FC2ブログ
プレゼント 書評こぼれ話

  今日も三遊亭圓生さんの話。
  昨日「私の履歴書」を紹介しましたが
  もちろんそこには戦争時分の話もあって
  そういえば
  井上ひさしさんの戯曲に
  そんな話があったなと思い出しました。
  それがこれ、『円生と志ん生』。
  再録書評です。
  なんとこの書評は2005年に書いたものですから
  14年前のもの。
  その時の私はいくつだったっけ。
  50歳になったばかり。
  文章にも勢いというものがありますが
  だからといって
  この頃に三遊亭圓生さんの噺にはまっていたかというと
  そうでもなかった。
  どっちがいいかということでも
  ありませんが。

  じゃあ、読もう。

  

sai.wingpen  そこがえらい                   

 井上ひさしによる今回の戯曲は二人の落語家を主人公にしたもので、舞台は終戦直後の満州である。
 二人の落語家、円生と志ん生といえば落語好きな人にはたまらない名跡だろうし、落語を知らない人でも和田誠が描いた名人の似顔絵をみればなんとなくははんと思い出すにちがいない。落語家が主人公だけあって、今回も井上流の言葉の遊びがふんだんに楽しめる

 言葉の遊びと書いたが、井上は決して日本語を粗末にしているわけではない。むしろ井上ほど日本語の豊かさを認識している作家は稀有である。豊かであるから言葉を縦横に使って遊ぶことができる。
 そんな井上によく似た大作家がいる。明治の文豪夏目漱石である。まだまだ日本語が未熟であった明治という時代にあって、漱石は語り言葉である落語の力をきちんと把握していた。

 井上のこの戯曲でも紹介されているが、漱石は『三四郎』の中で落語家三代目柳家小さんをこう評した。「小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものじゃない」と。
 そして「彼と時を同じゅうして生きている我々は大変な仕合せである」とまで書く。
 では漱石は小さんのどこに魅力を感じたのか。先の文章に続けて。「小さんの演じる人物から、いくら小さんを隠したって、人物は活溌溌地に躍動するばかりだ。そこがえらい」と。
 さすが漱石だけあって落語家を芸術家とまで言わしめる、明解な理由を示している。

 実はこの『三四郎』でこの小さん評に先立って、興味ある記述がある。主人公の三四郎が故郷の母に手紙を書く場面だ。
 漱石は書く。「母に言文一致の手紙をかいた。−学校が始まった。これから毎日出る。」
 今ではごく当たり前のような手紙の文面を、漱石はあらためて、言文一致とことわって書いた。漱石はそのようにして日本語の、しかも生き生きとした言葉の躍動感にこだわった作家である。
 井上の作品も漱石同様に日本語へのこだわりが垣間見える。だから、登場人物たちは「活溌溌地に躍動するばかりだ」。
 漱石流に言えば、「そこがえらい」のである。井上の作品に小難しい理屈はいらない。日本語が持っているリズムを、日本語が醸しだすおかしさを堪能すればいい。そんな言葉を、大切にしたいと学べばいい。
  
(2005/09/12 投稿)

    芽 「ブログランキング」に参加しています。
     応援よろしくお願いします。
     (↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 今日もクリックありがとうございます)
 
    にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

レビュープラス
Secret

TrackBackURL
→http://hontasu.blog49.fc2.com/tb.php/4029-77f6876b