02/29/2012 司馬さんは夢の中 3(福田 みどり):書評

毎年の2月なら昨日で終わっているはずですが
今年はうるう年。
おまけのような一日です。
でも、よかったなぁ。
この日のおかげで
司馬遼太郎さんの奥さん
福田みどりさんが書いた
『司馬さんは夢の中』を
3冊ともに
司馬遼太郎さんの菜の花忌のある
2月に紹介できるのですから。
特にこの巻では
司馬遼太郎さんが『梟の城』で直木賞を受賞した当時のことが
垣間見れるのですから
うれしくなります。
あの司馬遼太郎さんが
当時1LDKのアパートに住んでいたなんて
信じられます?
微笑ましいな。
いかにも司馬遼太郎さんらしいなぁ。
このシリーズは
司馬遼太郎さんのファンには
たまらないものなのでは
ないでしょうか。
じゃあ、読もう。
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司馬遼太郎さんの『二十一世紀に生きる君たちへ』という、教科書にも載って有名なエッセイがあります。
その一節、「ただ残念にも、その「未来」という町角には、私はもういない」にずっとこだわりがありました。 この作品が書かれたのは、1989年、司馬さんが66歳の時でした。亡くなる7年前のことです。それなのに、どうして司馬さんは自身が「もういない」などと書いたのか不思議で仕方がありませんでした。
司馬さんの奥さんである福田みどりさんが書いたこの本を読んで、やっとその謎が解けました。
みどり夫人はこう書いています。「イツ死ンデモイイ。(中略)ソノ頃ニハ俺ハモウイナイ。etc。そんなことを口走る癖が若い頃からあったけれど…」
なんだ、そうだったのか。あの文章は司馬さんの口癖だったのか。
そんなことに気づくのはやはり奥さんでしかありません。
司馬遼太郎という知の巨人を夫にもったみどり夫人の、この本は、司馬さんを偲ぶ思い出話であり、自身の身辺雑記ですが、3巻めになって、文章がよりこなれてきています。
その分、思いの丈が十分に伝わってきます。
なにげなく、もしかしたら作者の巧妙な作為があるかもしれませんがそれ程に文章がこなれてきた証しであるのですが、指し込まれたカタカナ表記の文章に読む側はハッと息をのむ思いがします。
例えば、「司馬サン、私ニ逢イタイデスカ」という文章。
前後の文章にこの言葉はつながらないのですが、文章全体にみどり夫人のそんな哀切がにじみでていて、それがカタカナ表記の発露になって書かれています。
まるで、恋の告白のような。
みどり夫人は今でも司馬さんを深く、ふかく愛されているのだと思います。
だから、それが直木賞の受賞の夜の思い出にしろ、小さな露草を愛でる夫の姿にしろ、あるいはまた義姉から聞いた少年時代の姿にしろ、それはどんな小さなことであっても、すべて愛する者へとつながる思い出なのです。愛する人への思いなのです。
だから、この連続する作品群は、みどり夫人は司馬遼太郎さんに書いた恋文なのです。
(2012/02/29 投稿)

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02/28/2012 司馬さんは夢の中〈2〉(福田 みどり):書評「夫婦トハ何ダロウ」

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今日は
司馬遼太郎さんの奥さん福田みどりさんの
『司馬さんは夢の中 2』です。
書評にも書きましたが、
できたらこの本は
中公文庫で読むことをおすすめします。
なんといっても
関川夏央さんの「解説」がいい。
まるで、司馬さんとみどりさんの
恋愛物語を読んでいる気分に
させてくれます。
でも、不思議ですよね。
私はてっきりこの本を読んでいたと
思っていたのです。
きっと本屋さんで昔見かけたのだと
思います。
それで、読まないとと思ったはず。
ところが、ずっとそのままにうっちゃってて
読まず仕舞いだったのでしょうね。
反省しきりの一冊です。
じゃあ、読もう。
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文庫本で読む楽しみのひとつは、そしてはそれは結構大きなひとつですが、「解説」にあります。
作家司馬遼太郎夫人である福田みどりさんが綴った亡き夫との思い出、それは単に茫々たる懐旧の思い出だけでなく現在の夫人の心境録でもあるのですが、エッセイの第二弾にあたる本書の文庫本「解説」は、司馬遼太郎関連の著作も多数ものにしている関川夏央氏が担当しています。
「あの、元気だった大阪」と題された「解説」は、前に読んでもよし、あとで読むのもよしの好篇です。
これから、本書を読もうと思われている人には、この文庫本をオススメします。
関川氏はまず司馬遼太郎が亡くなった1996年2月以降の、みどり夫人の様子を描いています。
司馬の死後4年もの歳月を鬱々と生き、アルコール依存症という診断まで至った夫人。そのことを知ることは、本書を読む上で覆い隠してはいけない真実だと思います。
それほどまでに打ちのめされた夫人の、司馬への愛情の深さが全編に散りばめられているといっていいでしょう。そこからはいあがって、綴りつづける夫人は、単に司馬の功績を守る者としてではなく、愛する者と伴に生きた夫人ならではの回想といっていいでしょう。
「もし、大阪中の人が、きみを攻めてきても僕はきみを守ってあげる」と司馬がいった挿話が本作に描かれていますが、関川氏もこれに注目しています。
「日本中」ではなく「大阪中」。
それは司馬遼太郎という作家の、ある本質を衝いた言葉として記憶されていいと思います。
司馬にはそういった言語感覚がありました。
それは詩的ともいえる、「大阪中」ではないでしょうか。
よくぞ、みどり夫人が書いてくれたものです。
こんな言葉、夫人以外絶対耳にしないものだからです。
みどり夫人は「夫婦。イッタイ、夫婦、トイウノハ何ナノダロウ」と書いたあと、自身と司馬との夫婦を描くのではなく、母と父の夫婦の姿を描きます。
それでいて、それは司馬を離れることはありません。
みどり夫人の亡き夫を綴るエッセイの魅力は、周辺を歩きながら、その中心には必ず司馬遼太郎、いえ司馬の本名である福田定一、がいることです。
なんともうらやましい関係です。
(2012/02/28 投稿)

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02/27/2012 司馬さんは夢の中(福田みどり):書評「交々(こもごも)と」

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ところで、2月12日は
作家司馬遼太郎さんの忌日、
菜の花忌。
うっかり忘れていました。
それで、司馬遼太郎さんの奥さんである
福田みどりさんの
『司馬さんは夢の中 3』を
本屋さんの文庫本新刊のコーナーで
見つけた時も
三冊目がでていたことに
気がついていなかったことを
少し恥ずかしく思いました。
しかも、
このシリーズは『2』までは
読んでいたと思い込んでいたのですが、
どうも『1』しか読んでいないのです。
あわてて、連続して読みました。
運のいいことに
今年はうるう年。
2月まで三日あるので、
今日から三日間、
福田みどりさんの『司馬さんは夢の中』で
お楽しみ下さい。
まず、今日の一巻めは蔵出し書評です。
じゃあ、読もう。
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司馬遼太郎が亡くなって九年が経つ。その死後も作品やエッセイ、講演録といった著作が数多く出版され、そういう点でも司馬さんがいかに稀有な作家であるかがわかる。また友人知人による作品論や挿話の類の発表も陸続と後を絶たず、司馬さんの世界の広さを実感する。その中でも本書は司馬さんに最も近いところにいた夫人が描いた回想録であり、多分これまで出版されてきた多くの司馬遼太郎読本とは一線を画した内容に仕上がっている。言い換えれば、司馬さんの本名である福田定一氏の素顔が垣間見れる回想録である。
司馬さんとみどり夫人は新聞社で席を並べていた同僚である。やがて、二人はトモダチからコイビトの関係になり(この本の中の「遠出しようか」という章ではコイビトとなった二人が夜の奈良の街をデートする初々しい挿話が語られている)、昭和三十四年一月、小さなホテルで写真もない「小さい小さい宴」だけの結婚式をあげる。いわゆる社内結婚だった。その後の新婚時代の司馬さんや「風邪恐怖症」だった司馬さんなど、国民的作家と呼ばれた司馬遼太郎にも当然そういった私たちと同じ生活があったことを知る。当たり前すぎることではあるが。
司馬遼太郎にはいくつかの顔がある。歴史小説家としての顔、思索家としての顔、旅行家としての顔、そして詩人としての顔。特に司馬サンには詩人としての香りが色濃い。『街道をゆく』シリーズや『草原の記』に限らず、時に司馬さんの作品には過剰ともいえる詩的な表現がのぞく時がある。本書の中で夫人が描く生活の中の司馬さんも時に夢の中で生きているかのような横顔をみせる。そういうことでいえば、司馬さんはずっと夢を見続けた、少年みたいな人だったのかもしれない。
夫人はそんな司馬さんをこう表現して本書を締めくくっている。「少年のような表情だった。意思とかかわりなく感情が、ごく自然に吹きこぼれてしまったような邪気のない表情だった。なんともいえない甘い雰囲気が漂っていた」(262頁)その表情が司馬さんがいなくなってから後も夫人の胸にしばしば去来するのだという。切なくて、深い、夫婦の姿である。
交々(こもごも)と 思ひ出尽きぬ 菜の花忌 (夏の雨)
(2005/02/27 投稿)

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02/26/2012 さよなら ようちえん(さこ ももみ):書評「ここから始まる」

