。
斎藤隆介さんのこの作品もその系統に属しています。
おなじみ滝平二郎さんが描く表紙をみると、人のよさそうな赤鬼が背中にのせた気の強そうな女の子をうらましそうに仰ぎみています。主従逆転の図柄です。
この子がソメコ。まだ五つの女の子です。
ソメコはとにかく活発な子どもで、「ソメコのように、いっしょうけんめいにあそんだり、生きたりしているものはだれも」いません。「おとなたちは、なんてつまらない まいにちをおくっているんだろう」と随分ませたことを思ったりしています。
そんなソメコが出合ったのが、人間のフリをした赤鬼。子どもと遊んで誘拐しようと企んでいます。
元気いっぱいのソメコはそれが誰であろうと遊んでくれるのですから大喜び。鬼のすみかまで連れていかれます。
ところが、ソメコの元気に赤鬼の方がびっくり。そのうち、おろおろ。怖い鬼の姿になってもソメコは驚きもしません。泣きもしません。
そして、ついにはソメコの父親にSOSの手紙を出す羽目に。
この鬼はなんとも気の弱い鬼ですが、子どもって案外鬼以上に強いのかもしれません。
子どもが弱くてやさしい、という相場もなんだか怪しいようなな気がします。斎藤隆介さんは鬼よりも強いそんな子どもの強さを愛していたのかもしれません。
こんなソメコを子どもたちは大歓迎しそうです。だって、いつも大人たちはいばっているのですから。子どもたちにとって、大人たちこそ鬼に見えているかもしれません。
(2011/10/16 投稿)

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10/15/2011 秋 (百年文庫)(志賀直哉、正岡容 他):書評「秋はやっぱり読書でしょ」

秋も深まってきて
そろそろ各地から紅葉の便りが
届き始めました。
今回の「百年文庫」は
ずばり「秋」。
さすが読書の秋というだけあって、
この巻に収められた三篇は
内容が濃いですね。
「百年文庫」の中でも
充実の一巻では
ないでしょうか。
この巻には志賀直哉がはいっていて
物語の主人公がその志賀直哉らしいのですが
どうも嫌味な感じがして
太宰治が志賀直哉に噛みついたのも
わからないではないですね。
そんなことを思いつつ、
秋。
じゃあ、読もう。
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芥川龍之介の短編に「秋」という作品がある。その内容はほとんど忘れているのだが、何故か物語の最後に主人公の女性が「秋―」とつぶやくシーンがあったことだけを覚えている。今度読み返してみて確かにその場面があった。
秋、とはそんなつぶやきのような感じが似合う。
「百年文庫」第4巻は「秋」というタイトルで、芥川作品以上に秋らしい作品が3篇収められている。
志賀直哉の『流行感冒』、正岡容の『置土産』、そして里見の『秋日和』。読み終わったあと、思わず芥川の作品の主人公のように、「秋―」とつぶやきたくなるような名品ばかりである。
志賀直哉は「小説の神様」とまでいわれた作家だから、多くの人は国語の教科書などでその作品を読む機会があったのではないだろうか。その作品の多くは私小説で、この『流行感冒』もそのひとつ。
最初の子供を亡くした主人公の「私」は娘の健康にすこぶる神経質になっている。ある時、流行性の感冒が流行り出して、娘に罹ることを恐れた「私」は女中たちにも余計な外出を禁じる。ところが「石」という名の女中がこっそりと芝居見物で抜け出してしまう。
神経質な「私」と田舎者の鈍な女中。ともに相容れないながら、いつしか「私」は「石」の素朴さを認めていく。「石」という田舎娘の個性が見事に描かれている好編だ。
正岡容の『置土産』は講釈という芸人の世界を描いている。
若い講釈師万之助が芸を学ぼうと近づく師匠はぬらりくらりと芸の伝授を先延ばしする。そのつど、万之助は師匠の借金の肩代わりをするはめになる。
この師匠のコミカルな話術がまるで舞台の演技そのもので、読む者を愉快にする。いつしか万之助と同じように師匠に強くひかれているのを感じる。
のどかといえばのどかだし、宵越しの金は持たないといった江戸っ子の粋な感じがよくでている。
里見の『秋日和』は小津安二郎によって映画化された作品。主人公の秋子は原節子が演じた。
未亡人の秋子には一人娘のアヤ子がいる。適齢期を迎えた娘にどう結婚に気持ちにさせるか。秋子だけでなく、亡き夫の友人たちが奔走する。
里見と小津は同じ鎌倉に住み、仲もよかったという。最後には嫁いだ娘の幸福に満足する秋子の頭上にひろがる、秋の空。
いずれの作品も、読書の秋にふさわしい、一級品である。
(2011/10/15 投稿)

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新潮文庫の今月の新刊に
工藤直子さんの『あいたくて』が
並んでいます。
挿絵は佐野洋子さん。
![]() | 新編 あいたくて (新潮文庫) (2011/09/28) 工藤 直子 商品詳細を見る |
以前、工藤直子さんの「あいたくて」という詩のことを
書評に書いたことがあります。
村上春樹さんが編纂した『バースデイ・ストーリーズ』という
作品です。
蔵出し書評になります。
この作品で「君」と書いているのは
私の長女のことです。
新潮文庫の一冊に
工藤直子さんの「あいたくて」という詩集を
見つけた時、
この書評を書いた時の思いが
わきあがる感じがしました。
じゃあ、読もう。
![]() | バースデイ・ストーリーズ (2002/12/07) レイモンド・カーヴァー、ポール・セロー 他 商品詳細を見る |


