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プレゼント 書評こぼれ話

  イラストレーターの安西水丸さんが
  3月19日に亡くなった。
  正直びっくりした。
  安西水丸さんといえば
  村上春樹さんとのコンビで
  多くの作品を残している。
  その中でも有名な『村上朝日堂』を
  いそいで読み返したのだが、
  私が持っている新潮文庫版
  1987年(昭和62年)の発行になっている。
  私が32歳の頃に
  夢中で読んだ一冊だ。
  思えば
  読者として長いつきあいになる。
  今日の書評にも書いているが
  それ以前では
  「オレンジページ」に載った
  干刈あがたさんの作品の
  安西水丸さんのイラストが
  とてもよかった。
  書評に書いたように
  本当にそこだけ切り取っていたのだが
  どこにいってしまったのかな。
  それくらい
  大好きなイラストレーターだった。

  ご冥福を心から
  お祈りします。

  じゃあ、読もう。

村上朝日堂 (新潮文庫)村上朝日堂 (新潮文庫)
(1987/02/27)
村上 春樹、安西 水丸 他

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sai.wingpen  追悼・安西水丸さん - あなたのイラストが好きでした                   

 あまりにも突然の訃報に驚いた。
 イラストレーターの安西水丸さんが3月19日に亡くなったのだ。71歳だった。
 安西水丸さんといえば、村上春樹さんのたくさんのエッセイ、例えばこの『村上朝日堂』もそう、のさし絵を担当している。新聞等の追悼記事でもそのことが多く書かれていた。
 新潮文庫版の『村上朝日堂』の表紙では、安西さんのイラストがたくさんあしらわれているから、安西さんの作品を楽しめるし、この本では安西さんが子ども時代を過ごした千葉県の最南端にある千倉という町のことを村上春樹さんと存分に語った楽しい企画もついている。
 この二人、よほど相性がよかったのだろう。

 安西水丸さんのことを知ったのは、村上春樹さんとのエッセイシリーズよりも前だったと思うが、「オレンジページ」に干刈あがたさん(懐かしい!)の短編小説につけられていたイラストが初めてだった。
 1985年頃だ。
 とにかくそのイラストが素敵で、そのページだけ切り取っていたことがある。
 『村上朝日堂』のさし絵は遊び心満載だが、安西さんの作品ではそちらの系統の方が好きだ。
 ちょうど静物画のような趣きが、いい。
 村上春樹さんとの関係でいえば、『中国行きのスロウ・ボード』(中公文庫)の装丁がそうで、この短編集は村上さんの作品の中でも好きな方だが、その理由のひとつは安西さんの装丁といってもいい。
 村上春樹さんの共著でいえば、『象工場のハッピーエンド』が、そちら系の作品で構成されているし、こちらにはこれも二人の対談「画家と作家のハッピーエンド」が収められている。

 あまり表にでなくなった村上春樹さんですから、もしかしたら写真よりも安西さんの描いた村上さんの絵の方が有名かもしれません。この『村上朝日堂』にも安西さん描く村上さんがたくさん登場する。
 そんな村上さんとの相性を安西さんは以前こんな風に語っている。
「村上さんの持っている空気感みたいなものが、もしかしたら僕の絵にあるのかなぁと思うんです」(「ユリイカ」1989年6月臨時増刊)。
 それは村上さんから見た安西さんで、逆をかえせば安西さんの持っている空気感が村上さんの文にあったのだともいえる。
 それにしても、安西水丸さんが亡くなったのは、さびしい。
  
(2014/03/31 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  2月28日になくなった
  まど・みちおさんの詩に
  「一年生になったら」という有名な詩が
  あります。

   一年生になったら
   一年生になったら
   ともだち100人 できるかな
   100人で 食べたいな
   富士山の上で おにぎりを
   パックン パックン パックンと

  山本直純さんが作曲して
  皆さんも歌ったことがあるのでは
  ないでしょうか。
  小学一年生は
  やっぱりとっても印象に残る
  出来事なんでしょうね。
  もうすぐ入学式。
  きっとピカピカの一年生になる
  子どもたちは
  今日の日曜日を
  どんな思いで過ごしているのかな。
  今日紹介するのは
  ふくだいわおさんの『ぼくは一ねんせいだぞ!』です。
  最後の「だぞ!」が
  いいですよね。

  じゃあ、読もう。

ぼくは一ねんせいだぞ!ぼくは一ねんせいだぞ!
(2009/02)
福田 岩緒

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sai.wingpen  ランドセルの思い出                   

 誰にもランドセルの思い出があるのではないでしょうか。
 私にもあります。
 私のランドセルは母親のおとうさん、私のおじいさんが買ってくれました。遠い田舎から自転車で運んでくれたのですが、途中で転んだと聞きました。
 でも、ランドセルは傷ひとつなかったと思います。
 そんなおじいさんの思い出がつまったランドセルに、いつのまにか給食のパンだとかひどい点のテストとかが押し込まれていきました。
 ごめんね、おじいちゃん。

 この作品の主人公けんちゃんはおばあちゃんから届いた「カラスよりも まくろくろのランドセル」がうれしくて、おもてに飛び出します。
 仲良しのゆうこちゃんに会っても、「ぼくは 一ねんせいだぞ!」と、背中にせおったランドセルを自慢げに見せます。
 けんちゃんにとって、一年生はとってもえらいのです。
 公園に会う人ひとにも、ランドセルを背負ったけんちゃんは、つよがって歩きます。
 ところが、かわいい犬のペロとの遊びに夢中になって、大事なランドセルをなくしてしまいます。
 さあ、大変。
 「かおいっぱいに くちを あけて なきだし」たけんちゃん。
 大事な大事なけんちゃんのランドセル。まだ学校に持っていったこともない、新しいランドセル。
 けんちゃんのランドセルは見つかるのでしょうか。

 ランドセルは学校の教科書とか文房具をいれるだけではありません。
 一年生になった勲章みたいなものだし、それから何年もいつもそばにいる友だちみたいな存在。
 いつのまにか傷がつき、汚れてもいきます。
 ピカピカの光は消えていくでしょう。
 でも、けんちゃんがそうであったように、たくさんの人がピカピカのランドセルを背負った一年生を応援してくれています。
 がんばれよ、まけるなよ、って。

 大人になると、もちろんランドセルを背負いません。
 それでも、新しい生活が始まった時、私たちは見えないピカピカのランドセルを背負っているのではないでしょうか。
 ランドセルをせおったけんちゃんに、たくさんの人が拍手をしたように、新しい生活を始めた人にもたくさんの拍手がおくられているような気がします。
  
(2014/03/30 投稿)

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  今日は、昨日のつづき。
  手塚治虫さんの「火の鳥
  角川文庫版の12巻め「太陽編(下)」です。
  この「太陽編」は
  「火の鳥」シリーズでも
  もっとも長い作品ですので
  角川文庫版では
  三冊にわかれています。
  本当はまとめてどかーんと
  書評を書いた方がいいのかもしれませんが
  三冊に分かれているので
  三回に分けました。
  でも、できるだけ
  関連するように書いたつもりですが
  やはりちょっと苦しかったですね。
  それに
  「太陽編」そのものが複雑すぎて
  なかなか手ごわかったです。
  残るは、あと1巻。
  どんな作品か
  楽しみです。

  じゃあ、読もう。

火の鳥 (12) (角川文庫)火の鳥 (12) (角川文庫)
(1992/12)
手塚 治虫

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sai.wingpen  「火の鳥」は愛も描いてきた                   

 手塚治虫のライフワーク「火の鳥」は、生命の問題を描いているが、そこではさまざまな男女の愛もテーマになっている。
 「復活編」ではロボットのチヒロとの愛、「乱世編」では幼馴染だった弁太とおぶうの愛といったように、作品の核をなしているともいえる。
 このシリーズで最も長い作品である「太陽編」でも、愛は重要なテーマだ。
 「太陽編」が複雑な構造となっていることはすでに書いた。
 作品の舞台が仏教伝来の6世紀の頃と、2001年の未来? であることも、書いた。
 この二つの物語がひとつにつながるのが、愛なのだ。
 それが、この角川文庫版12巻めの「太陽編(下)」で明らかになる。

 唐軍によって狼の顔となった若者ハリマは仏教の勢力と戦う狗族など産土神たちとともに戦いの渦中に巻き込まれる。
 ハリマを助けるのが、狗族の娘マリモ。彼女はハリマに恋心を寄せている。
 狼の顔をもったハリマもまたマリモを愛しているのだが、戦いの中で、顔を傷つけられてハリマは狼の顔から人間の顔に戻ることができるという幸運をつかむことになる。
 けれど、狼の顔を失うことで、ハリマから妖力が消え、彼には狗族の姿が見えなくなる。
 ハリマはマリモとの愛をなくしてしまうのだ。
 嘆き悲しむマリモはこの時より千年後、ハリマの生まれかわりとまた出合うという。
 それが、「太陽編」のもうひとつの舞台2001年のスグル少年なのだ。

 2001年の物語で「光」一族のご神体「火の鳥」が偽物だったことを知った地下組織「影」は反撃を開始する。
 その戦いの中で傷つき、狼人間と変身したスグルは、死なない娘ヨドミと出合う。
 ヨドミこそ、狗族の娘マリモの生まれかわりだった。
 こうして、二つの愛が2001年の未来? に成就する。
 そんな二人の頭上に光が近づく。「ごらん 火の鳥だ」。
 火の鳥に導かれて、二人は狗族の世界に旅立っていく。
 これが、「火の鳥」最後の作品となった「太陽編」のラストシーン。
 このあと、手塚治虫は「火の鳥」を描くことはなかった。

 ただし、手塚治虫には次の作品「大地編」の構想があったともいう。
 それがどんな作品になったのか、手塚がいなくなってしまった今、誰も知らない。
  
(2014/03/29 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今日は、昨日のつづき。
  手塚治虫さんの「火の鳥
  角川文庫版
  11巻めにあたる「太陽編(中)」を
  紹介します。
  この作品が
  角川書店の「野性時代」という雑誌に
  掲載されていたのは
  昨日の書評にも書きましたが、
  私は知りませんでした。
  「野性時代」が創刊されたのは
  1974年で
  B5判の大きな雑誌でした。
  当時角川書店
  映画とかのタイアップ企画が大成功して
  何かと話題のある雑誌だった印象が
  あります。
  私が19歳の頃です。
  この雑誌はその後紆余曲折があって
  今は「小説野性時代」として
  残っているようです。
  今日は、まったく余談でしたね。
  明日は「太陽編(下)」を
  紹介します。

  じゃあ、読もう。

火の鳥 (11) (角川文庫)火の鳥 (11) (角川文庫)
(1992/12)
手塚 治虫

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sai.wingpen  「太陽編」に描かれる二つの世界                   

 角川文庫版で10巻めにあたる「太陽編(上)」の書評の中で、「この「太陽編」は複雑な構造でできあがっている」と書いた。
 そして、狼の顔をつけられた若者ハリマの意識の中に「入り込む現代風の若者の姿」とも書いた。
 「火の鳥」シリーズで最も長い作品となった「太陽編」の舞台は、日本に仏教伝来があった6世紀だけでなく、2001年の未来(この「太陽編」が雑誌「野性時代」に連載されたのが1986年だから、それほど遠い未来ではない)もまたそうだ。
 さらには、角川文庫版の3巻めに収録されている「異形編」とつながる描写もあったりする。
 ここでは、「太陽編」のもうひとつの舞台である2001年の未来? の物語について書いておく。

 不思議なのは、1986年当時の手塚が2001年というまもなく訪れる未来を、火の鳥を崇拝する宗教に支配され、それを良しとしない人々を地下に追いやるという暗い世界として想像したことだ。
 1986年であれば、当時の科学水準がどのようなものかは手塚もわかっていたはずだ。
 1951年に「アトム大使」を描いたのとは状況がちがう。
 けれど、手塚は2001年の日本の未来を宗教によって二分される世界として描いた。
 これは推測だが、手塚は時代設定を誤ったのではないか。