もう少ししたら、
卒業式シーズンです。
今日紹介するのは、
幼稚園の卒園式を描いた
さこももみさんの『さよなら ようちえん』。
さこももみさんは
1961年生まれの絵本作家です。
さこももみさんは
自身の卒園式のことを覚えています。
えらいな。
私なんか、たぶん、ぼーつとしていたのでしょう、
何にも覚えていません。
さこももみさんは先生の言葉を
覚えていました。
「みんなは初めての小学校に行くだけで、
十分がんばっているんだから」
これって、
幼稚園児だけでなく
この春卒業する大学生にも
使えそうですね。
じゃあ、読もう。
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幼稚園の先生は森本先生だったと思う。クラスは花組。
あの頃から、50年以上も経てば、覚えているのはそんなことぐらい。
あ、そうだ。幼稚園の噴水には落ちたことがあったっけ。あれは夢だろうか。
友だちの名前は誰も覚えていない。一体どんな行事があっただろう。
卒園式は当時もあったはずなのに、ちっとも覚えていない。
娘の幼稚園時代は少し覚えている。
運動会、クリスマスパーティー、卒園式。さすがに娘の友達の名前は覚えていないが、時々はお迎えをしたことはある。
幼稚園はまるで絵本みたいだ。
自分の時代、子供たちの時代、それぞれに出合うものとして、幼稚園は絵本と同じだ。
孫が生まれて、その子が幼稚園に通い出したら、また出合うのかもしれない。そんなことも絵本に似ている。
絵本は人生で三度出合う。
この絵本の「ななこちゃん」はこばとようちえんのたんぽぽぐみ。年長のクラスだ。そこにはたくさんの友だちがいる。
どろだんご名人のゆうきくん。泳ぎの苦手なみゆきちゃん。お調子者のきすけくん。物知りなこのみちゃん。双子のかずやくんとかずまくん。
ななこちゃんが気になるのは、秋に越してきたひろきくん。いつもひとりでいる。
そんなある日、雪の朝、ひろきくんは青いスモックに雪を受けとめて、「ゆきって ひとつひとつ かたちが ちがう」って言った。
雪の結晶は形がすべて違う。
ななこちゃんの友だちがみんな違うように。
それが「個性」だということを、ななこちゃんが知るようになるのは、おそらくもっとずっと先だ。
そして、卒園式。
ななこちゃんも、ななこちゃんの友だちもみんなお別れ。小学生という新しい春へむかって、お別れだ。
ななこちゃんは、50年後にも幼稚園のことを覚えているだろうか。
ひろきくんの雪の結晶の話を覚えているだろうか。
ここから始まる。
(2012/02/26 投稿)

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02/25/2012 今日もていねいに。 (PHP文庫)(松浦 弥太郎):書評「白いハンカチ」

先日紹介しました
丸谷才一さんの『人魚はア・カペラで歌ふ』に
戦後の出版界の偉業が載っていて、
その何位かに
文庫と新書のことが挙げられています。
丸谷才一さんはこのふたつが両立したのは
「おもしろい現象」と書いていて
その理由は「日本人の手が小さいから」と
推測しています。
なるほど。
いい推理かもしれません。
本屋さんに行くと
必ず文庫本の新刊のコーナーに
寄ります。
最近これはっていう文庫本を見つけていないのですが
松浦弥太郎さんの『今日もていねいに。』に
思わずひかれました。
PHP文庫です。
思わず買いそうになってしまいました。
待てよ。
この本、持っているよ。
それぐらい、
文庫本としても魅力があります。
そこで、
今日は再録として
紹介します。
じゃあ、読もう。
![]() | 今日もていねいに。 (PHP文庫) (2012/02/03) 松浦 弥太郎 商品詳細を見る |


雑誌「暮しの手帖」の最後のページに「編集者の手帖」というコーナーがあります。いわゆる編集後記と呼ばれるものでしょう。その文章の最後が、本書のタイトルにもなっている「今日もていねいに。」。
はじめてその一文を目にしたとき、はっとなって、前の号はどうだったのかと既刊号を何冊も開いてみました。そこにも、「今日もていねいに。」とあります。
わずか九文字なのに、なんて美しい言葉なんだろう、と打たれました。
「今日もていねいに」につづく文章とは何でしょう。
編集者としては、おそらく「読んでもらってありがとう」でしょうが、それだけではない、作り手の思いが、最後の「。」に込められているように感じます。
書いているのは「暮しの手帖」の編集長、松浦弥太郎さんでした。
本書には、そんな松浦弥太郎さんの「暮らしの中のひとつひとつの出来事と向き合い、じっくりと考え、頭だけでなく自分という存在すべてで取り組むためのやり方」、毎日の「暮らしのなかの工夫と発見」がたくさん紹介されています。
書かれていることは難しいことではありません。
たとえば、「とことん話すのは無理な相手でも、自分から「おはよう」と言ってみましょう。相手ばかりか自分まで気持ちが変わり、朝がすてきになるはずです」(20頁)みたいな、あたりまえのような工夫。
そのことを松浦さんはこんなふうに書かれています。
「慌しい世の中や人間関係でブレてしまった心の矛先を、そっと自分自身に向けなおす」と。
「ブレてしまった心の矛先」。この時、「ブレて」いるかどうかの判断は自分自身です。この本のなかに書かれているようなことを知らなかったら、「ブレて」いるかどうかさえ、わからないかもしれません。あるいは、自身の生き方の指針のようなものがまったく違えば、ブレようがありません。
それは間違っているかもしれませんし、ただしいかもしれません。
それを判断するのは、自分自身です。
松浦さんは、「間違ったことをしたら潔く謝り、失敗はちゃんと認め、決して嘘をつかず、いつも正直・親切を心がける。これが心の清潔を保つ方法です」(43頁)といいます。
清潔な真っ白いハンカチでなくても手は拭けるでしょう。
でも、私ならやはりそんなきれいなハンカチをもっていたい。持つように心がけたい。
「今日もていねいに。」といえる、生き方をしたい、と思います。
(2010/05/25 投稿)

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02/24/2012 綾とりで天の川(丸谷 才一):書評「書評いろは歌留多」

二日続けて
丸谷才一さんの薀蓄エッセイを
紹介してきましたが、
ええい、
仏の顔も三度まで、
二度あることは三度ある、
サンド(三度?)ウィッチは大好物、
ということで、
今日も丸谷才一さんでいきますよ。
今回は『綾とりで天の川』。
2005年の蔵出し書評です。
でも、
丸谷才一さんが好きだなぁ。
こんなに読んでたら、
うんと賢くなっていてもいいはずですが
どうもうまくいかない。
所詮は
丸谷才一さんとは
頭の構造が違いすぎるんでしょうね。
比べてみるのが
おかしい。
でも、丸谷才一さんのいいところは
そんな私のレベルにも
あわせてくれるところ。
今回も、お楽しみあれ。
じゃあ、読もう。
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おなじみ丸谷才一の薀蓄エッセイの最新刊(2005年当時)である。
今回も楽しく、ふむふむなるほどと膝を進めてしまふ十六編が収められている。もちろん和田誠のイラストも健在である。
特に「君の瞳に乾杯」という映画『カサブランカ』についての薀蓄話は、和田のハンフリ・ボガートの十八番のイラストと相俟って、まさに名人芸の一編である。
昨年(2004年)のプロ野球騒動を受けての「野球いろは歌留多」の軽さも楽しい。そんな丸谷に影響されて、今回の書評は、いろは歌留多でいきませう。
い … 言ふのも華
もちろん、言わぬが華が原典。はっきり言わない方が味があるといふ、日本人好みの言葉だ。
丸谷のエッセイはその逆。思考から思考へ重ねていくことで話に深みが出てくる。丸谷の思考の始まりはちょっとしたことがきっかけである。それが「心を刺激」して、「いろいろな方面から見てゆきますよ」ということになる。
男のおしゃべりも時にはいいものだ。
ろ … 論より機知
丸谷の思考は論理の積み木だ。それだとどうしても話題が重くなる。それを柔らめてくれるのが丸谷独自の機知といえる。
話題の間に機知をはめ込むことで読者は容易に先に進めるものだ。煙に巻かれているともいえるが、その絶妙感が丸谷エッセイの本領でもある。
は … 花よりイラスト
花というのは生活に潤いを与えてくれるものだ。この世界に花がなければどんなに殺風景なことだろう。それでいて、花は前面に出てくるものではない。さりげなく咲いている花の健気さにどれほど癒されることだろう。
丸谷の薀蓄エッセイ集でも同じことが言える。
丸谷の文章はそれだけで魅力があるのだが、和田のイラストがその楽しみを倍増させているのは万人が認めるところだろう。
そこで、花よりイラスト。
和田のイラストが文章に潤いを与える花のような存在であることを言いたかった。
《に》からの続きのいろは歌留多は皆さんが好き勝手に考えて下さい。
「たかが書評なんですから」(この言葉の原典はこの本に二度も登場する。映画監督のヒッチコックがあの美人女優イングリッド・バーグマンに言ったという「たかが映画じゃないか」から頂戴した。賢くなりますね、まったく)
(2005/06/26 投稿)

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02/23/2012 人魚はア・カペラで歌ふ(丸谷 才一):書評「不徳の致すところ」

今日は昨日のお約束通り、
丸谷才一さんの新しいエッセイ集、
『人魚はア・カペラで歌ふ』を
紹介します。
書評のなかには書きませんでしたが、
この本のところどころに
岩波文庫のことが書かれていて、
丸谷才一さんは岩波文庫のカバーは必ず
取るそうです。
その理由がいい。
「あの平福百穂装の表紙が子供のころから好きなのだ」
わかるな。
確かに、いい。
それにこんなことも書いています。
「岩波文庫の棚がある書店はまことにすくなく、
わたしみたいな子供のころから岩波文庫で育つた者に
とつては寂しい限りだけれど」
これも、わかる。
わかるといえば、こんな一文。
長編小説といふのは時間の藝術です。
お見事。
じゃあ、読もう。
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おなじみ丸谷才一さんの薀蓄エッセイ。えーと、この前に出たのは『人形のBWH』だったかな。確か、『月とメロン』とか『袖のボタン』とか『双六で東海道』とか、丸谷さんのこの手の話は大好きで、もれなく読んできたつもり。
もしかしたら、一つや二つ読んでいないものもあるかもしれない。あるいはこんなことはいえないだろうか。著者の丸谷さんもどこかで書いたことなんか忘れてまた書いてしまった話とか。
ありそうだなあ。
今回もエニグマ暗号記なんていう第二次世界大戦に各国が必死になって奪い取ろうとした機会のこととか坂本竜馬が何故人気があるかとか満州の話とか、もちろん日本語の話や文藝の話、それは縦横無尽に展開されていて、へええ、はああ、の連続。
丸谷才一さんもえらいですが、こんなに高尚で知的なエッセイを連載している「オール読物」という雑誌もえらい。
そもそもこの雑誌、大衆小説というのだろうか、「文学界」と双璧をなす文芸春秋の雑誌だけれど、丸谷エッセイを楽しみにしている読者がいるくらいだから、もしかしたら「文学界」の読者の比ではないかもしれない。
知的な読者こそ大衆小説の楽しみを、ここは愉しみと書くべきだろうな、知っているのだろう。
そんな薀蓄エッセイのなかでも私が気にいったのは、バイブレーター(そう女性が使うあれ)の起源とか初めて前ボタンのついたズボンをはいた織田信長とか、下半身のたぐいのものが多いのは、私に問題があって、「オール読物」の読者が全体的にそうだということではない。
でも、この類いの話になると、丸谷さんの口舌滑らかになるような気がするのは、私だけかしらん。
これは下半身にすればもっと高尚なのだが、「姦通小説のこと」と題されたエッセイが面白かった。
丸谷さんは戦前の日本が姦通に神経をとがらせたのは天皇制の問題と関係があるんじゃないかと推測している内容ですが、そのあたりは省くとして、夏目漱石の代表作のひとつ『それから』が姦通小説の名作だという点に納得。
しかも、それが読売新聞の記事に反発して書かれたものではないかという、詳しい話は本書を読んでもらうしかないが、この推理、納得がいく。
丸谷さんの薀蓄エッセイでお酒の席が盛り上がることがないのは、これも私に問題があって、「オール読物」の読者全部ではありません。
今回はバイブレーターの話は使えそうだが。
(2012/02/23 投稿)