「ことづけ」伝えて。これは2002年1月14日の、朝日新聞の社説のタイトルです。
君はこの日成人式を迎えたのですよね。社説は詩人の工藤直子さんの「あいたくて」を引用しながら、この日成人を迎えた若者たちに、そう君も含めて、こう書いていました。
「大人と子どもの境が定かではなくなってきました。もはや20歳を強くは意識しない若者たちが大半でしょう。でもあなたたちにも、大人であることを嫌でも自覚せざるを得ない時が訪れます」。
そして、工藤さんの詩が続きます。
「それでも 手のなかに/みえないことづけを/にぎりしめているような気がするから/それを手わたさなくちゃ/だから/あいたくて」
この詩の後に記者はこう締めくくっています。
「ことづけを放っておいては生まれてきません。心豊かなことづけを、やがてだれかに手渡すことができると良いですね」
この書評は僕にとって、誰かに伝えたい「ことづけ」みたいなものかもしれません。
2002年に最後に読んだ本、つまり村上春樹さんが訳した10篇の短編小説と村上さんの書き下ろしの短編1篇が収められたこの「バースデイ・ストーリーズ」という本がとても素晴らしかったことで、なんだかこの一年をとても幸福な気分で終えることができました。
君の成人式に始まって、病室で迎えた僕の誕生日や君の妹の初めての下宿生活や、結構大変な一年だったけれど、それでもこんな素敵な本に出会えるのだから、まずまずの年だったと思っています。
村上春樹さんの書き下ろし小説「バースデイ・ガール」は20歳の誕生日を迎えた女の子の不思議な物語です。村上さんは「顔をしかめることなく、どちらかといえば肩の力を抜いて楽しんで書いたもの」と云っていますが、とてもいいお話です。ちょうど贈り物にかけられた赤いリボンがゆっくりとほどけていくような、そんな短編小説です。
それ以外にもラッセル・バンクスという人の「ムーア人」もよかった。人それぞれに誕生日の思い出がちがうように11篇の小説は趣きが違います。君自身のお気に入りをぜひ見つけてください。
「だれかに あいたくて/なにかに あいたくて生まれてきた−そんな気がするのだけれど」。
工藤直子さんの詩「あいたくて」の冒頭の一節です。
これも、まるで誕生日の詩みたいではないですか。
(2003/1/01 投稿)

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10/13/2011 上を向いて歩こう(佐藤 剛):書評「涙がこぼれないように」

今年ほど「上を向いて歩こう。」という
言葉を目にしたことはありません。
東日本大震災の悲しみのなかで
この言葉はどれだけの勇気を
人々に与えてくれたかわかりません。
それは歌「上を向いて歩こう」ができて
半世紀にたまたま合致しました。
歌は時代とともにある。
そのことを実感しました。
今日紹介するのは
歌「上を向いて歩こう」が
そのようにできあがっていったかを
探った佐藤剛さんのノンフィクションです。
この本を読んだあと
しばらくふと気が付けば
♪上を向いて歩こう 涙がこぼれないように
と歌っている自分がいました。
じゃあ、読もう。
![]() | 上を向いて歩こう (2011/07/14) 佐藤 剛 商品詳細を見る |


2011年の夏のジブリ映画「コクリコ坂から」は久しぶりに気持ちのいい映画でした。
映画の舞台となったのが1963年の横浜。坂本九さんが唄う「上を向いて歩こう」が挿入歌として使われていただけでなく、映画全体のキャッチコピーとして目にした人も多いと思います。
「♪上を向いて歩こう/涙がこぼれないように」で始まる、中村八大作曲、永六輔作詞、坂本九歌、「上を向いて歩こう」が初めて歌われたのは1961年7月。今年誕生50年になる、この名曲の誕生物語を丹念にたどったノンフィクション作品が本書です。
さらにこの歌がどういうきっかけで「スキヤキ」というタイトルで全米チャート一位までのぼりつめていったかも検証しています。
著者はこの歌の大ヒットの要因を「悲しみの中にも明るい希望や励ましが感じられる」点をあげています。
それは作詞を担当した永六輔の「悲しみにひたって嘆いているばかりではなく、そこから一歩踏み出して行くための歌」という意図とは少し違っていました。そのことで永が激怒したエピソードが書かれています。
なんとなくよく似た表現ですが、微妙にちがいます。
単に前に向かうのだという激励の歌ではなく(それはそれで永の思いがあったのですが)、そもそもが生きていくすべてを唄ったからこそ、大ヒットし、言語の違う国でも歌われ、しかも半世紀を経てなお人々に愛されていると、著者はみています。
この歌ができて半世紀。私たちは東日本大震災という大きな悲しみに遭遇しました。
その悲しみのなかからたくさんの応援や支援が全世界からわきあがりました。それこそ、「上を向いて歩こう」という歌がもっていた力そのものだったのかもしれません。
歌は人々を励まし、生きる力を、与えてくれます。私たちのこの国は「上を向いて歩こう」という素晴らしい歌をもった、幸福な国だといえます。
誰もが唄える、誰とも歌える。
著者はこの歌を「音楽の神様がこの国に授けてくださった奇跡」と最後に書き留めています。
(2011/10/13 投稿)

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10/12/2011 生ききる。(瀬戸内 寂聴/梅原 猛):書評「まず、その一ページが大事。」

