03/12/2016 津波の墓標(石井 光太):書評「真実の光と影」

昨日は東日本大震災から5年ということで
被災地はあらためて
悲しみの涙が流された。
日本経済新聞の朝刊コラム「春秋」には
石巻市の大川小学校に残された
児童たちによる卒業制作の壁画の話が
紹介されていた。
大川小学校では84人の児童らが犠牲になった。
その壁画には宮沢賢治のこんな言葉が
記されているという。
世界が全体に幸福にならないうちは個人の幸福はありえない
その言葉を頂戴すれば
「東北が全体に幸福にならないうちに日本の幸福はありえない」ので
ないだろうか。
それはあまりに理想すぎるだろうか。
今日紹介する
石井光太さんの『津波の墓標』を読むと
真実ということすら
わからなくなる。
つらい5年めを迎えた。
じゃあ、読もう。

悲しみは同じではない。
東日本大震災の被災時の状況などを耳にするたび、そう思う。
死者15894人、行方不明2561人。この数の、きっと数倍の悲しみがあの日とあの日に続く日々にはある。
しかも、震災から5年経っても今なお避難生活をおくっている人が17万人以上いる。
この作品は2011年3月11日に起こった東日本大震災のあと、ほぼ2カ月半を被災地で過ごした著者が現場で見聞きしたいくつかの話を記している。
著者には被災地での取材活動の中ですでに『遺体―震災、津波の果てに』という良質の記録作品がある。その中で書き記されなかった多くの人たち、悲しみを、この作品で掬い取る形になっている。
著者はいう。「一つひとつがまったくちがう意味と重みを持つものになるだろう」と。
東日本大震災の報道で海外メディアは口々に東北の人たちがまじめでおとなしく淡々と避難生活を送っていたかのように報じた。
しかし、実際にはそうではない負の面もあったことを、この作品では取り上げている。
それは商店や住居からの強奪だけではない。ATMからなくなった現金は6億を超えると記されている。
被災地だから善ばかりが語られることはない。真実を知ることと、悪を過大に解釈することは違う。
まして、なくなったお金にしろ被災者が盗んだものとは限らない。
あの混乱の中、被災地にもぐりこんだ多くの人たちがいただろう。
たくさんの遺体をカメラにおさめて記念撮影する人たちの様子も、ここには書かれている。
人の行為のすべてが善なのではない。
大きな厄災は時に人間の本質をさらけ出す。
それは報道する側も同じだ。被災から数カ月もすれば復興の明るいニュースが目立ってきた。視聴者や読者がそれを欲していることもある。それもまた事実だろうが、報道する側に選ばれた事実である。
震災から5年経った報道も同じだ。明るいニュースの影でいまだに歯を噛みしめている人たちがいることを、忘れてはいけない。
真実とはなんと空しいことか。
もはや数字だけが信頼できる、そんな殺伐としたものを感じる。
(2016/03/12 投稿)

応援よろしくお願いします。
(↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 今日もクリックありがとうございます)


レビュープラス
| Home |