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02/22/2012 双六で東海道(丸谷 才一):書評「「名刺の話」」

本屋さんで
丸谷才一さんの新刊
『人魚はア・カペラで歌ふ』を発見。
もう奪うようにして
もちろん奪っていませんが、
手にしましたが、
今日は以前の本の蔵出し書評。
『双六で東海道』。
どうも新刊のことを引き延ばしているようですが
予告編みたいな、
ちょっとちがうな、
まあそんな感じで今日は紹介します。
では、新刊はいつ紹介するのだと
問われる人も
まったくいないとも限らないので
書いておくと、
明日、明日紹介します。
和田誠さんも書いているでしょ。
お楽しみはこれからだ、って。
じゃあ、読もう。
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ご存知といふか、お馴染みといふか、言葉の用法としてはどちらが正しいのかしら。
ご存知といふくらいだからお馴染みだろうし、お馴染みといふことはよくご存知だろうし、日本語って難しい。兎に角、相変わらず楽しい丸谷才一さんのエッセイ集です。
博覧強記、自由自在、と正当な四字熟語を並べると(何が正当かはこの本の「周恩来も金日成も田中角栄も」の章をお読み下さい)、この本の面白さがわかってもらえるかもしれない。
もっとも無用の長物といふ、四字熟語まがいの軽さも、これはこれで愉快である。
気がついた人がいるかもしれませんが、今回の書評は丸谷先生に倣って、旧かなづかいでいきますよ。
もっとも学校で習はなかったから、使い方の保証はありません。
でも、こんな感じで書かれていますっていふ、雰囲気だけでもわかってもらえたら、うれしいですね。
書評を書く時に、その本のいいところをどう表現するかはすごく大切なことだと思ふのだけれど、著者の文体につい似てしまふっていうのも、それだけその本が気に入った証明かもしれない。
ものまね書評。
これは世の中にもっと広まってもおかしくない。
ここで話を変えますよ。
「名刺の話」をしないとおさまらない。
この本の中で、パートナーに嫌われる仕草の話が紹介されている(「男女の仲」の章です)のですが、その中で、書評子が驚いたといふか、誰もがしていると思っていたものがある。
そのまま書きますよ。「名刺を爪楊枝がはりに使ふといふのがあって、これは斬新にしてかつ厭らしいと衝撃を受けた」とある。
あの丸谷先生ともあろうお方が衝撃を受けるのだから、これは大変厭らしいことに決まっている。
でも、したことがある。
もらった人には悪いからもらった名刺ではないですよ、あくまでも自分の名刺。
薄さといい、角のとがりといい、軟らかさといい、あれは爪楊枝にいいと思ふのですが。女性用の丸い角はだめですよ。あの丸みは爪楊枝にしないでねということかもしれない。
まあ、どうでもいいですよね。
そうなんだけど、このどうでもいいところが読書の愉しみでもある。
楽しみでなく、愉しみですよ。
丸谷先生もこうおっしゃっている。「本を読んで、今までわからないでいたことがわかるのはいい気分だなあと今回もまた痛切に思ひました。誰かが、本を読むことはなぜこんなに楽しいのか。それは自分の知らないことが途方もなく多いからである、と言ったけれど、その通り、と思ふ」。
まったくいい本は自分で書評も書いている。
(2006/12/12 投稿)

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02/21/2012 なぜ人妻はそそるのか? 「よろめき」の現代史(本橋信宏):書評

今日は
どちらかといえば、
大人向けの一冊。
どちらかといえば、と
あいまいになったのは
この本を読もうと思えば
本屋さんでパラパラと読むことは
誰でも可能だし、
色々旺盛な男の子たちに
あまり禁止しても
それはそれで
旺盛さは増すという
経験則もあるので、
どちらかといえば、に
とどめました。
刺激的かといえば
そうでもありませんが、
世の奥様たちがみんな、この本
本橋信宏さんの『なぜ人妻はそそるのか?』に書かれている
人妻たちではないと
念をおしておかないと。
暴走はよくない。
うーむ。
でも、誰もそんなふうに思わないかな。
じゃあ、読もう。
![]() | なぜ人妻はそそるのか? 「よろめき」の現代史 (メディアファクトリー新書) (2011/06/29) 本橋信宏 商品詳細を見る |


最近はインターネットや電子辞書の普及で辞書をひくということをあまりしなくなりました。言葉をたずねるということが容易になったことはうれしいですが、もう少し言葉を楽しむことがあってもいいのではないかと思います。
今回「よろめき」を調べるにあたっては本箱の中から分厚く重い広辞苑を取り出して、ちゃんと正統的に言葉をたずねました。
広辞苑には「よろめき」という名詞は出ていません。動詞の「よろめく」だけ。一つめの意味として、「足どりが確かでなく、よろよろする」とあります。
もちろん、本書でいう「よろめき」はこの意味ではありません。もっとも性的に爆発させてよろよろすることはあるでしょうが、私は経験ありません。
二つめの意味、「俗に、誘惑にのる。うわきする」とあります。本書はこのことを指しています。
だったら、「人妻」でなくても「よろめく」ことはあるのでしょうが、「よろめき」は「人妻」でないといけない。というのも、どうも「よろめき」というのは昭和32年に発表された三島由紀夫の、純朴な人妻の姦通物語である『美徳のよろめき』からきているようなのです。
著者はここから「人妻が夫以外の男に強い関心を示す」ことを「よろめき」と表現するようになったと推測しています。
本書はアダルトな世界で今や大人気となっている「人妻」を、先ほどの三島由紀夫のような小説や映画、それにテレビドラマといった媒体からその変遷を解き明かそうとする、まじめな本ですが、それでも大学の先生が書いた社会論でも風俗論でもないのでそこは適当に柔らかい、面白い一冊です。
ついでに「人妻」という言葉を広辞苑でひくと、「他人の妻、または夫」と「結婚して妻となった女」とありますが、どうもあまりおもしろくありません。
もう少し、よろめく感じを漂わせるのがいいような気がします。例えば、「結婚して妻となったが、女の色気がぷんぷん香りたつような女」とか。
あんまりうまくない、か。
言葉がもつ雰囲気はいろんな文脈で使われてこそ生きるもの。
「人妻」にしろ「よろめく」にしろ、辞書だけでは伝わらないものは、この本を読めば実感できます。
(2012/02/21 投稿)

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02/20/2012 『ぴあ』の時代(掛尾 良夫):書評「私たちの青春」

昨日の朝日新聞書評欄の
「著者に会いたい」というコーナーで
今日紹介する、
掛尾良夫さんの 『ぴあ』の時代』が
掲載されていました。
大きく、
「並走者から見た情報誌の歩み」と
見出しがでています。
そのなかで、
掛尾良夫さんは
「取材を通じて私もエネルギーをもらいました」と
答えています。
「ぴあ」の創業者矢内廣さんと掛尾良夫さんは
1950年生まれの同年代。
私にとっては
5歳年上。
青春時代に夢中になった「ぴあ」が
そういう若い人たちが作ったものであったことに
驚くとともに
感慨深いものがあります。
じゃあ、読もう。
![]() | キネ旬総研エンタメ叢書 『ぴあ』の時代 (2011/12/16) 掛尾 良夫 商品詳細を見る |


情報誌「ぴあ」に初めて接したのは、確か1974年頃だと思います。創刊が1972年ですから、そんなに遅くない頃に出会いました。
きっかけは学生寮でした。二人部屋の相方が武蔵野美大の学生で、彼がその雑誌を初めて見せてくれました。カップヌードルが自動販売機で売られていた時代です。
その学生寮では色々なことが初めてでした。ケンタッキーフライドチキンを初めて食べたのもその寮でした。とってもジュシーで、こんなにうまいものがあるのかと驚いたものです。食べさせてくれたのは、和歌山出身のお金持ちの息子。彼はどこの大学生だったかな。
その頃、名画座、今の若い人にはわからないかもしれませんがロードショー映画が何年も経って二本立て興行されるそんな映画館のことです、はブームでした。
地方から出てきた学生にとって名画座は憧れの聖地でした。
大阪の地方都市で高校時代を過ごした私にとって、映画雑誌「キネマ旬報」に掲載された名画座のラインナップは垂涎の的でした。こんな名画座のある東京に行ってみたい。それだけでも自分の中では東京に行く、りっぱな理由があったのです。
実際東京に出てみると、そこは映画館の百花繚乱でした。一体どこの映画館でどんな映画が上映されているのか、インターネットが発達した現代では考えにくいことですが、そのことがちゃんとわかっていませんでした。
ですから、「ぴあ」の登場は、実際には創刊から何年めの出会いですが、映画青年だった人間には歓喜の何物でもありませんでした。
友人から見せられた「ぴあ」は、そのあと、自分で購入する唯一の雑誌になりました。
もしかした、「ぴあ」の時代を懐かしく感じるのは、すごく限定的な時代に東京に住んでいた世代かもしれません。
地方に住む若者たちは、「ぴあ」の時代の熱気を自分のものにできないでしょう。それほどに一部の若者の文化だったと思います。
それでも、あの時代、1970年代は「ぴあ」の時代だったといっても、誰も否定しないと思います。
それほどに「ぴあ」は時代の風景を見事に描いていたのです。
本書は今や伝説ともなった「ぴあ」の創刊から、昭和の時代をメインに描いた「青春物語」といっていいでしょう。
著者の、元「キネマ旬報」編集長でもある掛尾良夫さんは「『ぴあ』は生まれるべくして生まれた、必然だった」と書いていますが、時代が『ぴあ』を求め、1950年生まれの矢内たち創業者たちがそれを見事に「必然」したのだといえます。
残念ながら『ぴあ』は2011年に休刊となりました。インターネットが発展した時代に、雑誌形式の『ぴあ』は時代遅れだったかもしれません。
けれども、だからこそ『ぴあ』は私たちの青春とともにした、同志だったのです。
(2012/02/20 投稿)