 先を急ごう。
 そんな2001年、地下の組織「影」から一人の少年スグルが地上の「光」一族がご神体と崇める「火の鳥」の正体をあばこうと地上に向かう。
 「火の鳥」は1999年に惑星探査船の搭乗員であった大友が宇宙で遭遇し、捕獲したのだという。
 しかし、スグルが手にしたのは「火の鳥」の模型だった。
 「火の鳥」は本当に存在するのか。
 不老不死は本当にあるのか。
 「光」の手に落ちたスグルに待ち受けていたのは、洗脳という仕置き。しかも、そこでは狼の面を被せられる。
 スグルの意識に入り込んでくる、狼の顔をした若者ハリマ。

 6世紀のハリマの世界で、仏教と狗族をはじめとした産土神との闘いが繰り広げられていた。
 物語の、さらに「太陽編(下)」と続く。
  
(2014/03/28 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  手塚治虫さんの「火の鳥」シリーズを
  角川文庫版でずっと読み継いでいるのですが
  いよいよ、  
  シリーズ最後の作品となった
  「太陽編」の登場です。
  この作品は角川文庫版
  10巻と11巻、それに12巻に分かれています。
  つまりは大長編なのです。
  今日から3日間、
  その長編作品を取り上げます。
  まず、今日は
  10巻めの「太陽編(上)」です。
  私の手元には
  手塚治虫さんを特集した雑誌や
  展覧会でのカタログなどがありますから
  そういったものを駆使して
  書きました。
  漫画の書評は
  結構難しいですね。
  さらに、この作品のように
  分冊のものだと
  どのように書くべきか
  頭を悩ませました。

  じゃあ、読もう。

火の鳥 (10) (角川文庫)火の鳥 (10) (角川文庫)
(1992/12)
手塚 治虫

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sai.wingpen  シリーズ最長にして最後の作品                   

 手塚治虫は『ぼくのマンガ人生』という著作の中で、「火の鳥」についてこう書いている。
 「マンガでできるかどうかわからないけれど、生命というものを追求してみようということで描きだしたものです」。
 「マンガでできるかどうか」という言葉に裏に、だからこそ描きたいのだという手塚の強い意思がうかがえる。
 そして、この「火の鳥」は他の作品以上に手塚のライフワークとして高い評価と人気を集めた作品となった。
 初めて「火の鳥」を描いたのは、1954年の「漫画少年」という雑誌だった。
 そして、この角川文庫版で10巻11巻12巻と3巻にわたって収められている、シリーズでも最も長く、最後の作品である「太陽編」は、1986年から1988年にかけて「野性時代」に連載された。
 手塚が亡くなったのは昭和から平成にあらたまった1989年2月9日であるから、まさに手塚の漫画人生とともに「火の鳥」はあったといえる。

 この「太陽編」は複雑な構造でできあがっている。
 発表誌が「野性時代」ということもあったのであろう、大人を意識した内容ともいえる。
 大人とか子どもという区切りは、漫画文化にとって重要な側面を持っている。
 手塚治虫は後期さまざまな大人向けの作品を描いている。その中には高い評価を得た『アドルフに告ぐ』といったような作品もある。
 けれど、手塚治虫は子ども漫画の手塚であったと思う。そこに手塚治虫という漫画家の苦悩があったのではないだろうか。
 それは、この「火の鳥」でも同じだ。
 初期の「聡明編」や「未来編」の平易さはある面漫画の魅力を十分に伝えきっている。
 ところが、この「太陽編」は複雑な構造になったばかりに、手塚が伝えたかったものがわかりにくい。

 舞台は日本に仏教が伝わってきた頃の6世紀の頃。
 百済国の若者ハリマが唐群に捕えられ、狼の顔を自身の顔に被せられるところから始まる。
 狼の顔をした若者は倭の国に渡り、そこで仏教に追いやられていく原始の神々の苦境を知ることになる。
 ハリマを助ける狗族の娘マリモ。時折、ハリマの意識に入り込む現代風の若者の姿。
 物語は、始まったばかりだ。「太陽編(中)」へ続く。
  
(2014/03/27 投稿)

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  今日紹介する『よるのふくらみ』は
  窪美澄さんの新しい作品。
  窪美澄さんは
  もしかしたら今一番直木賞に近い作家かも。
  この長編小説でもそうですが
  巧さを感じます。
  もともとが『ミクマリ』でR-18文学賞大賞を受賞したので
  少し官能派だと
  見られてるかもしれませんが  
  最近の作品は
  女性ならではの柔らかなものが
  多いですね。
  私にとって
  今期待の作家です。
  そういえば
  花房観音さんとか桜木紫乃さんとか
  うまく官能を描く女性作家さんが
  多いですよね。
  この分野では
  男性作家の方が晩生(おくて)かも。

  じゃあ、読もう。

よるのふくらみよるのふくらみ
(2014/02/21)
窪 美澄

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sai.wingpen  「夜の膨らみ」では伝わらない                   

 いい映画は最初のワンシーンからちがうと、よくいわれる。
 いい小説も、そのかもしれない。
 『ふがいない僕は空を見た』でブレークした窪美澄のこの長編小説もそうだ。
 まず、タイトルがいい。「よるのふくらみ」と、ひらがなで表記されることで、作品のもつ雰囲気が伝わってくる。
 最初は、「なすすべもない」という章で、ここでもひらがなが使われている。
 窪は『ふがいない僕は…』でもそうだが、ひらがなの使い方がうまい。

 最初の「なすすべもない」の書き出しもいい。
 「生理が毎月来たって排卵しているかどうかわからないんだよ」。
 こういう文章は、男ではなかなか書けないかもしれない。
 女性だから感じるところも、見る視点もちがう。
 窪に女性読者が多くいるのも頷ける。

 この作品は、寂れかけた小さな商店街が舞台となっている。そこでともに大きくなった29歳のみひろ。かつて、みひろの母親が男と失踪して商店街の大人だけでなく、子どもにも蔑まれたことのあるみひろだったが、苛められていた彼女を助けたのが、同じ商店街で育った圭祐だった。
 その圭祐とみひろが同棲を始めて2年が経つ。しかし、いつの間にか、二人の間にはセックスもなくなって、みひろの心に空洞ができていく。
 思わず駆け込んだ先が圭祐の弟で、みひろと同級の裕太のアパート。「お願い。して」。みひろの言葉の、なんと重いことか。

 この三人の関係が、6つの章で人称を変え、最初の「なすすべもない」ではみひろ、次の章では裕太、その次は圭祐といったように、つなげられていく。
 恋愛からつながる結婚という関係がこの作品では重いテーマになっている。
 「婚活」といった言葉が日常語として話される現在、「見知らぬ二人が生活を共にしようと心を決めることは、なんて怖いもの知らずで無鉄砲なことなんだろう」と書く窪の視点はするどい。
 みひろたち三人が選んだ結論がどうだったかは作品を読んでもらうしかないが、「なんでも言葉にして伝えないと」「幸せが逃げてしまう」という苦味を、もしかしたら三人が三人ともに味わったのかもしれない。
  
(2014/03/26 投稿)

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  渡辺淳一さんのことを
  いろいろ言う人は多いが
  私は嫌いではない。
  いろいろ言われる『失楽園』系の作品は
  割と読んできました。
  最近はあまり読んでいませんが。
  そんな渡辺淳一さんが
  かつて日本経済新聞の「私の履歴書」に
  登場したことがあります。
  さすがにあそこでは
  まじめでしたね。
  もっといろいろ書いてくれたら
  面白かったのに。
  渡辺淳一さんも消化不良だったのか
  「週刊現代」で
  半生の記を綴っています。
  今日紹介する『いくつになっても』は
  それを単行本化したもの。
  新聞では書けなかった
  性のことも
  ちゃんと書かれていますから、
  このあとが楽しみです。

  じゃあ、読もう。

いくつになっても 陽だまりの家いくつになっても 陽だまりの家
(2014/01/31)
渡辺 淳一

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sai.wingpen  女難の相                   

 日本経済新聞の朝刊に掲載されている「私の履歴書」は人気コラムだ。
 経済人だけでなく、政治家・文化人といった多種多様な著名人自身の手による半生の記。一人の人が一か月間の連載を受け持つ。
 2013年の1月に登場したのが、作家の渡辺淳一氏であった。
 渡辺淳一氏といえば、日本経済新聞に『失楽園』や『愛の流刑地』といった新聞小説を発表し、日本経済新聞の発行部数を引き上げた功績は大きいはず。
 その氏がどんな半生を綴るのか期待が大きかったが、漠とした印象が残っただけである。
 しかも、氏の初恋の相手とされる天才少女の死に関して事実と相違するとして、連載後「おわび文」が掲載されるといったこともあり、後味が悪い。

 そのせいか、この本の初出となった「週刊現代」の連載は2013年5月から始まる。
 新たに意を決して「履歴書」を綴ろうということかもしれない。
 ここでは、「生まれて百日目」にある占い師によって出されたご託宣が「女難の相」であったことから書き起こされている。
 日本経済新聞の「私の履歴書」と発表の場が違うせいか、性のこともかなり描かれているのが面白い。
 渡辺淳一はそうでなくては、せっかく「女難の相」と占った占い師の面目はない。

 「性の覚醒」という章でオナニーを初めて経験する場面がある。
 札幌一中に入学したあとのことだ。渡辺氏とはいえ決して早い目覚めではない。
 もちろん、後に渡辺氏が『阿寒に果つ』という作品で描くことになる天才少女加清(かせ)純子との出会いも描かれている。
 初デートといっても、抱き締めあうことも、接吻もなく、ただ手を握り合っただけというのも、渡辺氏の作品を知るものにとっては微笑ましくもある。(その後、図書館等で会っていた二人だが、一度だけ接吻をしている)
 本書には若い頃の渡辺氏と加清の写真も掲載されている。

 しかし、加清は自ら命を絶つことになり、渡辺氏にとって彼女の存在は永遠に手にはいらないことになったのは周知のとおりだ。
 あれからたくさんの水が橋の下を流れたにもかかわらず、氏にとって加清純子は永遠の女性なのだろう。
 札幌医大に合格したところまでを描いたこの本は、日本経済新聞の「私の履歴書」で満足しなかった読者には、うってつけの一冊といえる。
  
(2014/03/25 投稿)

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  小宮一慶様。
  小宮さんが以前から言い続けてきた
  「100冊の本」という目標が
  ついに
  この『社長の心得』で
  達成されましたね。
  おめでとうございます。
  小宮さんの本を
  何冊も読んできた一読者として
  果たして100冊めの本がどういう内容になるのか
  楽しみでもあったのですが
  さすがにいい本にできあがって
  読者としても
  うれしく満足しています。
  この本でも
  たくさんの素晴らしい言葉に出会いました。

   営業活動とは、
   お客さまが求める商品・サービスが
   ここにあることを伝える
   「親切活動」である。

  とか、

   部下を心から褒められることが、
   人を使えるようになる
   第一歩である、

  といった言葉の数々。
  多分、小宮さんのことですから
  あらたな目標を定められていると
  思いますが、
  これからもお体を大切にされますよう、
  心から願っています。

  じゃあ、読もう。

社長の心得社長の心得
(2014/01/31)
小宮一慶

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sai.wingpen  小宮一慶氏の100冊めの本は繰り返し読みたい                   

 経営コンサルタントの小宮一慶氏の、記念すべき100冊めの本です。
 小宮氏はこれまでにもしばしば書いていましたが、経営コンサルタントとして独立したとき、「本を百冊書くこと」を目標のひとつとしました。
 ちなみに、「目的」と「目標」が違います。
 小宮氏は「目的とは最終的に行くつくところや存在意義」だとしています。「目標」は、「目的」を達成するための目指すべきことなのです。
 小宮氏の「本を百冊書くこと」は、「関わった経営者の方に、良い会社をつくって」もらい、そういった会社が増えることでこの社会がよくなるという小宮氏の「目的」のために、ひとつの「目標」です。
 今度は、次に百冊を書くことが、あらたな「目標」になるのかもしれません。

