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本 さて、今日は昨日のつづき、
 今日は昨日の未来昨日は今日の過去、なんてつまらないことを書いているから
 いつも「講演記録」が長くなってしまいます。
 反省しながら、つい書いてしまう。
 さて、本当にさてです、今日は昨日の「公開対談」のつづきです。

本 その前に昨日の前編を読んでいない人はここをクリックして下さい。
 そこまで、昨日書いたこと。
 今日は「第3回大江健三郎賞」を受賞した、安藤礼二さんの
 『光の曼荼羅』に書かれている折口信夫(1887-1953)について、まず書きます。
 折口
 写真は折口信夫です。
 ちなみに、この人「おりくち」なのか「おりぐち」なのか、
 安藤礼二さんは「おりくち」って話されていました。
 名前は「しのぶ」。
 日本の国文学、民俗学の第一人者で、歌人としても有名です。
 歌人としては「釈迢空」(しゃく ちょうくう)という号で詠っています。
 私、この折口信夫に痛い思い出があって、
 大学生の頃に、もう30年以上も前ですが、
 中央公論の文庫、いわゆる中公文庫ですが、
 そこから折口信夫の全集が刊行されたんですね。
 何を血迷ったか、折口を読もうと、文庫にしては結構高かったのですが、
 毎月きちんと買い続けました。
 でも、まったく読めなかった。
 そして、学生生活の終わりに新井薬師(東京中野区)の駅前にあった
 古本屋さんに売ってしまいました。
 安藤礼二さんも言ってましたが(やっと講演記録にもどった)、
 「最初は何が書いてあるかわからなかった。でも、自分のなぞを解いて
 いくことで見えてきた」
 そうです。このあたりが私のような凡人とのちがいなんでしょうね。

本 これは今回の「公開対談」で、
 大江健三郎さんが求めた「独学」というテーマと関係するのですが、
 わからないことをそのままにするのではなく、
 自分で解いてみることは、とても大事だと思います。
 安藤礼二さんは「批評」について、こうも話しています。
 「批評とは、対象を分析して、自分で読み解いていくもの。
 そして、自分のものをつくっていく。
 それが、創作の原点ではないでしょうか」
 それに関して、大江健三郎さんがこう話していました。
 「伝説とか伝承とか、人から人へ伝わってきた物語も、実は
 一番最初につくった人があるはずで、そういうものを解いていく、
 その方法として、小説はもっとも有効だと思う」
 ちょっど玉葱の皮をむいていくようにして、ものごとの核心に迫っていく。
 確かに大江健三郎の仕事はそういうものであったと、
 思い知らされるようでもありました。

本 安藤さんは「人間には2つの時間がある」と話しています。
 「ひとつは、流れ去る、普通の時間軸。
 もうひとつは、滅ばない、懐かしい記憶のよみがえるような重層な時間軸」
 この考えは、安藤さんの根幹にある「複雑性」とも関係しているし、
 大江さんも、単純と複雑という比較の中で、
 「明確な言葉をつくっていく」ことが大事であると話されています。
 その上で、加藤周一さんの仕事を評価されていました。

本 対談の最後に、参加者からいくつか質問をうけたのですが、
 印象的だったのは若い人のこういうものでした。
 それは、大江さんや南方熊楠(この人も安藤礼二さんの研究対象なのですが)は
 天然自然にごく普通に取り込まれていた世代だが、
 現在のように自然が少なくなってきた世代のものとして
 どのように生きればいいのか、という内容でした。
 それに対して、大江さんはこう話された。
 「私は森の中で育ったが、自然を受けとめられていたとは思っていません。
 重要なのは、個です
 自然への道は、いつも開かれています。
 言葉、そのものも自然だと思います」

本 今回「第3回大江健三郎賞」公開対談に参加して、
 生(なま)の大江健三郎さんを見て思ったことは、
 大江さんの話がたいへん面白かったことです。
 この人は「ユーモアの人」なんだということです。
 そして、このユーモアとはぎこちないものだけれど、
 生きることの真実をどこかで示す、そんな効用をもっているのではないか。
 道化師の涙、みたいな。

本 私は若い頃からずっと大江健三郎という作家が書いた作品を
 読み続けてきましたが、
 それはけっして間違いではなかった。
 そうだ、それでよかったのだ。
 そう思えた、時間でした。
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