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02/19/2012 ラーメンちゃん(長谷川 義史):書評「行列をつくって」

昨夜、以前勤めていた会社の後輩が亡くなって
その通夜に行ってきました。
享年53歳。
とても若い死に胸ふさぐ思いです。
それに私が知っている頃から
元気のいい人でしたから
その彼が亡くなったなんて
どうもピンときません。
以前、「定命」ということを
このブログに書きましたが、
彼の早すぎる死も「定命」だとすれば
きっと残された家族の皆さんに
彼なりのメッセージが込められているのだと
思います。
それは元気に明るく生きること、かもしれません。
今日紹介する絵本は
長谷川義史さんの『ラーメンちゃん』もまた
強く生きるメッセージが込められています。
じゃあ、読もう。
![]() | ラーメンちゃん (2011/09/15) 長谷川 義史 商品詳細を見る |


今やラーメンは日本の食文化を代表する食べ物になっていますね。
塩、みそ、とんこつ、細麺、太麺、と味も麺もバリエーション豊富ですね。
それに、博多、札幌、喜多方、といったように地方色も豊かですから、日本全国どこにいっても楽しめるというのもいい。
こういう食べ物めったにあるものじゃありません。
都会のなかにも隠れ名店がたくさんあります。行列ができすぎて閉店しちゃうところもあったりします。
うどんやそばといった昔からある麺をはるかに凌駕してしまいました。
絵本作家長谷川義史さんが描いたラーメンはかわいい女の子。ラーメンはどちらかというと男性的でもあるのですが、スカートをはいたラーメンも悪くはない。味は濃厚という感じではなさそうですが。
このラーメンちゃんはないている子やひとりぼっちの子や元気のない子を見つけては、おいしいラーメンを食べさせて元気にします。
このあたり、長谷川さんお馴染みのギャグの連発。
そして、おしまいは長いながい麺を出して、たくさんの子供たちが行列をつくって麺の上を歩いていきます。
さすが、ラーメン。
拍手したくなります。
この絵本は東日本大震災以後書かれたもので、長谷川さんは被災地の子供たちを励まそうと、ラーメンちゃんを描いたということを新聞で読んだような気がします。
長谷川さんの絵の力強さ、言葉のもつ生き生きとした力。
絵本の力は被災地の子供たちだけでなく、全国の子供たちを元気にしてくれます。
おいしいラーメンが私たちを満足させてくれるのと同じくらいに。
(2012/02/19 投稿)

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02/18/2012 雪 (百年文庫)(加能作次郎、耕治人 他):書評「東北に愛をこめて」

いつだったか、
太宰治の故郷津軽を訪れたことがあります。
太宰の生家である斜陽館にも
宿泊しました。
そこでのことだったか
また違う温泉宿であったか、
土地の人と同じ湯になったことがあります。
話した人の言葉が
まるでわからなかったことがあります。
向こうの人も
大阪弁がまじった東京弁を話す若者の
言葉がわからなかったのでは
ないかと思います。
それほど言葉がちがいます。
それでも、
話す人の温かさというものを
感じました。
東北の人は本当に
心の優しい人たちです。
今日紹介する「百年文庫」は
「雪」と表題ですが、
東北への愛がいっぱいつまった
短編集でもあります。
じゃあ、読もう。
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東北の人は寡黙だ。言葉少ないが芯がしっかりしている。
東日本大震災の大きな被害の中でも泣き言を言わず黙々と耐える東北の人への評価は高い。
東北の人たちが寡黙なのは、その気候にも影響されているともいえる。長い冬、降り積もる雪、吹雪が頬をうつ。静かにそれらから耐えるしかない。それに飢饉とか津波とかそういう不幸が何度もこの地を襲った。それらに一つひとつ泣き喚いている訳にはいかない。それらに愚痴をこぼしても始まらない。
東北人の心根にはいつも耐える強い火がある。
「百年文庫」25巻めは「雪」という漢字を表題にしているが、収録されている三作品、加能作次郎の『母』耕治人の『東北の女』由紀しげ子の『女中ッ子』はいずれも、東北や北陸の雪の多い地帯に生きる人々の強さが描かれた秀作揃いだ。
三つの作品の中では、由紀しげ子の『女中ッ子』が一番面白い。
由紀は『本の話』という作品で戦後復活した芥川賞を受賞した作家だが、その作品の多くが映画化されているように物語の構成がうまい。
この『女中ッ子』は山形から東京の中流家庭に女中として働きにでてきた初という娘とその家の問題児だった勝見という少年の交流が描かれている。題名の『女中ッ子』とは、いつしか初にばかりなついた勝見のことである。 この初という娘がいい。山形の田舎から出てきた彼女はただ働くことが好きだという。それこそ東北人の気性そのものだ。彼女の気性が勝見少年を立ち直らせたといえる。
最後には成長した少年が初をすげなくする場面があるが、彼は生涯東北人を愛しつづけたにちがいない。
耕治人の『東北の女』は秋田の女性を描いた作品だ。
物語は前後の関係がわかりにくいが、主人公の妻が秋田の女性でその姉の娘が東京の彼の家にでてくる場面から始まる。秋田の名物はたはたを食べる主人公に妻が「たべつけないと、たべられないのよ。だけどじき馴れてよ」というが、これは東北の人のことかと思いたくなる。この地の人たちの心根こそもっともおいしいご馳走といえる。
加能作次郎の『母』は私小説で、おそらく作者の出身地石川が舞台である。継母と自分との心の葛藤を描きながら、雪にとざされた冬の夜、「昔あったとい」と繰り返される母の昔話を聴く場面はしみじみとさせられる。
そういう風景を私たちはすっかり忘れている。
雪は郷愁である。
(2012/02/18 投稿)

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02/17/2012 坂の上の坂(藤原和博):書評「坂の上のそのまた上の」

先日紹介しました
山崎武也さんの『55歳からの後悔しない人生』で
bk1書店の「今週のオススメ書評」に
選ばれました。
また選ばれることを願っているわけでは
ありませんが、
今日紹介する本も
55歳と関係します。
藤原和博さんの『坂の上の坂』。
このタイトルにむむむと反応した人は
かなりの本読み。
そう、このタイトルは
司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』の
もじり。
副題が「55歳までにやっておきたい55のこと」。
どうも最近、
55歳というのが人生のキーみたい。
すでにその年齢を超えた私としては
焦るばかりですが、
いやいやまだまだという
気持ちもあります。
じゃあ、読もう。
![]() | 坂の上の坂 (2011/11/22) 藤原和博 商品詳細を見る |


『坂の上の雲』は司馬遼太郎の代表作である。明治の日露戦争を核にしてその時代に生きた人々を描いて、今なお人気が高い。
司馬はそのあとがきの中で「このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語」と書いている。そして、「楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく」と続けた。
本書はもちろんそんな司馬の『坂の上の雲』をもじっている。著者の藤原和博氏は現代は司馬が描いた時代とは状況が違うといい、坂の上にあるのは雲ではなく、次の新たな坂だととらえている。
寿命がのびたことで現代の人には過酷ともいえる老後の長い時間が待っている。定年延長の論議や年金問題など、働くことをやめた後も二十年以上生きなければならない現代人にとって、ぼんやり雲をみている場合ではないと藤原氏は警告している。その準備を老後にはいる55歳までにしておくべきだと。
もしかすると、現代人はこの日本史上類のない不幸な悲観家たちになったのかもしれない。
不安な資金、乏しい人間関係、経済破綻の恐怖、不意に襲う天災。まさに坂の上にあるのは坂、いやあるいは崖だということもある。
本書はそういう時代だからこそ学んでおくべき55のヒントがまとめられている。
社会、幸福、会社、消費、コミュニティ、パートナー、死、お金。不幸な悲観家だから準備は怠らない。それゆえに、司馬が描いた時代に強く惹かれもする。
幸福な楽天家たちの時代。
明治の人にとって、あの後日本を覆い尽くす経済の破たんや戦争の拡大が見えていなかったのだろうか。彼らにも予感があったはずだ。それでも彼らは楽天家であったのは何故だろう。
おそらく彼らと現代人とは幸福の基準が大きく違う。現代の成熟社会では幸福こそ成熟しきっているといえる。もっと単純な、それこそ一日三膳の食事ができる喜びのようなことが幸福であると思わないかぎり、常に不幸な悲観家でありつづけるだろう。
老後は長い。
できれば、幸福な楽天家として生きていきたい。
(2012/02/17 投稿)

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02/16/2012 愛さなくてはいけない ふたつのこと(松浦 弥太郎):書評「手のひら」

先月の終わり、
駅の近くの小さな本屋さんが閉店しました。
降りたシャッターに
小さな張り紙。
30年の営業を終わります、という文字。
帰り道、
この本屋さんをぶらりと寄るのが
好きだったのになぁ。
特に買うわけではなかったけれど、
それがいけなかったのでしょうが、
そういうぶらり感は
本屋さんにはとても大事。
今日は本屋さんでもある
松浦弥太郎さんの
『愛さなくてはいけない ふたつのこと』を
紹介します。
やっぱり本屋さんというのは
今、とっても経営的には
大変でしょうが、
街の風景として
欠かせません。
私たちは、本屋さんのある風景を
もっと大切にしないと
いけないのではないでしょうか。
じゃあ、読もう。
![]() | 愛さなくてはいけない ふたつのこと (2011/12/17) 松浦 弥太郎 商品詳細を見る |


