
昨夜映画監督新藤兼人さんの訃報を
ニュースで知りました。
たまたま新藤兼人監督の最後の作品
『一枚のハガキ』を観たばかりだったので
すぐブログに追悼の記事を書きました。
それで、
すぐれた著作も多い新藤兼人監督ですから
書かれた本も探してみました。
それで見つけたのが
この『生きているかぎり - 私の履歴書』です。
これは日本経済新聞の人気コーナーで
一ヶ月連載されていたものを
加筆して出版されていたものです。
その本を一気に読み上げ、
書評を書きました。
実は書評の中に
新藤兼人監督の最愛の人であった久慈孝子さんのことや
乙羽信子さんとのことなども書きたかったのですが
これらの女性もすべて
母につらなる人たちであったと
母との挿話のみ書きました。
これから
各TVでは新藤兼人監督作品を追悼番組として
放映されるでしょうから
これを機会に私もまた
新藤兼人作品をたどってみたいと思います。
じゃあ、読もう。
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5月29日に100歳で亡くなられた映画監督新藤兼人が、2007年5月に日本経済新聞の人気コーナー「私の履歴書」に掲載したものを大幅加筆され単行本化したのが、本書である。
加筆部分は主に新藤の作品に関することが多く、新藤映画のファンにとってはうれしいだろう。
もとより、100歳の人生をいくばくかの挿話で語れるはずもない(この連載を執筆した当時すでに新藤は95歳であった)。それでも、新藤の生涯を俯瞰的に読むとすれば、本書は読みやすいし、新藤が映画に込めた思いもよくわかる。
新藤の人生を知りたい人にはおすすめの一冊である。
新藤は母親42歳の時の子供だという。その母を称して、新藤は「美しき働き者」と愛を込めて呼ぶ。
幼い新藤の目に焼き付いているのは、「たった一人で黙々と何万とある稲株を掘り起こし」ている母の姿だ。そんな母に比べれば、自分の「仕事は小さい」とまでいう。
この時の母の姿が、苦境に追いやられていた独立プロの息を吹き返すきっかけとなったモスクワ国際映画祭でグランプリを受賞した『裸の島』の乙羽信子のそれにつながったのではないだろうか。
撒けども撒けども土に吸い込まれていく水。そんな枯れた島のいくばくかの土地を開墾する夫婦の姿を描いた『裸の島』は今見ても傑作だ。
水さえない島で暮らす夫婦にとって、生きるとはなんであったか。
新藤はこの本の中で、自分のテーマはただひとつ「人間」であったと書いている。人間という「奥深い不可思議な捉えにくいもの」の前提として、黙々と一人働きつづける母なる女性の姿があったにちがいない。
新藤にはまた『原爆の子』や『一枚のハガキ』といった反戦にかかわるテーマの作品も多い。
本書の中にも『一枚のハカキ』の中で描かれた軍隊でのおろかな様子が記されている。すなわち、上官のひいたクジによって兵士の生死が左右されたという事実である。
しかし、新藤は特に反戦を意識していたのではないように思う。いうなれば、国家や社会、あるいは組織に蹂躙される虐げられた者たちの声を描こうとした結果としてあったような気がする。
それは、どんな苦境であれ生き続けざるをえない人間を描きつづけた映画人生だったといえる。
それにしても、「生きているかぎり」映画人でありつづけた、新藤兼人の人生は、見事というしかない。
ご冥福をお祈りする。
(2012/05/31 投稿)

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05/31/2012 白 (百年文庫)(梶井 基次郎、北條 民雄 他):書評「研ぎすまされた命のきわどさ」

お世話になっていたオンライン書店bk1が
なくなって、
hontoという総合型オンライン書店に変わったのは
以前このブログにも書きました。
たぶん、情報的には
bk1書店よりも充実しているのでしょうが
こと書評(hontoではレビューと呼んでいます)に関していうと
bk1書店当時の方が
丁寧に扱っていたような気がします。
hontoもこれからもう少しは
書評や書評投稿者にわかりやすい
画面構成にしていくでしょうが
まだそこまでには至っていません。
そこで最近は
BOOK asahi. comというサイトの方を
利用することようにしています。
こちらのサイトも書評ではなく
レビューと呼んでいますが、
書評を見るのが簡単にできます。
いずれにしても
本のサイトはいくつもあります。
自分の読書生活にあった
サイトを利用するのが
いいでしょう。
今日は、
「百年文庫」68巻めの「白」を紹介します。
じゃあ、読もう。
![]() | 白 (百年文庫) (2011/03) 梶井 基次郎、北條 民雄 他 商品詳細を見る |

色にはそれぞれイメージがある。たとえば、赤であれば情熱、青であれば若々しい感じといったようにである。では、白となれば、無垢といったところだろうか。
人それぞれにそのイメージも違うだろうが、白にはやはり汚れのないものを誰もが想うのではないだろうか。
「百年文庫」の68巻めの書名はその「白」。
収録された三短編も、その色にふさわしい純な作品である。梶井基次郎の『冬の蠅』、中谷孝雄の『春の絵巻』、北條民雄の『いのちの初夜』、いずれも研ぎすまされた命のきわどさを描いた名作だ。
梶井基次郎といえば、代表作『檸檬』でお馴染みの作家である。いまだに人気が高い。本書に収録されている『冬の蠅』も短編としての評判は高い。
療養生活で塞いでいる主人公の前を「よぼよぼと歩いている蠅」。それは、「夏頃の不逞さや憎々しいほどのすばしこさを失って」いる、冬の蠅である。その姿に、療養中の自身の姿が重なっていく。
主人公の目に、死の影がかすめる。
梶井の作品の魅力は冷徹までに自身を見つめる視線だろう。その厳しさが読む者を打つ。この作品にしてもそうだ。
冬の蠅はそれを見つめる自分自身でもある。そして、それはもっと神々しいものの視点にも重なっている。
北條民雄の『いのちの初夜』は、かつて不治の病といわれ禍々しいものとして隔離を強制されたハンセン病の療養施設の物語だ。北條自身がその病に罹り、その経験によって書かれた作品である。
ちなみに北條は川端康成と手紙での親交があり、この作品を『いのちの初夜』としたのは川端だという。
なまなましい療養施設の患者たちの様子、その病気に罹った主人公の苦悩、死への誘惑、それでも生き続けようとする力。
人間とはかくも脆いものでありながら、それでも生命は尊く、等しく生きる権利がある。
それを描く北條の筆は、悲痛であるが、明け方の露のようにきらめいてもいる。
名作である。
中谷孝雄の『春の絵巻』は、「初めて春に逢ったような気がする」と言い残して自死した同級生と初めての恋に心ときめかす大学生の姿を描きながら、若い生命のときめきを描いた作品である。
青春期は生命に躍動する時期でもあるが、同様に死の影にひきつけられる時でもある。
すべては、まだ色に染まらない、白。彼らがそれぞれの色を持つのは、もう少し、先の話かもしれない。
(2012/05/31 投稿)

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05/30/2012 追悼・新藤兼人 - 最後に届けられたハガキ

100歳ということですから、もっと映画を撮って欲しかったけれど、大往生といっていいでしょう。
遺作となったのが、昨年数々の映画賞に輝いた
『一枚のハガキ』です。
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戦争の悲しみを鋭く描いた作品です。
農家の女友子(大竹しのぶ)の夫は軍隊のきまぐれなくじにより
過酷な戦地に送られ戦死します。
夫の両親の願いでその弟と再婚するのですが、
その弟もまた戦死。
老いた義父は病に倒れ、
義母もまた貧乏に耐え切れず自死してしまいます。
それでも懸命に戦後を生きる友子のもとに
夫の戦友であった啓太(豊川悦司)が夫に宛てた友子のハガキをもって
訪れます。
くじで敗れて戦死した夫。くじで生き延びた啓太。
友子の悔しさ悲しみは行き場なく、悲嘆にくれるしかありません。

とても重いテーマです。
それを99歳の新藤兼人さんが監督をしたということに
新藤兼人さんの戦争に対する拘りがあったと思います。
あるいは、
生きていくことは耐えるということへの思い。
水のない島で何度も何度も櫓を漕いで
水を運んだ名作『裸の島』を彷彿とさせます。
(この時の主役が乙羽信子さんでした)
それは、新藤兼人監督から
私たちに届けられた
最後のメッセージとなりました。

新藤兼人監督、
長い間ありがとうございました。
ご冥福をお祈りいたします。

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05/30/2012 微視的(ちまちま)お宝鑑定団(東海林さだお):書評「この人物に要注意」

本のタイトルをつけるのは難しい。
ソフト系で迫るか
ハード系でつけるか、
はたまたお笑い系でいくか。
それが雑誌の連載エッセイをまとまるとなると
余計難しい。
今日紹介する
東海林さだおさんの『微視的(ちまちま)お宝鑑定団』は
雑誌連載時には「男の分別学」というタイトルでしたが
単行本刊行時に『微視的(ちまちま)お宝鑑定団』に改題。
でもですよ、
これは本書に収録されている
「台所お宝鑑定団」と「微視的(ちまちま)生活入門」の
半分ずつを単にひっつけただけという
安易さ。
こんなことでいいのかと
笑い顔で文句を吹き出したくなる有り様。
では、あんただったらなんとつけるのだと
いわれれば、
「台所生活入門」だったら、
東海林さだおさんと同じじゃないか。
じゃあ、読もう。
![]() | 微視的(ちまちま)お宝鑑定団 (文春文庫) (2012/04/10) 東海林 さだお 商品詳細を見る |