 100冊めの本を「社長」という経営者に向けた意味は大きいと思います。
 会社は経営者一人で動くものではありませんし、そこで働くたくさんの人々で成り立ってもいますが、もし経営者がその舵を間違うととんでもない方向に進んでしまう恐れがあります。最後は、倒産という事態にもなりかねません。
 だから、小宮さんは100冊めの区切りの一冊を、経営者に向けて書いたのだと思います。
 もちろん、経営者だけでなく、会社に業務に携わる多くの人々に読んでもらえることで、正しい考え方が浸透していきます。
 正しい経営者一人ではできないことが、正しい従業員がいることでできうることがあるはずです。

 小宮氏は社長がすべきことは三つだといいます。
 一つめが、会社の方向づけ。二つめが資源の最適配分、三つめが人を動かすこと。
 この本では、会社の方向づけについて、「社長は、遠い将来を見据えて、環境の変化を予測し、会社の方向づけを行う」とあります。
 このように大事な事柄が短い文章で書かれ、そのことを解説する文章が隣のページに掲載されている体裁がとられています。
 95項目のことがらを一気に読んでしまうか、毎日少しずつ読むかは、読者の自由ですが、きっと小宮氏は自身が松下幸之助さんの『道をひらく』を何百回読んだように、何度も繰り返し読んでもらいたいと願っているでしょう。
  
(2014/03/24 投稿)

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  今日は
  絵本ではなく
  図鑑みたいな本。
  「本屋さんのすべてがわかる本」というシリーズの
  一冊で
  『調べよう! 日本の本屋さん』を
  紹介します。
  稲葉茂勝さんが文章を書いて
  村田喜代美さんが監修されています。
  「調べよう」とあるとおり
  大人でも知らないことが
  たくさんあって
  為になる一冊です。
  図鑑といえば
  子どもたちに
  人気の高いジャンルです。
  私も子どもの頃に
  何冊かの図鑑を持っていました。
  生き物とか星のこととか。
  でも、残念ながら
  その道に進みませんでしたが。
  きっと
  図鑑一冊で将来の道を
  決めた人もいるんでしょうね。

  じゃあ、読もう。

調べよう! 日本の本屋さん (本屋さんのすべてがわかる本)調べよう! 日本の本屋さん (本屋さんのすべてがわかる本)
(2013/12/26)
稲葉 茂勝

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sai.wingpen  本屋さんが好き                   

 本屋さんが好きです。
 子どもの頃から好きでした。町には小さな本屋さんしかありませんでしたから、でもこの本屋さんが毎月発行される学習誌を届けてくれました、少し離れた急行電車が止まる駅前にある大きな本屋さんに行くのが楽しみでした。
 大きな本屋さんといっても、大阪の中心地にある本屋さんに比べるとうんと小さいのですが、高校生になるとやはりそういう都会にある本屋さんは別世界のように感じました。
 この本は子ども向けに編まれた「本屋さんのすべてがわかる本」シリーズの2巻めになります。
 日本の本屋さんの成り立ちから、現在のネット書店までの歴史を多数の図版をオールカラーで紹介しています。
 街の大きな本屋さんが元々は出版社として出来上がったものだったとか、戦前の貸本屋さんの由来とか、あるいはもっと時代をさかのぼって、活字印刷が始まった頃の本だとか紹介されています。
 こういう本を読んで、本屋さんに興味を持ってくれたらいいのですが、きっと本好きな子どもなら読むでしょうが、本が苦手な子どもは手にすることがないかもしれません。

 そうなると、大人の皆さんが子どもたちに本屋さんの魅力をきちんと伝えるべきです。
 今生活の場である町から昔ながらの小さい本屋さんがどんどん消えています。
 この本の「はじめに」にこうあります。
 「少し前のことです。まちの本屋さんは地域の人たちが集まる場として大きな役割を果たしていました」とあるように、本屋さんは本を売るだけでなく、人々が集まる場所だったのです。
 そんな場所が消えつつあることは残念ですし、世代が交わることが薄れていくことで人々の心がやはりギスギスするのではないでしょうか。

 子どもたちに本を読む楽しみを教えることは、大人の責任だと思います。
 本が好きになった子どもはきっと、本屋さんが好きになります。
 もちろん、これからの時代ネット書店も重要な位置を占めるでしょうが、紙の本にふれることは欠かせないでしょう。
 表紙の写真は1925年頃の三省堂書店のものですが、このように子どもたちがたくさん集まる本屋さんがたくさんできることを願っています。
  
(2014/03/23 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  介護疲れで心中とか自殺といったニュースを
  目にするたびに
  私の母も父もえらかったなぁと
  思います。
  母は病気がわかってから半年ばかりの入院で
  父も介護の生活も送りましたが
  2年にも満ちませんでした。
  二人とも残された子どものことを
  考えてくれたのでしょうか。
  できれば
  私もそうしたいもの。
  今日紹介する伊藤比呂美さんの
  『父の生きる』は
  親の介護の問題を
  伊藤比呂美さん自身の体験から
  描いています。
  伊藤比呂美さんは両親の介護を通じて、
  
   人生の最後に二人がそういうことをさせてくれたような
   気がしてならない。

  と、書いています。
  私の父が亡くなった2年前の正月
  兄とふたりで
  父を抱えながら
  お風呂にいれたことを
  思い出します。
  もし、今介護で悩んでいる人がいたら
  ぜひこの本を
  教えてあげてください。

  じゃあ、読もう。

父の生きる父の生きる
(2014/01/18)
伊藤 比呂美

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sai.wingpen  親の介護は自分の成長の完了                   

 母が亡くなって、2年後父が亡くなった。
 母が亡くなったあとの父は、少し介護がいるようになった。兄が会社に申し出て、実家に戻って、そんな父の面倒をみてくれた。
 弟である私は父と兄夫婦の暮らしぶりを、遠くの街で、電話で聞くばかりだった。
 兄夫婦には感謝している。
 父と兄夫婦の暮しが、わずか2年であったのは、父の最後の「子のため」だったと思う。
 世の中には介護疲れで自ら倒れてしまう人さえいる。
 両親がいないのは寂しいが、子どもの生活を脅かしてまでも生きてことなく、亡くなった両親はりっぱだった。
 死ぬことまで、親に教えられたと思っている。

 この本は詩人伊藤比呂美さんの父親介護日記だ。
 伊藤さんの場合、生活の中心がカルフォルニアという海外の地でありながら、何度となく父親のいる熊本に帰っている。なかなかできることではない。それでも時に、父親に向かってののしりたくなることがある。
 「それは、怒りでもむかつきでもなく。やるせなさとしか表現できないような感情だ」と、伊藤さんは書いている。
そんな伊藤さんだからこその、介護をしていた父親が亡くなったあとの言葉が、深い。
 「親をこうして送り果てて、つらつら考えるに、親の介護とは、親を送るということは、自分の成長の完了じゃないかと。」

 結論を急ぎ過ぎたかもしれない。
 介護の途中での伊藤さんのさまざまな言葉が胸をうつ。
 「人がひとり死ねずにいる。それを見守ろうとしている。いつか死ぬ。それまで生きる」人を見守るのは、「生きている人ひとり分の力がいるようだ」。
 それでも、父親を介護し続けた伊藤さんに父親の死という現実が待っている。
 遺体となった父親と二人きりになった伊藤さんの口から出たのは、「ありがとう」だったという。
 その言葉の意味を伊藤さんは「これまでの父としての存在に」と書いている。
 親と子の、美しい姿がそこにある。
 父の死に顔をみて、涙を流す伊藤さんは、その涙の意味を「悲しくない。後悔もしてない」とし、「子どもだった頃の父が思い出されてきて、なつかしい」と書いた。

 4年前に逝った母のことを、2年前に逝った父のことを思い出した。
 母に、父に流した涙の意味がようやくわかったような気がした。
  
(2014/03/22 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今日は春分の日
  毎年この日になると
  思い出すのは
  この句。

   毎年よ彼岸の入に寒いのは    正岡子規

  この俳句は
  正岡子規のお母さんの言葉を
  そのまま句にしたということで
  よく知られています。
  なにげない暮しの場面で
  正岡子規のお母さんは
  こう口にしたのでしょうね。
  この句には
  母と息子の深いつながりを
  感じます。
  そして、
  今日は私の母の命日でも
  あります。
  母が亡くなって4年経ちました。
  たまたまその日に
  益田ミリさんの『お母さんという女』の
  紹介になりました。
  そのせいか
  書評はいささか感傷的すぎますね。

  じゃあ、読もう。

お母さんという女 (知恵の森文庫)お母さんという女 (知恵の森文庫)
(2004/12/08)
益田 ミリ

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sai.wingpen  息子という男が読むと                   

 母が亡くなって、4年になる。
 私の母も、益田ミリさんのお母さんと同じ、典型的な大阪のお母さんだった。
 カラオケが好きで、写真が好きで、チラシやタオルでアート? をつくったり。そういえば、我が家にも「タッパー」がたくさんあった。
 まさか、大阪のお母さんがすべてそうだとは思わないが。
 そんな「お母さん」との交流を描いた、益田ミリさんのコミックエッセイがこの本。
 2004年に出た作品だから、漫画の方は今のような精錬さはまだない。
 どことなく野暮ったい。
 最近の作品と比べると、「ううっ(涙)、益田さんも苦労されたんだろう」と思ってしまう。
 でも、そんな読者の思いは、有難迷惑だろうけど。

 母と娘の関係はたぶん、母と息子の関係とは少しばかりちがう。
 益田さんはお母さんの姿を貶しつつ、笑いつつ、すべて受け入れている。あるいは時に自分の中にもそんなお母さんの血が流れていることを受け止めている。
 これが息子だとそう簡単ではない。(益田さんが簡単ということではなく)
 若い頃は母のすべてがうっとうしかった。
 「わたしのいる遠い東京の天気予報をテレビで見ている」益田さんのお母さんと同じように、私の母も「そっちは雨だね」なんて電話で話していた。
 それが、嫌だった。
 そんな母のことを、これがお母さんなんだと思えるようになったのは、ほとんど母の晩年の頃だ。
 母にしてみれば、この子はいくつになってもアホやな、ということになるのだろうが。

 母が亡くなって、もう私を余計なくらいに心配する人はいなくなった。
 けれど、写真の中の母は笑いながらも、「大丈夫かい」と問うている。
 いつまでも、アホな息子は、「オレ、大丈夫」なんて答えている。

 ここまで書いてきたものを読み返すと、「読み終えた後。あたたかい気持ちになって」もらいたいという益田ミリさんの狙い? そのままではないか。
 「ホンマ、あんたは単純やね」。
 どこからか、母の声が聞こえる。
  
(2014/03/21 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  明日で
  母が亡くなってから4年になります。
  母が亡くなった2010年の3月1日に
  書いたのが
  今日紹介する三浦哲郎さんの
  『母の微笑』でした。
  再録書評になります。
  この時の「こぼれ話」で
  私はこんなことを
  書いています。

    今、入院している私の母は三月の終わりに
    誕生日を迎えます。
    母は寅年ですので、今年ちょうど84歳に
    なります。
    病院の窓から
    そろそろ春の光が降り注ぐでしょう。
    温かい風がはいってきますか、お母さん。
    もうすぐ桜の花が咲きますよ、お母さん。

  
  母は新しい誕生日を
  迎えることはできませんでしたが
  母が亡くなるその日
  病室で誕生祝いを
  しました。
  母は
  それを待っていたのでしょうか。