この本のなかに「手のひら」のことが書かれています。それは、自分と向き合う方法として「手のひらをじっと見つめること」とあります。
そういえば、「手のひら」をじっと見つめたのはいつのことだったかな。
石川啄木に「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」という有名な歌がありますが、この時啄木は単に困窮を嘆いただけでなく、生活改善できない自分と向き合っていたともいえます。
著者の松浦弥太郎さんは「手のひら」を見つめていると、「自分の心の中が見えてくる瞬間が訪れます」と書いていますが、じっと見つめる、その時間のゆとりが自分と向き合うことかもしれません。
忙しさにかまけ、自分の「手のひら」さえ見る余裕がなくなる。そのことに松浦さんは警告を発しているように思います。
松浦さんのいう「愛さなくてはいけないふたつのこと」とは、「不安」と「寂しさ」です。
この「ふたつのこと」が私たちを生きにくくさせていると、松浦さんはいいます。それらを排除するのではなく、それらとうまくつきあっていくこと。この本にはそのコツが松浦さんの言葉で語られています。
そのひとつの方法が冒頭に書いた「手のひらをじっと見つめること」なのですが、自分と向き合うということがたびたび表現は違いますが、出てきます。
たとえば、「目を背けず、自分という人間に、とことん向き合ってみましょう」といったふうに。
「不安」と「寂しさ」は自分をなくしてしまう心持ちだといえます。もし、自分がしっかりしていれば、「ふたつのこと」なんか何も気にすることはないのです。
だから、時には「手のひら」を見たり、鏡の自分と対峙しないといけない。あるいは、この本のような自分を振り向かせる「人生のくすり箱」を開くことで、自分を取り戻さないといけないのです。
私たちは時に自分を見失うことがあります。そういう時に「ふたつのこと」は心にはいってきます。
風邪をひいてくすりを飲むのではなく、風邪をひく前にくすりをのむ。それが健康の、ここでは心の健康の、秘訣だといえます。
(2012/02/16 投稿)

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02/15/2012 雑誌を歩く 文藝春秋 3月号 - 「文藝春秋」があれば老後は安泰

久しぶりに何かと話題の多い受賞となりました。
今日の「雑誌を歩く」は
恒例芥川賞受賞作を全文掲載の
「文藝春秋」3月特別号(文藝春秋・890円)です。
芥川賞関連でいえば
ともに39歳 史上に残る白熱の選考委員会で選ばれた話題作
となりますが、
作品を読んでから選評のことともども
このブログで書きたいと思います。
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すみません。
代わりといってはなんですが、
今月の「文藝春秋」で私が真っ先に開いたのが
朝ドラ・ヒロインが語る「カーネーション」と私
という、
主演の糸子を演じる尾野真千子さんのインタビュー記事。
尾野さんは1981年生まれの30歳。
私はもっと若い女優さんかと思っていました。
なにしろその演技力は抜群にうまい。
若い頃の糸子もそうですが
大阪のおばちゃんになってからの演技もうまい。
毎日欠かさず見ています。
インタビューを読むと
尾野真千子さんは糸子のようなはちゃめちゃな感じではなく
物静かな方らしいですが
このインタビューを読んで、
もっと彼女のファンになりました。

今月号の「文藝春秋」の特集は
テレビの伝説 長寿番組の秘密
です。
NHKの大河ドラマ、朝ドラ、笑点、水戸黄門・・・
それぞれの笑い話、苦労話が集められています。
最近では「水戸黄門」の42年間の歴史に
幕を閉じて話題になりましたが、
長寿番組をこれから育ちにくいのかもしれませんね。
人間辛抱だ、といった時代では
ないですものね。

初公開 金正男の衝撃メール
や
政界激震の選挙予測
など、さすが「文藝春秋」は
政治・経済・社会・芸能・文学と
幅広いジャンルを網羅しています。
「文藝春秋」があれば老後は安泰です。

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02/14/2012 バレンタインに愛を贈ります - 劇団四季の「美女と野獣」を観て来ました

もうすっかり日本の行事として定着しましたね。
私が初めてこの日を知ったのは
中学3年の時。
同級生の女の子から豪華な詰め合わせをもらいました。
でも、それが何を意味するのかわからなくて
困った記憶があります。
恥ずかしくて母にも言えませんでした。

男の子からの「逆チョコ」もあるそうですね。
女の子同士の「友チョコ」は
今や定番化しています。
今年は「絆チョコ」もあるそうですが
やはり想いが入る方がいいかな。

娘たちが誕生日のお祝いに
劇団四季の「美女と野獣」公演に招待してくれました。

場所は東京・大井町にある
劇団四季劇場・夏です。
日曜だったせいか、
バレンタインが近かったせいか
満員の盛況ぶり。
やはり女性が多かったですね。
もちろんカップルもいましたし
小さなお子様を連れた若い夫婦も。
子供たちが小さい時は
こんな劇場に連れてくるなんて出来ませんでしたから
うらやましいかぎりだし、
あの頃もっとそういうことをしていたらと
思わなくありません。

もちろんディズニーの有名なアニメ映画が原作です。
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私たちの子供の頃はディズニー映画を観るのが
情操教育にいいみたいに言われましたが、
私の子供たちには
ジブリ映画はよく連れていきました。
もちろんディズニーも観に行きました。
おかげで上の娘は
すっかり大人になりましたが
今でもディズニーにはまっています。

父親の誕生日に演劇鑑賞に招待してくれるのですから
感謝、感謝です。
舞台もよかった。
もしかしたら
愛は与えられるものではなく
与えることが本当かもしれませんね。
そして、それがバレンタインの本質なのではないでしょうか。

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02/13/2012 子規に学ぶ 俳句365日(週刊俳句 編):書評「俳句を若い人へ」

今日紹介するのは
正岡子規の俳句を日付ごとに
紹介する、
『子規に学ぶ 俳句365日』です。
もちろん正岡子規の俳句すべてに
日付があるわけではありませんから
選者たちがこの日にこの句が似合いそうだと
選んだものです。
ちなみに、今日2月13日でいえば
こんな句が選ばれています。
君行かばわれとどまらば冴返る
この句の「冴返る」は春の季語。
暖かくなりかけてまた寒さがぶり返すことをいいます。
この本を読むと
いかに正岡子規がわかりやすい俳句を
詠んだかがわかります。
作句とはきどることではないのです。
普段のままに
じっと見ること。
それこそ、
俳句の極意でしょう。
じゃあ、読もう。
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俳句という短詩文芸はなんとなく年寄り好みのものと思われがちです。花鳥風月を愛で、という風流が、時間に余裕のあるお年寄りめいて見えるのでしょうか。あるいは俳聖と呼ばれた松尾芭蕉の印象でしょうか。
俳句を趣味に、なんていうと、定年後の時間を楽しんでいるように思われます。
確かに長い文章を書いたり読んだりするのは体力がいります。その点わずか十七文ですから、年を重ねていくとなじみのいい文芸です。
しかし、俳句は決してお年寄りのものではありません。
若い人の瞬間に込める力こそ大切なのです。
明治の俳人正岡子規はその生涯をわずか34年で閉じました。子規は現代の俳句の礎を築いた人ですが、彼が俳句を始めたのは20代の終わりでした。子規に続く高浜虚子たちも皆若い人たちでした。
つまり俳句がお年寄りの趣味みたいに思われるのは明らかに間違いなのです。
俳句は若い人たちが夢中になる文芸なのです。
本書は正岡子規が生前詠んだ句から一年365日、一日一句ずつ選んで、句の紹介とその解説をまとめたものですが、選者は若い新進の俳人の人たちです。その中には1986年生まれのまだ20代の若者もいます。
そういう若い人たちが子規の多くの俳句から選句したというのがいいですね。
若い感性と、今から100年以上も前に亡くなった子規の感性が共鳴しあうというところに子規俳句のすごさを感じますし、それを評価する若い俳人たちの新しい息吹に圧倒されます。
若い人にとって正岡子規の俳句はけっして古びていないのでしょう。
それは1961年生まれの上田信治が書いているように、「子規の俳句革新は、いったん爛熟したのち低落してしまった文化に、明治の若々しく単純な精神を接ぎ木するもの」だったからこそ、現代の若者たちにも通じるものがあるのです。
子規はきっともっともっと生きたかったにちがいありません。
でも、子規の寿命が長かったとして、彼がいつまでも俳句を詠んだかどうかはわかりません。
もしかすると、年老いた子規なら、俳句は若いうちこそ面白いぞなもし、とつぶやいたかもしれません。
(2012/02/13 投稿)

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02/12/2012 ふゆのあさ(村上 康成):書評「違う顔をした朝」

連日、北陸や東北の大雪のニュースが続きます。
そんな中で
今日、村上康成さんの『ふゆのあさ』という
絵本を紹介するのは
少し心苦しいのですが、
もちろん絵本には罪はありませんが、
子供たちの、雪の朝の気分もまた
真実だろうと思います。
一時期、福島に住んだことがあって
その際には東北の各地を
仕事でまわっていましたが
雪をみると
やはり大変だなと思います。
冬の期間が長いですから、
積もる雪との格闘が
ずっと続きます。
まして、お年寄りが増えていますから
雪かきなども
つらい。
早く春になってほしいと
願う気持ちはよくわかります。
じゃあ、読もう。
![]() | ふゆのあさ (1997/11) 村上 康成 商品詳細を見る |


今年は例年になく雪が多い。豪雪地域に住む人にとっては過酷な冬になっています。屋根にも届かんばかりの雪を見ていると、地元の人の苦労はいかばかりかと思います。
それはわかっているのですが、雪の少ない街に住むと、雪が降るとうれしくなるのが正直な思いです。すみません。
小さい頃に比較的温暖な大阪の地方都市に住んでいたので、朝起きると雪が積もっているとうれしくて仕方がありませんでした。
その気分は大きくなっても同じで、珍しく雪が降った朝などはまっ先に起きだし、誰の足あともない白い世界を歩くのがうれしくてなりません。
この絵本の主人公しずちゃんもそうです。
朝の静かな気配に、「もしかして」と思い、そっと窓のカーテンを開きます。期待した通り、朝の街は一面の雪です。
家の屋根にも、街の木々にもたくさんの雪が積もっています。
それに雪はまだ「ポッ ポッ、ポッ ポ」と降っています。
いつもの朝の音も雪のなかに沈んでいます。
とっても静かな朝です。
雪のなかを飛ぶ鳥も、走り回るねこも、そして愛犬のシロも、みんな雪を楽しんでいます。
だって、そんな冬の朝を一番喜んでいるのがしずちゃんなのですから。
豪雪地域に住み人には申し訳ないですが、しずちゃんのうれしい気持ちはよくわかります。雪には気分を高揚させる不思議さがあります。
朝目覚めて雨の音を聞くと、あんなにがっかりするのに、雪だとうれしくなるのは何故でしょう。
白い色だから。やさしく降ってくるから。音を消してくれるから。
本当はいつもの見慣れた風景を変えてしまうからなのかもしれません。
なんだかいつもと違う一日が始まる予感があるからでしょうか。
朝はいつも同じ顔で始まるばかりではありません。
冬の朝、ときどき、とっても違う顔をして始まる朝があるのです。
そんな朝を描いた、冬に読みたい一冊の絵本です。
(2012/02/12 投稿)

