01/16/2014 号泣する準備はできていた(江國 香織):書評「江國香織は天才である」
書評こぼれ話
さあ、いよいよ今夜
芥川賞・直木賞の発表ですね。
まあ150回という節目の回ですから
「受賞作なし」はないでしょうね。
うまくいけば
芥川賞・直木賞ともに
W受賞ということもありますね。
文藝春秋も
力の入り方が違いますからね。
私は元々純文学派でしたから
直木賞にはあまり興味が
ありませんでした。
最近は直木賞の方が
楽しみになってきました。
純文学と大衆文学の壁が
なくなってきたからでしょうか。
今日は過去の直木賞の受賞作から
江國香織さんの『号泣する準備はできていた』を
受賞した年の2004年の蔵出し書評で
紹介します。
じゃあ、読もう。
江國香織は天才である
第130回直木賞受賞作。(2004年)
福田和也氏の「悪の読書術」によれば「江國香織は天才である」らしい。
福田氏は江國香織の凄みについて「比類のない文章上の技巧、意識の確かさと、古来天才の症例分析でよく語られる境界症例的な精神の危うさが同居している」と表現している(ちなみに境界症例とは精神科の用語のようで、精神分裂病と神経症の境界という意味で使われているようだ)。
その上で、江國香織の才能が男性にはわかりにくく、彼女の才能を感じるのは男性としてやや過敏であるかもしれないとしている。
そういわれても、私はかなり江國香織が好きである。
この「号泣する準備はできていた」という短編集も上質な作品でできている。
物語の流れ、文章のうまさ、余韻の残る読後感、いずれをとってもうまいというしかない。まさに油が乗り切った円熟味を感じる。
喩えていうなら、少女の持つはちきれんばかりの明るさはなくなったが、しっとりとした静謐に満ちた女性のような文章である。
化粧の濃さや香水の匂いさえも自分自身の一部にしてしまった女性の魅力である。しかも、そんな女性こそがもちうる不安感を描いたのがこの十二篇の物語だ。
行きつけのスナックで日常生活から少しだけ離れた場所で会話を楽しむ四人の男女を描いた「どこでもない場所」という作品では日常生活こそが「昔々の旅先の恋みたいな、遠い、架空の出来事」と主人公の「私」は「幾つもの物語とそこからこぼれたものたちを思いつつ」陽気になっている。
しかし、その陽気さこそが危うい悲しさをともなっていることを読者は実感する。
また、満たされた主婦のなにげないデパートの買い物風景を描いた「こまつま」では、昼下がりのデパートという幸福感の中でいながら、主人公は倦怠感から抜け出せない。「保護した記憶はつねに曖昧に輪郭をぼかし、保護された記憶ばかりが、つねにしみつく」と主人公は、少女の頃を慈しむ。
江國は「あとがき」の中で、この本は「かつてあった物たちと、そのあともあり続けなければならない物たちの、短編集になっているといいです」と書いているが、十二篇の短編のいずれもが喪失をはらみながらも継続していく日常を描いている。
それは江國自身の、現在の居場所かもしれないし、美しさの絶頂にある女性がもつ不安そのものだともいえる。そして、そのような日常生活をさらりと表現してしまう江國香織は、やはり天才なのかもしれない。
(2004/01/07 投稿)
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最近は直木賞の方が
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江國香織さんの『号泣する準備はできていた』を
受賞した年の2004年の蔵出し書評で
紹介します。
じゃあ、読もう。
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江國香織は天才である
第130回直木賞受賞作。(2004年)
福田和也氏の「悪の読書術」によれば「江國香織は天才である」らしい。
福田氏は江國香織の凄みについて「比類のない文章上の技巧、意識の確かさと、古来天才の症例分析でよく語られる境界症例的な精神の危うさが同居している」と表現している(ちなみに境界症例とは精神科の用語のようで、精神分裂病と神経症の境界という意味で使われているようだ)。
その上で、江國香織の才能が男性にはわかりにくく、彼女の才能を感じるのは男性としてやや過敏であるかもしれないとしている。
そういわれても、私はかなり江國香織が好きである。
この「号泣する準備はできていた」という短編集も上質な作品でできている。
物語の流れ、文章のうまさ、余韻の残る読後感、いずれをとってもうまいというしかない。まさに油が乗り切った円熟味を感じる。
喩えていうなら、少女の持つはちきれんばかりの明るさはなくなったが、しっとりとした静謐に満ちた女性のような文章である。
化粧の濃さや香水の匂いさえも自分自身の一部にしてしまった女性の魅力である。しかも、そんな女性こそがもちうる不安感を描いたのがこの十二篇の物語だ。
行きつけのスナックで日常生活から少しだけ離れた場所で会話を楽しむ四人の男女を描いた「どこでもない場所」という作品では日常生活こそが「昔々の旅先の恋みたいな、遠い、架空の出来事」と主人公の「私」は「幾つもの物語とそこからこぼれたものたちを思いつつ」陽気になっている。
しかし、その陽気さこそが危うい悲しさをともなっていることを読者は実感する。
また、満たされた主婦のなにげないデパートの買い物風景を描いた「こまつま」では、昼下がりのデパートという幸福感の中でいながら、主人公は倦怠感から抜け出せない。「保護した記憶はつねに曖昧に輪郭をぼかし、保護された記憶ばかりが、つねにしみつく」と主人公は、少女の頃を慈しむ。
江國は「あとがき」の中で、この本は「かつてあった物たちと、そのあともあり続けなければならない物たちの、短編集になっているといいです」と書いているが、十二篇の短編のいずれもが喪失をはらみながらも継続していく日常を描いている。
それは江國自身の、現在の居場所かもしれないし、美しさの絶頂にある女性がもつ不安そのものだともいえる。そして、そのような日常生活をさらりと表現してしまう江國香織は、やはり天才なのかもしれない。
(2004/01/07 投稿)
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