昨日田畑ヨシさんの『つなみ』という
絵本を紹介しましたが、
田畑ヨシさんも東北人。
その東北の人をもって
「私たちの恩人」と
今日紹介する『生ききる。』の中で
瀬戸内寂聴さんが話しています。
この『生ききる。』は
作家の瀬戸内寂聴さんと
哲学者の梅原猛さんの対談集です。
私は瀬戸内寂聴さんの
「東北の人たちは私たちの恩人」という言葉に
胸打たれました。
そうだ。
私たちは東北の人たちのおかげで
こうしていられるのだ。
そう思うことこそ
いつまでも忘れてはならないことでは
ないでしょうか。
じゃあ、読もう。
![]() | 生ききる。 (角川oneテーマ21) (2011/07/14) 瀬戸内 寂聴、梅原 猛 他 商品詳細を見る |


3月11日の東日本大震災のあと、さまざまな人たちがそれぞれの分野で被災された人たちを支援しようと立ち上がりました。
歌がうまい人は唄い、絵が上手な人は被災地をえがき、小さな子供たちは学校で被災地にメッセージを書きました。サッカー選手たちは自分たちの試合で全力を出し切り、野球選手たちも全身で白球を追いました。
今回の大震災は未曾有といわれますが、人々の支援の仕方も今までとはちがった幅と拡がりをみせています。ただ国の支援だけが右往左往しているように感じてます。
本書もその支援のひとつとして企画されたもの。八九歳の瀬戸内寂聴さんと八六歳の梅原猛さんが今回の大震災について対談し、本書の印税はすべて義援金として被災地に送られるそうです。
嫗(おうな)と翁(おきな)の対談ですが、この二人のことですから、東北の歴史、東北人の気質、日本文化の原点、「源氏物語」の読み解き、原発への怒り、若者への期待と、気炎がつづきます。
この二人の話を聞いて(読んで)いるだけで、元気がでます。
瀬戸内寂聴さんは「想像力というのは相手の哀しさを思いやる心」だと云います。
今回の大震災は東北で起こりました。そのほかの地域の人たちが助かったのは、「いいことをしたからじゃないんですね。たまたまなんです」、だからこそ、被災された人たちの気持ちを思いやるには想像することが大事だと。
哀しみの感情とは思いやる心から生まれるのでしょう。そして、思いやることこそ想像する力。その想像する力も訓練しないとうまくできないのではないでしょうか。
だとしたら、人の痛みをわかるということも訓練するしかありません。
私は、読書という方法がその訓練にもっとも適していると思っています。
こういった対談を読むのもいいし、「源氏物語」でも構わない。古典であれ現代小説であれ、読書を通して想像する力をもっと養うべきだと思います。
「東北の人たちは私たち非被災者の代わりに不幸を引き受けてくれたんです。私たちの恩人なんです」(瀬戸内寂聴)。
こんな言葉がポンとでてくる、それが想像力、思いやる心だと思うのです。
政治がいつまでも支援にとまどっているのは、そういう想像力をもたないからです。政治家たちは若者たちに云う前に、もっと本を読むべきではないでしょうか。
まず、その一ページが大事。
(2011/10/12 投稿)

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10/11/2011 おばあちゃんの紙しばい つなみ(田畑ヨシ):書評「悲しみを忘れないために」

また11日がやってきました。
3月11日に起こった東日本大震災から
七か月経ちました。
あの時、春を待ちかねていた東北に
また冬がやってきます。
あの日から
それだけの歳月が過ぎようとしています。
今日紹介するのは
昭和三陸大津波を経験した
田畑ヨシさんというおばあちゃんが描いた
紙芝居をもとにした絵本
『つなみ』です。
こういう紙芝居があることさえ
知りませんでした。
ましてや
その読み聞かせが30年以上も行われていたことも
知りませんでした。
それでも非情にも津波は
襲いました。
なんだかやりきれない思いです。
ただいえることは
人間はどれだけの悲しみがあっても
生き続けるものだということ。
どうか、
この絵本がたくさんの人たちに
読まれるように。
じゃあ、読もう。
![]() | おばあちゃんの紙しばい つなみ (2011/07/14) 田畑ヨシ 商品詳細を見る |