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02/11/2012 「利他」 人は人のために生きる(瀬戸内 寂聴/稲盛 和夫):書評「声を訊く」

東日本大震災から
今日で11ケ月になります。
もうそれだけ過ぎたのかという思いと
どれだけ復興ができたのかという慙愧と
私たちは何をしてきたのかという反省が
ないまぜになっています。
私は何もしてこなかったけれど
本読み人として
何冊かの関連本を紹介してきたつもりです。
そのことで
忘れつつある悲しみを
風化させないという思いがありました。
それは、これからも
続いていけたら、
どんなにいいでしょう。
自分ができることをする。
それが大事です。
今日紹介するのは
瀬戸内寂聴さんと稲盛和夫さんの対談集
『「利他」』です。
お二人の思いが、
そして、私の思いが
届けばいいな。
じゃあ、読もう。
![]() | 「利他」 人は人のために生きる (2011/11/28) 瀬戸内 寂聴、稲盛 和夫 他 商品詳細を見る |


忘れるということと風化するということは違います。
あの東日本大震災からまもなく一年が来ようとしています。
あの日亡くなった多くの犠牲者のことを思うと、今でも胸が締め付けられる思いです。私以上に被害者を知る人にとってはどんなにつらい一年だったことでしょう。
信じられない、夢であってほしい。そんな思いは冬が過ぎ、春になり、夏が来て、秋を訪ね、そしてまた冬が来ても消えることのない痛恨の悲しみだと思います。
しかし、本書の中で稲盛和夫さんが話しているように、「つらい気持ちを忘れることで、人は生きていける」という人間としての不思議さがあります。
悲しみはいつか薄らいでいくものです。そのことを責めるのではなく、そのことがあるから悲しみを乗り越えられるのです。
その一方で、いつの間にか私たちはあの日のことを忘れつつあります。
あれだけの大きな地震や津波を経験したにも関わらず、あるいはいつか襲ってくるかもしれない大地震の予想にも関わらず、どこかに油断が忍び込んでいます。
またあれだけの恐怖をもたらした原発事故でもそうです。気がつけば、まるで以前の安全神話が舞い降りていないでしょうか。
あれだけ節電節電といっていた街はいまは煌々と灯りに溢れています。
あの時の反省はなんだったのでしょうか。
本書の中で瀬戸内寂聴さんは「震災や原発の災害を、私たちは一年が過ぎようが二年が過ぎようが、決して風化させてはならない」と語っています。
あの日を前にして、私たちはもう一度あの日の光景を思い出さないといけないのではないでしょうか。
忘れるということと風化することは違います。
本書は作家瀬戸内寂聴さんと京セラ最高顧問の稲盛和夫さんが、震災を経験したあとの日本人をめぐってその生き方を指し示した対談集です。
ともに高齢者となったお二人ですが、そして人生の達人として生きてこられたお二人でもありますが、どれほど真摯にこの国のことを憂い、被災者のことを心配し、希望をもたらす勇気を真剣に考えていることを示してくれる対談となっています。
この本を読むことで、私たちは忘れていけないことをまた取り戻せるのです。
忘れないために、風化させないために。
悲しみを忘れるということと災害を風化することは違うのです。
(2012/02/11 投稿)

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02/10/2012 鉄腕アトム55の謎(布施 英利):書評「五十五番めの謎」

昨日は手塚治虫さんの命日でしたから
今日もつづいて
手塚治虫さん関連の本を紹介します。
蔵出し書評ですが
『鉄腕アトム55の謎』という本です。
皆さんは、「鉄腕アトム」って
知っていますよね。
私の世代でいえば
夢中になったアニメ初期の
ヒーローです。
でも、その実写版があったことを
覚えている人、知っている人は
少ないんじゃないかな。
私はしっかり覚えています。
けっこう笑えますね。
子供の頃見ていても
すごく違和感ありましたからね。
やっぱりアトムは
漫画でないと表現しにくいんじゃあ
ないかな。
じゃあ、読もう。
![]() | 鉄腕アトム55の謎 (生活人新書) (2003/03) 布施 英利 商品詳細を見る |


二〇〇三年四月七日、「鉄腕アトム」が生まれる。
もし本当にこの国のどこかでアトムの誕生計画が進んでいるとしたら、もうすっかり顔も体もできあがっているにちがいない。ただし電流は流れていない。アトムはまだ、横たわっているただの機械にすぎない。
誕生まであと数日ある。
この「鉄腕アトム55の謎」という本は、アニメ以前のアトムマンガの中から著者が考えた謎を紹介し、アトムマンガの魅力に迫ったものだが、実際には五四の謎しか書かれていない。
しかし、誇大表示ではない。ちゃんと著者が書いている。
「これは、ぼくにとってのアトムの世界でもある。そして、五五番目のアトムの謎は、あなた自身で考えてほしい」(「はじめに」から)と。
すなわち、読者自身がそれぞれのアトムの謎を考えないことには、この本を読んだことにはならないのだ。
「手塚治虫がアトムを書き始めた時、夢見た二〇〇三年とはどのような時代だったのだろう」というのが、私にとっての五十五番めの謎だ。
手塚治虫が初めてアトムを書いたのは一九五一年。まだ私も生まれていない。
その時手塚は五十数年後の自分を、この国を、世界の様子を本当はどのように見ていたのだろう。アトムの中で描いたように車が飛ぶように走り、ロボットたちが多くの分野に活躍しているだろうと本当に考えたのだろうか。 当時手塚はまだ二三歳。大学生だった。
そんな若者にとって、五十年以上先の時代は夢のまた夢だったにちがいない。つまり、一九五一年の手塚青年にとって二〇〇三年という世界は、自分が生きているだろうかとか死んでいるかもしれないとかという次元の話ではなく、空想科学漫画にしか存在しえない遠い時代だったのではないだろうか。
アトムは手塚にとって夢の産物だったにちがいない。
そんな手塚にとっての大きな誤算はアトムの人気だったように思う。
アトムの人気が続くことで、アトムは七〇年代まで書き続けられていく。
それは手塚の夢が夢でなくなっていく現実でもあった。だから、手塚はアトムを何度でも書き直さざるをえなかったし、アトムを嫌うようにもなった。
もしかしたら、手塚はその早すぎる死(八九年二月)の際に自身がアトムの誕生に立ち会わなくてもよい幸福を感じたかもしれない。
これが、私にとっての五十五番目の謎であり、アトムの世界である。
アトム誕生まであと数日。もうすぐアトムの目が静かに開く、四月七日が来る。
(2003/03/30 投稿)

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02/09/2012 手塚治虫クロニクル 1968~1989(手塚治虫):書評「苦悩の人」

今日は
私のバースディ。
それと、
漫画の神様手塚治虫さんの命日でも
あります。
手塚治虫さんが亡くなったのは
1989年ですから
生まれ変わりということには
ならないのが残念です。
手塚治虫さんほどの才能があれば
私の人生もまた
大きく変わったでしょうが、
漫画家としての苦悩を
思えば、
ごく平凡な人生も、また
いいのかと
思います。
そこで、今日は
手塚漫画を紹介する
『手塚治虫クロニクル 1968~1989』で
手塚治虫さんの軌跡を
たどります。
じゃあ、読もう。
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前作『手塚治虫クロニクル1946~1967』に続く『1968~1989』までの代表作を部分掲載した、「漫画の神様」の手塚治虫の後期の傑作集である。
特に『アドルフに告ぐ』や『きりひと賛歌』、『グリンゴ』といった大人を意識した作品が多くなっている。それは劇画という従来の漫画手法を、そしてそれははからずも手塚漫画に代表されるものであるが、変革する流れのなかで負けじと描かれてきた作品群だ。
ただ、それが手塚治虫の漫画かというと、かなり無理があるような気がしてならない。
世評に高い『アドルフに告ぐ』にしてもその物語性は高く評価するとしても、手塚漫画がもっていた丸っこい描線が消え、絵そのものにぎこちなさを感じる。
手塚治虫は少年漫画のままではダメだったのか。
名作といわれる『火の鳥』(本書にはその「鳳凰編」の一部が掲載されている)はそのテーマは大人でも十分鑑賞に堪えうるもので、しかも漫画の線は手塚漫画のやわらかさを維持している。
それは後期の代表作になった『ブラック・ジャック』についてもいえる。
その理由として、それらが少年詩での発表だったからだろう。これらの作品で手塚は子供たちに媚びることはしていない。生命の神秘を、生と死の問題を、きちんと示した。
手塚がもしこれらの作品を青年誌に発表していたら、どんな作品に仕上がっただろう。これらが少年誌に発表されてよかったと思う。
巨匠となった手塚治虫を少年誌から青年誌という時代の流れのなかで、従来の魅力を捨てざるをえなかったのかもしれない。どちらかといえば、物語性に重点を置き、自身の絵の弱点を補おうとしたのではないだろうか。
手塚治虫の43年に及ぶ長い道のりを、このような形の2巻のつづきで俯瞰すると、実は手塚治虫ほど苦悩した漫画家はいなかったような気がする。
あらためて、手塚治虫は偉大だったと痛感するばかりだ。
(2012/02/09 投稿)

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02/08/2012 なぜ泣くの(小手鞠 るい):書評「それも恋」

