書評こぼれ話
いよいよ鶴ヶ城の攻防が始まりました。
NHK大河ドラマ「八重の桜」の話です。
そこで、今日は
その様子も詳しい、
星亮一さんの『敗者の維新史―会津藩士荒川勝茂の日記』を
紹介します。
これも中公新書の一冊ですが、
以前も書きましたが、
新聞広告で
「中公新書で読む『八重の桜』の時代」というものがあって
それに誘われて
こうして毎週のように読んでいるのですが
面白いですね。
特にドラマの方が盛り上がっていますから
家族にも薀蓄を自慢しています。
父親の威厳、
って感じ。
星亮一さん、中公新書さん、お世話になります、です。
じゃあ、読もう。
NHK大河ドラマを見るならこの本ははずせない
「身にはマンテルをおおい、小袴を着け、あたかも男子のごとし」と、幕末の会津藩の悲劇を描いた本の基になった「会津藩士荒川勝茂の日記」に描かれているのが、NHKの大河ドラマの主人公八重である。
「これは山本覚馬妹にして川崎庄之助妻なり。さすがに砲術師範の家の女なり。大砲を発する業誤らず敵中へ破裂す。諸人目を驚かす」と、官軍に包囲された会津鶴ヶ城にあって八重の活躍を書きとめている。
この本が上梓されたのは1990年だから、もちろんこの八重が後に大河ドラマの主人公になるなど、著者の星亮一も知るところではない。
日記を書いた荒川勝茂は会津の中級武士で、松平容保の京都守護職拝命にともなって京詰めとなってもいる。日記にはその時の京都の様子、さらには戊辰戦争、そして会津での戦いなどが描かれている。
さらには、敗戦後流浪の民となり越後高田での謹慎生活、さらには北の荒廃地斗南藩での厳しい生活と挫折、そして会津へ帰郷してからの生活と続く。
会津藩の悲劇は、この日記の主である勝茂だけでなく、「一万数千人の藩士と家族すべてに及ぶ痛恨事」だった。
それは単に官賊として追われた悲劇ではなく、会津人にとっては「京都守護職として忠誠に励みながら、何ら報われることのなかった」「深い憤り」があった。
しかし、それでいて勝茂の日記からはそれでもその苦渋を引き受け、家族を失いながらも朴訥と生きる、会津人のけなげな姿がうかがえる。
歴史をひもとくにはさまざまな資料がある。実際幕末の会津藩の様子は明治40年代になってようやく会津の山川浩によって書かれた『京都守護職始末』などによって明らかにされるのだが、勝茂のこの日記も資料としての価値は高い。
特に、会津での戦いの様子はこれが戦争であったことを実感できるものだ。けっしてきれいごとではない。
勝茂は「西郷の屋敷へ出でけるに(中略)見るも哀れなる事なり」と、西郷頼母一族の死の現場の様子も描いている。
「敗者」というが、一体会津藩は何に敗れたのか。あまりにも厳しい、歴史の姿である。
(2013/07/06 投稿)
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「身にはマンテルをおおい、小袴を着け、あたかも男子のごとし」と、幕末の会津藩の悲劇を描いた本の基になった「会津藩士荒川勝茂の日記」に描かれているのが、NHKの大河ドラマの主人公八重である。
「これは山本覚馬妹にして川崎庄之助妻なり。さすがに砲術師範の家の女なり。大砲を発する業誤らず敵中へ破裂す。諸人目を驚かす」と、官軍に包囲された会津鶴ヶ城にあって八重の活躍を書きとめている。
この本が上梓されたのは1990年だから、もちろんこの八重が後に大河ドラマの主人公になるなど、著者の星亮一も知るところではない。
日記を書いた荒川勝茂は会津の中級武士で、松平容保の京都守護職拝命にともなって京詰めとなってもいる。日記にはその時の京都の様子、さらには戊辰戦争、そして会津での戦いなどが描かれている。
さらには、敗戦後流浪の民となり越後高田での謹慎生活、さらには北の荒廃地斗南藩での厳しい生活と挫折、そして会津へ帰郷してからの生活と続く。
会津藩の悲劇は、この日記の主である勝茂だけでなく、「一万数千人の藩士と家族すべてに及ぶ痛恨事」だった。
それは単に官賊として追われた悲劇ではなく、会津人にとっては「京都守護職として忠誠に励みながら、何ら報われることのなかった」「深い憤り」があった。
しかし、それでいて勝茂の日記からはそれでもその苦渋を引き受け、家族を失いながらも朴訥と生きる、会津人のけなげな姿がうかがえる。
歴史をひもとくにはさまざまな資料がある。実際幕末の会津藩の様子は明治40年代になってようやく会津の山川浩によって書かれた『京都守護職始末』などによって明らかにされるのだが、勝茂のこの日記も資料としての価値は高い。
特に、会津での戦いの様子はこれが戦争であったことを実感できるものだ。けっしてきれいごとではない。
勝茂は「西郷の屋敷へ出でけるに(中略)見るも哀れなる事なり」と、西郷頼母一族の死の現場の様子も描いている。
「敗者」というが、一体会津藩は何に敗れたのか。あまりにも厳しい、歴史の姿である。
(2013/07/06 投稿)
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