03/12/2009 書評の明日 第三回 「書評って何だろう」

時々、というか、割と頻繁に、
「書評」って何だろう、って考えます。
今日は、丸谷才一さんの『蝶々は誰からの手紙』という本をテキストにして
少し真面目に「書評」とは何かを考えてみたいと思います。
明日、この本の書評も蔵出ししますので、
楽しみにして下さい。
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この人の書くエッセイも好きですが、書評に対する「読み」も
深く敬愛しています。
そんな丸谷さんですが、この本の「書評と「週刊朝日」」という文章の中で
いくつか、それを考えるヒントが書かれています。
「本を買ふためだけに書評を読むとは限らない。本のダイジェストとして
書評を読むということもある」(36頁)
ここ大切なので、下線を勝手に引きました。
「本のダイジェスト」が書評には必要だということです。
丸谷さんは他の文章(「扇谷正造と斎藤明が作つたもの」)の中でこうも書いています。
「紹介、つまりダイジェストを上手にやり、適切な批評を加へる。
文章を引きずりこんで、おしまひまで読ませる、わかりやすくてしやれた書き方をする」(54頁)
ここで、うんと簡単に解釈しますよ。
つまり、書評とは「紹介(ダイジェスト)+批評性」をもったジャンルだということです。

もっと難しいのが「批評性」。
丸谷さんはそのことについて、こう書いています。
また、別の文章(「イギリス書評の藝と風格について」)からの引用です。
「対象である新刊本をきつかけにして見識と趣味を披露し、
知性を刺激し、あはよくば生きる力を更新することである」(67頁)
すごいな、丸谷さん。
丸谷さんのいう「批評性」って、いいとかダメだといったことではないんですよね。
なんてたって「知性を刺激」させないといけない。びーんと。
さらに「生きる力を更新」させるぐらいの力がないといけないのです。
書評を読んで、海に向かって「バカヤロー」ぐらい叫ばないと。

「感想」はどうしても自分が主体になるけれど、「書評」はそうではない。
もちろん、「批評」するためには確たる自分が必要ですが。
その上で、
「何と言つても大事なのは、その書評の書き方の感じだと思ふ。
しつかりした文章、藝のある話術、該博な知識、バランスのとれた論理、
才気煥発の冗談などを駆使する」(37頁)
となるわけです。

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