「ちまちま」という言葉に漢字はない。だから、この本のタイトル「微視的」というのは当て字だ。
そんなことを書くと、そんな鼻の穴をほじくりかえす(耳の穴だったかな)みたいな輩こそ、「ちまちま」した人間だといわれかねない。
そう、「ちまちま」とは、そう使う。「小さくまとまっているさま」を言う。
そういえば、少し前に「ちいちゃなことは気にしない」とフレーズで人気者になった芸人がいたが、あれは東海林さだおさん的にいえば「ちっちゃいことを気にしよう」とすればよかったのだ。
東海林さだおさん曰く、「巨視の時代は終わった」のである。微視的(当然、これは「ちまちま」と読んで下さい。以下、同じ)生活をおくるのだ。
では、東海林さん的微視的生活とはどういうものか。
まず、パンツ。
若い人がいうところの、語尾上昇イントネーションでなく、おじさんたちがいうところの、語尾下降イントネーションの、それ。つまり、下着のパンツ。
それについているタグを見るところから微視的生活が始まっている。
見たこと、ない? 当然、当然。
じっと見るのは東海林さんぐらい微視的生活の達人だからできるのであって、あまり普通見ないから気にしない。
ただ今日からはあなたもパンツのタグを見ることから始めなさい。
ともかくも、東海林さんはこのパンツをじっとみるだけで朝の数時間を過ごせるくらいの達人だが、一読者としてはパンツのしみとか匂い、あるいは下腹部に刻印されたパンツのゴム跡にも言及してほしかったと、より深い微視的生活を切望する。
つまりは、そういうどうでもいいことが、東海林さんのエッセイの面白さなのだ。
東海林さんのエッセイの魅力は、微視的な観察力におうところ大なのである。。
それは、本書に収録されている「深川発、はとバスの一日」や大島にくさや定食を食べに行くといった旅のエッセイに本領発揮されている。東海林さんというレンズを通して、実に面白い人間模様を微視的観察できるのである。
東海林さだおさんらしき人物を見かけた時は要注意。
鼻の穴も耳の穴もきれいにしておかないと、どう表現されるかしりませんから。
実に微視的脅威である。
(2012/05/30 投稿)

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05/29/2012 新・幸福論 - 青い鳥の去ったあと -(五木寛之):書評「「幸福」の正体」

今日紹介する
五木寛之さんの『新・幸福論』という本の中で
五木寛之さんは
「鬱」という字について
こんなことを書いています。
この「鬱」には
「草木の茂るさま。物事の盛んなさま」という意味が
あるそうです。
鬱蒼としている、といったように
使いますよね。
そもそも、生命力のさかんなこと、エネルギーがあることを
示す言葉だというのです。
それが、何らかの原因で阻害されて
気がふさいでしまう。
それが、現代よくいわれる「鬱」です。
だから、五木寛之さんは
「鬱は力なり」とか
「無気力な人は鬱にならない」とか
言い続けているそうです。
そういうことは「幸福」についても
いえるかもしれません。
他人の「幸福」など気にしないこと。
そう思えば、
「幸福」もきっと身近なものになるような
気がします。
じゃあ、読もう。
![]() | 新・幸福論 (一般書) (2012/03/28) 五木寛之 商品詳細を見る |

この本でもそうですが、世に広く流布されている「幸福論」の多くは、「幸福」になる秘訣など書かれていません。もし、そのことを期待して「幸福論」を開いても落胆するだけではないでしょうか。
まして、絶望にいる人にとっては、そういう「幸福」さえ目にとまらないものかもしれません。
もちろん、人は「幸福」とは何かを求めて「幸福論」を手にするのですが、それは著者とともに「幸福」とは何かを考える行為にすぎないのです。
五木寛之さんもこの本の「はじめに」で、「ここに書いた文章は、明日の幸福の設計図ではありません」と書いています。
「幸福」を誰に問うても仕方がないのです。何故なら、人それぞれ「幸福」のありかたが違うのですから。
五木さんは現在の私たちは「逢魔が時」に生きているのではないかと書いています。夕暮れ時のぼんやりとした時間、まさにその角を曲れば魔物に出逢う時代です。幸福でもないが不幸でもない、そんな時代にあって、「幸福」とは何かを追い求めているというのです。
この本の中で五木さんは、金子みすずや宮沢賢治、メーテルリンクの『青い鳥』、あるいは『星の王子さま』や自身が創訳をした『かもめのジョナサン』といったたくさんの事例を語っていますが。それらは決して「幸福」の何たるかを指し示すものではありません。
むしろ、青い鳥が二人の子供の手から逃げ出すという『青い鳥』の本当のラストのように、たくさんの事例もまた逃げていった青い鳥のような気にさせられます。
ここには何の「幸福論」も書かれていないのです。
五木さんはそもそもそういう論を書くつもりなどなかったような気がします。
「あとがき」で五木さんは、こう書いています。
「それぞれに自分の幸福を手さぐりで探すしかない。それを試みる自由があるということ、それが何よりの幸福だと思われてなりません」と。
五木さんは、「幸福論」ブーム、幸福の国ブータン人気、といった一時的な流行ではなく、それぞれが真摯に「幸福」とは何かを問い続ける、そういう姿勢を書きたかったのではないでしょうか。
(2012/05/29 投稿)

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05/28/2012 歳月 - 河野裕子歌集:書評「時を刻むようにして歌を読む」

ここしばらく
児童文学が続きました。
子どもの本を読むことは
ある意味、おとなの楽しみでも
あります。
まして、私のように年を重ねてくると
またちがった意味の楽しみになります。
子どもとして読む。
子どもと一緒に読む。
子どもの心で読む。
人は一生のうちで
そのように何度も絵本や児童文学に
接することができます。
でも、本当は
今日紹介する『歳月』という歌集の
あとがきで歌人の河野裕子さんが
書いているように
家族でいる時間は短いのです。
そういう時間を大切にしないで
どうするのでしょう。
そんなことを思う、歌集です。
じゃあ、読もう。
![]() | 歳月―河野裕子歌集 (現代女流短歌全集) (1995/09) 河野 裕子 商品詳細を見る |

本書は、2010年8月に64歳で亡くなった河野裕子さんの、第六歌集(1995年刊)です。河野さんの40代前半の歌が収められています。
河野さんの最後の歌集『蟬声』を読んだあと、彼女の歌をもう少し読んでみたいと手にしたのがこの本でした。何冊かある歌集のうちで、この本を選んだのはそのタイトル『歳月』にありました。
私の好きな詩人茨木のり子さんの詩集にも、そしてそれは茨木さんの最後の詩集でしたが、同じタイトルのものがあります。茨木さんはその詩集の中で亡き夫との生活を静かに、内に燃え上がるような官能の炎を秘めながら、詩(うた)ってしましたが、同じ「歳月」をこの歌人はどう詠んでいるのか気になったのです。
「歳月」としてまとめられた歌数首はありますが、本書冒頭の歌の方がずんときました。
それはこんな歌です。
「身をかがめもの言ふことももはや無し子はすんすんと水辺の真菰」。
この歌に詠まれているような情景は、子を持つ親は誰しも経験するかもしれません。
子供が小さい頃はその背丈で話をしていますが、子の成長とともにそんなこともなくなってくる。逆にいつの間にか見下ろされるようにもなる。
本書の中にはこんな歌も。「母さんとめつたに言はなくなりし子が二階より呼ぶユウコサンなどと」。
これなども誰しも思い当たる光景でしょう。
親にとって子供の成長こそ「歳月」なのかもしれません。
それをどう自分の中で整理していくか。子供の暦(こよみ)と親の暦(こよみ)はいつしかその歩みを変えていきます。そのことを自覚する、それが「歳月」なのでしょう。
河野裕子さんはこの歌集に『歳月』とつけた理由として、[四十代前半にさしかかり、過ぎてきた歳月、残された歳月を、どのような場面においても意識せざるをえなくなったから」と、「あとがき」に書いています。その「歳月」は成長著しい子供たち(河野さんには男の子と女の子の二人のお子さんがいます)を見るにつけ、としています。
そして、その文章の最後にこうふっと書き足しました。
「この世で家族でいられる時間は、誰にとってもそんなに長いものではない」と。
そんなことを思いながら、一つひとつの歌を読んでいく。
時を刻むようにして。
(2012/05/28 投稿)

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05/27/2012 世界は気になることばかり(五味太郎):書評「そう考えたら、夜も眠れない」

いままでたくさんの絵本を
このブログで紹介してきましたが
とても大切な
そして有名な絵本作家の作品を
一冊も紹介してこなかったのは
うかつでした。
全国の五味太郎ファンの皆さん、
すみません。
というわけで、
今日は、
五味太郎さんの『世界は気になることばかり』を
紹介します。
私の娘がまだうんと小さかった頃、
五味太郎さんの絵本を
たくさん読みました。
それこそ、うんと。
五味太郎さんの絵は
色彩も豊かだし
それぞれ個性があって
書評にも書きましたが、
子どもたちとの話が弾む絵本です。
今日の『世界は気になることばかり』は
おしゃべりが止まらなくなるのではと
心配してしまいます。
じゃあ、読もう。
![]() | 世界は気になることばかり (2011/06/03) 五味 太郎 商品詳細を見る |


子どもと大人の違いって何だろうと考えると、やはり生きてきた時間の差ということになるのだろうか。いわゆる、経験。
大人にとってはどうでもないことであっても、子どもの目からすると、この絵本の書名ではないが、「世界は気になることばかり」ということになる。
しかし、大人はわかった顔をしていても、本当は知らないことが山ほどある。
戦争はどうしておこるのだろう、原子力って本当に必要なの、人がひとを殺めるそのわけは、なんて考えると、大人だって「世界は気になることばかり」なのだ。
五味太郎さんの絵本は、いつだって子どもと対話ができる。
この絵本の一ページ、一ページを見ながら、子どもに問いかけ、子どもの意見に耳を傾け、さらに問いかけ、それは、おそらく尽きる時がない。
たとえば、こうだ。
最初のページ。街の様子。高いビルディングがあちこちにある。絵本の中の「ぼく」は、「展覧会をしている」ビルディングを見つけた。大人、「へえ、どのビルだろうね、展覧会してるって」。子ども「これだよ、これ」。大人、「どうして?」。子ども、「だってさ、ほら窓から富士山が見えるよ」。大人、「どこ、どこ」。子ども、「ここだよ、ここ」。という具合に。
それが、全ページだから、夕ごはんの支度に間に合わないかもしれない。
もっとちがう楽しみだってできる。
この絵本にはたくさんの人たちが描かれている。それぞれどんな個性の人か、言い当てっこする。きっと、大人が想像もできないようなことを子どもはいいそうだ。
だって、子どもは「世界は気になることばかり」だってわかっているから。だから、その「気になること」を解こうとするから。
大人もたまには「世界は気になることばかり」と思うのもいいかもしれない。少しは見えてくるかもしれない。本当にこの世界って、「気になることばかり」なのだから。
(2012/05/27 投稿)