今週はまるで恋の週間のように
恋のさまざまな形を描いた
作品が続きます。
今日は、
小手鞠るいさんの『なぜ泣くの』。
昨日の山田詠美さんの『ジェントルマン』が
男と男の愛の世界なら
今日は女と女の愛の世界。
いやあ、
恋とはかくも複雑なもの。
物語の森で
恋を訪ね歩いている三日間になりました。
でも、
物語から恋をとったら
どれだけ空疎か。
恋があるから
物語が生まれ、育ってきたのでは
ないでしょうか。
じゃあ、読もう。
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恋に生きる女たちを描いた7つの連作集。
女たちの、彼女たちが息る場所の、彼女たちが愛する男たちの、それは巧妙に張られた蜘蛛の糸。からめとられるのは、読者。身動きできずに死んでいくのか、蜘蛛に同化していくのか。
それも恋。
特に後半の3つの作品に描かれる世界は、男性読者にとって未知の世界。女と女の愛の世界。そこに男たちは立ち入ることはできない。
いや、男と女の愛の世界であっても、男は女の喜びの、あるいは悲しみの、一体どのくらいを理解しているといえるだろう。
「聖なる鏡」という作品に「男の人はいとも簡単に騙されます」という、男性にとってはドキッとするような文章がはめ込まれている。続き、「だって、彼らは自分の欲望には忠実だけど、相手の感じていることには、ほとんど無関心だから」とある。
男たちよ。
女たちはその行為の最中にどれほど豊かな「物語」を紡いでいるか知っているか。「百人の女の人がいたら、そこには百通りの物語」がある。
男たちは、自分たちがその「物語」の主人公に、けっしてなれていないことを自覚すべきかもしれない。
「物語」はそもそも女たちが好むもの。
縦の糸、横の糸。編まれていくものを女たちは宿命のようにして受け入れてきた。男たちは倒し、倒される世界を縦横に駆け回る。
かつての流行り唄ではないが、男と女の間には暗く、深い川が横たわっているのだ。
男たちはこの連作集から女という不可思議な存在を学ぶだろう。女たちはこの連作集から理解の拍手を送るだろう。
物語は読み手によって光景を変える。
いや、作り手によって変わることを、女たちが一番よく知っている。
(2012/02/08 投稿)

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02/07/2012 ジェントルマン(山田 詠美):書評「これも恋」

昨日角田光代さんの『曾根崎心中』を
紹介しましたが、
今日は山田詠美さんの『ジェントルマン』で
男と男の恋の世界を
たどります。
この作品では同性愛の世界が
ひとつのテーマになってはいますが、
もうひとつは
穏やかな紳士面した男の裏にある
悪者の姿も活写されています。
二面性という言い方がありますが
人間というのは
誰にも二面性が
あるいは多面性といってもいいですが
あるものです。
そういった多面性が
恋を複雑にしているのかもしれません。
そして、
複雑だから
恋って面白いのではないでしょうか。
じゃあ、読もう。
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恋には様々な姿があります。
男と女、男と男、女と女。あるいは動物への思いも時には恋以上となります。また、最近よくいわれる「年の差婚」のようにひどく年の離れた恋もあったり、近親相姦のようなタブーの恋もあったりします。
様々な恋だからこそ、古今東西、たくさんの物語が紡がれてきたといえます。それでも、その恋がピタリとはまる物語は生まれてはきません。なぜなら、恋の物語はいつもひとつ、世界でたったひとつだからです。
山田詠美さんはそのデビュー作『ベッドタイムアイズ』(1985年)からさまざまな愛の物語を描いてきました。それでも、恋の本質は語り尽くせないのは、浜の砂子よりも恋の形が多いからです。
そんな山田さんですが、この作品では男と男の恋情を描いています。
通称ユメと呼ばれる主人公のユメは高校時代に優等生で正義感が強く容姿もいい漱太郎という同級生に恋してしまいます。きっかけは漱太郎の裏の姿を見たことです。漱太郎の真の姿を独占できたことでユメは歓喜します。それは強い恋情へと変わっていきます。
ユメはその後同性愛者となりますが、漱太郎は「ジェントルマン」として家庭をもち、社会的にも認められていきます。しかし、その実態は悪者のままですから、ユメの漱太郎への思いは続いていきます。
ユメの独白として山田さんはこんな文章を綴っています。
「(小説の)世界が導いてくれるままに進むと、そこには、もうひとりの自分がいる。そして、これまで語り得ずにいたあらゆる事柄を言語化して、代弁してくれるのだ」と。
山田さんがこれまで描いてきた恋の世界を読んで、当然同じものではないにしても、そうだその通りだと感じたたくさんの読者がいたはずです。何故なら、そこに描かれた者たちは読者の「代弁者」であったのですから。
そして、この物語のユメや漱太郎もまた、読者の「代弁者」であるのです。
男を愛するユメは、「ジェントルマン」の表の顔と悪者の裏の顔を持つ漱太郎は、そして二人の妖しげな恋は、もしかすると私たちの心の奥底にある、人間の影の部分かもしれません。
そのことを誰が否定できるでしょうか。
(2012/02/07 投稿)

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02/06/2012 曾根崎心中(角田 光代):書評「夢の夢こそあはれなれ」

来週のバレンタインデーを前にして
街はチョコ一色、
恋する乙女たちでいっぱいです。
そんな彼女たちに
江戸時代の心中物語はどう映るでしょう。
今日は、
近松門左衛門の『曾根崎心中』を
角田光代さんが翻案した作品を
紹介します。
道行とか心中というのは
なんとなくすでに古風な感じが
しないでもありません。
死ぬくらいなら、
なんて若い人は思うかもしれません。
でも、
死を賭けてまで成就したい恋というのも
魅力的な気がします。
チョコが溶けるくらいの
恋をめざして、
がんばれ! 乙女たち。
じゃあ、読もう。
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物語の魅力は第一にキャラクターの造形、次に物語(ストーリー)性でしょうか。
そして、リズム感がくるように思います。それは文体といってもいいでしょうが、先へ先へと押し出すそれは力となります。
近松門左衛門の『曽根崎心中』は古典の名作として知っている程度で一度も読んだことのない身としては、この角田光代さんの作品と比べるすべを持っていません。ただ純粋に2012年に発表された角田作品として鑑賞するばかりです。
その印象は、なんとリズムのいい作品かということです。小刻みに刻む音楽を聴いているように心地いい感じが物語へと誘ってくれます。
ちなみに近松門左衛門の原文も江戸時代の儒者荻生徂徠が名文と絶賛したそうです。
「この世のなごり 夜もなごり 死にに行く身をたとふれば」と、とてもリズムがいいのがわかります。
日本人というのは俳句とか和歌でそのリズム感をしっかりと身につけていますし、口誦の習慣もありますから、近松のような文章はしっくりきます。
『曽根崎心中』は元禄16年に実際にあった事件を題材にしています。醤油屋の手代徳兵衛と堂島の遊女お初の、この世では結ばれることのない切ない恋の顛末を描いた作品です。
恋とは男女同等の関係でしょうが、時に水の行き来のように女をかばうことや男を守ることで恋情が生まれることもあります。あるいは、恋に恋するという錯覚が恋情になっていくこともあります。
お初の場合はどうだったでしょうか。遊女という自由のない身で、恋はお初の心も体も自由に羽ばたかせる羽根のようなものだったといえます。
その相手の徳兵衛ですが、友人に騙される可哀想な身ながら、あまりにも弱い男という印象があります。
お初のような女性がどうして徳兵衛のような男に魅かれていくのか、それが恋というものの不思議なのでしょう。
それでも、お初と徳兵衛の恋は切なく感じるには、近松の文章、角田の文章の魅力といっていいでしょう。
人は彼らの恋にうっとりするのではなく、文章のリズムに酔うのです。
近松の名文が角田光代という書き手によって、平成の時代の名作として甦った作品です。
(2012/02/06 投稿)

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02/05/2012 あさになったのでまどをあけますよ(荒井 良二):書評「朝の匂いにみたされて」

この絵本、好きだな。
そんな気持ちで
書評を書きました。
荒井良二さんの
『あさになったのでまどをあけますよ』です。
タイトルも素敵です。
よく、朝の来ない夜はない、なんて
いいますよね。
しかも、この絵本は
窓を開けて、気分を変えてくれます。
窓を開けることで
朝の光景に
生まれ変われるような感じがします。
父が亡くなって
ややもすれば沈みがちな気分でしたが
この絵本ですっきりしました。
せっかくの日曜の朝、
窓をあけますよ。

じゃあ、あけよう。
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絵本作家にはそれぞれ個性ある描き方があります。林明子さんのように丁寧に写実される人もいるし、いせひでこさんのように水彩で風のように描く人もいます。
長谷川義史さんはうまいのかへたなのかわかりにくい絵を描きますが、生きる力を感じます。
この絵本の作者荒井良二さんも長谷川さんの描き方によく似ていますが、もっとおしゃれな感じがします。色づかい、筆づかいが何物にもとらわれない、自由な感じです。
生きているっていう気分。
私たちにもし翼があったら、荒井さんの絵本のように、どこでも飛んでいけるのに。
はじめのページ。
山の中の小さなおうち。「あさになったので まどをあけますよ」と、あります。その言葉のとおり、その小さなおうちの窓が全開して、男の姿が見えます。
その次のページで、多分その子の目に飛びこんでくる光景でしょう。「やまはやっぱりそこにいて きはやっぱりここにいる」と言葉がついています。
そして、「だから ぼくはここがすき」と続きます。
自然に囲まれた土地だけではありません。都会に住む女の子は、やっぱりにぎやかなその街が大好きだし、河口で暮らす兄弟はさかながきっとはねているところが好きなのです。
誰もが自分たちが住んでいるところが大好きです。
この絵本の魅力はまるで動くカメラレンズから見ている気分でしょうか。
ページを開くたびに、光景が変わります。
朝になって、窓を大きく開けて、その土地土地の空気を大きく深呼吸するような感じで読んでいました。
思わず開いたページに鼻をこすりつけたくなります。
ページの奥から、清々しい朝の匂いが立ち上がってくるようです。
(2012/02/05 投稿)

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02/04/2012 報われない人の 9つの習慣(小宮 一慶):書評「これも常備薬」

