02/20/2012 『ぴあ』の時代(掛尾 良夫):書評「私たちの青春」

昨日の朝日新聞書評欄の
「著者に会いたい」というコーナーで
今日紹介する、
掛尾良夫さんの 『ぴあ』の時代』が
掲載されていました。
大きく、
「並走者から見た情報誌の歩み」と
見出しがでています。
そのなかで、
掛尾良夫さんは
「取材を通じて私もエネルギーをもらいました」と
答えています。
「ぴあ」の創業者矢内廣さんと掛尾良夫さんは
1950年生まれの同年代。
私にとっては
5歳年上。
青春時代に夢中になった「ぴあ」が
そういう若い人たちが作ったものであったことに
驚くとともに
感慨深いものがあります。
じゃあ、読もう。
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情報誌「ぴあ」に初めて接したのは、確か1974年頃だと思います。創刊が1972年ですから、そんなに遅くない頃に出会いました。
きっかけは学生寮でした。二人部屋の相方が武蔵野美大の学生で、彼がその雑誌を初めて見せてくれました。カップヌードルが自動販売機で売られていた時代です。
その学生寮では色々なことが初めてでした。ケンタッキーフライドチキンを初めて食べたのもその寮でした。とってもジュシーで、こんなにうまいものがあるのかと驚いたものです。食べさせてくれたのは、和歌山出身のお金持ちの息子。彼はどこの大学生だったかな。
その頃、名画座、今の若い人にはわからないかもしれませんがロードショー映画が何年も経って二本立て興行されるそんな映画館のことです、はブームでした。
地方から出てきた学生にとって名画座は憧れの聖地でした。
大阪の地方都市で高校時代を過ごした私にとって、映画雑誌「キネマ旬報」に掲載された名画座のラインナップは垂涎の的でした。こんな名画座のある東京に行ってみたい。それだけでも自分の中では東京に行く、りっぱな理由があったのです。
実際東京に出てみると、そこは映画館の百花繚乱でした。一体どこの映画館でどんな映画が上映されているのか、インターネットが発達した現代では考えにくいことですが、そのことがちゃんとわかっていませんでした。
ですから、「ぴあ」の登場は、実際には創刊から何年めの出会いですが、映画青年だった人間には歓喜の何物でもありませんでした。
友人から見せられた「ぴあ」は、そのあと、自分で購入する唯一の雑誌になりました。
もしかした、「ぴあ」の時代を懐かしく感じるのは、すごく限定的な時代に東京に住んでいた世代かもしれません。
地方に住む若者たちは、「ぴあ」の時代の熱気を自分のものにできないでしょう。それほどに一部の若者の文化だったと思います。
それでも、あの時代、1970年代は「ぴあ」の時代だったといっても、誰も否定しないと思います。
それほどに「ぴあ」は時代の風景を見事に描いていたのです。
本書は今や伝説ともなった「ぴあ」の創刊から、昭和の時代をメインに描いた「青春物語」といっていいでしょう。
著者の、元「キネマ旬報」編集長でもある掛尾良夫さんは「『ぴあ』は生まれるべくして生まれた、必然だった」と書いていますが、時代が『ぴあ』を求め、1950年生まれの矢内たち創業者たちがそれを見事に「必然」したのだといえます。
残念ながら『ぴあ』は2011年に休刊となりました。インターネットが発展した時代に、雑誌形式の『ぴあ』は時代遅れだったかもしれません。
けれども、だからこそ『ぴあ』は私たちの青春とともにした、同志だったのです。
(2012/02/20 投稿)

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