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一週間のお待たせでした。
今日は、
C.S.ルイスの「ナルニア国ものがたり」の2巻め
『カスピアン王子のつのぶえ』。
これも映画になりましたから
観た人もたくさんいるでしょうね。
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私は残念ながら
観おとしました。
今なら絶対にそんなことしないんだけど。
今なら、というのは
「ナルニア国ものがたり」に
はまった今、ということ。
この巻でも
あの勇敢なライオンアスランが
子どもたちの危機を救います。
あんまり書くと面白くないので
ここまで。
じゃあ、読もう。
![]() | カスピアン王子のつのぶえ―ナルニア国ものがたり〈2〉 (岩波少年文庫) (2000/06/16) C.S. ルイス 商品詳細を見る |


子どもたちよ、先の冒険のお話を覚えているかい。
ペペンシー家の四人のきょうだい、ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシィ、と、あの古ぼけた衣装だんすの奥に広がる「ナルニア国」の冒険の物語だよ。
その二巻めは、あの時の休暇から一年が経った駅の場面から始まる。もちろん、ここにはあの勇敢で賢明な四人のナルニア国の王と王女、この人間界ではペペンシー家の四人のきょうだいがそろっている。彼らはこの駅からそれぞれの寄宿生活に戻るところだ。
誰だって学校なんてちっとも好きじゃない。できるなら行きたくない。
大人になっても同じ。会社なんかちっとも好きじゃないって思っている。だって、月曜の通勤電車はそんな憂鬱そうな人たちでいっぱいじゃないか。
きょうだいたちもそうだった。けれど、彼らは不思議な力にひっぱられて、なんとまたあの国ナルニアに戻ることになるんだ。
この冒頭の場面に話がうまくいきすぎていると感じる人は多いと思う。作為的っていうのだろうか。四人をナルニア国に戻すための作者の構想だって。
私もそう思ったけど、そういう人は何故彼らきょうだいがナルニアに戻ることになったかという理由をじっくり見つけてもらいたい。
この物語はそういう細かな配慮がとても行き届いていることをしっかりと確かめるといい。
さて、ナルニア国に戻った四人だが、そこがどこなのか最初はさっぱりわからなかった。何故かって。よおく最初の話を思い出してごらん。きょうだいがナルニアで過ごしたのは何年にもわたったはずだよね。ところが、人間界に戻ると、少しも時間が過ぎていなかった。
つまり、人間界とナルニア国とは時間の概念が違うのだ。ちょうど、子どもたちの時間とお年寄りの時間がちがうように。
子どもたちがたくさん遊べば、あっという間に時間は過ぎてしまうよね。あれと同じこと。ナルニア国はきっと夢中になることがたくさんあって、時間もあっという間に過ぎてしまうのかもしれない。
そこは彼らがいた時代から何百年も経ったナルニア国だった。
王様が何代も変わって、今やピーターたちが国を治めていた時代とはすっかり変わっていた。そんな時代に何故彼らは戻ってきたのかというと、時代に虐げられている人やけものや小人たち、そしてその筆頭であるカスピアン王子を助けるためなんだ。
さあ、子どもたちよ、四人のきょうだいとともに新しい冒険を楽しんでおいで。
時間はたっぷり。
さらなる冒険は、まだまだこれから。
(2012/05/26 投稿)

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05/25/2012 アカネちゃんの涙の海 (講談社文庫)(松谷 みよ子):書評「心にいつまでも」

いよいよ松谷みよ子さんの
「モモちゃんアカネちゃん」シリーズも
この巻で最後。
『アカネちゃんの涙の海』です。
最後はとても悲しいけれど
それでもモモちゃんも
アカネちゃんも
お母さんと一緒に
成長していくだろうと思わせるラスト。
私たちの文学は
こういう作品をもったことを
大変誇りにしたいと
思います。
こういう話を読むと、
物語というのはいかに
奥深い言葉の森でしょう。
何度も書きますが
ぜひ、この「モモちゃんアカネちゃん」シリーズを
読んでもらいたいと
願わずにはいません。
じゃあ、読もう。
![]() | アカネちゃんの涙の海 (講談社文庫) (2012/01/17) 松谷 みよ子 商品詳細を見る |


松谷みよ子さんの名作「モモちゃん」シリーズ全六話の、この文庫本では五作目『アカネちゃんとお客さんのパパ』と最終作『アカネちゃんのなみだの海』の二つのお話を収録され、今回のシリーズの特長である人気画家酒井駒子さんの表紙絵と口絵、それに2011年に書かれた松谷みよ子さんの「文庫版あとがき」がついています。
最後の作品が出た1992年当時のあとがきも収録されています。
三巻完結したこの素晴らしい児童文学を今私たちは夢中になってあるいは一日で読み終わってしまうかもしれませんが、松谷みよ子さんはこのシリーズの最初の話「三つになったモモ」からシリーズ最後のお話『みんな大きくなりました』まで実に28年の歳月がかかったといいます。
モモちゃんやアカネちゃんのモデルとなった子どもたちはとっくに物語の中の女の子を追い越していきました。
しかし、モモちゃんもアカネちゃんもそんな書き手の歳月とは関係なく、いつまでもゆっくりとていねいに育っていきます。
どこにですって? 読者の心にです。
私にも二人の娘がいます。
「ちいさいモモちゃん」を初めて娘たちに読んだのはとても小さい頃でした。でも、このお話が「離婚」のこととか「死」のこととか「核」のことに触れていて、途中で読むのをやめてしまいました。
なんて馬鹿な、と今頃悔やんでも仕方ありませんが、だから娘たちはモモちゃんの先の話を知らないかもしれません。
二人の娘たちはもうすっかり成人してしまいましたが、その父親はいまこっそりとこうしてちいさいモモちゃんアカネちゃんと一緒に、「離婚」のことや「死」のことを考えています。
このシリーズがいつまでも永遠に輝きつづけるのは、そういった時代を超えた人としての営みがきちんと描かれているからだろうと思います。
この巻ではパパの「死」まで描かれます。
それまで泣き虫だったアカネちゃんが泣くのではなく、モモちゃんが「おねえちゃんだから、パパのこともなにもいわないで、がまんして」きて、「たまっていた涙が、あふれだす」お話の、なんと切ないことでしょう。
あんなにちいさかったモモちゃんの、これが成長した姿です。
人はがまんし、がまんし、そして涙をする。成長とはそういうことなのでしょう。
いつか私の娘たちも、もう一度最初から、そして最後までこの物語に出会えますように。
(2012/05/25 投稿)

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05/24/2012 モモちゃんとアカネちゃん (講談社文庫)(松谷 みよ子):書評「大人への宿題」

松谷みよ子さんの
『ちいさいモモちゃん』を紹介してから
かなり経ちます。

今日と明日は
その続きのお話を紹介します。
今日は『モモちゃんとアカネちゃん』。
今回の講談社文庫は
表紙と口絵に酒井駒子さんの絵が
使われています。
酒井駒子さんのファンの方もぜひ。
それにしても
この物語は児童文学の傑作ですね。
この物語を読まないのは
ソン。
今子育て中の若い人たちには
ぜひ読んでもらいたい三冊です。
じゃあ、読もう。
![]() | モモちゃんとアカネちゃん (講談社文庫) (2011/12/15) 松谷 みよ子 商品詳細を見る |


松谷みよ子さんの名作「モモちゃん」シリーズ全六話の、三作目『モモちゃんとアカネちゃん』と四作目『ちいさいアカネちゃん』の二つのお話を収録したこの文庫本は人気画家酒井駒子さんの表紙絵と口絵、それに2011年に書かれた松谷みよ子さんの「文庫版あとがき」がついていて、きっと新しい「モモちゃん」ファン、「アカネちゃん」ファンを生んだことだと思います。
私もその一人です。
「モモちゃん」シリーズは少し怖い児童文学です。
怖いというのは、オバケとか怪獣がでてくるのではなく、とてもリアルな日常が描かれている怖さです。
まず、その一つがパパとママの「離婚」の問題です。
小さい子供にとって、オバケなんかよりパパとママが喧嘩をしたり、離婚したりってすごく深刻なことだと思います。小さいからわからないのではなく、小さいからそういった両親の心の襞の揺れがわかるといってもいいのではないでしょうか。
ましてや、ママに「死に神」が近づいてきたり、パパの靴だけが家に帰ってきたり、どことなく不安な影が波紋のように広がっています。
もう一つは、これは次の第三巻めに描かれていますが、「死」の問題。あるいは「戦争」であったり、「核」であったり、モモちゃんもアカネちゃんもけっして明るいだけの世界の子どもたちではありません。
その一方で黒ネコのプーとおしゃべりできたり、この巻ではアカネちゃんの大の親友になる靴下のタッタちゃんとタアタちゃんが大活躍したり、ファンタジーの要素もたくさんはいっています。
そういう要素があるから、「離婚」とか「死に神」とかとっても怖いこともすんなり子どもたちの感性に届くのだと思います。
「文庫版あとがき」の中で、パパとママの「離婚」の話を書くきっかけは、松谷みよ子さんのお子さんのひと言、「どうしてうちにはパパがいないの? そこんとこを書いて」にあったと書かれています。
松谷さんはその約束をきちんと果たしました。一つの植木鉢に植えられた二本の枯れかかった木を「離婚」間際の二人になぞらえました。
この素晴らしい児童文学を読んで、お子さんに「離婚って何?」と訊ねられた時、どこまで逃げずに答えられるでしょうか。
それは、私たち大人への宿題です。
(2012/05/24 投稿)

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05/23/2012 精選女性随筆集 三 倉橋由美子(小池真理子 選):書評「彼女の「スタイル」」

