05/23/2009 私とは何か さて死んだのは誰なのか:書評

2007年2月に亡くなった池田晶子さんの、
この春新たに刊行された3冊の、今日は2冊目、
『私とは何か』(講談社)の紹介です。
昨日も書きましたが、この春出版社という枠を超えて、
同じ菊地信義さんの装丁で出版された『死とは何か』(毎日新聞社)、
『魂とは何か』(トランスビュー)ですが、
では、どの本から読むのがいいかというと、
これはなかなか難しい問題です。
私は『死とは何か』『私とは何か』『魂とは何か』の順に
読みましたが、別にそれにこだわることはないと思います。
もし、今「私」に興味があるなら、『私とは何か』でいいでしょうし、
「死」に関心があれば『死とは何か』でいいと思います。
どちらかといえば、『魂とは何か』は少し難解ですから、
少し池田晶子さんになれてからの方がいいかな。
この『私とは何か』には書評にも書きましたが、
池田晶子さんの小学生の頃の作文が所載されていますし、
『死とは何か』には「肉筆原稿」が載っています。
そういう興味で読むのもいいと思います。
さあ、「哲学」しましょう。
![]() | 私とは何か さて死んだのは誰なのか (2009/04/02) 池田 晶子 商品詳細を見る |


彼女は「書く人」であった。
本書は、2007年2月に亡くなった文筆家池田晶子さんの、未発表原稿や書籍未収録原稿を三つのテーマにして編まれた三冊のうちの一冊です。
日常の言葉で「哲学」を語り、「哲学エッセイ」という分野を確立した池田晶子さんならではの「産経新聞」に23回にわたって掲載された短文などが収められています。一般紙での掲載ですから「哲学」が前面に出ることはありませんが、池田さんの読みやすい文章は多くの読者を得たのではないでしょうか。
池田晶子さんが「考える人」であると同時に、実は「書く人」であったという証(あかし)でもあると思います。
本書に「読書と作文」というたいへん興味深い文章があります。
その中で池田さんは「おそらく私は、本を読むのもむろん好きだったけれど、自分で書くことのほうがもっと好きな子供だった」(113頁)と、自身の少女時代をふりかえっています。このことは「文筆家」池田晶子さんを語る場合、忘れてはいけない側面です。
先の文章に続けて、「そのときまでは漠としていた思いとか考えとかいったものが、書きつつある自分の鉛筆の先から言葉となって明らかになる面白さ、うまく言葉の流れに乗っかって遠くまでゆけたときの快感」(同頁)と、「書く」ことの魅力を綴っています。
面白いことに本書では、巻末付録として池田晶子さんの文章の原点とでもいえる、彼女の小学六年生の時の「卒業」作文が収載されています。
「空をとべたら」と題されたニワトリが主人公の物語ですが、書き終って得意満面だったにちがいない聡明な少女の姿が目に浮かぶようです。
この作品に編集事務局はこう記しています。「書き出された言葉によって世界が遥か彼方まで運ばれてゆく快感がすでに如実に現れている」(247頁)と。
とべないニワトリを描きながらも、少女の思いは空高く飛翔していたのではないでしょうか。
池田さんは「書く」ということについて、「文学では「物語る」、哲学では「記す」とでも言われるべきもの」とした上で、「哲学者は、言葉の核へ向けて凝集してゆく自分の微分を観察しつつ、反省の極みに立つ」(46頁・「わたくし、つまりNobody」)としています。
「考える」ということを「書く」ことでさらに深めていく、池田さんがたくさんの文章を書いてこられたのもそういう確信のようなものがあってのことだと思われます。
「「書く」ということは、この指で、この力で、一字一字を書くことだ。掴まえた考えを言葉に封じ込め、この世の地面に刻み込むことだ」(『死とはなにか』・205頁・「転ばぬ先の知恵」) と書く、池田さんの文章にどれほど勇気づけられるでしょう。
(2009/05/23 投稿)
その中で池田さんは「おそらく私は、本を読むのもむろん好きだったけれど、自分で書くことのほうがもっと好きな子供だった」(113頁)と、自身の少女時代をふりかえっています。このことは「文筆家」池田晶子さんを語る場合、忘れてはいけない側面です。
先の文章に続けて、「そのときまでは漠としていた思いとか考えとかいったものが、書きつつある自分の鉛筆の先から言葉となって明らかになる面白さ、うまく言葉の流れに乗っかって遠くまでゆけたときの快感」(同頁)と、「書く」ことの魅力を綴っています。
面白いことに本書では、巻末付録として池田晶子さんの文章の原点とでもいえる、彼女の小学六年生の時の「卒業」作文が収載されています。
「空をとべたら」と題されたニワトリが主人公の物語ですが、書き終って得意満面だったにちがいない聡明な少女の姿が目に浮かぶようです。
この作品に編集事務局はこう記しています。「書き出された言葉によって世界が遥か彼方まで運ばれてゆく快感がすでに如実に現れている」(247頁)と。
とべないニワトリを描きながらも、少女の思いは空高く飛翔していたのではないでしょうか。
池田さんは「書く」ということについて、「文学では「物語る」、哲学では「記す」とでも言われるべきもの」とした上で、「哲学者は、言葉の核へ向けて凝集してゆく自分の微分を観察しつつ、反省の極みに立つ」(46頁・「わたくし、つまりNobody」)としています。
「考える」ということを「書く」ことでさらに深めていく、池田さんがたくさんの文章を書いてこられたのもそういう確信のようなものがあってのことだと思われます。
「「書く」ということは、この指で、この力で、一字一字を書くことだ。掴まえた考えを言葉に封じ込め、この世の地面に刻み込むことだ」(『死とはなにか』・205頁・「転ばぬ先の知恵」) と書く、池田さんの文章にどれほど勇気づけられるでしょう。
(2009/05/23 投稿)
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