05/19/2009 私の好きな作家たち 第十回 司馬遼太郎

「司馬遼太郎」さんです。

私の気分としては、
とうとう司馬サンかという気分です。
先に書いておくと、
私の中では、司馬遼太郎という人は、
「歴史作家」ではなく、
「思索家」、あるいは「詩人」みたいにしてあります。
そういう気分の人なのです。

かなり晩生(おくて)でした。
たぶん、最初読んだのはやはり『竜馬がゆく』でしたが、
私はすでに30歳を過ぎていました。
司馬サンが『梟の城』で第42回直木賞を受賞したのが、
昭和35年(1960年)ですから、
本当ならもっとずっと早くに司馬サンの文学に触れてもよかったはずですが、
何しろ若い時分というのは、
「大衆文学」なんて低俗で、文学は「純文学」でないといけない、
みたいな青臭い思い込みがあって、
司馬サンに限らず直木賞作家はほとんど読んでいませんでした。
いやぁ、まったくもって、恥ずかしい。
まあ、若いということは、
そういう間違いを平気でしてしまうことがある。

そのあと『坂の上の雲』を読んで、
ああ、この人はすごいと感じ入りました。
ただ、司馬文学の難点は、あまりにも長いこと。
だから、私にはまだ未読の司馬作品がたくさんあるのですが、
私はついにそれを読むことがないまま、
一生を終わるだろうという、
どこか諦めに似た気持ちもあります。
もちろん、今の読書時間をすべて司馬サンに振り向ければ
読めないこともないけれど、
私にとっての司馬文学は、そういう、どこかでまだ
とっておきたい気分というものがあります。
まだ、司馬サンの作品を全部読めていないのだぞ、
しっかり生きるんだぞ、みたいな気分ですかね。

司馬サンがもう小説は書かないといったあとの、
随筆とか紀行文とかにはまったわけですが、
今でも「もし司馬サンが生きておられたらどのような発言をされるのだろう」と
思うことがあります。
例えば、今の世界不況の問題であったり非正規社員の雇用の問題であったりです。
おそらく司馬サンは声高に何かを述べるのではなく、
歴史であったり社会であったり、そういう広い視野にたって
発言されただろうなと思います。
そして、その口調は軟らかだったに違いない、と。

司馬サンの『草原の記』の冒頭の一節を読んだ時からかもしれません。
空想につきあっていただきたい。
なんという、軟らかで、やさしく、奥深い言葉でしょう。
司馬サンの文学なり歴史観なり、紀行文なり随筆なり、を読むと
どこかこういう言葉の魔力のようなものを感じます。
だから、私はもっともっと、
司馬サンの文章の魅力を知りたいと常々思っています。
本当は、そろそろ、本当に司馬サンの世界にはいらないと
時間がなくなるかもしれない。
でも、やはり、最後の最後まで、
司馬サンはとっておきたい、そんな気分なのです。

日本経済新聞の「日曜俳壇」(黒田杏子選)に掲載された
司馬サンの忌日「菜の花忌」という言葉にひかれて詠んだ、
小さな自慢の作品です。
菜の花忌三歩離れてついていく (2000.3.19)
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