「精選女性随筆集」の三巻め、
小池真理子さん選による
「倉橋由美子集」です。
なんとなく倉橋由美子さんというと
随筆、エッセイから遠い人だという印象が
ありますが、
普段考えている、
生活臭のある文章からはやはり遠いと
思います。
もっと文学について悩み
女性について思いやった文章。
そういっていいでしょう。
書評にも書きましたが、
倉橋由美子さんは
私にとっては青春の作家。
時代の匂いのする作家です。
じゃあ、読もう。
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「精選女性随筆集」の第三巻めは、小池真理子さん選(このシリーズは小池さんと川上弘美さんという現代の女性作家二人による選というのがひとつの特長)による、「倉橋由美子」集である。
「倉橋由美子は、いわゆる安保世代(とりわけ‘70年安保)にとって、有無を言わせぬ人気作家の一人だった」と、選にあたった小池さんが書いているが、それに続けて「当時の学生の、煙草くさい乱雑な部屋の書棚」に必ず倉橋由美子の作品が並んでいたという描写は、倉橋が『パルタイ』で華々しくデビューした当時の雰囲気をよく伝えている。
倉橋由美子が『パルタイ』を発表したのは昭和35年(1960年)だった。
私がその作品に出合ったのは、多分高校生の頃だったと思うが、当時すでに次の問題作『聖少女』を発表していたように思う。
小池さんではないが、私も倉橋由美子にかぶれた。大江健三郎、開高健、安倍公房、高橋和巳と同じように、倉橋由美子は高校から大学、いわゆる青春期の作家だった。
倉橋の作品は難解だ。当時の私が、あるいはそれから数十年経っても、どこまで倉橋の作品を理解していたかはわからない。
ただ、彼女の文体、倉橋流にいえば「スタイル」が、ここではないどこかを、実現できない苛立ちを的確に表現していたと思う。
倉橋の「スタイル」が時代と相姦していたのだ。
それは小説というジャンルだけでなく、エッセイでもいえる。
倉橋は「「綱渡り」と仮面について」というエッセイの中でこう語っている。「わたしはエッセイの文体で自己表現することはできません。いや、エッセイの文体で表現できる「わたし」なんか、そもそも存在しないというべきでしょう」と。
ここまで言い切る倉橋のエッセイは、この「精選女性随筆集」既刊の幸田文や森茉莉とは一線を画しているといえる。
だからこそ、倉橋は70年代の女性たちにあって時代の寵児となりえたような気がする。
しかし、この「随筆集」を読んで、倉橋由美子こそ女性そのもの、それは男性に抵抗する性ではなく男性より独立した性としての、ではなかったかという思いも一方ではしている。
小池真理子さんはこう書いている。
「私にとっては、きわめて女性的な感性が感じられる作家だった」と。
(2012/05/23 投稿)

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05/22/2012 チャップリン再入門(大野 裕之):書評「初めてチャップリン映画を観たのは十七歳だった」

昨日は平松洋子さんの
『焼き餃子と名画座 わたしの東京 味歩き』という本を
紹介しましたが、
名画座にひっかけて
今日は大野裕之さんの『チャップリン再入門』を
蔵出し書評で紹介します。
今年のアカデミー賞は
『アーティスト』という白黒、サイレント映画が
受賞して話題となりましたが、
サイレント映画といえば
やはりチャップリン。
ほとんどの作品は観てきました。
最近の映画は
3Dとか作り物めいていますが
チャンプリンは
ハートで描き続けた映画作家だったのでは
ないでしょうか。
じゃあ、読もう。
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初めてチャップリンの映画を観たのは十七歳の時、一九七二年だった。
東宝東和が「ビバ!チャップリン」としてチャップリンの作品を連続上映した時だ。その連続上映の第一作が「モダン・タイムス」だった。
この時の一連の上映で私はチャップリンを初体験するわけだが、映画以上に覚えているのが映画雑誌「キネマ旬報」のことだ。
当時一端の映画少年を気取っていた私はグラビアが主体だった「スクリーン」とか「ロードショー」といった映画誌に満足せず、かなり専門的だった「キネマ旬報」を愛読していた。
ただその頃の「キネマ旬報」は映画界の凋落とともにより読者への歩み寄りを志向していた時代だったのだと思う。和田誠さんの名著『お楽しみはこれからだ』の連載が始まったのもその頃のことではないかしら。
そして、その一環だったのか、話題の作品の脚本を掲載してもいた。
そんな頃に「ビバ!チャップリン」の上映が始まる。「キネマ旬報」は作品が上映されるのに合わせて作品の特集記事を組むのと同時に、その作品の脚本を掲載したのだ。
「ハンナ…僕の声がわかるかい?」
チャップリンは名作「独裁者」の中で、観客に初めてその声を聞かせる。(「モダンタイムス」でデタラメ語で歌った「ティティナ」が最初のチャップリンの肉声だがこの時は歌だけ)
映画史上最も有名な、六分間の大演説である。その脚本ももちろん掲載された。何度この長いせりふを読んだことだろう。(大野裕之さんのこの本の中でもこの演説が全文紹介されている)
当時購入した「キネマ旬報」はその後処分したが、チャップリンの作品が紹介された号だけは脚本部分だけを切り取って保存したはずなのに、残念ながら今はそれすらない。
今ではしばしば衛星TVで放映もされるし、DVDとして市販もされているチャップリンだが、私にとってのチャップリンとは、雑誌「キネマ旬報」の思い出と今はどこかにいってしまった作品の脚本の思い出だ。
話が長くなった。ここは私の思い出の話の場所ではない。
本書は、これからチャップリンに出会うだろう人にも、チャップリンの作品をこよなく愛する人にも、わかりやすく、読み物としても楽しめる、チャップリン入門の一冊である。
(2005/05/15 投稿)

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05/21/2012 焼き餃子と名画座 わたしの東京 味歩き(平松 洋子):書評「「食指が動く」」

今日は
平松洋子さんの食べ物エッセイ
『焼き餃子と名画座 わたしの東京 味歩き』。
おいしいものが
次々と出てきますので
おなかの減っている人は
要注意。
これは東京のお話ですから
地方の人は食べたくても
行きたくても
なかなかいけない。
活字に舌鼓をうつしかありません。
できれば
簡単な地図でもはいっていれば
もっとうれしかったのですが
本当の食いしん坊は
そういうことにも
豆な人をいうのじゃないかな。
じゃあ、めしあがれ。
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「食指(しょくし)が動く」という言葉がある。
中国の『春秋左伝』という書物に書かれた故事からきているらしい。曰く、その昔の中国で人差し指が動くとご馳走にありつけるという人物がいたらしい。
さすが大国の中国だけのことはある。りっぱな? 人がいたものだ。
エッセイスト平松洋子さんのたくさんのブックリストの中から、この『焼き餃子と名画座』を読んでみたいと思ったのは、まさにその食指が動いたものだった。
「焼き餃子」、手軽でこんなおいしいものはない。「名画座」、なんて懐かしい響きだ。まさに心に下駄ばきつっかけて出かけるごとく、本を手にすることになる。
「食指が動く」というのは、「食欲がおこること」をいうらしいから、平松さんの「わたしの東京味歩き」はさしずめその言葉にぴったりの、味の名店、かつそれほど構えた店ではなく、下駄ばきはともかくとしてもスニーカーで別段問題のない店をたずねてのエッセイ集だ。
しかも、「食指が動く」には「なにかをしたくなる」という意味もあって、平松さんの行動そのものがこの「なにかをしたくなる」ゆえの食べ物めぐりというのもうれしい。
深川で友達とどぜう鍋をはふはふし、西新宿ではインドのカレーおじさんのとぼけた問答にたまげ、神保町の冷やし中華に絶句する。東京を、あっちに行ったりこっちに向いたり。
もちろん「焼き餃子と名画座」は清水宏監督の『小原庄助さん』という隠れ名画に絶品焼き餃子と取り合わせのすごい。
さすが平松さん、感度がいい。
おいしいものをどう描くかではなく、平松さんの食のエッセイはまさに「食指が動く」文章たちでできあがっているのです。
つまり、「食指が動く」というのは、単においしいものに指が反応して動くということではなく、身体ごとそこに向かっていくということです。
食の探究者は行動派なのです。
(2012/05/21 投稿)

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05/20/2012 おはよう ぼくだよ(益田 ミリ/平澤一平):書評「朝の挨拶は気持ちいい」

今日は人気イラストレーター益田ミリさんが書いた絵本
『おはよう ぼくだよ』を紹介します。
絵は平澤一平さんが担当しています。
絵本は単純そうですが
やはり人それぞれ、
読む人によって受け止め方は
ちがうように思います。
この『おはよう ぼくだよ』も
いろいろな読み方ができる絵本のような
気がします。
私は朝の挨拶が大事よって読みました。
そういうところをきちんとできる人と
そうでない人とは
かなりの差があるのではないでしょうか。
もちろん、
ちがった読み方もあるでしょう。
お子さんと会話ができる
絵本です。
じゃあ、読もう。
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益田ミリさんはいま人気沸騰中のイラストレーターです。等身大の女性がとてもうまく描かれています。そして、この絵本でもわかるように、素敵な絵本作家でもあります。
子どもの気持ちがよくわかる女性というのは、きっと心が柔らかいのではないでしょうか。
だから、益田さんの描くOLや主婦と子どもの世界とは同じ水脈だと思います。
ある日、森の中でこぐまがうさぎに出会います。「おおきくなったら りっぱなみみのうさぎに なれば すてきじゃない?」って、うさぎはこぐまに話かけます。
こぐまはこの日、「おおきくなったら なにに なろう?」ってずっと考えていたのです。
それから、はりねずみにも出会います。うさぎとはりねずみから、葉っぱでこしらえたりっぱな耳と小枝でできたたくさんのはりをつけて、こぐまは歩いていくのですが、やっぱり変です。
だって、彼はこぐまなんですから。
そのことにこぐまも気づいて悲しがります。こぐまは大きくなったらどんな自分になるかよくわからなかったのです。
でも、こぐまは自分がとてもいいにおいのするくまだってことに気づきます。そこで家に帰って、お父さんとお母さんに「おおきくなったら おおきな ぼく」になるって宣言するんです。
大きくなることを成長するっていいます。この成長というのは、知識を得たり、常識を学んだりすることです。こぐまにはそのことがよくわからないのです。
でも、そのことを誰が笑えるでしょう。人間の世界にだって、こぐまのように思っている人はたくさんいるような気がします。
むしろ、このこぐまのように、「おおきくなっても おとうさんと おかあさんは ぼくって わかる?」と心配する方がうんといい。こぐまは毎朝心配だから、「おはよう ぼくだよ」って元気で挨拶をします。
朝の挨拶もできない人たちがいっぱいいますが、誰がこのこぐまを笑えるでしょう。「おはよう」がいえるこぐまはそれだけで成長したといえます。
最後の黄金色の朝の光のなかで、笑顔いっぱいのこぐまのかわいいことといったら。
平澤一平さんの絵がこぐまの笑顔のように光ります。
(2012/05/20 投稿)