先日TVで岩手県宮古市の田老地区を襲った3月11日の津波の様子が放映されていました。
この地区は過去にも何度も津波に襲われてきた地域です。だから、津波への備えは「万里の長城」とまで称された防潮堤を築くほど万全なものでした。あの3月11日までは。
あの日その巨大な防潮堤を津波があっさりと乗り越えます。その映像が残っています。からくも生き残った人たちが口々に自分たちの安全に対する心の緩みがいけなかったのだと重い口を開きます。「津波安全宣言」などしなければよかったという人もいます。
すべてのことを自分たちのせいにする姿に胸をうたれます。
あなたたちを誰が責めるでしょう。田老地区の人々は過去の教訓を生かしてしっかりと防御してきたのですから。海を責めても仕方ありません。自然はいつだって時に怒るものなのですから。あれだけの防潮堤を作れば誰もが安心します。
安心に限りがないこと、それが今回の東日本大震災の教訓だといえます。
この絵本は田老地区に住む田畑ヨシさんが描いた紙しばいがもとになっています。
田畑さんは大正14年生まれ。昭和8年の昭和三陸大津波でお母さんを亡くしています。田畑さんは8歳でした。
その時の記憶をもとにして描かれたのがこの紙しばい。当時の田畑さんと思われる小さな女の子が赤い着物を着て描かれています。
それはけっして上手な絵とはいえません。それでも強い力を感じます。
津波が襲ってきた次の日の朝の、田老の様子が描かれています。陸に打ち上げられた舟やむしろを被せられた亡くなった人など当時の悲惨な状況をひしひしと感じます。
その絵のト書きに「田老はもういやだ。海のないところに行きたい」という小さな女の子の思いが綴られています。津波に襲われた人たちの正直な気持ちでしょう。先のTV番組でも同じようなことを話す人がいました。
田畑さんはそれでも実際には田老地区を離れませんでした。
この紙しばいを創作し、昭和54年から30年以上も若い人たちに津波の怖さを教えるボランティア活動を行ってきました。
そんな田畑さんですが、今回の東日本大震災でまた津波に襲われました。家が流されたといいます。
もちろん田畑さんは過去の教訓を生かして避難し、助かりました。
そして、今、またこの紙しばいの読み聞かせを始めました。
なんと田畑さんは強いのでしょうか。なんと田老の人々はくじけない人たちでしょうか。
自然と暮らすということは、自然は時に牙をむくほどに怒るということを忘れないことです。
田畑さんの紙しばいは、田老の人々の活動は、そのことを教えてくれます。
(2011/10/11 投稿)

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10/10/2011 よーいどん! (ピーマン村の絵本たち)(中川 ひろたか):書評「泣きながら走った日」

今日は体育の日。
各地で運動会とか行われているのかな。
運動会授乳の母をはづかしがる 草間時彦
福島の子供たちは
今放射能の問題で
なかなか運動場で運動会ができなくて
体育館での開催を余儀なくされています。
せっかくの秋晴れに
運動場で元気いっぱいの
子供たちの歓声を聞きたいものです。
私はまったくの運動オンチで
運動会は大嫌いでした。
今日紹介する
中川ひろたかさんの『よーいどん!』を読みながら
そんな遠い昔のことを
思い出しました。
じゃあ、読もう。
![]() | よーいどん! (ピーマン村の絵本たち) (1998/09) 中川 ひろたか 商品詳細を見る |


小学生の頃、運動会が苦手でした。というより、嫌いでした。
何しろとびきりの運動オンチで、鉄棒できない、跳び箱できない、体育の成績はずっと悪いままという有様。だから、運動会の前日は気が重くて仕方がありませんでした。
特に、かけっこ。リレー選手など選ばれるはずもなく、いつもびりっけつ。
あれは小学六年生だったと思います。N君という、これも足の遅い友だちがいて、仲良く走ろうねみたいな打ち合わせをしてスタートラインに臨みました。ところが、いざ走るとN君は夢中で走ります。N君のあとを走りながら、悔しくてたまりませんでした。一位になった人をうらやむのではなく、前を走るN君のことが憎くて憎くて。
あれから四十年以上経って、N君のことをもう恨んだりしていませんが、運動会の季節になると、やっぱりあの時のことを思い出します。
運動会をテーマにしたかわいい絵本です。
中川ひろたかさんの文も村上康成さんの絵もすばらしくて、子どもたちが生き生きしていて、とっても楽しい運動会の模様が描かれています。
この絵本にはかけっこが苦手な子どもはいません。
きっと今でも足の遅い子はいるだろうし、運動会が嫌いな子どももいるはずなのに、この絵本で走っている子どもたちは嫌な表情をしないで、一所懸命に走っています。
きっとあの時のN君はただ一所懸命に走っただけなんでしょう。悪い約束をした方がいけないにちがいありません。
あの時、この絵本の子どもたちのように、歯をくいしばって汗を飛ばしながら走ればよかった。
いいえ、かけっこの遅い子だって、悔しいけれど、一所懸命に走っていたのです。結局、一位には一度もなれなかったですが。
(2011/10/10 投稿)

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10/09/2011 ノンタンのたんじょうび(キヨノ サチコ):書評「うふふの絵本」

今日紹介するのは
キヨノサチコさんの『ノンタンのたんじょうび 』。
おとうさんも
おかあさんも
ノンタンって知っていますよね?
子供の君たちも
ノンタンって知っていますよね?
もしかしたら
キティちゃんと同じくらい
有名な白い猫かもしれません。
私は娘たちが子供の頃に
出会いましたから
ノンタン知ってる歴20年以上に
なります。
そのノンタンの広告をつい先日新聞で
みかけたもので
うれしくなって
懐かしくなって
三連休の中日に
かわいいノンタンを紹介しました。
じゃあ、読もう。
![]() | ノンタンのたんじょうび (ノンタンあそぼうよ (9)) (1980/12/17) キヨノ サチコ 商品詳細を見る |