  じゃあ、読もう。

随筆集 母の微笑随筆集 母の微笑
(2001/10)
三浦 哲郎

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sai.wingpen  どんな微笑よりも

 芥川賞作家三浦哲郎の前半生は、本書所載の「私の履歴書」にあるように、悲しみと苦渋に満ちていた。青森県八戸市にある裕福な呉服商の六人きょうだいの末っ子に生まれたが、その成長の途上で、三人の姉のうち二人までもが自死、そして兄ふたりが行方知らずのまま帰らぬ人となる。
 その苦しみは出世作ともなった芥川賞受賞作でもある『忍ぶ川』に描かれているが、その後の作品においても三浦はそんな姉たちや兄たちをしばしば描いてきた。
 幼かった彼自身にどのような罪があろうか。しかし、三浦は何度も自身の血について悩み、自身の幸福についても許されぬものとして煩悶する。

 そんな三浦以上に我が身を呪い、最後に身ごもった末っ子の誕生に恐れ慄いたのは、三浦の母だった。自分の身体から生まれてくる娘や息子たちが次々と消えていくことに彼女はどれほど血の涙を流したことだろう。
 親より先に逝く子供たちは不幸だ。それがどのようなものであれ、親は親として全うしてやれなかったことを悔やみ、嘆き、悲しむ。
 三浦の悲しみはそんな母をみることで深まり、彼の歓びは自身の結婚、自身の子供の誕生で母がようやく悲劇の淵を抜け出せたことだったと思う。

 本書の表題作となった随筆『母の微笑』は、そんな母の晩年の姿を哀しい半生を重ねながら綴ったものである。
 最晩年病院で暮らすことになる母の「いかにも、無学ながらひたすら母親の道を貫き通した生涯に充足し切っているような、穏やかで控え目ながら自信に満ちた微笑」に、どれほど慰安されたことだろう。あれほどの不幸を経験した母の生涯を「充足」と書き、「自信に満ちた」と表現した、彼女の息子三浦哲郎の、やはりそれは彼自身の幸福だったろうし、それこそ母をもっとも愛せて瞬間だったにちがいない。

 子供はいくつになっても、そんな母の微笑に励まされている。
  
(2010/03/01 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今週は
  月曜の川上弘美さん、
  火曜の花房観音さん、
  そして、今日の葉室麟さんと
  いまの私のお気に入り作家の
  作品が続きます。
  今日紹介する『山桜記』は
  葉室麟さんの30冊めにして
  初めての短編集です。
  最近は年間6冊ほどのペースで
  出版されているようです。
  書きすぎだと
  編集者におこられるそうですが
  デビューが遅かった分、
  自分に残された時間を
  考えると
  書くしかないと思っておられるようです。
  書きたいことが
  たくさんあるんでしょうね。
  ところで
  葉室麟さんの短編の出来ですが
  長編のような余韻は少ないけれど
  実がひきしまっていると
  思いました。

  じゃあ、読もう。

山桜記山桜記
(2014/01/31)
葉室 麟

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sai.wingpen  華やかな表舞台に出なくても                   

 葉室麟の初めての短編集である。
 葉室は長編小説の作家かと思っていたが、自身は「書きたいテーマを鮮明に打ち出せる」から短編が好きだという。
 この本に収められた7つの短編のテーマは「武将の妻の姿」といってもいいだろう。
 そもそもが葉室の描く女性たちの姿は清々しい。心に秘めたものがまっすぐで気持ちがいい。
 葉室が求める女性像なのかしらん。

 7つの短編の中でも印象深いのが、「くのないように」だ。
 作者自身、最初にタイトルが決まったというように、いい題名だ。
 主人公は、加藤清正の娘八十姫。父清正が徳川方によって毒殺されたという噂もある中、徳川家康の十男頼宣に嫁ぐことになる。その輿入れ道具の中に、清正ゆかりの槍が収められていた。それは父清正の言い遺したことだという。
 敵を討てということなのか、八十姫の心は揺れる。
 八十姫は紀州藩の藩主となった頼宣とともに和歌山へと赴き、平安な生活を送っているが、実家の加藤家の取り潰しや後に「慶安の変」と呼ばれる由比正雪の乱などに巻き込まれ、再びあの父清正の槍の意味と向き合うことになる。
 さらには自分の名前八十姫の意味も。
 ここに題名「くのないように」に生きてくる。八と十の間にある九。父清正が娘に苦労がないようにと願ってつけた名であった。
 では、槍の意味は。それは本作を読んでいただきたい。

 この「くのないように」では「慶安の変」が借景のように描かれているが、ほかの作品でも歴史上有名な事件が使われている。
 「伊達騒動」として有名な原田甲斐による事件が描かれているのは、「牡丹咲くころ」(この作品も先に題名が決まったらしい)。主人公は伊達家から格下の立花藩に嫁いだ鍋姫。若き頃に出会った原田甲斐のおもかげと何故自分が立花藩に嫁ぐことになったのかが物語とともに明らかになっていく。
 葉室が先に題名の決めたもうひとつの作品が「ぎんぎんじょ」という短編。
 鍋島直茂の妻彦鶴が主人公。「ぎんぎんじょ」は姑からもらった言葉。戦国の時代にあって、「穏やかで慎み深くあれ」という、姑の教え。

 武士の時代、女たちはけっして華やかな表舞台に出ることはなかったはずだ。
 けれど、山に咲く桜が一目を開かせるように、女たちはいつも可憐であったと、葉室麟は思っているにちがいない。
  
(2014/03/19 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  花房観音さんの『恋地獄』を読んだ
  女ともだちが
  「ちっとも官能小説じゃなかったわ」と
  言っていた。
  私はずっと
  花房観音さんを女性官能作家
  書いてきたから
  困った。
  よし、今度はもっと刺激のある作品を
  紹介しよう。
  その意気込みで
  『偽りの森』を読みました。
  何しろ
  主人公は、4人の美人姉妹。
  官能の数々をと
  期待?したのですが
  これでは
  また女ともだちに
  「官能小説ってこの程度?」と
  言われそう。
  もしかして、
  花房観音さんは直木賞
  ねらっているのかなと
  思うほど
  まっとうな娯楽作品でした。

  じゃあ、読もう。

偽りの森偽りの森
(2014/01/23)
花房 観音

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sai.wingpen  桜の樹の下に埋まっているのは偽りなのかもしれない                   

 花房観音は官能作家としてスタートしたが、最近の作品を読むと、京都という風土を生かしながら女性を描く作家として成長著しい。
 この作品は四人姉妹を生きるすべを描いた名作『細雪』を書いた、あの大谷崎(潤一郎)を意識したものであろう。
 はっきりと谷崎の名前がでてくる箇所もある。
 谷崎の『細雪』に描かれる平安神宮の枝垂れ桜の下を行く、花房観音の四人の姉妹たち。そして、もう一人、四人の母親。
 その誰もが、「艶やかで美しく」、けれど「儚く」見える。
 母親の死んだあとから、この長編小説は始まる。

 春樹、美夏、秋乃、冬香という四人の姉妹が主人公だから、それぞれに個性がある。それぞれの章に彼女たちの名前が付けられている。
 「春樹」という章では、頭脳明晰な長女春樹のことが描かれる。40歳になる春樹は恋愛べただ。いつも妻子のある男性か問題のある男性しか愛せない。
 不倫の果てに結婚までこぎつけた相手がいながら、年下の男と愛し合う春樹。そんな彼女が逃げ込むのは、いつもきまって実家の、古色とした大きな家。
 その家を守っているのが、次女の美夏。平凡な男が一番と結婚し、雪岡という「家」を必死になって守っている。
 性欲の強い夫の求めにうんざりしている美夏の心配ごとは、30歳を過ぎても結婚しない二人の妹たちのこと。
 秋乃は美しかった母四季子にそっくりの美貌を持ちながらも、男性に興味をもっていない。
 競い合うことを恐れるあまり、家を捨てることも男性を愛することもできないでいる。
 末っ子の冬香には秘密がある。
 彼女だけ父親が違うのだ、そのことを冬香は母の口から知ることになる。
 母四季子はそういう女だった。
 だから、冬香だけはかつて京都を離れたことがあるが、何故かひかれるようにして京都の実家に戻っている。

 彼女たちの「家」があるのは、「糺(ただす)の森」と呼ばれる場所。
 偽りを糺すところ。
 四人の姉妹たちの生活は、「艶やかで美し」いが、どこかに偽りがある。もちろん、それは彼女たちだけではない。
 偽りは誰にもある。
 それは、あるいは偽りですらないかもしれない。
 生きていくために見せてはいけないものを抱えながら、人は生きていくしかない。
 偽りがあるから、「糺の森」がある。

 桜の樹の下に埋まっているのは、死体ではなく、偽りなのかもしれない。
  
(2014/03/18 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  先日「第150回 芥川賞&直木賞FESTIVAL」で
  あこがれの川上弘美さんのトークを聞いて
  この人の普段の話し方は
  その文章に似ていることを
  発見して
  なんだかホッとした。
  あるいは
  川上弘美さんの文体は
  その話し方にそっくりだと
  いうべきか。
  今日紹介するのは
  川上弘美さんの人気シリーズ「東京日記」の
  4冊め、
  『不良になりました。』。
  この「。」のつけ方が
  絶妙。
  このシリーズは長期にわたっていて
  この巻では
  東日本大震災のこととか
  自身の入院。手術のこととかが
  書かれています。
  病気で胸が小さくなったとのこと
  早く元に戻るといいですね。

  じゃあ、読もう。

東京日記4 不良になりました。東京日記4 不良になりました。
(2014/02/14)
川上 弘美

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sai.wingpen  川上弘美は宇宙人かも                   

 川上弘美という作家のことがわからなくなることがある。
 この人は、どこか名も知られていない星から人知れずこの星にやってきて、人間の姿かたちはしているのだが、時に元の星を懐かしんで、ゆるりとしてしまう。
 いつか、その国に還える日が来るまでの、覚書のようにして書いたのが、「東京日記」シリーズなのではないか。
 そんなことはないだろうが、絶対ということがほとんどないように。それもまたありうるかもしれない。
 川上弘美のゆるり感がたっぷりと楽しめる一冊である。

 自身は「ぼやぼやと生きる日々の記録」と書いている「東京日記」も、この本で4冊め。
 2010年5月から2013年3月までのもの。
 この期間で興味深いのは、2011年3月11日に発生した東日本大震災の日付がはいっていることだ。
 その日の「日記」を引用する。
 「大地震。(中略)次々にあきらかになる大惨事に、言葉、なし。この先、被災地がたちなおるまで、いっさいソリティアをしないことを決意」とある。
 「ソリティア」というのは、パソコンゲームのひとつ。
 もちろん、それだけが真実ではない。
 この頃、朝日新聞に『七夜物語』を連載していた川上は、震災のあと書くということにも難渋したと連載終了時に書いていた。
 それほどショックをうけた災害を、この「東京日記」では「ソリティアをしないことを決意」と書く不思議。
 まさに、宇宙人川上の、真骨頂だ。

 その『七夜物語』を書き終えた時のことも、この本にある。
 「一年八カ月連載していた新聞小説の、最後の一頁を、ようやく書き上げる。/少し踊ってから、ゆっくりとお風呂に入る。」
 『七夜物語』を書き終えて、「少し踊っ」たんだ。
 さすが、宇宙人? だ。

 自身の入院、手術のあと、ゆるゆるになった胸がもとに戻るまで通販の安価な、まっさおなブラジャーをつけているという川上弘美は、故郷の星に戻ったら、この星の都会東京のことをどんなふうに思い出すのだろう。
 不思議な時間だったと、やっぱり思うのだろうか。
  
(2014/03/17 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今日紹介する絵本は
  谷川俊太郎さんと和田誠さんの
  ゴールデンコンビによる
  『あくま』。
  私なんか
  悪魔ときくと
  思い出すのは
  キャンディーズ
  「やさしい悪魔」という楽曲。

    あの人は悪魔
    わたしをとりこにする
    やさしい悪魔

  思い出しました?
  若い人は
  やっぱり無理かな。
  この曲
  作曲したのは
  吉田拓郎さん。
  作詞は「神田川」の喜多條忠さん。
  谷川俊太郎さんと和田誠さんみたいに
  すごい組み合わせだったんですね。
  キャンディーズ
  歌もうまかったし
  楽曲にもめぐまれていました。
  なつかしいなぁ。

