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プレゼント 書評こぼれ話

  先日発表された第141回芥川賞を受賞したのが、
  今日紹介しました、磯崎憲一郎さんの『終の住処』(ついのすみか)です。
  私はいつも、芥川賞作品は「文藝春秋」に掲載されたものを、
  その「選評」とともに読むのを基本にしているのですが、
  今回は先に単行本がでましたので、「文藝春秋」発売前に
  読んでしまいました。
  「文藝春秋」がでたら、またその「選評」の感想を
  書こうと思います。
  今回の受賞者磯崎憲一郎さんは、
  44歳の商社マンということで久しぶりの大人の作品と
  話題になっていますが、
  作品自体に明るさがあるかというと、けっしてそうではなく、
  いまひとつとっつきにくさを感じました。
  むしろ、作品の中の主人公の仕事についての描写の方に
  活力があります。
  案外この作者は「経済小説」などを書けば、
  面白いかもしれません。
  

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終の住処終の住処
(2009/07/24)
磯崎 憲一郎

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sai.wingpen  作品に吹く風              矢印 bk1書評ページへ

 文学は時代の風見鶏であるのか。
 著者が意図しようとしまいと、時代はしばしば文学に風見鶏であることを強いることがある。それが芥川賞というこの国でもっとも有名な文学賞であればなおさらで、作品がすでに強く時代の風を受けている場合もあるし、掲げられて初めて時代の風を感じることもある。
 第141回芥川賞を受賞した磯崎憲一郎の『終の住処』を読み終わった時に感じた、ある種の徒労感もまた、風見鶏が指し示す時代の風なのだろうか。
 製薬会社に勤める主人公は三十歳を過ぎて妻と結婚する。特に燃え上がるような恋愛感情があったわけではなく、すでに二人には「疲れたような、あきらめたような」表情があらわれている。だからこそ、二人にとりたてて事件が起こるわけではなく、彼の観念的な精神風景がつづく。
 主人公の女性関係にしても、家庭を壊すほどの熱情はない。子供もできた。一見平和な家庭が営まれているにもかかわらず、突然「妻は彼と口を利かなくな」り、その後十一年もの間、二人は会話のない生活をおくる。彼にもその理由はわからない。
 果たして、この妻というのは人格をもった、主人公にとっての他者であろうか。あるいは漠然と「家庭」を暗喩するものだろうか。

 仮面夫婦という言葉が流行したのは、いつの頃だったろうか。物語はまさに高度成長の時間軸のなかにあり、その当時の多くの男たちがそうであったように、たとえ自ら口を利かないという選択はしなかったにしろ、主人公たちのような会話のない家庭はたくさんあったはずだ。
 やがて、建てられる彼らの「終の住処」。その時、妻はふたたび話しはじめるのだが、失った十一年間を彼らは取り返そうとするのでもなく、淡々に受け入れるだけである。五十を過ぎた主人公が「彼も妻も、ふたつの顔はむかしと何ら変わっておらず、そのうえ鏡に映したように似ている」ことに気づくところで物語はおわる。

 文学がもし時代の風見鶏だとすれば、この物語がしめす方向にどのような意味があるのかはわからない。もし、それがあるとしても、この二人が「死に至るまでの年月」は、物語の最後にあるように、けっして「長い時間ではなかった」ではなく、とてつもなく長い、表情をもたないそれであるはずだ。そのことすら認知しえない文学に、どのような風が吹くというのだろう。
  
(2009/08/05 投稿)
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