先日新聞で「ありがとう ノンタン35周年!」という広告を見かけました。その広告によると、かわいい白いネコのノンタンの絵本が出版されてから35年だということです。それって徹子の部屋と同じです。
しかも、総発行部数が、なんと、2850万部というから驚きです。さらに、数多いノンタン絵本のなかで11点が100万部を突破、そのなかの3点が200万部を超えているというのですから、すごいの一言です。
娘たちが小さい頃、ノンタンは「おばけのバーバパパ」と同じくらい大好きで、私も結構はまっていました。
何しろ白いネコのノンタンはかわいい。それにさびしんぼ。友だちがいないと元気がない。愛すべきキャラクターとして、親子二代にわたって愛されています。
この『ノンタンのたんじょうび』はノンタンの性格、ノンタンの世界がうまくでている一冊です。
丘を駆け上がっていくピンクのうさぎさんたち。なにやら大きな荷物をもっています。ノンタンがいいます。「うさぎさん、なに もってるの?」。うさぎさんたちが声をそろえて、「ないしょ、ないしょ」「ノンタンにはないしょ!」。
ノンタン絵本の魅力はなんといってもその絵にありますが、この文章のリズミカルな点も見逃せません。子どもたちと読んでいると、つい歌うように読んでしまいます。
ぶたさんもたぬきさんも、みんな「ノンタンにはないしょ!」って答えてくれません。
ノンタンは、「そーつと、そーつと、ぬきあし、さしあし」でみんなが集まっているおうちに忍び寄ります。でも、見つかって、ノンタンはひとりぼっち。
かわいそうなノンタン・・・。
ノンタン絵本に出てくる動物たちはみんなノンタンが大好き。いいえ、この絵本を読んでいる小さい子どもたちも、パパもママも、そしていつしかおじいちゃんとおばあちゃんになった人たちも、みんなノンタンが大好き。
うふふ。
ノンタンを読めば、笑顔がこぼれます。
(2011/10/09 投稿)

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10/08/2011 峠うどん物語(下)(重松 清):書評「おつゆは最後まで」

昨日に引き続いて
重松清さんの『峠うどん物語』。
今日は下巻。
上巻と下巻を並べてみると
表紙の装丁が
「峠うどん」ののれんになっているのが
わかるかしら。
うまい装丁ですね。
昨日はうどんのことを書きましたから
今日は蕎麦のことを。
関西にいる頃は
蕎麦は全然食べませんでした。
やっぱり東京に出てきてから。
山形あたりに行くと
蕎麦がおいしいですよね。
だから、いまは
蕎麦を食べることの方が
多いような気がします。
こんなこというとおかしいかもしれませんが
蕎麦の方が大人の口に
あっているのではないかしら。
ちがうかな。
じゃあ、読もう。
![]() | 峠うどん物語(下) (2011/08/31) 重松 清 商品詳細を見る |


この夏ほど私たちの国は水害の国だと思ったことはありません。
津波、長雨、浸水、台風、土石流。東日本大震災の被災者の人たちの避難所までが床上浸水に見舞われたという悲しみ。
四方を海に囲まれた小さな国土はまるで葉脈のような狭くて急な河川をかかえています。海が怒り、川が氾濫する。自然が豊かな国だからこそ、水の怖さと同居しているといえます。
その一方で、水の恩恵もまたたくさん受けています。この国を代表するお米も水がいのちです、あるいはうどんにしても蕎麦にしてもおいしい水がかかせません。魚介類が豊富なのは海がそこにあるからです。
水がもっている功罪は、どこか喜びと悲しみとの関係に似ています。どこかの一点を過ぎれば、そこは悲しみであり、また喜びにもなります。
そんな一点を「峠」と昔のひとは呼んだのではないでしょうか。
この連作短編集は「峠うどん」という一軒のうどん屋を舞台にして、生きることの意味、悲しみのもつ重みを描いた作品です。
東日本大震災以前に書かれた作品が八篇、以後に書かれた作品が二編収められています。
二編のうちのひとつ「柿八年」という作品では物語の舞台の町が戦後まもない頃、大きな水害に襲われた設定で描かれています。
「それでも、ひとびとはくじけなかった。街はまたもや復興して、さらに発展した。ただの平凡な地方都市だと思っていたけど、この街は意外にすごい」と、主人公の中学三年生の少女の思いとして、重松さんはつづっています。
おそらくそれは物語のなかの少女の思いというより、重松さんの祈りのような思いではないでしょうか。
東日本大震災で確かに私たちの国は大きなダメージを受けました。あるいは今夏の台風でもそうです。それでも、この国の人々はくじけず、必ず立ち直っていくにちがいない。この国は「意外にすごい」。
重松さんは願ったにちがいありません。その願いでこの「柿八年」という作品を書いたのではないでしょうか。
その続編のような物語が、大震災以後に書かれたもう一篇です。物語のエピソードもつづいています。その物語に重松さんは「立春大吉」という題名をつけました。
この題名にも重松さんの思いがこめられているように感じるのは、私だけでしょうか。
(2011/10/08 投稿)

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10/07/2011 峠うどん物語(上)(重松 清):書評「人は一杯のうどんを求める時がある」

私は関西の出身ですから
うどんを食べて育ったようなものです。
きつねうどんなんか
大好きです。
風邪なんかひいた時は
特別に鍋焼きうどんを
食べさせてもらいました。
東京に出てきて
初めて関東風のうどんを食べた時は
びっくりしました。
つゆが真っ黒でしたからね。
東京の人は
お醤油でうどんを食べるのかと
驚きました。
ところが、それも
食べ続けていると慣れるもので
案外いけるものだと。
うどんにだって
思い出はあります。
今日から、
二日続けて
重松清さんの『峠うどん物語』を
紹介します。
まずは、上巻から。
じゃあ、読もう。
![]() | 峠うどん物語(上) (2011/08/19) 重松 清 商品詳細を見る |