  じゃあ、読もう。

あくまあくま
(2007/10)
谷川 俊太郎

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sai.wingpen  やさしい悪魔                   

 誰も悪魔なんか見たことがないはずなのに、悪魔のことを知っているのはどうしてだろう。
 黒ずくめで、触覚のような角(つの)があって、お尻には矢印記号の尻尾がついていて、というのが、誰もが頭に浮かぶ悪魔像ではないかしらん。
 悪魔は見たことがないはずだが、悪魔に会ったことがある人はいるだろう。
 「あの人は悪魔だ」なんて、よく口にする。
 つまり、悪魔を見たことがないが、悪魔には会っているんだ、私たちは。
 でも、会った悪魔は、きっと普通の人間の姿をしているんだろうな。

 谷川俊太郎さんが文を書いて、和田誠さんが絵を描いた、この絵本に登場する「あくま」は黒い定番衣装ではない。
深いオレンジ色の「あくま」だ。
 しかも、緑色のつばさまでついている。
 主人公の少年が「あくま」に会ったのは、「むかしばなしのなかのみち」だという設定がいい。
 確かに「「むかしばなしのなかのみち」だと、「あくま」に会う確率は高いだろう。
 まして、絵本だから、現実の世界でも悪魔に会うことがあるなんていえない。

 少年がまず会うのは「まじょ」だ。
 そういえば、魔女も見たことがないはずだ。
 けれど、悪魔と同じように黒ずくめで、定番の三角の帽子、さらにホウキを持っているというのが、魔女の姿。
 見たことはないのに。
 でも、悪魔と同様、魔女にも会った人はいる。
 最近では「美魔女」なんていう人もいる。
 この絵本では定番型の魔女が登場する。
 「ともだちになりたい」って。
 少年はこれを断って、魔女を退治しようとするのだが、「まじよ」は強い。
 そこに現れるのが、「あくま」だ。

 「まじょ」を倒した「あくま」は、少年に「ともだちになりたい」という。
 少年はそれも断って、「むかしばなしのなかのみち」から抜け出すのだが、あとで思う。
 「あくまとともだちにならなくて そんしたんじゃないか」って。
 どうかな。
 もう少ししたら、悪魔と会えるんだから。
 でも、くれぐれもいっておくけれど、本当に会う悪魔は怖いんだよ。
  
(2014/03/16 投稿)

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  昨年のNHK大河ドラマ
  「八重の桜」に関連して
  新選組とか幕末の会津といった
  関連本を
  結構読みました。
  今年の「軍師官兵衛」は
  そこまで熱がはいっていないかも。
  いや、まてよ。
  そういえば、と
  司馬遼太郎さんに黒田官兵衛の作品が
  あったことを思い出しました。
  それが今日紹介する
  『播磨灘物語』です。 
  今日はその一巻め。
  全4巻になりますから
  これから順に紹介していきます。
  但し、NHKの大河ドラマと
  違うところが多すぎて
  ちょっととまどいます。
  黒田官兵衛の奥方の名前が違うのも
  そのひとつ。
  これはどうもNHKの大河ドラマの方が
  正しいようです。
  さて、これから岡田准一さん演じる
  黒田官兵衛
  どのようになっていくか。
  最後まで見続けることができるか
  やや不安ではありますが。

  じゃあ、読もう。  

新装版 播磨灘物語(1) (講談社文庫)新装版 播磨灘物語(1) (講談社文庫)
(2004/01/16)
司馬 遼太郎

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sai.wingpen  大河ドラマを面白く                   

 今年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」は。戦国時代に軍師として高い人気をもつ黒田官兵衛が主人公だ。
 そういえば。司馬遼太郎にも官兵衛を描いた作品があったことを思い出した。
 司馬さんが描いた官兵衛はどのようであったのかを知ることも、大河ドラマを楽しむには面白いはず。
 逆に、広大な司馬文学のこれが足がかりになるのも、またよしとすべし。

 司馬遼太郎の『播磨灘物語』は昭和48年(1973年)5月から読売新聞に連載が始まった(完結は二年後の2月)。
 司馬さんが50歳の時の作品である。
 連載にあたって、「ときにふと、江戸期が暗く、戦国期は真夏の昼のように明るかったように思ったりする」という司馬さんらしい詩的な言葉で始まる、予告が残っている。
 司馬さんはしばしば日本人の源流を室町期に求めたが、この短文の中でも「日本人の生活文化の光源は室町期にあるといえ」ると書き、こう続けた。
 「そうした時代の表徴のような人物とその一家のことを書いてみたい」と。
 室町末期はいうまでもなく戦国時代である。そんな「時代の表徴」と司馬さんが考えた人こそ、黒田官兵衛なのだ。

 大河ドラマではほとんど描かれていなかったが、司馬さんのこの長い物語の始めは、黒田家の出自からである。
 しかし、官兵衛の祖父や曾祖父のことはよくわからないという。仕方なく、司馬さんは「随想風」に書いているが、これは司馬さんが得意とした文体でもある。
 それでも、司馬さんは黒田家の起こりともなった近江の地を自らの足で歩いているのは、この作家らしい。
 それに最初のこの章「流離」は、官兵衛のDNAを知る上で面白い。

 第一巻では、播州の小さな藩小寺家の家老でありながら、織田方に就くべきか毛利方に就くべきか迷う藩主に、天下いじりがしたいと思いがつのる官兵衛の姿までが描かれている。
 これまで放映された大河ドラマと違う点も数多くある。
 例えば、司馬さんの物語では官兵衛のキリシタン大名となる予感がすでに描かれているが、大河ドラマではそのことはまだほとんど描かれていない。
 そのあたり、大河ドラマは今後どのように描いていくのだろう。
 興味は尽きない。
  
(2014/03/15 投稿)

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  今日は図書館の本。
  著者は猪谷千香さん。
  本は『つながる図書館』。
  副題があって
  「コミュニティの核をめざす試み」と
  あります。
  私が図書館をよく利用する話は
  このブログでも何度か書きましたが
  猪谷千香さんのこんな言葉に
  同志に会ったように
  感動しました。

   読みたくなったら、図書館で借りればいい。
   少なくとも公立図書館には私の払った血税の一部が
   使われているのだから、
   「図書館は私の書斎だ」と
   勝手に思うことにした。

  もし、実際に猪谷千香さんに会って
  こんな言葉を聞いたら
  手を握りあったにちがいありません。
  そんな同志が書いた本ですから
  とてもわかりやすくて
  示唆に富んだ本です。
  図書館をよく利用する人も
  図書館に行くのが苦手な人も
  この本を読めば
  きっと図書館の魅力に
  ふれることができるでしょう。

  じゃあ、読もう。

つながる図書館: コミュニティの核をめざす試み (ちくま新書)つながる図書館: コミュニティの核をめざす試み (ちくま新書)
(2014/01/07)
猪谷 千香

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sai.wingpen  図書館のあるべき姿に正解はない                   

 図書館は進化していることに気がついているだろうか。
 昨年大きな話題となったのが佐賀県の人口約5万人の街武雄市に誕生した「武雄市図書館」だ。
 レンタルビデオチェーンを経営する民間企業がその運営管理を任され、利用者が格段に増加したのだ。あわせて、この図書館には都会でよく見かけるカフェや書店まで隣接しているという。あるいは、民間企業が利用しているポイントを付与すべきかどうかまで問題となった。
 図書館の利用者が増えることは悪いことではない。
 そのために、図書館側が開館時間を延長したり、さまざまな工夫をしているのが実情だ。
 本書は進化を続ける図書館事情をレポートした、読み応えある一冊に仕上がっている。

 「武雄市図書館」のことは大いに話題になったから知っていたが、その近くにもう一つ「視察が絶えない」図書館があることを、この本で初めて知った。
 同じ佐賀県の伊万里市にある「伊万里市民図書館」である。この市も人口は武雄市とほぼ同じ。
 「伊万里市民図書館」には目新しいことはない。それでいて、ある調査では「活動が優れている」図書館のベスト10に入っているという。
 この図書館の優れている点は、市民がその誕生日を祝うほど、市民に愛されているという点だ。
 設計段階から市民が携わってできた図書館は、今や「市民を育て、町をつくる」核になっているのだ。

 図書館のあるべき姿に正解があるわけではないだろう。
 先に挙げた図書館以外にも本書では東京武蔵野市の「武蔵野プレイス」や長野県小布施町の「まちとしょテラソ」といった進化した図書館が紹介されている。
 けれど、著者はどの図書館の形がいいかという答えを出してはいない。
 あるいは、現在図書館運営で論議を呼んでいる「指定管理者制度」についても、答えはない。
 その中で、著者は「機能向上を目指す攻めの図書館」が必要だという。
 そして、よく利用している図書館を見ているだけではなく、色々な街の図書館のありようを利用者はもっと知るべきだと書く。

 本書を読んで、こんな図書館もあるのだと知ることは、いつかあなた(読者)の街の図書館を変えていくだろうし、それは街をもっと住みよいものに変えていく近道でもあるだろう。
  
(2014/03/14 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今日紹介する
  『昭和の子供だ君たちも』は
  まずこのタイトルに
  大いに惹かれた。
  昭和の子供
  この言葉がいい。
  著者は坪内祐三さん。
  書評にも書きましたが
  坪内祐三さんは
  昭和33年生まれ。
  私より3歳年下。
  けれど、どうも
  読んだ本とか見た映画の傾向が
  よく似ていて
  私の好きな書き手の一人です。
  やっぱり同世代ですよね。
  最近芸能界では
  年の離れた人の結婚や恋愛が
  ちょっとしたブームですが
  あれって
  話が合うのかな。
  なんて、
  つい余計な心配をしてしまいます。

  じゃあ、読もう。

昭和の子供だ君たちも昭和の子供だ君たちも
(2014/01/22)
坪内 祐三

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sai.wingpen  だから、人間は面白い                   

 本作の著者坪内祐三氏は昭和33年(1958年)生まれだ。
 私が昭和30年(1955年)生まれだから、ちょうど弟の世代になる。
 「世代論を語りたい」という言葉でこの本は始まるのだが、坪内氏と私はほぼ同世代といっていい。
 たとえば、「少しでもものを考えようという意志のある学生にはマストと言うべき三冊の本があった」という坪内氏が紹介しているのは、高野悦子の『二十歳の原点』、奥浩平の『青春の墓標』、柴田翔の『されど われら日々―』の三冊だ。
 高野、柴田の本はともかく、ここに奥の本を並べる世代というのが確かにあって、私もそうだ。
 私が「少しでもものを考えようという意志」があったかどうかはともかくとしても、この三冊の本は私たちの多感な青春時代に重い意味をもっていた。
 多分少し時代が変われば、この三冊の本の意味も変わってくるはずだ。
 それが「世代論」だといえる。

 この本では坪内氏の世代が描かれているわけではない。
 終戦後の若者世代の軌跡を追いかけたものだ。
 世代としては圧倒的な勢力をもつ「団塊の世代」といった代表される世代を追跡したものでもない。時代が進むにつれて、世代が次々といれかわっていくように、たとえば昭和39年(1964年)頃に青春期を迎えた世代は何に怒り、何から挫折したのか、あるいは昭和50年(1975年)頃に成人した世代は何にシラケていたのかといったように、世代をつなげることで昭和という時代を描いた作品になっている。
 やや残念なのは、昭和の終盤の世代の論考が薄くなっている点だ。
 それは坪内氏自身がもはや青春期を抜け出した時期だからかもしれない。
 おいてきたものは印象が薄い。やはり青春期はいつも前に前にと急かされている時期といえる。

 坪内氏は東京で生まれ育った、昔の言葉でいえばシティボーイだ。
 実は世代論には育った場所という空間論が交差する。
 有名な60年安保にしても、あたかも若者たちすべてがそれに関わったイメージがあるが、おそらくそれは事実と違う。
だから、世代論だけですべては語れない。
 さらにいえば、同じように生まれ育っても、どこかの地点でそれぞれに分岐していくということ。
 いうなれば、「昭和」という根っこは同じであるが、咲く花がちがうのだ。
 だから面白い。人間は。
  