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どうしてもニッチもサッチも
動かなくて、
ごそごそと本棚の隅から取り出してきたのが
C.S.ルイスの「ナルニア国ものがたり」の
最初の巻『ライオンと魔女』。
ずっと読まずにいたのに
こういう時になぜか読んでみたいと思うのは
まるで子供の頃病気になって
「おとなしく寝てるのよ」と
言われた時みたい。
そう、この児童文学の名作は
小学生4年生からしっかり読めます。
それでも本の苦手な子供には
ディズニー映画から見せるのも
手かもしれません。
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映画に夢中になって、
気がついたらそばに本がある。
ふっと手にしたら、
もう子供たちはナルニア国の住人。
じゃあ、読もう。
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さあ、子どもたちよ! 冒険の旅に、いざ出発するぞ!
マンガ本はしばらく閉じて。
何故だって、これから君たちが主人公の顔や姿や風景や動物たちを描くのだから。
ゲーム機は少しの間捨ておいて。
何故だって。ここにはゲーム以上の手に汗握る冒険が、手ごわい敵が待っているのだから。
さあ、子どもたちよ! ナルニア国へ、いざ出発だ!
この『ライオンと魔女』が物語の始まり。冒険のはじまり。
古いお屋敷の中にひっそり置かれた衣装だんすの暗闇の向こうが、目指すナルニア国。見つけたのは四人きょうだいの末っ子の女の子ルーシィ。
子どもの頃ってどうしてあんなに暗くて狭い世界が好きなんだろう。
押入れはお母さんに叱られた時にいれられたものだが、けっして嫌ではなかった。
最初は目の前の数センチも見えないのに、目がなれてくると、何だろう、なんでもいそうな気配に満ちていた。 机の引き出しはほとんどガラクタばかりなのに、いつもとんでもない宝物にあふれていた。
大人になったらそういうことみんな忘れてしまうけど、何故か子どもにも暗闇の中の光を見えるのだろう。そして、その小さな光は、新しいものを生み出す。
そう、誕生。
C.S.ルイスの名作『ナルニア国ものがたり』全7巻の物語はこうして読む者を自然とファンタジーの世界に連れて行ってくれる。
勇敢な兄ピーター、賢い姉スーザン、少しわがままな弟エドマンド、そしてやさしい末っ子ルーシィ、とともに。
彼らがまぎれこんだ世界は今や白い魔女が支配する冬の国。それなのにクリスマスもない国。
かつての緑あふれる世界を取り戻すために、彼ら四人のきょうだいがやってきたのだ。いいや、もしかすると、五人かも。
そう、五人めは、読み手である私。もしくは、あなた。
でも、きょうだい達だけでは白い魔女は退治できない。
もちろん、ゲームでよくでてくるようなとっておきの武器も出てくるし、彼らを助ける勇敢なライオン、アスランも登場する。
アスランがどれだけ勇敢かは、あるいは真の勇敢とはどういうことかは、読んでのお楽しみ。
今はきょうだいたちとともに、白い魔女たちと戦うぞ。
読み手はあっちへいったりこっちへいったり。でも、声援は忘れない。
子どもたちを夢中にさせる物語は、でも、これがはじまり。
さらなる冒険は、まだまだこれから。
(2012/05/19 投稿)

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05/18/2012 向田邦子全集〈2〉小説2 あ・うん(向田 邦子):書評「おとなのおとぎ話」

今日は「向田邦子全集」の2巻め、
小説二の『あ・うん』。
実はこの作品は
このブログで二回目の登場になります。
以前朝日新聞で重松清さんがナビゲーターをしていた
「百年読書会」での課題本の一冊になりました。
その時は文字数が限られていたのですが
今回はきままに書いてみました。

何度読んでも気持ちのいい作品です。
どこにも読んでいて嫌だなあと
感じるところがありません。
こういう作品は何度でも
読めますね。
名作たる所以かな。
じゃあ、読もう。
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「向田邦子全集・新版」第二巻めは、向田邦子の唯一の長編小説『あ・うん』。
支那事変前後の昭和前期の東京を舞台にした物語。暗いながらもまだいくばかりの陽光をとどめている時代背景そのままに、小さな製薬会社に勤める会社員水田仙吉とその妻たみ、一人娘さと子、それに仙吉の「寝台戦友」である門倉修造の、不思議な「四人家族」の人間模様を描いた作品である。
「四人家族」というのは正確ではない。仙吉の家は父親初太郎がいるが、門倉は別の家の人間だ。しかし、さと子の生まれた時から「影になり日向になっていつも門倉」がいた。だから、「四人家族」。
その訳は、門倉が仙吉の妻たみにぞっこんだからだ。
仙吉もそのことを感づいている。二人の間に立つたみもわかっている。
さと子だって、初太郎だって、あるいは門倉の妻君子だってわかっている。
全編門倉のたみへの想いに満ちた作品である。
しかし、門倉もたみも一線を越えることはない。
だから、この物語は恋愛小説にははいらない。もし、何らかの形でくくるとすれば、それはもうおとぎ話としかいいようがない。
この物語が面白いのはわき役たちの魅力もある。
仙吉の父初太郎、門倉の妻君子、だけでなく、門倉の二号禮子、初太郎の腹違いの弟作造、さと子の恋人義彦だって、いい。
みんながそれぞれの役柄を心得て、みごとに演じている。
主役たちの前面に出ようとするが、気がつけばすぅっと後ろにひかえている感じがいい。誰もが、この物語は仙吉たち四人の物語と心得ている風なのだ。
これもおとぎ話だからこそ、といっていい。
二人の友情など成立しないとかたみの気持ちが不十分だとかということは、この物語には通用しない。
たみを中心にした仙吉と門倉の関係が存在するとは考えられないからこれはおとぎ話であり、この物語に悪人が登場しないからおとぎ話なのだ。
つまり、時代が暗くなる前の一時の夢を、向田は描いたとしかいいようがない。
どんな時代であっても、人を幸福にするおとぎ話という夢を。
(2012/05/18 投稿)

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05/17/2012 ★ほんのニュース★ bk1書店が消えちゃった(涙)

オンライン書店bk1が
5月17日、電子書籍ストアhontoと一緒になって
新しいサイトhontoがオープンしました。

honto は電子書籍と紙の書籍のハイブリッド型総合書店です。
というのが、決め文句。
サイト名からおなじみのbk1が消えるのは
寂しいですが、
これも時の趨勢かな。

投稿してみました。
このあたりのサービスは変わらないようです。
今までのbk1ファンの方は
honto のネットストアの画面から入ると
入りやすいですね。
注文の仕方もほとんど変わりません。
(さっそく試してみました)
その他、今までにない機能もあるようですので
楽しみな本のサイトです。

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05/17/2012 芥川賞を読む - 蛍川・泥の河(宮本 輝):書評「宮本文学、ここにはじまる。」

今回の「芥川賞を読む」は
宮本輝さんの『蛍川』。
私にとっては
まさに直球勝負のド真ん中のような
芥川賞作品です。
この作品のあと
どれだけ宮本輝さんの作品を
読んだことか。
人生そのときどきで
熱くなる書き手というのがいるものですが
私の30代は
宮本輝の時代だったような気がします。
村上春樹さんもそうかな。
最近では
あまり読みたいと思わなくなったのは
読書の潮目が
私の中で変わったってことなんだと
思います。
でも、この『蛍川』の作品の価値は
変わりません。
じゃあ、読もう。
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第78回芥川賞受賞作(1978年)。作家宮本輝はこの年、のちの川三部作のひとつとなる『泥の河』で太宰治賞も受賞している。(川三部作のもう一作は『道頓堀川』)
まさに神が舞い降りた瞬間だった。
宮本以前の受賞作をみると、第75回が村上龍の『限りなく透明に近いブルー』、第77回が三田誠広の『僕って何』と池田満寿夫の『エーゲ海に捧ぐ』のW受賞と続いていた。
まるで、行き過ぎたムードを是正するかのように、それまでとはまったく異質の、古典的ともいえる作品が選出されたといえる。
では、この『蛍川』がそれほど完成度が高い作品であるかどうかといえば、あまりにもたくさんの要素を詰め込み過ぎている感は否めない。
この後、この作品をほどき、また新たに紡ぎだすようにして、宮本が重厚な長編作を発表しつづけたのは周知のことだろう。
それでも、この作品が読者に与える感動は、やはり大いに評価すべきだ。
宮本文学、ここにはじまる。
物語は昭和37年の富山の冬の終わりから夏の初めまでを描く。52歳で初めてわが子を得た実業家重竜はそのことで妻と離縁し、若い千代と再婚していた。その子竜夫の、14歳の季節である。
この年、富山は3月だというのに大雪に見舞われていた。遅い大雪には雪のような蛍が舞うという伝説を竜夫は信じていた。そんな中、事業に失敗しすさんでいた重竜が倒れる。
一家を襲う悲劇が、竜夫の淡い恋と千代と重竜の燃えるような過去の交情と重竜という実に男くさい人物の姿をないまぜにして描かれていく。
悲劇ではあるが、そこには精いっぱい生きようとする人々の姿が描かれる。
どれをとっても物語はもっと深みと幅をもっているような気がする。
例えば重竜と先妻春枝、それに竜夫の将来がどのようにつながっていくのかといったこと、竜夫の淡い恋の相手英子のそれからはどうなるのかといったこと。
この物語はそういう意味では人生の一片にすぎないのだ。
宮本輝がこの作品で芥川賞を受賞したことは僥倖だったが、この作品が芥川賞であればこそ、宮本文学はその後、見事に咲き誇ったのだといえるだろう。
(2012/05/17 投稿)