東日本大震災以降の重松清さんは、市販されていなかった本を出版されたり著者印税を寄付する自選集を刊行したり、深い悲しみにくれる被災地の人々を支援するいくつかの取り組みを行っています。
そもそも重松清さんがこれまでに描いてきた作品の多くは、いじめや家庭内の問題、あるいは死と向かいあった嘆きといったように、くじけそうになる人々を描きながら、明日につながる勇気を描いてきました。
それは、そういう問題を抱えない読者にも勇気を与えました。なぜなら、人は悲しみをもったものだからです。 悲しみがあるから喜びがある。涙があるから笑いがある。もし、この世に悲しみがなければなんとつまらないことでしょう。悲しみを乗り越えたところに、人がひととしてある満足なり充実があるような気がします。
もちろん、今回の大震災のようにそれでも犠牲になる人たちがいます。その人たちの無念を思うと、つらくなります。
だからこそ、残されたものたちはその人たちの分まで、生き続けなければならないのです。
それが、人としての責任だと思います。
この連作短編集ともいえる長編物語の舞台は、峠のてっぺんに建っている「峠うどん」という一軒のうどん屋。この店の前には大きな市営斎場があります。
だから、この店のお客さんは葬列に参列した人たち。肉親、友人、同僚、隣近所、関係はさまざまですが、命を見送ってきたばかりの、悲しみをかかえた人たち。
この物語は、そのうどん屋をきりもりするおじいさんとおばあさん、それに二人の孫にあたる中学三年生の淑子が出合う、そんな人たちとのささやかな心のまじわりを描いています。
まるで、今回の大震災以後に書かれたようなテーマですが、最初の作品は2006年に書かれた短編「かけ、のち月見」ですから、直接的には大震災と関係はありません。ただ、下巻には大震災以後に書かれた作品も収められています。そして、それはどうしても大震災の悲しみとつながっています。
主人公の少女が「死」と向き合うことで少しずつ成長していくように、私たちはあの大震災の悲しみを成長の糧にしていかなければならないのです。そのことをこの作品が教えてくれます。
「峠うどん」のかけうどんが悲しみにくれる人たちの心にぽっと温かみをくれるように、この作品も生きていく温かみがじんわりとしみわたっていくのです。
(2011/10/07 投稿)

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10/06/2011 オール・アバウト・セックス(鹿島 茂):書評「僕は官能小説の味方です。」

昨日は「女による女のためのR-18文学賞」の
第一回受賞作、
日向蓬さんの『マゼンタ100』を紹介しましたが
結構官能小説というのは
奥が深いジャンルです。
男女のそういった描写は
名作といわれる文学作品のなかにも
数多く描かれていますが
それらは官能小説といわれることは
ありません。
どうしても
ソノ手の場面が主となるのが
官能小説ですが
ソレばかりだと
作品そのものの質が低下します。
そのあたりのバランスがむずかしい。
そんなことを書いた書評を
昔書いたことを思い出したので
今日は蔵出し書評で
鹿島茂さんの『オール・アバウト・セックス』を
紹介します。
じゃあ、読もう。
![]() | オール・アバウト・セックス (文春文庫) (2005/03) 鹿島 茂 商品詳細を見る |


この本の雑誌掲載時のタイトルが「エロスの図書館」。
個人的にはこちらのタイトルの方が気に入っている。だからというわけでもないが、図書館の話から始めよう。 この本は会社の近くの都内某所の図書館で借りた。刊行時に自宅のそばの図書館に予約を申し込んだのだが、係りの人から「このテの本は…(公共の図書館には合わないので)」と丁重に断られていたので、都内某所の図書館で見つけた時は小躍りした。ちなみにここも区立だから公共の図書館でしたが。
図書館の本の購入はその館の方針とか地方自治体の考え方で決められるから、例えばこの本が公序良俗に抵触すると言われれば引き下がるしかない(僕の予約を断った係りの人はそこまで云わなかったけれど)。
でも、この本は書名にセックスという単語は使われているが、至極真面目な学術(?)本であって、この本のどこを読んでも勃起することはない(もしそういうことを期待される向きの人は読んでも仕方がないということは断言できる)。
それよりも渡辺淳一氏の「失楽園」を公共の図書館が何冊も購入するのは如何なものか。あれこそまさに<官能小説>ではないか。あるいは村上春樹氏の「ノルウェイの森」だって結構ハードな表現がある。これだって図書館に堂々と並べられている。
このように官能とは受け取る側の意識の問題で境界線が三メートルずれることだってある。
逆に官能小説って、おいしい<おかず>みたいなもので、公共の図書館に置かれても困ってしまうところもある。
官能小説は、煮魚を食べるみたいにおいしいところだけ賞味する、かなり孤独な味わい方を求められる。
それを図書館から借りるとすれば、フォークとナイフで煮魚を食するようなものだ。官能小説を愛する者の一人として、それだけは避けたいと思う。
最後に鹿島茂氏の名言を紹介する。
「辞書というものは男にとって最初のエロ本だと言えますね」。
だとしたら、図書館ってまさにエロ本の宝庫ではないか。
(2002/11/12 投稿)

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10/05/2011 マゼンタ100(日向 蓬):書評「女性も性長する」

昨日紹介した吉行淳之介さんの『驟雨』は
戦後まもない頃の娼婦の町を舞台にしていましたが、
その当時はそうして男性たちは
官能の世界をさまよっていたといえます。
今日紹介するのは
バブルのあとの
昭和から平成につながる男女の世界を描いた
日向蓬さんの『マゼンタ100』という作品。
吉行淳之介さんの時代とは
かなり違います。
社会はとても自由になったのに
男女の関係はむしろ不自由に
なったような感じさえします。
あまり自由になりすぎると
歯止めがきかなくなって
美しいものとか
大切な思いといったものが
見落とされるのでしょうか。
なお、今日の作品は
第一回「女による女のためのR-18文学賞」大賞受賞作です。
じゃあ、読もう。
![]() | マゼンタ100 (角川文庫) (2006/11) 日向 蓬 商品詳細を見る |


