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僕たちのミシシッピ・リバー―季節風 夏僕たちのミシシッピ・リバー―季節風 夏
(2008/06)
重松 清

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sai.wingpen  砂時計                     矢印 bk1書評ページへ

 なめらかな曲線を描く硝子のフォルムの上部から細いすきまを通ってひたすら落ち続ける砂。
 さらさら、さらさら。
 同じ形をした下のフォルムの中で、静かに小さな砂山ができていく。
 さらさら。さらさら。
 そうして時を刻んでいく、砂時計。やがて、最後の砂の一粒がこぼれて、時がとまる。
 この小さな道具がそのようにして一定の時間を刻んでいくことを誰が発明したのだろうか。
 人はまた砂時計の上下を置き換えて、時を刻むことを始める。
 さらさら、さらさら。
 逆さになった砂時計はやはり同じだけの時を刻んで終える。
 重松清の短編集『僕たちのミシシッピ・リバー』を読んで、そんな砂時計のことを思った。

 友達、家族、恋人、過去、未来。重松清が得意とするどこにでもありそうな、普通の生活が夏の風景とともに描かれる、12の短編。
 シリーズ「季節風」の夏篇である。
 転校していく友人との夏休み最初の小さな冒険を描いた表題作の「僕たちのミシシッピ・リバー」をはじめ、がんに冒された父親と夏休みの宿題の工作をつくる少年の話(「タカシ丸」)や高校三年の最後の高校野球の予選に敗れた少年の話(「終わりの後の始まりの前に」)など、どこかで終わりを感じてしまう物語が多いのは、夏が燃える季節であるにもかかわらず、どこか喪失感をともなう季節であるからかもしれない。
 それは、あたかも秋の前に散っていく病葉(わくらば)のようだ。

 重松清は巧い書き手である。
 そのような喪失感を描かせれば当代一かもしれない。
 どの短編も鼻の奥がツンとしてしまうようで、まったく同じ経験などしていないのに物語に既視感を覚える。だから、すごく読みやすい作家でもある。
 しかし、ひとつの物語を読み終え、次の物語にはいる頃にはまた同じだけの納得があり、最後には同じだけの鼻ツンがおこる。さらに次の物語でも同じだ。
 まさに砂時計のようにつねに一定の感動がつづく。
 そのことをけなしているのではない。書き手としてこれほど安定していれば何もいうことはない。重松から忘れていた何かをいつも教えられる。
 しかし、重松のそのような巧さがどこかで何かを失っていきはしないか。

 この短編集に収められた悲しみや悔しさや柔らかさはまったく同じものではない。
 それでいて等分の感動を与えてしまう巧さは、いいかえれば不幸でもある。
 砂時計の正確さや時を刻む美しさを誰も否定はしないだろう。
 でも、いつか上下をひっくりかえすことに飽きてしまう。何度やっても同じ時間しか刻まないことに厭きがくる。
 上から落ちる砂がいつまでも止まることがなければ、あるいはひっくりかえしても砂が落ちなかったら。
 それはもはや時計ではないが、人の思いというのは等しく刻まれる時間のようなものではないことを、作者自身が一番知っているはずだ。
 一味違う、「季節風」秋篇を楽しみにして待つ。
  
(2008/08/04 投稿)

プレゼント 書評こぼれ話
  このシリーズを読んだのは、この「夏の巻」からでした。
  読んだ順でいうと、夏、秋、春、冬、ということになります。
  この「夏の巻」では結構キツいこと、書いています。
  でも、ここに書いたことは、実はシリーズ全体にいえることかもしれません。
  というか、重松清文学全体の危うさではないかと思っています。
  人間の、あるいは日本人の心のありようとして、
  いくら時代が変わっても変わらないものがあると思います。
  それが重松文学の魅力ですが、それを今後どう描いていくのでしょうか。
  とても興味があります。
 
  
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