(2014/03/13 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  東日本大震災から3年めとなった昨日、
  被災地の地元紙は
  看板となるコラムで何を伝えたのでしょう。
  宮城県を地元とする河北新報の「河北春秋」は
  「ツバキは津波に負けないなんて。あの日は誰も気付かなかった」という
  文章から書きだしています。
  震災からしばらくして
  つやつやとしたツバキの緑樹があることに
  被災者は気が付いたといいます。
  そんなエピソードから

   暮らす人の体験を記憶から消さないことが、
   大切なのでは。

  と書いています。
  津波・原発事故の二重災害となった福島県の
  地元紙福島民報の「あぶくま抄」は

   個人は3日で飽き、3ヶ月で冷め、3年で忘れる

  という畑村洋太郎東大名誉教授の言葉を
  引用しつつ、
  こう書いています。

   忘れられない。そして忘れてはならない。
   震災を過ぎ去った「歴史」にしてはなるまい。

  岩手日報の「風土計」は
  こんな言葉で締めくくっています。

   そう、決して一人ではないから。

  今日は河北新報社が書いた
  『河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙』という本を
  再録書評で紹介します。
  この本は
  文春文庫の3月の新刊の一冊になりました。

  私たちは、忘れません。

  じゃあ、読もう。

河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙 (文春文庫)河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙 (文春文庫)
(2014/03/07)
河北新報社、河北新報= 他

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sai.wingpen  地元紙としての使命                   

 忘れてはいけない。けれど、ひきずってはだめだ。
 伝えないといけない。けれど、風評や恨み言にひかれてはだめだ。
 2011年3月11日の東日本大震災から1年以上経って、あの時の悲しみや嘆きを失っていないかと自分に問うてみる。新聞も雑誌もそれなりに記事にはするが、あの時の熱い想いが少なくなった。
 もはや、あの日のことは人々の記憶に頼るしかないのか。
 大震災の恐るべき破壊の様子をあの日の新聞もTVも伝えたけれど、そしてそれはあくまでも限られた視点でしかなかったことを私たちはあとで知ることになるが、速報性としてそれは正しいが、記録性という点では大きく劣る。当然媒体固有の特長があるから、それをとやかく非難するつもりはない。
 速報性という点では見劣りするが、大震災から何ヶ月も経て、その時の記録なり意見なりがまとめられた本の数々は、さらに月日を重ねて、忘れないためにも伝えるためにもどれだけ有効であるかを思い知らされる。
 本という媒体があって本当によかった。

 本書は、宮城県を中心に東北6県を発行区域とする東北きっての地方紙「河北新報社」が、あの大震災のあと、どのように創業以来続けてきた無休の記録を維持し、そのニュースを地元の人々に届けてきたかという記録である。 経営陣はどう判断し、記者たちは何を見、どう表現したのか。現場に行きたいと記者魂の高ぶりを押さえ、後方支援にまわる者もいれば、避難所に自らの足で新聞を配る販売所の店主もいる。
 「東北振興」を社是とする新聞社の、これは壮絶な記録だが、こうして一冊の本にまとめられた時、気負いもなく冷静にあの時を見つめる姿がより印象に残る。
 彼らのこの時の報道姿勢は、2011年の新聞協会賞を受賞することになる。しかし、彼らの向こう側に地元紙を待ち続けた被災者たちがいたことは忘れてはいけない。新聞協会賞はおそらく読者全員が受けた勲章である。

 大震災から一年以上経って、忘れないためにももう一度この本に戻ればいい。
 何を伝えていたかを知るためにももう一度この本に戻ればいい。
 それは何年も経ってもそうありつづけるにちがいない。
  
(2012/07/11 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  2011年3月11日、金曜日。
  午後2時46分。

  東日本大震災がおこった。

  あれから、3年。

  被災者の皆さんの
  心は少しでも癒えただろうか。
  どれほど悲しみが深くとも
  残ったものは
  前を向くしかない。
  がんばれ、という言葉も
  絆、という思いも
  どれだけ被災者たちの心に
  届いただろう。
  言葉は空虚かもしれない。
  それでも
  私たちには言葉しかない。
  前に向かって下さい、と
  言うしかない。
  今日紹介するのは
  吉村昭さんの『三陸海岸大津波』。
  再録書評です。
  この本をこのブログで
  紹介するのは
  今日で3度めになります。
  これからも
  何度も
  この本のところに戻ってくると
  思います。
  書評の最後に書いたように
  「この国の記録として大事に読み継がれなければならない」と
  思っています。

  あの日を
  しずかに想います。


  じゃあ、読もう。

三陸海岸大津波 (文春文庫)三陸海岸大津波 (文春文庫)
(2004/03/12)
吉村 昭

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sai.wingpen  「一つの地方史」の記録ではなく             

 3月11日の東日本大震災以後、多くの関連書籍が出版されている。ある意味それは出版人としての心意気でもあるが、他方大きな惨劇が多くの関心を集めるため売上という点からも出版を急ぐという意味も持つ。そのなかでひと際異彩を放つのが本書の存在だろう。
 何しろこの本の初版は今から40年以上も前の昭和45年(1970年)なのだ。
 はじめ『海の壁』と題され、中公新書の一冊として刊行された。吉村昭は名作『戦艦武蔵』を発表し、自らの方向性をようやく確立したばかりであった。その後の吉村の活躍については言うまでもない。

 そんな吉村が「何度か三陸沿岸を旅して」いるうちに、過去かの地を何度か襲った津波の話に触れ、「一つの地方史として残しておきたい気持」で書き下ろしたのが本書である。
 「津波の研究家ではなく、単なる一旅行者にすぎない」吉村ではあるが、今回の大震災後に慌ただしく出版された関連本と違い、腰の据わった記録本として高い評価を得ていいだろう。
 もちろん、吉村がこの時想像をしていた以上の悲惨な大津波がまたも三陸沿岸を襲った事実はあったとしても、この本の評価はけっして下がることはない。また、今後何年かして、吉村のように丁寧に今回の津波の惨状を伝える書き手が現れることを期待する。

 本書は明治29年(1896年)と昭和8年(1933年)の大津波、それに昭和35年(1960年)のチリ地震による津波の惨劇が、当時の資料と生存者の声の収集から成り立っている。
 執筆された当時からすると明治29年の生存者はわずかであるが、吉村は根気よく探しつづける。そういう地道な努力が文章の記録性を高めているといっていい。
 このような大きな津波のあとを訪ねても、いかに三陸沿岸が津波の被害に苦しめられてきたかがわかる。そして、そのつど、人々は復興してきたというのもまぎれもない事実である。

 吉村は「津波は、自然現象である。ということは、今後も果てしなく反復されることを意味している」としながらも、「今の人たちは色々な方法で充分警戒しているから、死ぬ人はめったにないと思う」という地元の古老の言葉を信頼し、安堵もしている。
 今回の津波による大惨事をもって、吉村の考え方が甘かったということもいえるかもしれない。
 しかし、甘かったのは吉村だけではない。多くの日本人は何かを見落としてしまっていたのだ。この本を前にしてそのことを反省せざるをえない。
 この本はいまや「一つの地方史」の記録ではなく、この国の記録として大事に読み継がれなければならないだろう。
  
(2011/07/22 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  東日本大震災から
  明日で3年になります。
  日曜に図書館に行くと
  企画展で東日本大震災の図書が
  並んでいました。
  児童書のコーナーの企画展でも
  そうです。
  あの日から東日本大震災関連の本を
  しばしば紹介してきましたが
  まだまだ読んでいない本が
  たくさんあることに
  気付かされます。
  今日から3日間
  再録書評もまじえながら
  東日本大震災関連の本を
  紹介していきたいと
  思います。
  また、このブログの「3.11の記憶」というカテゴリーは
  これまでに読んできた東日本大震災関連の本ですから
  どういう本を読んできたか
  一度のぞいてみて下さい。
  今日紹介するのは
  佐野眞一さんの『津波と原発』。
  今月の講談社文庫の新刊にも
  なっていますから
  手にしやすい一冊です。

  じゃあ、読もう。

津波と原発津波と原発 
(2011/06/17)
佐野 眞一

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sai.wingpen  あれから3年                   

 東日本大震災から3年が経つ。
 あの日。2011年3月11日午後2時46分。
 あの時何をしていたかよく覚えている。その時間をさかいに自分に何が起こったかも記憶にある。
 けれど、被災地ではもっと過酷なことが起こっていたことを、実は私たちはほとんど知らない。
 知るすべは、そののちに新聞や雑誌、テレビやラジオで伝えられてことだけだ。
 あるいは、書籍で、伝えられたことだけだ。
 それらはすべてではない。どんなに言葉を拾い集めても、すべてになることはない。
 完成しない、ジグソーパズルのようなものだ。
 まだまだピースは足りない。
 投げ出すのではなく、ピースを探す。ピースを拾う。ピースをはめる。
 終わらなければ、次の世代へつなげていくのだ。

 本書は震災から3ヶ月後の6月に刊行された。
 『カリスマ』で中内功を、『巨怪伝』と正力松太郎を、といったように昭和という時代を痛烈に切り取ってきたノンフィクション作家佐野眞一による、東日本大震災のルポタージュである。
 書名のとおり、東日本大震災は津波と福島原発事故の複合災害である。
 佐野はまず津波の被害にあった東北の各所をまわっている。地震発生から一週間めの3月18日である。
 事実を伝える側としてできるだけ早く現場にはいることは重要である。しかし、それがすべてではない。早ければすべてが見れるわけではない。
 佐野の取材にしても、被災地を網羅したものでもない。
 もし、取材側の姿勢を問うとすれば、それが真実を伝えるべきしてとった行動かどうかだ。

 本書は原発事故に重点が置かれているといえる。
 それも事故そのものというより、日本が何故原子力発電の推進に力をいれたかという点で、そこに佐野は正力松太郎という人物の補助線を引く。
 その上で佐野は東日本大震災と福島原発事故は「日本の近代化がたどった歴史と、戦後経済成長の足跡を、二つ重ねてあぶりだした」ものだとしている。
 そして、こう締めくくっている。
 「これまで日本人がたどってきた道とはまったく別の歴史を、私たち自身の手でつくれるかどうか」だと。

 あれから3年。
 私たちは何をつくってきたのだろう。
  
(2014/03/10 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  先週の日曜日は
  絵本の書評ではなく
  まど・みちおさんの追悼書評
  掲載しましたが
  まど・みちおさんの有名な詩のひとつに
  「一年生になったら」という楽しい詩が
  あります。

    一年生になったら
    一年生になったら
    ともだち100人 できるかな
    100人で 食べたいな
    富士山の上で おにぎりを
    パックン パックン パックンと


  4月から一年生になる子どもたちは
  今からどんなに胸はずませていることでしょう。
  私たちの時代は
  どうだったか。
  今日紹介する
  五味太郎さんの『むかしのこども』は
  昭和の子どもたちのことが
  描かれています。
  もっとも
  平成の子どもも似たりよったりかも。

  じゃあ、読もう。

むかしのこどもむかしのこども
(1998/05)
五味 太郎

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sai.wingpen  私、むかしのこどもです                   

 絵本作家五味太郎さんの功績は大きい。
 私の娘たちがまだ小さかった頃、もう30年近くになりますが、五味さんの絵本でどんなに楽しませてもらったことか。
 独特な絵のタッチ、勢いのある言葉、それはもう子どもそのもの。
 生きる強さのある絵本です。
 だから、五味さんの絵本は懐かしいし、今でも大好き。
 私にとって、五味太郎さんは欠かせない絵本作家です。

 この絵本のタイトルがいい。
 「むかしのこども」って、いつのこども?
 読んでいる子どもたちにとっての、お父さんやお母さんが子どもだった頃。
 今の子どものお父さんとかお母さんは、昭和という時代の終わりのあたりの子どもでしょうが、この絵本の「むかしのこども」はおそらく昭和30年代とか40年代あたりではないでしょうか。
 ちなみに、五味太郎さんは昭和20年(1945年)生まれです。