窪美澄さんの『ふがいない僕は空を見た』は2011年本屋大賞の2位になって、本屋さんでも大々的に並べられていて、ベストセラーになっている。その中に収められている「ミクマリ」は第8回「女による女のためのR-18文学賞」大賞受賞作だ。
「女による女のためのR-18文学賞」は女性が書く、性をテーマにした小説に与えられるというユニークな文学賞で、すでに11回を数えている。
何人かの人を除けば有数な新人を輩出してきたとはけっしていえないが、それでも女性に官能小説を書かせるという試みは面白い。
ただやはり女性が描く官能描写はどぎつさを欠くし、どうしても恋愛感情にひっぱられる傾向がある。そのためか、今年度からは「女性ならではの感性を生かした小説」にテーマが変更になるようだ。
女性ならではの官能小説を期待していたものとして少し残念だ。
本作『マゼンタ100』はその「女による女のためのR-18文学賞」の栄えある第一回受賞作である。
バブルの頃、既婚者でふたまわりも年上の男性とつきあっていた「とても若かったあたし」の、無我夢中の生活を描いた作品。
まだ薄い胸のあたしの快感も開発途上で、官能場面も刺激的ではない。単独の作品としては、未熟といっていい。
ところが、こうしてその続編のようにして書かれたいくつかの作品を並べていくと、同世代との男性との恋愛、会社の上司との不倫といった波乱万丈な生活を生き抜く「あたし」の成長に目をみはる。
そして、何よりも主人公の核にあるのが、すでに遠い日々となったバブルの頃の、年上の男性とのつきあいだったという、なんとも純な恋愛物語なのである。
タイトルの「マゼンタ」とは明るい赤紫色をいう色の名称だ。
もしかしたら、主人公の「アタシ」がずっと抜け切れない「マゼンタ」色のようなものは、処女から女性にかわる性のまじわりの痕跡の色をさしているのかもしれない。
(2011/10/05 投稿)

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10/04/2011 芥川賞を読む - 驟雨(吉行 淳之介):書評「男と女のあいだ」

今回の「芥川賞を読む」は
第31回受賞作の
吉行淳之介さんの『驟雨』。
吉行淳之介さんといえば
お母さんのあぐりさんとか
妹さんの吉行和子さん、
それに同じく芥川賞を受賞した吉行理恵さんといったように
個性的な家族を思い出します。
なにしろ人気作家でしたから
ファンの方も多いのではないでしょうか。
私も高校生の頃
何冊かを読みました。
このあたりは記憶ですが
その頃の吉行作品の文庫本には
クレーの絵画が使われていたように
覚えているのですが
違うかもしれません。
なにしろ、
遠い記憶です。
今回久しぶりに吉行淳之介さんの作品を読んで
そんなことを思い出しました。
じゃあ、読もう。
![]() | 原色の街・驟雨 (新潮文庫) (1965/10) 吉行 淳之介 商品詳細を見る |


第31回芥川賞受賞作(1954年)。
吉行淳之介はこの時三十歳で、受賞の報せを結核病棟の夜の病室で聞いたという。
その後の日本の文学シーンでの吉行の活躍を知っているものからみれば、この時の吉行の受賞はすこぶる評判が悪い。選考委員の一人石川達三は選評の冒頭、「吉行君には気の毒だが、この当選作について世評は芳しくあるまいと想像する」とまで言い切っている。
また、同じく選考委員の瀧井孝作は「当選なしが続くのは不可といわれ」と、芥川賞の裏事情まで漏らしている。ちなみに、前回の第30回芥川賞は受賞作なしであった。
宇野浩二委員は受賞作となった「驟雨」については推薦しにくいが、「吉行のこれまでの努力と勉強に対して」芥川賞が決まったとしている。
それほど「驟雨」は作品としての出来はよくないだろうか。
主人公山村英夫は大学を出て三年めの汽船会社で働くサラリーマンである。結婚の意思はない。それよりも、「遊戯の段階からはみ出しそうな女性関係に巻き込まれまい」と心決めている。だから、彼は好んで娼婦の町を歩いた。
その原色の町で「しとやかな身のこなしと知的な容貌」をもった道子という娼婦と出合う。そして、いつしか道子に「遊戯の階段からはみ出しそうな」感情を抱くようになる。
娼婦の町という貧しい性の現場を舞台にしながら、男の愛に対する一途さを描いた作品である。
終盤近く、道子の鏡台から使い古された何本もの安全剃刀を見つけた山村は激しく突き動かされる。それは道子の体に重なる男たちの姿でもあった。
このあとにつづく贋アカシアの葉が「まるで緑いろの驟雨」のようにはげしく落葉する場面は印象的だ。おそらく、主人公の山村の心からもはげしく何かが落ちていったのだ。
どれほど愛しても重なることのない娼婦との恋愛。しかし、それは娼婦だけではなく、男と女の恋愛そのものがそうなのかもしれない。
この受賞作のあとも吉行淳之介はずっとそんな感情をじっと見つめ続けた。
(2011/10/04 投稿)

