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プレゼント 書評こぼれ話

  今回書きました久世光彦さんは知らない人がいるかもしれませんが、
  かつて『時間ですよ』とか『寺内貫太郎一家』とか『ムー一族』といった、
  TBSの黄金期を作った演出家です。
  『時間ですよ』の放映は昭和45年。覚えている人もいるでしょうが、
  なんといってもドラマの舞台が「銭湯」というのが驚きでした。
  毎回ちらちらと裸の女体が画面に登場するのですから、
  血気盛んな少年期の私にとっては、やはり忘れられない番組ですね。
  天地真理さんとか浅田美代子さんが売れ出すのもこの番組から。
  吉田拓郎さんも出たような記憶があるのですが、
  ちょっと曖昧です。
  『寺内貫太郎一家』の暴力シーン? も見ごたえがあったというか、
  それまでのドラマではない演出でしたよね。
  つまり出来上がりつつあった既成概念を、
  一生懸命壊そうとしていたのが久世さんだったように思います。
  
久世光彦vs.向田邦子 (朝日新書)久世光彦vs.向田邦子 (朝日新書)
(2009/02/13)
小林 竜雄

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sai.wingpen  まっとうな「久世光彦論」                     矢印 bk1書評ページへ

 ぼにょぼにょ書かずに、ばーんと書きます。
 この本の書名はひどい。
 いったいどのような経緯でこのような書名がついたのかわからないが、あんまりなつけかただ。
 百歩譲って、副題程度ならまだ我慢できるが、この本は純粋に「テレビドラマを作りながらエッセイや小説も書いてテレビ界と文芸の世界を往復」(199頁)した、奇才久世光彦論であり、向田邦子はその過程の接点にすぎない。それを「VS.」という形にしてしまうのはどういう理由だろう。
 おいしいアジフライ定食をミックスフライ定食と名付けてしまうようなもの。
 「死んでも向田邦子のお世話になるのかい」と天国の久世も苦虫を噛んでいるようで、それもまた面白いのだが。
 確かに奇才久世光彦は本書で読むかぎり才媛向田邦子をかなり意識していたと思われる。
 しかし、著者が書いているように「向田は生活の中の何気ないところに<美>を見出したが、久世はそれだけでは物足りず<美学>がないと自分のものにはならなかった」(153頁)というほど、根っこの部分でかなり相違している。つまり、本来は意識すべきことなど存在しなかったはずである。
 もし、意識することがあるとすれば、学生時代に捨てたはずの文芸の世界を久世は内心捨てきれていなかったということかもしれない。
 TVの世界で同じ釜の飯を食べた二人(そういう点では久世と向田こそ<戦友>であったといえる)でありながら、向田はいとも簡単に文芸の世界に行ってしまった(向田邦子が第八十三回直木賞を受賞したのは昭和55年、久世が最初のエッセイ集を出版するのが昭和62年である)ことへのこだわりが、久世にはあったにちがいない。

 しかし、残念ながら、久世光彦の評価は作家としてよりもTV演出家として残るだろうと思われる。
 それは久世の作家としての作品がどうこうではなく、あまりにも演出家としての久世の存在が大きいからだ。
 そして、忘れてならないのは、久世は草創期のTV界での奇才ではなく、すでに熟し始めたTV時代の奇才だったということだ。
 「幸せになるとそれを壊したくなるという破壊願望」(73頁)を久世を知るための「興味深い指摘」と著者が書いているように、久世は成熟し始めたTV界の幸せを壊すことでその地位を作り上げていったのではないだろうか。

 久世光彦というTV人間を忘れないためにも、この本にはちゃんとした書名をつけてほしかった。
 少なくとも、中身はまっとうな「久世光彦論」なのだから。
  
(2009/03/11 投稿)
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