 「むかしのこども」はよく「ぐずぐずしないで」といわれました、とあります。
 それは、「むかしの暮らし」がいそがしかったから。
 そういわれれば、そうかもしれません。
 洗濯機とか車とか便利なものが普通の家庭にもはいってきた頃ですが、逆に背中を押されるようにいそがしくなったのはどうしてでしょう。
 人は便利さを発明しながら、ちっともゆったりとしない、変な生き物です。

 「むかしのこども」には「むかしの大人」はとってもしっかりしているように見えました。
 でも、この絵本を読んで少しわかったのですが、「むかしの大人」は「こどもは小さいしぼんやりしているから、ま、適当でいいだろう」と、考えていたからかもしれません。
 今の大人はとってもいい大人で、子どもにもきちんと話をしてくれます。難しい言葉でいえば、子どもの人格を認めてくれています。
 そのせいで、いまの大人はあまりしっかりしているように見えないのかもしれません。
 おかしいけれど。

 いまの子どもも何年か経てば「むかしのこども」になります。
 その時に、そういえばあの時はこんな時代だったと思い出すのは、あなた(読者)自身。
 五味さんのこの絵本のように、「そんなむかしでも精いっぱい、元気に楽しく暮らしていました」と書けるでしょうか。
  
(2014/03/09 投稿)

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  久しぶりの岩波ジュニア新書です。
  紹介するのは
  中村邦生さんの『書き出しは誘惑する』。
  副題に「小説の楽しみ」にあるように
  書き出しから文学とは何かを解説した
  一冊です。
  書き出しをいえば
  私には忘れられない本があります。
  ポール・ニザンの『アデン・アラビア』です。
  書き出しはこうです。

   ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい。

  残念ながら
  この『書き出しは誘惑する』には
  紹介されていません。
  若い読者にとって
  この書き出しのなんという衝撃だったことか。
  でも、きっと
  誰にでもそんな印象に残る
  書き出しがあるのでしょうね。

  じゃあ、読もう。

書き出しは誘惑する――小説の楽しみ (岩波ジュニア新書)書き出しは誘惑する――小説の楽しみ (岩波ジュニア新書)
(2014/01/22)
中村 邦生

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sai.wingpen  歯ごたえのある読書                   

 作品の書き出しを紹介しながら、小説の面白さを解説したこの本の中に、「ページを開く前に、すでにタイトルから読書は始まっている」という一節がある。
 「タイトルこそ実質的な冒頭の一行と言えないこともない。それに心惹かれて読み始める読者も少なくないはず」と続く。
 この本がまさにそれ。
 『書き出しは誘惑する』という、ときめくようなタイトルにまず惹かれた。しかも、岩波ジュニア新書である。
 一体どんな物語の書き出しが紹介されているのか。

 ところが、ジュニア向けというよりこれは本格的な文学論で、軽めの読書を想像していた読者はびっくりするだろう。
 書き出しが物語を導く力、それは深い世界である。
 この本では「まず笑ってしまう」と章で、笑いについて考察している。続いて、「早くも異変の兆しが」と、好奇心にみちた書き出しが織りなす世界が、さらには「風景が浮かびあがる」という章で物語の舞台がまず描かれる物語が論じられていく。
 引用される書き出しはさまざまだ。
 有名すぎる夏目漱石の『我が輩は猫である』はもちろんのこと、川端康成の『雪国』、カフカの『変身』といった古典だけでなく、川上弘美の『神様』角田光代の『キッドナップ・ツアー』といった新しい作品まで幅広い。
 特に、「ある都市の肖像」という章で論じられているドストエフスキーの『罪と罰』に関しては、読み応え十分だ。

 著者はこれがジュニア向けの新書だからといって、平易にするつもりは端からない。
 何故なら、著者は若い読者に「背伸びする読書」をすすめているからだ。
 「歯ごたえのあるものを咀嚼するうちに、読書のスタミナがつく」と、いう。
 読書は誰にでもできるが、本当の読書は訓練が必要だ。
 そのことを著者は言いたかったのだろうし、実際この本は「歯ごたえ」十分の一冊といっていい。

 さて、もちろん読者の中であの書き出しの紹介がなかったと悔しがる人も多いだろう。
 自分の気に入りの書き出しが、著者の分類のどこに位置するのか考えてみるのも楽しいだろう。
 もしかしたら、それも著者の目論みのひとつかもしれない。
  
(2014/03/08 投稿)

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  今日は井上ひさしさんの
  『せりふ集』を紹介します。
  井上ひさしさんが亡くなったのは2010年。
  もう4年経ちます。
  それでもこうして新しい本が
  出版されるのですから
  すごいですね。
  井上ひさしさんといえば
  劇作家としても
  たくさんの作品を残しています。
  この本は
  そんな戯曲の中から
  これは、という言葉を
  集めた本です。
  書評の中ではあまり紹介できなかったので
  ここで二つばかり
  書きとめておきます。

   人の心と言葉、これはそうやすやすとは変わりませんよ。  「黙阿弥オペラ」

   みんな人間よ 同じ人間 怖がってはだめ 見下してもだめ 「箱根強羅ホテル」

  どうですか。
  もちろんこれ以外にも
  いいせりふがたくさんあって
  井上ひさしさんらしいと
  思いました。

  じゃあ、読もう。

井上ひさし「せりふ」集井上ひさし「せりふ」集
(2013/11/29)
井上 ひさし

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sai.wingpen  美しい日本語                   

 「科白」と「台詞」の違いはなんだろう、同じ「せりふ」という読みだが。
 「科白」の「科」には役者の仕草という意味があるらしく、一方の「台詞」には舞台上でいう言葉ということらしい。
 、井上ひさしの戯曲から感銘の深い107の「せりふ」を取り出したこの本は「台詞」集といっていいが、ひらがな表記の方が何かと無難だろう。
 そもそも「せりふ」というのは、役者の声質や息遣い、あるいは「せりふ」の端々にはいる動作の音や舞台をどんと蹴りあげる音など、劇の中ではさまざまな表情を見せるものだ。
 試しに、この本からお気に入りの「せりふ」を声に出して読んでみるといい。
 高音低音、裏返し、しわがれ、きっと感じが違うはずだ。
 だからいえる。「せりふ」は生きている。と。

 2010年に亡くなった井上ひさしを語る時、小説家井上ひさしよりも劇作家井上ひさしの方が多いくらいだ。
 井上ひさしが座付作者となった「こまつ座」を立ち上げたのは、1983年のことだ。
 この本は「こまつ座設立30周年」を記念して編まれたものといっていい。巻頭に現在の代表である三女の麻矢さんが「まえがき」を寄せている。
 その中で麻矢さんは「一つ一つの作家の言葉の持つ力と芳醇さに魅せられながら、これからもこまつ座は星屑のようなキラキラした、作家の残した言葉を多くの人に届けたい」と、決意を語っている。

 この本に収められた107の「せりふ」は、言葉に厳しかった井上ひさしの努力の結晶ともいえる。
 おそらく削りに削って「普通の言葉」に仕上げたものが、ここにあります。
 井上ひさしは「美しい日本語というのは普通の言葉でいいんです」といっている。きれいな日本語にこだわるあまり、 修飾語が多くなったりまわりくどくなったりすることを、嫌った。
 だから、この本の「せりふ」たちは、きわめてわかりやすい日本語だといえる。

 この本に収録されている「せりふ」で、頁を繰る手がふとたちどまった「せりふ」を最後に書きとめておく。
 「希望ということばを作りだしてしまった以上、たとえ不幸になろうが、希望を持つことがひとのつとめなの。」(『貧乏物語』より)
  
(2014/03/07 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  昨日、「第150回記念 芥川賞&直木賞FESTIVAL」のことを
  書きましたが、
  その中で川上弘美さんが言った、
  「本は面白い」という言葉を
  紹介しましたが、
  今日はまさにその言葉のままの
  『もっと面白い本』を
  紹介します。
  著者は、成毛眞さん。
  成毛眞さんは元マイクロソフト社の日本法人の
  社長をされていました。
  それを退任したあと
  HONZというサイトを立ち上げます。
  HONZは単なる書評サイトでなく、
  読むに値する「おすすめ本」を紹介するサイト。
  そんな本読みの成毛眞さんですから
  面白くない訳がありません。
  でも、
  こういう本を読むと
  読みたい本ばかりで
  困ります。
  なんとかして下さい、成毛眞さん。

  じゃあ、読もう。

もっと面白い本 (岩波新書)もっと面白い本 (岩波新書)
(2014/01/22)
成毛 眞

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sai.wingpen  安直な読書は為にはならない                   

 前作『面白い本』の出版のあと、「本がどんどん増えて困る」とか「本の購入で家計が圧迫された」という苦情? が多数寄せられたという。
 面白い本を読みたいという潜在的な人は多いはず。そのきっかけのためのさまざまな仕掛けが世の中にはある。
 書評というのもその一つで、新聞や雑誌あるいはインターネットで紹介されている書評で、面白い本を見つける読者数はかなりの数にのぼるはずだ。
 前作の『面白い本』はそういう点では究極のブックガイド本であったといえる。なにしろ、家計を圧迫する程、本を買ってしまった読者がいるのだから。
 「人は面白い本を読まずに死ぬわけにはいかない」というスタンスは、続編となる本書でも変わっていない。
 ただ、構成の方法に修正が加えられている。
 本書では、「人間」「宇宙」「歴史」「芸術」「科学」という大テーマを中心に70冊選書されている。よって、いわゆる文学書は除外されていない。
 文学書ではないが、それ以上に面白い本ということになる。

 世の中に流通しているような「自己啓発本」も、ここでは外されている。
 というか、そもそも本書で紹介されている本こそ本当の意味での「自己啓発」を促す本だといえる。こういう種類の本を読むことで本当の自己を高めることができるのではないか。
 安直な読書はけっして為にはならない。

 自分の性向からみて、本書で紹介されているような本が合っているとも思えないが、それでもこれは面白そうだという本が何点もあった。
 特に「本棚にあるとチョー便利」と題された章のいくつかはそうだ。
 著者がいう、「辞書や事典を自分だけのデータベースとして本棚に常備しておくことは、本読みの身だしなみのようなものだ」という意見に多いに賛同するものとして、この章で紹介されている本には興味を魅かれた。
例 えば、『世界名言大辞典』などは、本棚に置いておきたいものだ。

 そういう本を選ぶ著者の選択眼に敬服する。
 やはり、本書を読んで、「本が増えて困る」という読者は何人もいるだろう。
 そして、出版元は、おそらく次の「もっともっと面白い本」をねらってはいるだろうが。
  
(2014/03/06 投稿)

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 念願の生(なま)川上弘美さんに会いに
 先日(3.1)東京・丸ビルで開催された
 「第150回記念 芥川賞&直木賞 FESTIVAL」に
 行ってきました。
 芥川1
この催しは2月26日から
 芥川賞と直木賞全受賞者のポートレイト展示
 受賞作の原稿の複製展示とかがあって、
 3月1日と2日、
 トークイベントが組まれていました。
 そのメンバーの凄いこと。
 例えば、綿矢りさ×道尾秀介
 宮部みゆき×桜庭一樹×北村薫
 桐野夏生×川上未映子(これも見たかった!)、
 さらには林真理子×浅田次郎(これも見たかった!!)といった
 作家たちによるトークイベントなんですね。
 どうしても、川上弘美さんが見たかったので
 私は川上弘美×北方謙三
 「作家として書き続けること」という対談を
 拝聴しました。

 会場が丸ビルの一角だったので
 椅子席が50ほど用意されていましたが
 芥川2
 その抽選に外れて
 仕方がない。
 始まる1時間前からとにかく川上弘美さんが
 じっくり見れる場所で
 立ちん坊。
 そこに特別ゲストとして
 第150回直木賞を『恋歌』で受賞した
 朝井まかてさんが登場。
 いやはや、ラッキー。