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05/16/2012 映画「八日目の蝉」のこと

角田光代さんの『八日目の蟬』を紹介しましたが
私がこの物語に接したのは
まず映画版が先でした。
昔、「見てから読むか、読んでから見るか」という
映画宣伝の惹句がありましたが、
まさに「見てから読んだ」訳です。
映画版『八日目の蟬』は
2011年の春に劇場公開されています。
私が観たのは、先日BS放送で放映されたものでした。
監督は成島出監督。
主演の野々宮希和子役は永作博美さん。
娘の薫(本名は恵理菜でしたね)役を井上真央さん。
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この年の日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞しています。
同時に、井上真央さんが最優秀主演女優賞、
永作博美さんが最優秀助演女優賞を受賞。
ちなみに、キネマ旬報のベストテンでは永作博美さんは主演女優賞を
とっています。
こういう作品でいえば、
希和子役の方が主演なのか薫役の方が主演なのか
難しいところですね。
私はやはり希和子役が主演だと思いますが。
薫と小さい頃ホームで一緒だった千草役で
小池栄子さんがとても熱演しています。
ちなみに彼女はキネマ旬報ベストテンで助演女優賞を受賞していますが
納得の受賞じゃないでしょうか。

どちらを先に鑑賞すべきかということですが、
私の感想でいえば、
原作を先に読んで欲しいですね。
映画はやはり映像でできていますから
自分の想像の余地が少なくなります。
それに、どうしてもウェットになりやすい。
ラストなんか、映画版は泣けますよ、まったく。
感動、ここでは泣きという点だけでいえば
映画版かな。
だからこそ、まず原作を読んで、
作品の深いところを味わってほしいと思います。

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05/15/2012 八日目の蝉(角田 光代):書評「生きていくことに正しいということはないかもしれない」

今さらながらというか
ついに、というか
今日は
角田光代さんの『八日目の蟬』を
紹介します。
話題作、問題作というくくりを超えて
名作の域に近づきつつあるロングセラーですから
読んだ人も多いのでは
ないでしょうか。
私は読書においても
けっこう天邪鬼で
話題本にはあまり興味がわかなくて
それでも
チラチラと横目で気になりつつ
本屋さんの前をうろうろしていた
ものです。
読んでみて
かなり深い物語だと思いました。
まだ読んでいない方は
ぜひ一読してみて下さい。
じゃあ、読もう。
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不倫相手に生まれた生後間もない赤ん坊を誘拐し、実の母として4歳まで育て上げた希和子の姿を通して、母性とはいかなるものかを問うた問題作。
2005年秋から2006年夏にかけて新聞に連載され、その後単行本化ののち、TVドラマ化映画化と歳月を重ねる毎に読まれつづけている作品である。
何故、それほどまでにこの作品が人気を集めたのか。
それは、単に母性の問題ではなく、生きていく意味を問いかけたものだったからのような気がする。
そのことは題名の「八日目の蟬」によくあらわされている。
作品の中で「八日目の蟬は、ほかの蟬には見られなかったものを見られるんだから、見たくないって思うかもしれないけど、でも、ぎゅっと目を閉じてなくちゃいけないほどにひどいものばかりでもないと思う」という文章があるが、警察に追い詰めれもさらに誘拐した子供と逃げたいと願う希和子は娘薫に「見られなかったもの」を見せようとしたのだ。
また、薫(本名は恵理菜で、本作の2章は成長した彼女が主人公となっている)が希和子と同じように不倫相手の子供を産むことを決める時にも、自分がみたものや見ないものも含めて「おなかにいるだれかに見せる義務がある」と感じるのも、まるで希和子の感情と同じだろう。
それは単に母性ではない。人には等しく「きれいなものぜんぶ」を見る権利がある。まさに生き方の問題だ。
常に前に前にと歩く生き方の問題だろう。
もちろん見方によっては希和子のした行為は肯定できない。彼女が罪を犯さなければ、恵理菜たち家族もまた違った生活を送っただろう。希和子は幼い子供にまったく違う世界を見せたが、ある意味、家族という世界を奪ったのも事実だ。
あるいは、成長した薫が父親のいない子供を産もうという決意も、実は正しくない選択なのかもしれない。
生きていくことに、これが正しいということはない。
生きていくということは常に何かをつかみながら、何かを捨て去っているということだ。
希和子という人生、薫のこれからの生き方がそれをしめしているような気がする。
(2012/05/15 投稿)

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05/14/2012 精選女性随筆集 第二巻 森茉莉・吉屋信子(小池 真理子選):書評「誰が一番したたかか」

今日紹介するのは
「精選女性随筆集」の2巻め。
今回は作家の小池真理子さんが選に
あたっています。
取り上げるのは
森茉莉と吉屋信子。
最近の人は
なかなかこの二人の作品を
読むことはないかもしれませんね。
私も名前はよく知っていますが
二人の作品に熱中したことは
残念ながら
ありません。
私よりもう少し年上の読者が
多いかも。
だから、この二人を選んだこと自体
小池真理子さんやるじゃないっていう
感じがします。
じゃあ、読もう。
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「精選女性随筆集」の第二巻めは、小池真理子さん選の「森茉莉/吉屋信子」集です。
この「精選女性随筆集」は川上弘美さんと小池真理子さんという二人の人気女性作家が選にあたっているのが一つの特長でもあります。二人がどのような女性作家を選んでいるのかも興味のわくところで、第一巻めの「幸田文」を川上弘美さんが選んでいるのは納得の一冊でした。
では、この巻はといえば、森茉莉と吉屋信子ではあまりにも極端な気がして仕方がありません。いわば、森茉莉は文豪森鷗外の娘という華やかな少女のイメージがあり、吉屋信子には少女小説に夢中のおとなしい少女のそれで、重なるところをあまり感じません。
小池真理子さんは巻頭のエッセイの表題を「二つの少女性」としていますが、森茉莉と吉屋信子の個性はまさにそれであり、同時に小池真理子さん自身がその少女の二面性に拘ってきた作家だともいえます。
王女様の気品、シンデレラの純朴。魔法使いがいなくとも、女性は常に二つの顔をもっているのではないでしょうか。
森茉莉は短編『薔薇くい姫』の中で幼少の頃父鷗外と暮らした当時の家の様子を語るのに自身の話にまったく話を聞いてもらえなかったことを恨むように書いていますが、本書に収録されている『幼い日々』を読むと、まるでその生活がどこまでも成長し続ける植物のように描かれ、読む者を圧倒させます。
この廊下はかつて通ったところ、この庭は先ほど垣間見たはず、鷗外はここにもいてそこにもいる。まるで縦横無尽に筆が走ります。こんな贅沢な文章にはなかなか出会えません。
後半の室生犀星、三島由紀夫、川端康成という三人の文豪への哀悼に文章も、どこかつんと突き放すようで、お嬢様然は森茉莉の個性といえます。
その一方で、吉屋信子の優等生ぶりはどうでしょう。
先輩作家岡本かの子、林芙美子、与謝野晶子に対するこのつつましさ。あるいは友人宇野千代を語る文章、いずれも前にでることなく、後ろにひかえた奥ゆかしさ。こういう女性はもてただろうと思いますが、吉屋信子は生涯独身を通しました。
そんな中、『馬と私』という競馬馬の馬主としてのエッセイは優等生がすこしいたずらをしているような感じさえします。それがまたかわいいのですが。
こんな二人を選んだ、小池真理子さんもしたたかな少女といえます。
(2012/05/14 投稿)

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05/13/2012 かあちゃんかいじゅう(内田 麟太郎/長谷川義史):書評「うちのかあちゃんはトラだ!」


母の日や大きな星がやや下位に 中村草田男
母の日に
何かしたいと思っても
その母もなく
それでも私の母はりっぱだったと
思うばかりです。
くよくよ思うのが大嫌い。
めそめそするのが大の苦手。
朝、
母と父の写真に向かうと
今の私に、それでも母は
「お前のことは心配してないから」と
いつか云ってくれたことを
また云ってくれそうで。
母はいつまでも
母のまま
ここにいます。
そんな母の日に
内田麟太郎さん文、長谷川義史さん絵の
『かあちゃんかいじゅう』を
紹介します。
じゃあ、読もう。
![]() | かあちゃんかいじゅう (2003/04) 内田 麟太郎 商品詳細を見る |


怪獣映画に行きたい、と、りゅうのすけくんはお母さんと交渉中。どうもりゅうのすけくんのお母さんはおうちで何やら仕事をしているようです。パソコンとにらめっこ。
お父さんは競馬新聞とにらめっこ。そのあとは、さっさとトンずらです。
だから、もうお母さんに押しの一手。おじいちゃんもおばあちゃんも味方につけて。
「つれてって!」
それでも、お母さんは、うんといいません。梃でも動かないというやつです。
よーし、そこでりゅうのすけくん、怪獣に扮してお母さんを驚かす作戦に。でも、どうみたって、この怪獣、ちょっと迫力がありません。
笑い転げるお母さん。ついに、怪獣映画につれていってくれることに。
翌朝、りゅうのすけくんが起きると、そこに、お母さんが昨日のりゅうのすけくんみたいに怪獣に扮して、「うわーっ。」。
なんとも微笑ましいよどがわ家(そうなんです、この絵本の登場人物にはみんなちゃんと名前がついているんです。ちなみに愉快なお母さんは、よどがわちえこさん)を、内田麟太郎さん文、長谷川義史さん絵がみごとに描いています。
この絵本のおかあさんを見ながら、二年前に亡くなった母のこと(偶然にも名前は同じチエ子でした)を思い出しました。
母は私が子供の頃、怪獣ではなく、トラに扮して驚かせてくれたものです。この絵本のお母さんのように、大きな顔で口をいっぱい開けて「ごおーっ。」って叫ぶのです。
あれは母なりの愛情だったのでしょうか。
怖いだけでちっとも好きになれなかったのに、亡くなったあと、ふと浮かんでくる母の姿がトラだなんて、ちょっと残念でもあります。
でも、絵本のお母さんのように家で仕事をしていた母にとって、子どもにしてあげれる、それが精いっぱいの時間だったのかもしれません。
おめかしをしてりゅうのすけくんと映画館にでかけた、ちえこお母さんの素敵なこと。
(2012/05/13 投稿)

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05/12/2012 「つなみ」の子どもたち(森 健):書評「伝えることの大切さ」

