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 副題にある「竹内浩三」をウィキペディアで調べると、「日本の詩人」とある。
 けれど、萩原朔太郎中原中也といった詩人とは違うし、
 戦後の谷川俊太茨木のり子といった詩人とも違う。
 竹内浩三は昭和20年4月、23歳の時ルソン島で戦死していた青年だった。
 その彼が「日本の詩人」として名を後の世に残すことになったのは、
 「戦死やあわれ」とうたわれた『骨のうたう』という一篇の詩が、
 戦後多くの人に知られていったことがきっかけとなった。
 1979年生まれの稲泉連竹内浩三を知るのも、
 2001年11月に出版された『竹内浩三全集』全一巻との出会いであった。

 稲泉連はこの『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』により、
 2005年に第36回大宅壮一ノンフィクション賞を史上最年少で受賞している。

   

 竹内浩三という詩人が生まれたのは、竹内の遺稿を大切に保管されていた姉の存在が大きい。
 そして、その姉から遺稿を託された浩三の友人たち、
 偶然浩三の詩を知ることになった若くして亡くなってしまうNHKのディレクター、そして彼の友人。
 そういった人のつながりが竹内浩三という無名の兵士を「日本の詩人」に生まれ変わらせたといえる。
 そして、そこにつながっていくのが、20代前半だった稲泉だ。
 稲泉がこの作品を書き、大宅壮一賞を受賞したことで、
 竹内浩三はこれからも「日本の詩人」であり続けるだろう。

 竹内浩三は『骨のうたう』で反戦詩人のようにいわれることが多いが、
 『五月のように』は「青空のように/五月のように/みんなが/みんなで/愉快に生きよう」といった、
 高い空をあおぐような詩も書いた「日本の詩人」なのだ。

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