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10/03/2011 語感トレーニング(中村 明):書評「言葉をどう選ぶか」

今日はまず問題から。
レストランのメニューに①「ピッツァ」②「ピザ」とあったとき、
どちらの方が本格的だと感じますか?
さて、あなたはどうでしょう。
言葉は生きています。
だから、その時代時代の呼吸を
吸うことになります。
言葉を扱うときは、その時代の息遣いを
忘れないようにすることが肝心です。
今日紹介する中村明さんの
『語感トレーニング』には
「日本語のセンスをみがく55題」という副題が
ついています。
日本語のセンス、
それはひいてはコミュニケーションのセンスだとも
いえます。
言葉を蔑(ないがし)ろにすることは
人との対話を貧弱にします。
さあ、この本でぜひ
日本語のセンスを磨いて下さい。
冒頭の答えは①でした。
じゃあ、読もう。
![]() | 語感トレーニング――日本語のセンスをみがく55題 (岩波新書) (2011/04/21) 中村 明 商品詳細を見る |


本書の著者である中村明さんの『日本語 語感の辞典』が昨秋出版された時、本屋さんの店頭で購入しようかどうしようか迷いつつ、結局買うことはなかった。それでいて、いまだに手元に置きたい一冊でもあるのだが。
だから、新書でこの本が出た時には正直うれしかった。何よりも「語感」という響きがいい。言語がもっている感情。それを知りたいと思った。
中村さんは「表現の第一歩はことばの選択だ」という。「伝えたい情報を論理的に正確に表すだけでは不十分で、その語の感触の面でも自分の気持ちにぴったりフィットさせたい」と。
例えば、「福島」。今回の原発事故によって「フクシマ」と、「ヒロシマ」や「ナガサキ」と同様にカタカナ表記されることがある。漢字表記にするかカタカナ表記にするかは小さな違いかもしれないが、実はとても大きな問題を提起している。
「フクシマ」とカタカナ表記を選んだ人はそこに放射能の世界的な影響を言下に含ませようとしている。だからこそ、私は「福島」という漢字表記にこだわりたい。福島はいつまでも美しい国なのだ。「フクシマ」にしてはいけないのだ。それが私の気持ちだ。
本書は「表現する≪人≫に関する語感」、「表現される≪もの・こと≫にかかわる語感」、「表現に用いる≪ことば≫にまつわる語感」という三系統をそれぞれに章立てにして、さらにはそれぞれの小見出しに関連した問題をつけて「トレーニング」しながら語感を磨く工夫がなされている。
果たして自分にどれだけの語感のセンスがあるか、そしてそれを高めるためにはどうすればいいかが、わかりやすく解説されている。
けれど、やはり語感を高めるもっともいい方法はたくさんの本を読むことではないだろうか。
こういう思いの時にどういう表現をすれば人に伝わるか。それはとても大事なコミュニケーションの方法でもある。それを高めるためにも、私たちはもっともっと言葉にふれるしかないように思う。
どのような言葉を選ぶか。言葉の選択こそ、あなた自身をきちんと伝えるもっとも確かな方法だといえる。
(2011/10/03 投稿)

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10/02/2011 14ひきのあきまつり(いわむら かずお):書評「秋をみつけに」

秋といえば、
食欲の秋、スポーツの秋、芸術の秋、
そして、
もちろん読書の秋。
つけくわえるなら
絵本の秋。
今日は、そんな絵本の秋にぴったりの本を
紹介します。
いわむらかずおさんの『14ひきのあきまつり 』。
表紙をみただけで
秋だなって吐息がでそうです。
こんな表紙をみたら
紅葉をもとめてどこかに
行きたいなりますね。
じゃあ、読もう。
![]() | 14ひきのあきまつり (14ひきのシリーズ) (1992/10/03) いわむら かずお 商品詳細を見る |


なんときれいな表紙でしょう。秋そのもの。
こんな表紙を手にしたら、誰だってでかけてみたくなります。どこへって?
決まっています。14匹のねずみたちが暮らす、森のなかへ。
いわむらかずおさんの「14ひき」シリーズの、これは秋のものがたり。
おとうさんとおかあさんとおじいさんが木の実取りにでかけている間に、きょうだい10ぴきとおばあさんはかくれんぼあそび。山の秋はたくさんの落ち葉があってかくれんぼにはぴったり。でも、ほらあそこにとっくんがいます。あの落ち葉のうしろにはなっちゃんが。
みんなでみんなでさがしてごらん。
ついでに、秋もみつけてごらん。
でも、ろっくんだけが見つかりません。家族みんなで今度はろっくんさがし。
そんな彼らがでくわしたのが、秋のまつり。かついでいるのはくりたけのきょうだい。それにかえるたち。どんぐりだっています。
みこしは色とりどりの、形もさまざまなきのこ。そのきのこみこしの上にはバッタやかたつむりといった虫たちがいます。
山の秋のまつりはやっぱり豊年を祝うのでしょうか。
わっしょい、わっしょい、せいや、せいや。
14ひきのねずみたちが暮らす山の秋はにぎやかです。
まいごになっていたろっくんもみつかって、最後はみんなで楽しい食事です。
なんといっても食欲の秋。ねずみたちの食卓にもごちそうが並びます。
こんなに素敵な秋なんですから、絵本だけではつまらない。
14ひきのねずみたちが暮らす山の秋に、やっぱり行ってみたくなります。
秋をみつけに。
(2011/10/02 投稿)

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