今日紹介するのは
森健さんの『「つなみ」の子どもたち』という本。
これは書評にも書きましたが
東日本大震災のあと
子どもたちが書いたその時の様子の作文が
もとになっています。
ここに登場する10の家族の姿に
あれから1年以上経った
時間の積み重なりを
ひしひしと感じます。
私たちが忘れていけないのは
まさにその時間そのものでしょう。
どんな人にも
等しく時間は過ぎていきます。
それをどう使うか
あるいは使えないという心の喪失もふくめて
それが生きているという
すべて。
ここにも
悲しみがあります。
じゃあ、読もう。
![]() | 「つなみ」の子どもたち (2011/12/07) 森 健 商品詳細を見る |


第43回大宅壮一ノンフィクション賞は、本書と本書のもとになった東日本大震災の被災地の子供たちの作文集『つなみ』が選ばれて話題を呼んだ。
選考委員の一人猪瀬直樹氏は「津波の怖さというものが大人では書けない文章で表現されている」と高く評価している。
受賞対象となった本書の誕生経緯は次のようなものだ。
2011年3月11日の東日本大震災のあと。ルポライターの森健氏は被災地をめぐり、その惨状をどう伝えるべきか悩んでいた。そんな時に出会ったのが吉村昭の『三陸海岸大津波』という一冊の文庫本だった。吉村の本に載っていた子供の作文に共感した森氏はその企画を文芸春秋にもっていく。そして、自身、被災地へ何度も足を運び、予想外の作文を書いてもらうことになる。
それが、同時受賞となった『つなみ・被災地のこども80人の作文集』だ。
作文を通じて知り合った被災地の人たち。森氏はそのあとも作文を書いた子供だけでなく、その家族にも取材をしていく。「地域や場所によって被害状況も異なるように、個々の被災者には個々の暮らしがあり、家族がある」、そのことに森氏は「取材者として心を惹かれた」という。
もちろん震災から半年以上経っての出版だから、この本に取り上げられている10の家族たちは被災地の復興のみならず、自分たち家族の再出発に懸命に立ち向かおうとしている。
しかし、当然そんな強い人ばかりではない。まだこの時点で気持ちを切り替えられない家族もいるし、作文を書いた子供たちにしてもこれから先どのようなストレスが待っているかもしれない。
被災という言葉を同じであっても、その人たちがもっている感情はそれぞれ違う。
前に向けないことを責めてはいけない。うつむくことも含めて、その人がその人であるという個性だ。
すべての人が頑張れる訳ではない。心が折れることは、被災の大小ではない。
もし、私たちにできるとすれば、そのことを真摯に受け止めることでしかない。
作文を書いた子供たちには、本書の10人めとして紹介されている昭和8年に起きた昭和の大津波のあと同じように作文を書いた牧野アイさんのように、たくましく強く、何度でも津波の恐ろしさを次の世代へと伝える語り部になってもらいたい。
(2012/05/12 投稿)

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05/11/2012 それでも三月は、また(谷川 俊太郎、多和田 葉子 他):書評「語る人たち」

また、あの日がやってきました。
2011年3月11日から
今日で14ヶ月になろうとしています。
原発の難しい問題こそあれ、
少しずつ被災地では復興が進んでいるのでは
ないでしょうか。
それとも、
ひと頃のような報道がされなくなったので
現実の姿が隠されているのでしょうか。
今日紹介するのは
『それでも三月は、また』という
あの日のことをさまざまな形で描いた
アンソロジーです。
書評の中では、
池澤夏樹さんの『美しい祖母の聖書』という作品を
取り上げていますが、
その他にも
角田光代さんの『ピース』、
村上龍さんの『ユーカリの小さな葉』などが
胸に残りました。
こうして、少しずつですが
これからもこのブログでは
あの日のことを記憶し続けたいと
思います。
じゃあ、読もう。
![]() | それでも三月は、また (2012/02/25) 谷川 俊太郎、多和田 葉子 他 商品詳細を見る |


2011年3月11日の東日本大震災からさまざま人がさまざまなところで発言をしてきました。もっとも寡黙だったのは、被災された人たちだったかもしれません。
黙して祈る。黙して土を運ぶ。黙して柱を立てる。復興の現場で被災された人たちはあの時からの時間を黙々と、しかも力強く、生活しています。
もちろん、黙することだけがすべてではありません。語ることで生まれるものもあります。少なくとも直接被災をしなかった人もなお、あの日のことを記憶にとどめるためには、語る人たちも必要なのです。
本書はあの日のことを詩や物語として語った、17人の詩人や作家たちの作品集です。
あの日、としてこれからも表現される日であっても、実はさまざまな場所であの日を迎えたのは事実です。きっとこの国の、人口の数だけの、あの日があります。
それを表現すれば、本書に収録されている作品がそうであるように、まったく違う世界が生まれます。しかし、根底にあるのは、間違いなく、あの日なのです。
川上弘美さんの『神様2011』や重松清さんの『おまじない』のように既読の作品もありますが、17の作品のうち10篇が本書のために書き下ろされたものです。
中でも、池澤夏樹さんの『美しい祖母の聖書』はイメージも豊かな、美しい作品です。
被災地で出会った一人の男。彼の語る、ささやかな人生。彼は被災地で被災したのではなく、長年離れていた故郷に、震災を契機にして戻ってきたのです。
彼の紆余曲折な人生の話を聞きながら、主人公はこう思います。「追い詰められて、どうにもならなくて、ただ座り込んで別の人生など考える力もなくぼさっと日を過ごすことだってある」と。
その彼が被災地で生きようとするのは、「海の中を漂う祖母の聖書」のイメージがあるからです。
人はどんなに悲嘆しても、その中で懸命に生きようとする。それを支えるのは、何らかの美しいイメージなのかもしれません。
人は、想像力によって、悲しみから立ち直れるのです。
本書の17人の詩人や作家たちが描いたのは、東日本大震災という大きな悲しみの中で、それでも生きようとする人々を支える、想像力なのではないかと、思います。
(2012/05/11 投稿)

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05/10/2012 歌集・蝉声(河野裕子):書評「河野裕子さんが聴いた八月の蝉」

今日紹介するのは
歌人河野裕子さんの最後の歌集
『蝉声』です。
河野裕子さんのことは
このブログでも何度か紹介してきました。
愛する夫、愛する家族を残して
亡くなった河野裕子さんの
思いを想うと
胸がはりさけそうになってきます。
残された者だけが悲しいのではない。
残していかなければならない者もまた
つらく悲しい。
しかし、河野裕子さんは
そんな人生で夫や家族に出会えたことを
どんなに喜んで逝ったことでしょう。
人が生きて
そして、別れる悲しみを
この歌集で思い知らされます。
じゃあ、読もう。
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人は誰だって死ぬ。それは動かしようのない事実です。
だから、どう死んだとてそれは同じことで、大事なのは、どう生きたかということ。
どんな世界で息をし、どんな人たちと出合い、どのように喜びまた悲しんだか、そういう誕生から死にいたるまでの日々、すべてがかけがえのない時間であれば、それを大事にしないでどうなるというのでしょう。
本書は2010年8月に亡くなった歌人河野裕子さんの最終歌集です。
癌の再発という辛い病床で、「子規の時代にこんなケアがあつたなら子規をあはれにはるかに恃む」という歌のように病床六尺で生きた正岡子規に想いを馳せつつ、筆力が弱まる手で歌を詠み、最後には家族の口述筆記をうけながらも、河野さんは最後まで歌人であり続けました。
河野さんの歌の素晴らしさは、歌人でありつつ妻であり母であったことでしょう。どちらが前とか後ろとかでなく、河野さんはみごとにそれらを一体とした人だったといえます。
最後の方でこんな歌があります。
「さみしくてあたたかかりきこの世にて会ひ得しことを幸せと思ふ」。
河野さんがこの世界で出会ったのは、夫であり家族でした。そのことを死の間際に「幸せ」とあらためて思う。それは河野さんの「幸せ」であり、そんな妻、母をもった人たちの「幸せ」でしょう。
そして、歌を通じて愛する人への思い、家族への愛を感じることができる私たち読者の「幸せ」というほかありません。
人を愛することができたなら、その日々を生きることができたなら、どんなに「幸せ」でしょうか。
河野さんの歌は、私たちにそのことを教えてくれます。
河野さんの最後の歌、「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」こそ慟哭の一首といっていいでしょうが、それでもそれは美しい悲しみであり、吐息のでるような愛の姿です。
河野さんが聴いた八月の蟬の声から、もうすぐ二年が経とうとしています。
(2012/05/10 投稿)

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05/09/2012 ★ほんのニュース★ 『かいじゅうたちのいるところ』作者死去

小さな記事でしたから、
見落とした人もいるのでは。


米の絵本作家モーリス・センダックさんが8日亡くなられたという
記事です。

センダックさんの『かいじゅうたちのいるところ』の
書評を書いたばかりでしたから
びっくりしました。


とあります。
63年に出版された『かいじゅうたちのいるところ』は
世界中で約2千万部売れたそうです。
ご冥福をお祈りします。

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新潮文庫版の
「薫くん」シリーズの2作目です。
庄司薫さんの『白鳥の歌なんか聞えない』。
この作品では薫くんの幼馴染
下条由美さんがめちゃかわいいんですね。
こんな彼女がいたら、
どんなにいいだろうと
若い頃思ったことがあります。
ところで、
映画版の『赤頭巾ちゃん気をつけて』の
由美役は森和代さんという女優でした。
ちょっとコケティッシュなイメージが
とってもハマリ役でした。
ところが、この『白鳥の歌なんか聞えない』では
本田みちこさんという女優さんに
変わりました。
かわいいのはかわいいのですが
少し小悪魔的な由美ちゃんとは
ちがいました。
私は
もちろん、森和代さんの由美ちゃんが好き。
じゃあ、読もう。
![]() | 白鳥の歌なんか聞えない (新潮文庫) (2012/03/28) 庄司 薫 商品詳細を見る |


