05/10/2017 「自分の木」の下で(大江 健三郎):書評「大江健三郎という真面目な人」

昨日も書きましたが
最近どうも気になって仕方がないのが
本の再読のこと。
新しい本が続々と出るし
読むきっかけがなかった名作にも出会うし
そんなことばかりで
本当に再読ができるのか。
その答えは、いつもNOなのだが。
それでも
もう一度読んでおかないといけない本は
今からでも遅くはない、
ページを開こうと
思わないでもない。
そんな一冊が
今日紹介する
大江健三郎さんの『「自分の木」の下で』である。
多分この本が出た2001年に読んだと思うが
ずっと気になっていた一冊で
その気になっていたことが
やっとすっきりした
今、気分です。
じゃあ、読もう。

ノーベル賞作家大江健三郎の文章は、けっして読みやすくない。むしろ、翻訳調のそれはまどろこしささえ感じてしまう。
ただそれは大江の話し言葉そのものに近いかもしれない。
話すこと(書くこと)を理解してもらいたい。きれいごとでなく、あくまでも真摯に、それは語りかけてくるようでもある。
新しい世紀を迎えた2000年に週刊誌に連載され、2001年の夏刊行された、大江のエッセイ集であるこの本は、私たちが生きる上において大切な問いとその答え(というよりは問いを考える姿勢というべき)を提示してくれている。
まず最初の問いとして、「なぜ子供は学校に行かねばならないのか」で大江は自身の子供時代のエピソードを語りつつ、そういえば大江の文学は常に子供時代や故郷の土地と共鳴し合っているが、本当に真面目に答えを求めようとしている。ここでは答えを記さないが。
この本にはそんな問いとそれを考えるエッセイが16収められている。
子供の時、青春の時、壮年期、そしてもうすぐ終焉を迎える、その時々に読んでもらいたい一冊だし、もしかしたら大江健三郎というずっと作家であり続けた稀有な人の代表作のひとつでもあるといっていい。
ところで、タイトルにある「自分の木」である。
大江の生まれた土地には人それぞれに「自分の木」があって、その根から魂が人間となり、死んだのちそれがまた木のもとに帰るという。そして、時にそこで未来の自分と行き会うのだという。
大江の想像力はその木の下で未来の自分と過去の自分が交流をもつことを夢みている。
そこにも大江の真面目さをみる思いがするのだが。
(2017/05/10 投稿)

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