今日は立春。
立春や娘の膝まるき夜の畳 畠山譲二
父の葬儀に実家に帰って
たくさんの親族と
久しぶりに会いました。
その中に
この春学校を卒業して就職する
いとこの息子さんがいました。
私も社会人として
30年以上働いていますので
少しばかりいいことを
いわないといけないと
思って、
口にしたほとんどが
実は小宮一慶さんのマネ言ばかり。
いやはや。
まあ、すでに小宮一慶さんの言葉が
血になり骨になり肉となっていたら
いいんですが。
今日はそんな小宮一慶さんの本、
『報われない人の 9つの習慣』を
紹介します。
T君、しっかり読んで下さいね。
じゃあ、読もう。
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著者の経営コンサルタント小宮一慶さんは毎晩松下幸之助さんの『道をひらく』を数ページ読んでから眠りにつくそうです。たくさんのビジネス書を書いている小宮さんでさえ、そのようにして自身を鼓舞しているのです。
もし、仕事を楽しいものにしたいと思うなら、あるいは「よい仕事をして社会に貢献したい」と考えるなら、常にそういう努力を怠ってはいけません。
しかも、その方向を間違わないようにしないと、努力が、間違ったことをしている人もそれなりに努力はしているものです、水の泡になってしまいます。
小宮さんも「多くの方が、すごく努力をされている」としていますが、それが「自己流」になっていて、成果がでないのがとても残念と書いています。
新しい人と面接すると、すごくやる気を感じることがよくあります。声は大きく明確で、これからどれだけ仕事をしてもらえるかと期待します。
しかし、残念なことにそれらの多くの人は、いつの間にか、やる気も失せ、悪い時には他人まで巻き込んでしまいます。
やる気を維持するのは並み大抵のことではありません。やる気など落ちてきて当然ぐらいに思う方がいいでしょう。
その時、どうするか。
小宮さんが毎晩『道をひらく』を読むように、ビジネス書を開いてみるのはひとつの方法です。
その点では、小宮一慶さんという書き手はとても親しみやすいと思います。
しかも、小宮さんはその著作で何度も何度も繰り返し同じことを話します。この本でもすでに話されたことがほとんどです。それでも、新しい本である限りは、読者はそのつもりでその内容に接します。
その時、落ちかかっていたやる気にもう一度火がつくのです。
小宮さんの本を何冊も読みつづけてきて、これはもしかしたら、小宮さんの読書習慣に似ているかもしれないと思うことがあります。
小宮さんの本は、私の常備薬といっていいかもしれません。
(2012/02/04 投稿)

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02/03/2012 伝える力2(池上彰):書評「不安にならないためにも読みたい一冊」

今日は節分。
節分や親子の年の近うなる 正岡子規
節分の日の今日は
年の数だけ豆を食べます。
豆まきとか柊とか
そんな風習、
皆さんしています。
我が家では
豆まきはしっかり続けています。
そのあと、豆も食べます。
私は
食べる数が多くなったので
子どもたちにまかせることが
多くなりました。
そういえば、
私が子供の頃も
親たちの豆を食べていたような気がします。
今日紹介するのは
大ベストセラーとなった『伝える力』の続編
『伝える力2』です。
著者はもちろん池上彰さん。
当然、とてもわかりやすい
いい本です。
じゃあ、読もう。
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東日本大震災は大きな悲しみを私たちに与えましたが、同時にたくさんの教訓を教えてくれました。
今回の災害であらためて人と人との絆の大切さに気づいた人もたくさんいたでしょうし、故郷がどんなに心を癒してくれる存在であるか見直した人もいるでしょう。
あるいは、原子力発電所が脆弱な大地のこの国でどれほど危ういものかということを大きな犠牲をはらって私たちは初めて知りました。
前作『伝える力』は2007年5月に刊行されベストセラーになりました。
たくさんの人があの本を読んで、「伝える力」を学んだはずです。しかし、残念ながらこの国の指導者たちはあの本を読んでいなかったか、読んでいても理解していなかったのか、震災のあと、ほとんど真実を伝えてこなかったような気がします。
彼らの多くが口にしたのは空疎な言葉でした。
TV画面越しにしか彼らの表情、言葉に接することがありませんでしたが、この人の下でこの国の国民として復興していくという気分にはほど遠い印象を持たざるをえませんでした。
今回の『伝える力2』は、まず東日本大震災と「伝える力」との関係から説かれています。
そういう点では、あの震災がなければ続編はでなかったかもしれません。
著者の池上彰さんは「人はわからないと不安になる」と、今回の原発事故を例に説明しています。思い出して下さい。あの震災から数日間の企業や国の発表を。
私たちのほとんどは、語られる言葉すら理解できなかったのではないでしょうか。質問するマスコミ関係の人はそれなりの知識を持った記者たちが対応したのでしょうが、誰一人、その言葉わかりませんとは言いませんでした。
結局、TVに映し出される記者発表は何ひとつ私たちに伝えてこなかったのです。
震災からもうすぐ一年になろうとしています。それでも、まだまだ伝えられていないことがたくさんあるような気がします。
池上さんが言うように、「伝える力」を磨くことは「危機管理に直結するし、人を、組織を動かすことができる」とすれば、今からでも遅くはありません、ぜひこの国の指導者たちにこの本を熟読してもらいたいと思うのは、私一人ではないでしょう。
(2012/02/03 投稿)

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02/02/2012 人は仕事で磨かれる(丹羽 宇一郎):書評「不自由を常と思えば不足なし」

正月休み、成人の日の連休と
なかなか仕事のリズムがとれなくて
ようやくなんとか通常の生活に戻りそうになったのに
父の突然の死があって
また仕事の現場を離れてしまいました。
それでもまだまだ
本調子ではなく
気分を高めるためには
ビジネス書を読むしかありません。
そこで、
今日は丹羽宇一郎さんの
『人は仕事で磨かれる』を
紹介します。
この本の中にこんな言葉があります。
独断と決断とはちがう。
多くの経営者はこのことを
よく間違えます。
悪い経営者は、決断が早いことを自慢しますが
それ、独断じゃないですか。
気がつけば、
多くの社員が遠く離れていませんか。
そんなことになってなければ
いいのですが。
じゃあ、読もう。
![]() | 人は仕事で磨かれる (文春文庫) (2008/02/08) 丹羽 宇一郎 商品詳細を見る |


総合商社伊藤忠商事の元社長・会長である著者の、社長就任時の経緯や就任後の大規模な買収や損失計上などの裏話(といっても、書かれた時点で表話となるのだが)とビジネスマンとしての心得が説かれている。
伊藤忠商事のような大会社の社長の話など雲の上の話と思う人もいるだろうが、ここに書かれているのは小さな規模の会社であっても、あるいはもしかすると企業でもない団体活動でも活かせる内容である。
例えば、入社してから経理一筋に働いてきた人がいたとする。その出来がよく、営業の第一線で役職が与えられたら、もともと営業でがんばってきた人たちは面白くない。
「経理に営業がわかるはずはない」「営業も知らないで仕事ができるのか」なんていう妬みの声があがることはよくある。
著者は「一つの仕事を極めれば、だいたい仕事のやり方というのはそう大きく間違えることはないんです」という。「スペシャリストこそ優秀なゼネラリストになれる」と。
私はその意見に賛成する。
やっかみをいう人は、そのことを理解できない。優秀だからこそ、まったく畑違いの部署でもやっていけるのであって、もしそれでできないようであれば、その人が優秀でなかったというだけだ。
このように、ここに書かれているのは大企業だからの訓話ではない。
要は、著者の話をどこまで自分の環境に落し込めることができるかだ。そのまま使うのができなければ、自分の環境の特長に合わせればいい。それができて、初めてこの本が生きてくる。
がんばっても評価されない、どれだけ自己啓発に努めても第一線の仕事が与えられない。そう嘆く人は多いだろう。
この本の中でも紹介されているが徳川家康は「不自由を常と思えば不足なし」と言ったそうだ。
なかなか評価されない、それもまた仕事の常である。そんなことに一喜一憂することなく、仕事で自身を磨けと丹羽宇一郎氏は教えている。
(2012/02/02 投稿)

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02/01/2012 55歳からの後悔しない人生(山崎 武也):書評「よく生きるために。」

今日から二月。
詩に痩せて二月渚をゆくはわたし 三橋鷹女
私の誕生月でもあります。
そして、春が始まる月でもあります。
いろいろあった一月ですが
気分を変えて
いかなくちゃ。
今日紹介するのは、
山崎武也さんの『55歳からの後悔しない人生』。
うーん。
私、今月の誕生日で
57歳になるんだけど
だとしたら
ちょっと遅れてしまいましたが
まあ、2年ぐらいは
勘弁してもらうとして。
人生なんて
後悔ばかりのような気もしますが
できたら
後悔しない方がいいに決まっています。
あと何年分の人生か
わかりませんが、
悔いのないように生きたいものです。
じゃあ、読もう。
![]() | 55歳からの後悔しない人生 (2011/11/15) 山崎 武也 商品詳細を見る |


男性の平均寿命は79.64歳、女性が86.39歳だという。
亡くなった父が87歳と3ケ月だったから、長寿といっていい。その一方で、母は84歳だから、長寿といえども平均には届いていない。
男女の平均寿命が違うのだから、折り返し地点は何歳だとは言い難いが、40歳を過ぎれば、人生の終焉に向かって走っていると思っていいのだろう。
だとしたら、この本にある55歳は折り返し後の、第一の関門かもしれない。
定年延長の議論が最近喧しいが、仮に現在よくある60歳を定年とした場合、男性の場合、そこからまだ20年近い時間を、それはどこから考えても長い時間だが、生きることになる。
私の父の場合でいえば、小さな呉服商を営んでいたから定年という概念はなかったもののほとんど商いをしなくなって10年近くなる。
住んでいたのが町とはいえ、ほとんど村のような小さな地域だから、その10年をひっそりと暮らせたのだろう。
おそらく、父に趣味等があればもっと違った10年だったはずだが。
それでは、大きな街に住んだ場合はどうなるのだろう。一歩家の外に出ても見知らぬ他人ばかりのなかで、生活といっても張り合いはない。
新たな生活の基盤を、これは収入というより他者との関係性といえる、築くしかない。
著者は55歳を「しっかりと未来に向けて跳躍を試みる準備」をスタートさせる年齢とみている。平均寿命でいえば、残り25年を生きるために、60歳までの5年間を有効に使おうという指針である。
仕事、お金、趣味、健康、そして人生。
さまざまな場面で、生きるための知恵が試される。
人生でもっとも公平なことは、死ぬことだ。どんなエラい人であれ、無名の人であれ、はたまたお金持ちも貧乏な人でも、間違いなく死は訪れる。
それは100%間違いないことだ。
だったら、その準備をして何がおかしいだろう。
私は55歳をすでに少し過ぎたが、終幕に向けて、準備しようと思う。
よく生きるために。
(2012/02/01 投稿)

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