 川上弘美さんの登場までに
 受賞作の原稿について書いておくと
 中上健次さんの『』や
 石原慎太郎さんの『太陽の季節』の原稿があって
 中上健次さんはさすが中上健次さんというしかない
 力強い文字に圧倒。
 このあとトークイベントに登場した北方謙三さんは
 中上健次さんや立松和平さんと競いあった仲だとか。
 中上健次北方謙三
 かなり怖そう。
 石原慎太郎さんの文字は
 現役学生らしい、若々しさ。
 この文字で障子を破る男のアレを書いたんですね。

 さて、川上弘美さんの登場。
 残念ながら
 会場は撮影禁止ですので
 紹介ができません。
 始まるまでに撮った会場の雰囲気だけを紹介しますね。
 芥川3
 ここに川上弘美さんが立ったと思って下さい。
 想像こそ創造の原点。
 待ちにまったこの瞬間。
 身長が高いということは聞いていましたが
 確かに高い。
 しかも細身。
 顔小さく、足細く。
 女性を描写するのは難しいですね。
 対談はほとんど北方謙三さんが喋っていましたが
 その合間合間に
 ちょっと異空間から舞い降りた感じの
 つまり時間が少しゆったりしたような
 声と発言。
 まさに川上弘美さんは
 その文体そのままに
 お話されるのでありました。

 デビューまでSF作品を書いていて
 その発表の場があまりなかったこととか
 今の生活ぶりとかを
 とつとつと話す川上弘美さんに
 ひたすら感激していました。
 メモさえとらずに。
 残っているのは
 川上弘美さんが最後に言ったひとこと、

   本は面白い。

 それに尽きる。
 どんと胸にはいってきました。
 まさに充実の1時間強。
 春の冷たい雨が降る夜を
 ふうふん言いながら
 帰りました。

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プレゼント 書評こぼれ話

  先日松屋銀座で開かれている
  「誕生50周年記念 ぐりとぐら展」に
  行ってきました。
  ぐり
  『ぐりとぐら』はいうまでもなく
  なかがわりえこ(中川李枝子)さんと
  やまわきゆりこ(山脇百合子)さん姉妹による
  名作絵本です。
  最初の絵本『ぐりとぐら』が出版されたのが
  1963年
  実に半世紀に亘って
  読み継がれてきた絵本です。
  会場にはお子さんを連れた若いお母さんたちや
  お孫さんも一緒の三世代の人たちもいて
  この絵本が
  どんなに長い間
  たくさんの人たちを魅了していたかが
  わかります。
  ぐり2
   チケットは写真のように
  絵本の中に出てくる卵の形。
  会場内には原画や絵本の世界を表現した
  大きなオブジェ。
  おしまいのコーナーでは
  『ぐりとぐら』の絵本が
  楽しめたり。
  入場料はおとな1000円
  3月10日まで開催されています。
  そこでということもないのですが
  今日は
  益田ミリさんが書いた絵本ガイド
  『おとな小学生』を
  紹介します。
  もちろん、この中にも
  『ぐりとぐら』が紹介されていますよ。

  じゃあ、読もう。

おとな小学生 (一般書)おとな小学生 (一般書)
(2013/02/06)
益田ミリ

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sai.wingpen  「ぐりとぐら展」が開催されているタイミングに読めるなんて                   

 コミックエッセイで人気の高い益田ミリさんが書いたこの本は、実は益田さんの「思い出の絵本二十冊」を紹介しつつ、自身の「子ども時代」のことをエッセイとマンガにしたもの。
 益田さんは「幼い日に読んだ、もしくは読んでもらった絵本は、有効期限のない切符のようなもの」と書いています。 「いつでも、懐かしい場所に連れて行ってくれる」からだと。
 では、益田さんがどんな絵本を紹介しているかというと、なかがわりえこさんの『ぐりとぐら』だったり、安野光雅さんの『ふしぎなえ』だったり、加古里子さんの『だるまちゃんとうさぎちゃん』だったりです。
 海外の絵本もあります。ガース・ウイリアムズの『しろいうさぎとくろいうさぎ』やトルストイの『おおきなかぶ』といった、絵本の世界では長く愛されている名作もあります。
 ちなみに益田さんは1969年生まれですが、アネット・チザンの人気絵本『おばけのバーバパパ』があったりして、この絵本がいかに息の長い人気絵本かということがわかります。

 中でも、小学生の頃のお誕生日会に先生に読んでもらった『12のつきのおくりもの』には思い出がいっぱいです(「誕生日のプレゼント」)。
 だから、おとなになってからも「もう一度、あの絵本を読んでみたい!」と、さがしてみます。
 ようやく手にしたその絵本を手にして、益田さんはこう思います。「ほんの六歳のときの記憶を、どうやってこんあ歳月、からだの中に保存できていたのだろう」って。
 なんと幸福なことでしょう。
 この本全部がそうなのですが、一冊の絵本に思い出がたくさんつまっています。
 その逆もいえます。思い出のなかにいつまでも古びることのない絵本があります。
 『12のつきのおくりもの』はチェコの民話を再話した絵本ですが、その故郷を訪ねて、益田さんは遠くチェコまで出かけています。この場面は特別な一章として収められています。もちろん、益田さんのイラスト付きで。

 絵本はもしかしたらタイムマシンのようなものかもしれません。
 子どもの頃に読んだあの時代に連れていってくれるのですから。
  
(2014/03/04 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  今日は雛祭り
  いうまでもなく、女の子の節句。
  俳句の世界では
  たくさんの句が残っています。

    折りあげて一つは淋し紙雛  三橋鷹女

  そして、
  昨日につづき
  先日亡くなった詩人のまど・みちおさんの
  本を紹介します。
  『Eraser  けしゴム』です。
  この本も
  皇后美智子さまの英訳がついています。
  安野光雅さんが装丁をしています。
  今日の書評の中で
  谷川俊太郎さんの言葉や
  戦争詩についての
  まど・みちおさんの言葉などは
  3月1日付の朝日新聞の記事を
  参考にさせて頂きました。
  まど・みちおさんの詩は
  これからも
  たくさんの人に口ずさんでもらえるだろうと
  思います。
  ぜひ、皆さんも
  一度まど・みちおさんの詩集を
  手にしてみて下さい。

  じゃあ、読もう。

Eraser けしゴムEraser けしゴム
(2013/06/17)
まど みちお

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sai.wingpen  追悼2:まど・みちおさん - とぎれない夢                   

 2月28日に104歳で亡くなった詩人まど・みちおさんの詩を谷川俊太郎さんはこう言い表しています。
 「こんなにやさしい言葉で、こんなに少ない言葉で、こんなに深いことを書く詩人は、世界で、まどさんただ一人だ」。
 童謡「ぞうさん」や「やぎさん ゆうびん」で、私たちはまどさんの詩に自然と触れているのですが、谷川さんの評にあるようなまどさんの世界にはいるためにその詩集を読むのはわるくありません。
 この詩集は、まどさんの詩の世界を知るにはうってつけともいえます。

 「かぼちゃ」という詩があります。
 「すわったきりだが/かたが こる」、たったこれだけの詩です。
 かぼちゃと向き合っている詩人の、こわいくらいの目を感じませんか。
 あるいは、「キャベツ」という詩。
 「どんな バラが さくのか/この おおきな つぼみから」とだけ。キャベツとバラをつなげる人は、たぶん、あまりいません。
 しかし、まどさんはキャベツの折り重なる葉の形状を見て、バラの花に似ていることに気づくのです。
 かぼちゃやキャベツといった食物だけでなく、動物たちや生活にあるすべてのものを、まどさんは「観察」し、言葉に紡いでいったのです。

 その「観察」には自分自身も含まれています。
 まどさんは戦争中、戦意高揚の戦争詩を書いたことがあります。そのことについて、「私は臆病な人間。また戦争が起こったら同じ失敗を繰り返す気がする」と語ったことがあります。
 詩人まど・みちおから見た石田道雄(これがまどさんの本名です)という人間は、そういうちっぽけな存在だったのでしょう。
 人は時に自分の姿を過大に評価します。冬の日の影ぼうしみたいに、うんと大きくなったそれを自分の姿と誤解してしまいます。
 まどさんは、そんな影ぼうしに惑わされることを反省していたのかもしれません。
 本当の姿をじっと見た時、まどさんの詩が生まれるのです。

 この詩集には21篇の短い詩が収められています。
 最後に、お気に入りの詩を。
 「いびき」という題名です。
 「ねじを まく/ねじを まく/ゆめが とぎれないように」。
 まどさんの詩もまた、「ゆめが とぎれない」詩ではないでしょうか。
  
(2014/03/03 投稿)

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プレゼント 書評こぼれ話

  詩人のまど・みちおさんが亡くなった。
  2月28日のことです。
  仕事の帰りに図書館に寄って
  まど・みちおさんの本を
  さがしました。
  図書館の人に「まど・みちおさんの本をさがしています」と
  話したら、
  「亡くなりましたね」と
  云われてました。
  その時、まるで
  自分の身内が亡くなったような
  気分になりました。
  そこで見つけたのが
  この詩集『Rainbow  にじ』です。
  この本は『Eraser  けしゴム』と
  二冊同時に昨年の6月に
  刊行されたものです。
  皇后美智子さまが
  まど・みちおさんの
  たくさんの詩から選をなされて
  英訳されたという
  いい詩集です。
  装丁は、安野光雅さんです。
  明日は『Eraser  けしゴム』を紹介します。
  
  まど・みちおさんのご冥福を
  お祈りします。

  じゃあ、読もう。

Rainbow にじRainbow にじ
(2013/06/17)
まど みちお

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sai.wingpen  追悼1 まど・みちおさん - 今でも歌える「ぞうさん」                   

 まど・みちおさんが亡くなった夜、「ぞうさん」を歌って帰った。
 「ぞうさん ぞうさん おはながながいのね そうよ かあさんもながいのよ」。
 歌える。
 初めて歌ったのはいくつのことであったか、そのことさえ忘れてしまっているのに、「ぞうさん」は歌えた。
 「ぞうさん」はまどさんが1948年に書いた詩で、そのあと團伊玖磨さんが曲をつけて1953年に発表されたものです。
 童謡「ぞうさん」ができて60年を越えています。
 いまでも子どもたちは歌っているにちがいありません。
 そんな詩は稀です。
 それが、まど・みちおという詩人の力といえます。

 まどさんの詩は難しくありません。
 この詩集には、皇后美智子さまが選をなされて英訳をつけられたまどさんの詩19篇が収められています。
 その詩のどれもが、やさしい言葉で綴られています。
 やさしいというのは平易ということでもあるし、心を穏やかにする優しさでもあります。
 「ぞうさん」には、難しい言葉はひとつもありません。鼻が長い象をうたっているだけです。けれど、「そうよ かあさんもながいのよ」という一節で、母親を愛する気持ちが表現されています。
 だから、心地よいのでしょう。
 それは、この詩集の作品すべてに通じる、詩人の心です。

 表題作となった「にじ」という詩は、「にじ/にじ/にじ/  ママ/あの ちょうど したに/すわって/あかちゃんに/おっぱい あげて」というだけの短い詩ですが、虹の下でお乳をあげている母親の姿の、なんという神々しさでしょう。
 そこには、母乳をあげる母親の満足も赤ん坊の幸福も見事に表現されています。
 この詩集の私の一番のお気に入りは、「なのはなと ちょうちょう」。
 「なのはな/なのはな/ちょうちょうに/なあれ  ちょうちょう/ちょうちょう/なのはなに/なあれ」。
 情景が目の前にひろがるような詩です。
 それもまた、まどさんの詩の魅力だといえます。

 まど・みちおさんが生きた104年。
 まどさんはたくさんのことを見、たくさんのことを耳にしてきたでしょう。
 きっと一番たくさん目にしたのは、子どもたちの笑顔だったにちがいありません。
 それがまどさんが一番望んだものだったのですから。
  
(2014/03/02 投稿)

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