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プレゼント 書評こぼれ話

  総合誌「文藝春秋」9月号に掲載された
  第161回芥川賞の選考委員の選評を読んで
  一番驚いたのが、
  そして感銘を受けたのが
  川上弘美委員の選評でした。
  その中で
  川上弘美委員は古市憲寿さんの作品について
  こう記しています。

    小説家が、いや、小説に限らず何かを創り出す人びとが、
    自分の、自分だけの声を生みだすということが、
    どんなに苦しく、またこよなく楽しいことなのか、
    古市さんにはわかっていないのではないか。

  古市憲寿さんの作品への批判ですが
  そこには川上弘美さんの
  創作にかかわる姿勢がうかがえます。
  今日は第161回芥川賞受賞作
  今村夏子さんの『むらさきのスカートの女』を
  紹介します。

  じゃあ、読もう。

  

sai.wingpen  「むらさきのスカートの女」は本当にいたのだろうか                   

 第161回芥川賞受賞作。(2019年)
 選考委員の選評を読むと、おおむね好評で、宮本輝委員は候補作の中でこの作品だけが「人間というミステリアスな存在へと筆を向けていた」と褒めている。
 今回が最後の選考委員となる高樹のぶ子委員の評がこの作品を端的に語っているように思った。引用すると「語り手と語られる女が、重なったり離れたりしながら、最後には語られる女は消えて、その席に語り手が座っている。」となる。
 タイトルの「むらさきのスカートの女」が「語られる女」で、「語り手」である「わたし」は「黄色いカーディガンの女」として登場する。

 小説で「わたし」として語られる「一人称」の場合、当然自分が見た世界だけが描かれることになる。
 この作品でも「むらさきのスカートの女」の奇行ともいえるさまざまな行為は「わたし」の視点で描かれているはずだし、同じ職場で働きだした女の職場での行為を克明に描けるとすれば「わたし」は女の近距離にいたことになる。
 それでいて、女は「わたし」の存在にほとんど気づかない。
 まるで女の視界に「わたし」がいないかのように。

 いや、「むらさきのスカートの女」こそ最初から不在であったかもしれない。
 まさに最後の場面で二人の女が入れ替わったような印象を残しているが、入れ替わったのではなく、最初からの不在を証明したのではないだろうか。
 堀江敏幸委員は「いびつさをなにか愛しいものに変えていく淡々とした語りの豪腕ぶり」と選評に書いているが、その豪腕ぶりを今後も期待したい。
  
(2019/08/29 投稿)

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