05/14/2009 一億人の俳句入門:書評

今回は朝日新聞の「朝日俳壇」に採用されて記念として、
2005年の蔵出し書評ですが、俳句の本の紹介をします。
実は、私、わりと俳句の本(ほとんどが入門書の類ですが)を
読んでいるのですが、
「朝日俳壇」の選者で、私の俳句を選んで頂いた、
長谷川櫂さんに敬意を表して、
長谷川櫂さんの『一億人の俳句入門』という本にします。
長谷川櫂さんというのは、サムシングブルーさんがコメントの中にも
書いておられましたが、「週刊日本の歳時記」の中でも毎号記事を
書いていましたし、NHK俳壇にも出演されています。
俳句をする人というのはどうもお年寄りのイメージがありますが、
長谷川櫂さんは私と同年代です。
もちろん、それをもって若いともいえませんが、
少なくとも長谷川櫂さんはエネルギシュな若々しい感じがします。
現在、若い人向きの「子規論」を執筆中だとか、
これもまた、楽しみです。
![]() | 一億人の俳句入門 (2005/10) 長谷川 櫂 商品詳細を見る |


俳句は詠む文芸である。
鑑賞という意味の「読む」ではなく、創造するとか作るという意味の「詠む」である。
俳句人口は何億ともいわれるが、それは創作を愉しむ人の数であって決して俳句の読者数を指すものではない。そういう意味では俳句は小説や詩あるいは短歌といったものとは大きく相違する。
小説を読むのが好きな人であっても自分で書こうとはなかなかしない。しかし俳句の場合、作ることを前提に先人たちの作品を読むのであり、本書のような「俳句(を詠むための)入門」(注:かっこ内は書評子が追記)書が出版されている。
俳句は決して容易に詠むことができるものではない。
本書でも取り上げられているが、「切れ」や「季語」は奥の深い課題である。なにより五七五という十七文字の世界で表現しないといけない窮屈な文芸でもある。
ちなみに書評子は山頭火や尾崎放哉に代表される自由律俳句は短詩であっても俳句ではないと思っている。あくまでも俳句は五七五の定型や季語といった窮屈な世界で成り立つものであって、その窮屈さの中でどれだけ自由な世界を描けるかということかと思う。
そのような文芸にかかわらず、どうして俳句を詠む人は後を絶たないのだろうか。
それは本書の冒頭でも論じられている(第一章 俳句の音楽)ように俳句の持つ五七五のリズムに秘密があると思われる。
著者はそのリズムのことを「日本語の深部から発せられる鼓動」であり、「生きものの胸の奥で心臓が刻んでいる強・弱のリズムと同じように根源的なもの」(16頁)と表現している。
その根源的なリズムが俳句を詠むという行為を平易なものであると誤解させているともいえる。例えば子規の有名な俳句「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を初めて読んだ人はどう感じるだろう。すぐさま同様な俳句(もどき)を詠めそうな気になる。そして指を折りつつこんな句(もどき)はすぐ作れる。「飯くへばのどが鳴るなり我が猫は」
それほどに五七五のリズムは日本人にあったリズム感だと思う。
街にあふれる防火や交通標語の多くもそのリズムで書かれていることに気がつく。
ただ俳句をよくする人はこのリズムだけでは俳句が成立しないことに気がつく。季語にどのような含みを持たせるのか。どのように切れをいれるべきか。取り合わせか。一物仕立てか。わずか十七文字の世界に惑うことになる。
俳句の入門書が続々と出版されるのにはそういった事情がある。本書はこれから俳句を詠みたいと思っている初心者だけでなく、俳句を詠むことにやや悩み始めた中級者にも納得がいく「入門書」だ。特に俳句にあって悩ましい問題である「切れ」や「季語」に多くの紙幅が割かれているのがうれしい。
「霜柱俳句は切字響きけり」(石田波郷)
(2005/12/04 投稿)
本書でも取り上げられているが、「切れ」や「季語」は奥の深い課題である。なにより五七五という十七文字の世界で表現しないといけない窮屈な文芸でもある。
ちなみに書評子は山頭火や尾崎放哉に代表される自由律俳句は短詩であっても俳句ではないと思っている。あくまでも俳句は五七五の定型や季語といった窮屈な世界で成り立つものであって、その窮屈さの中でどれだけ自由な世界を描けるかということかと思う。
そのような文芸にかかわらず、どうして俳句を詠む人は後を絶たないのだろうか。
それは本書の冒頭でも論じられている(第一章 俳句の音楽)ように俳句の持つ五七五のリズムに秘密があると思われる。
著者はそのリズムのことを「日本語の深部から発せられる鼓動」であり、「生きものの胸の奥で心臓が刻んでいる強・弱のリズムと同じように根源的なもの」(16頁)と表現している。
その根源的なリズムが俳句を詠むという行為を平易なものであると誤解させているともいえる。例えば子規の有名な俳句「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を初めて読んだ人はどう感じるだろう。すぐさま同様な俳句(もどき)を詠めそうな気になる。そして指を折りつつこんな句(もどき)はすぐ作れる。「飯くへばのどが鳴るなり我が猫は」
それほどに五七五のリズムは日本人にあったリズム感だと思う。
街にあふれる防火や交通標語の多くもそのリズムで書かれていることに気がつく。
ただ俳句をよくする人はこのリズムだけでは俳句が成立しないことに気がつく。季語にどのような含みを持たせるのか。どのように切れをいれるべきか。取り合わせか。一物仕立てか。わずか十七文字の世界に惑うことになる。
俳句の入門書が続々と出版されるのにはそういった事情がある。本書はこれから俳句を詠みたいと思っている初心者だけでなく、俳句を詠むことにやや悩み始めた中級者にも納得がいく「入門書」だ。特に俳句にあって悩ましい問題である「切れ」や「季語」に多くの紙幅が割かれているのがうれしい。
「霜柱俳句は切字響きけり」(石田波郷)
(2005/12/04 投稿)
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