文庫本にあのカバーは必要だろうか、そういうことが一時問題になったことがある。特に岩波文庫までがカバーをつけた時、一部愛好家の間では議論百出したものだ。
私は嫌いではない。新潮文庫の、例えば三島由紀夫であったりカフカであったり、今はだいぶ変わっていてあまり好きではないが、あのカバーで揃えたいという思いがないわけではなかった。
それとあの栞の紐。正式にはスピンというらしいが、あれもついているのが好きだ。
今では新潮文庫ぐらいではないかしら。あとはほとんど紙の栞。あれはいただけない。特にそれに広告が載っていると最悪。
さらには、解説文。
あれから読み始める人もいるようだが、あれも見方によっては、蛇足も甚だしい時もあるし、解説文にしては惜しいというくらいの読み応え十分なものもある。
長々と書いてきたが、庄司薫さんの「薫くんシリーズ」の二作目『白鳥の歌なんか聞えない』が新潮文庫から出た。
まず、カバーの件であるが、カバー装画の長崎訓子さんには申し訳ないが、やはり単行本の際のイメージが良すぎて、このカバーがこの作品に合っているかといえば、うーむと言わざるをえない。
それくらい、「薫くん」ファンはしぶとい。
つぎに、スピンのことだが、これはやっぱりある方がいい。
だけれども、中央公論社の姿勢としてスピンをつけないというポリシーがあったように思う。「薫くん」シリーズはどんなにどうなっても、やはり中央公論社の本で読みたい。
それくらい、「薫くん」ファンはしぶとい。
最後に、解説文のことであるが、この作品では漫画家の柴門ふみさんが担当しているが、これがめっぽういい。さすが「筋金入りの庄司薫ファン」だけある。
柴門さんの解説は単独でも十分読ませる力があって、「七〇年代の少年少女には<知>に対する圧倒的憧憬が、あった」といった文章は、この当時の文学事情および「薫君シリーズ」の人気ぶりを見事に言い当てたものとして印象深い。
特にこの『白鳥の歌なんか聞えない』はその傾向が強い。
それにしても、このシリーズの由美ちゃんのかわいさといったら、ない。
こんな幼馴染がいたら、薫君でもなくても、死ぬまで用心棒として働きたくなる。
逢いたいなぁ、「あわや半世紀」のちの由美ちゃんに。
(2012/05/09 投稿)

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05/08/2012 松浦弥太郎の新しいお金術(松浦 弥太郎):書評「お金さん、元気かな?」

あの松浦弥太郎さんが
「お金」の本を出したというので
興味深々で読んだのですが、
結果的にいって
うーむ、
これではお金は増えないなぁと
思います。
まあ、お金を大事にしないとは
思いましたが。
でも、この『松浦弥太郎の新しいお金術』の
絵を担当している
ポール・コックスさんのイラストには
少々しびれました。
昔風に書けば、
イカスッ! でしょうか。
黄色い円(これはお金の象徴?)を使いながら
さまざまなイラストが展開されていきます。
このイラストを見るだけで
結構幸福になれますよ。
じゃあ、読もう。
![]() | 松浦弥太郎の新しいお金術 (2012/03/05) 松浦 弥太郎 商品詳細を見る |


まさかこの本に「貯蓄術」とか「節約術」といったものを期待してはいませんよね。
何しろ書いたのは、「暮しの手帖」編集長であり書店店主の松浦弥太郎さんですよ。松浦さんがそんな「お金」の本を書くと思います?
では、松浦さんが書く「お金術」ってどんな手法かというと、その第一歩が「お金」のことを「お金さん」と呼ぼう、ですから、さすが、というか、ええーっというか、もうその時点でこれは巷で出回っているような「お金」の本ではないことに気づかされます。
そもそも「お金」のことを「お金さん」と呼べますか?
かつてのTVドラマで「同情するなら金をくれー!」という流行語がありましたが、ここでは「お金」ではなく、「金(かね)」。
それぐらいドロドロした世界の「お金」をさん付けで呼ぶなんて。つい、往年の曲、「♪涙くん、さよなら」みたいに、「お金さん」さよなら、なんてならなければいいのですが。
次に松浦さんが提唱? するのは、「自分株式会社」の設立と経営。これは「お金術」としてはまっとう。
家計簿をつけている人がどれだけいるかはわかりませんが、自分という会社を経営するなら、いったいこの「お金さん」は「投資」なのか「費用」なのか、はたまた「使途不明金」なのかはわかった上で使わないと。
他人の「お金」ならともかく、自分の「お金さん」なのですから、従業員を労わるように大切に働いてもらわないといけません。
そういうお話は続くのですが、考えてみればこの本は「お金さん」との友情物語といっていい。
最後に松浦さんはこんなことを書いています。
すなわち、「お金は友だちだけれど、万能でもなく、正義の味方でもないこと。僕は改めてお金の大切さと、お金より大切なものについて思いを巡らせました」と。
友情を知って、初めて相手の存在感を感じるということでしょうか。
夕焼けの海に向かって、投げ入れるのは石ころにしてくださいね。まちがっても、「お金さん」は投げないように。
(2012/05/08 投稿)

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05/07/2012 「忘れる」力(外山 滋比古):書評「時には本をふせて」

大型連休が終わって
それでもにっちもさっちもいかなくて
困ったものです。
本にはとっても大きな力が
あって
いつもどれだけ助けてもらっているか
わからないのですが
今日紹介する
外山滋比古さんの『「忘れる」力』に書かれているように
まったく本に頼るのも
よくないのかもしれませんね。
本をふせて
目をあげたら
ほうら、緑の木々が
たくさんではないですか。
じゃあ、読もう。
![]() | 「忘れる」力 (2012/02/01) 外山 滋比古 商品詳細を見る |


本書は、『思考の整理学』が大ヒットとなった外山滋比古さんの、2010年から11年にかけて発表された創造に関するエッセイ「創るチカラ」と日本語の特長について考える「ことばの旅」、そして本書のための書き下ろし「あたまの散歩道」の三篇、いずれも短いエッセイの集積だが、を収めている。
冒頭に収録されているエッセイ(「作る・つくる・創る」)の中に「自分自身、ずっと本を読むことを中心に生きてきて、ずいぶん人間らしさを失っている」という表現があって、頭を一撃された。
本を読もうとしたのっけからこれであるから、きつい。
しかも、結構思うところもあり、外山さんの説に真っ向から反対できない。
さらに「だいたい本を読むというのは、ひとの考えたことを、書いたものをたどって頭に入れるにすぎない」と手厳しい。
読書によって、ある意味、自身の思考の成り立ちができたと思っている人間にとっては痛いところを衝かれた気分である。
読書で「人間らしさ」を学んできたと思ってきたが、実際には文字に書かれた「人間らしさ」でしかなく、所詮は呼吸をし、体温をもち、ああといえばこうといい、喜怒哀楽も制御できない生身の人間とは程遠い「人間らしさ」をそれと信じてきたのではないかとうなだれる。
書を捨てて町にでも出たなら、もっと今とは違う生き方をできたのではないか。
しかし、今さら書は捨てられない。
読書の功罪について書く外山さんだが、「あたまの散歩道」という書き下ろしの中で、こんなことを書いている。
「考えあぐね、書きあぐねているとき、三十分もあたりを歩いてくると、気分一新」するのだという。つまり、外山さんは書を捨てよとはいっていない。
書を時には伏せて、歩いてみては、と説いている。
あるいは、「又寝考」というエッセイの中では、又寝(昼寝の一種と考えていい)を薦めている。目覚めのあと、頭がすっきりするということを書いている。
これも書を捨てよではなく、又寝の時は書を伏せよということだろう。
つまりは、頭の中がいっぱいになる状態をやめなさいという。
本書の書名にもなっている「忘れる」力も、そういうことだ。
そして、それはある意味、時には、本を伏せよといっているといっていいのではないだろうか、と思い知らされる。
(2012/05/07 投稿)

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今日で連休もおしまい。
明日からまた学校や会社。
いやだな、って思っている人
たくさんいるんじゃないかな。
私もその一人。
果たして会社に行くこと、
できるのかって。
こんなおじさんが悩むのですから
子供たちが行きたくないっていうのも
わかりますよね。
まあ、今日一日で
どう気分を変えれるか。
まったくこの世は、
やれやれ、
ですね。
今日紹介する絵本は
デイヴィッド ルーカスという人が書いた
『みつけたね、ちびくまくん!』。
皆さんは
この連休で何をみつけました?
でも、知ってますか?
何も見つけなくっても
ちっとも構わないんですよ。
じゃあ、読もう。
![]() | みつけたね、ちびくまくん! (2009/10) デイヴィッド ルーカス 商品詳細を見る |


本を読む時はいつもゴキゲンというわけではない。
時にはフサギ虫に全身を噛まれていたりする。もううるさいったらありゃしない、なんてその虫を払うこともできない時にも、本を読む。
そういう時にやってきた本はかわいそうだと思わないでもないが、こちらはなんとかその虫を追い払いたいから本を開くわけで、本になんとか人命救助をお願いしたい気持ちだ、大げさだけど。。
この絵本、なんとかなく、助けてくれるんじゃないかという期待感? が、表紙に漂っている。
こういう素朴な線がいい。それに題名だって、「ちびくまくん」が何を「みつけた」のか、気になってくる。
ぶんぶん飛んでいるフサギ虫の攻撃をかわそうと、ページを開く。主人公の「ちびくまくん」が、「なあーんにも することが ないや」って座っている。
なんだ、「ちびくまくん」だって、タイクツ虫に襲われているじゃないか。
おとうさんくまとお散歩にでても、「やっぱり なんにも ない」。
でも、ふたりは、くまだから二頭というべきだろうか、道端で一本の棒を見つける。彼らが見つけたのは、どんな 宝物でもなくて、たった一本の棒。
それを、「ぽきん」と折って、互いに一本ずつ。
二頭は、この棒で、まず、地面に線をかく。つまり、二本の線。
それが、いつのまにかはしごになって。
それを、空へと立てかかる。
今度は、空にお舟のような月をかいて、次には空いっぱいに星をかいて。
いつのまにか、「ちびくまくん」のタイクツ虫はどこかにいっちゃった。
二頭がかいた、星いっぱいの空から、おうちが小さくみえる。どこかでみたことがあるような、なつかしい匂いのするおうちだ。
「とんとん!」ってノックすると、なかから、なーんだ、おかあさんくまがでてきた。
そして、こういうのだ。
「なにか たのしいこと、みつかった?」って。
本は、「ちびくまくん」がみつけた、一本の棒みたいなところがあって、そのページから色々なものがあふれだしてくる。うれしさだとか、悲しみだとか、くやしさだとか、奮い立つ気持ちとか。
そして、最後にきっと、こういうのだ。
「なにか たのしいこと、みつかった?」って。
(2012/05/06 投稿)

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