02/06/2014 街道をついてゆく 司馬遼太郎番の6年間(村井 重俊):書評「「記憶」としての司馬遼太郎」

昨日和田宏さんの『余談ばっかり』という
本を紹介しましたが
もう一冊司馬遼太郎さんの担当編集者だった人の本を
蔵出し書評で紹介します。
村井重俊さんの『街道をついてゆく 司馬遼太郎番の6年間』。
昨日の和田宏さんが文藝春秋の編集者、
今日の村井重俊さんは週刊朝日の編集者です。
週刊朝日といえば
司馬遼太郎さんが晩年力を注いた
紀行文『街道をゆく』の連載誌です。
とにかくすごいボリュームのシリーズです。
司馬遼太郎さんの小説もいいけれど
私は『街道をゆく』に深く打たれたました。
もう一度読みたい本のリストには
はいっているのですが、
読むのもなかなか体力がいります。
いつか、紹介できればいいのですが。
じゃあ、読もう。
![]() | 街道をついてゆく 司馬遼太郎番の6年間 (2008/06/20) 村井 重俊 商品詳細を見る |

以前たわむれにこんな俳句を作ったことがある。
「菜の花忌 三歩離れて 従(つ)いていく」(2000年2月)。
俳句の季語の中には文人の忌日もあり、太宰治の桜桃忌(夏の季語)や芥川龍之介の河童忌(夏の季語)といったものが使われている。
「菜の花忌」というのは司馬遼太郎の命日につけられた名称で、最近の歳時記に採りあげられているかどうかわからないが、当時どうしてもこれを季語として作句をしたいと思った。
忌日にいいわるいという言い方もおかしいが、司馬サンらしい清々しいいい名がついたものだ。
中句以降は<三歩下がって師の影を踏まず>という言い回しを、「気分」のようにして詠んだのだが、私にとって司馬遼太郎は多くの著作を通じての師ということになる。
本書の著者である村井重俊氏にとっては朝日新聞社の記者として副題にもあるように「司馬遼太郎番」として6年間司馬サンと一緒だった訳だから、従(つ)いていくというのは、私のように「気分」ではなく、実際その言葉通りであった。
村井氏が司馬さんとともに『街道をゆく』の旅の同行を始めたのが、村井氏が三十一歳の時で、まだ気鋭の記者だったろうと思われる。
その時司馬さんは六十六歳。
今から思えば、早すぎる晩年の頃だ。
年の差は三十五歳ある。
そういう若い人に司馬さんのような大作家の担当をまかすのか、と些か驚きもしたし、朝日新聞社の懐の深さというのも感じた。
本書の中の口絵に「東京の夜」と題された一枚の写真があるが、食事にくつろぐ司馬さんの横で若い村井氏は両膝を抱え、大作家のそばにいるとも思えない太々(ふてぶて)しい表情をしているのがおかしくもある。若いということはそういう力をいうのかもしれないと、楽しくなる写真だ。
司馬遼太郎という作家はその生涯において大変多くの作品を残した。
ひそかにそれを<司馬山脈>と呼んでいて、そのすべてを踏破できるのかと目が眩む思いがすることがある。
『街道をゆく』はもちろんその<司馬山脈>の中でも長々とつながる一大山塊である。
著者が司馬サンと歩いたのは「本所深川散歩・神田界隈」が最初で、最終巻の「濃尾参州記」までを担当した勘定になる。
その間に長年『街道をゆく』の挿絵を担当していた須田剋太が亡くなったのを初めとして、最後には司馬さんという書き手まで失うのであるから村井氏の苦労は本書でも書ききれていないかもしれない。
あるいはその苦労を補ってもあまりある喜びのようなものが「司馬遼太郎番」としての著者にはあったにちがいない。
『街道をゆく』の中でどの巻が好きかというのは意見が分かれるところだと思うが、私の場合著者の村井氏が同行した巻に多くある。
漱石と明治を描いた「本郷界隈」もいいし、時の李総統との対談を収めた「台湾紀行」も捨てがたい。
中でも「北のまほろば」が最高にいい。
このタイトルに接するたびに、司馬さんの北に対する優しい思いや古代に対する夢のような思いが沸沸としてくる。
そのタイトルがどのようにしてできたのか、例えばそのような挿話の一つひとつが、著者の<今>を、そして私たちの読書の幅を広げていくだろう。
本書には「気分」ではなく、「記憶」としての司馬遼太郎がいる。
(2008/07/21 投稿)

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