08/24/2022 ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死(稲泉 連) - 詩をつないでいくものたち

けれど、萩原朔太郎や中原中也といった詩人とは違うし、
戦後の谷川俊太郎や茨木のり子といった詩人とも違う。
竹内浩三は昭和20年4月、23歳の時ルソン島で戦死していた青年だった。
その彼が「日本の詩人」として名を後の世に残すことになったのは、
「戦死やあわれ」とうたわれた『骨のうたう』という一篇の詩が、
戦後多くの人に知られていったことがきっかけとなった。
1979年生まれの稲泉連が竹内浩三を知るのも、
2001年11月に出版された『竹内浩三全集』全一巻との出会いであった。

2005年に第36回大宅壮一ノンフィクション賞を史上最年少で受賞している。
竹内浩三という詩人が生まれたのは、竹内の遺稿を大切に保管されていた姉の存在が大きい。
そして、その姉から遺稿を託された浩三の友人たち、
偶然浩三の詩を知ることになった若くして亡くなってしまうNHKのディレクター、そして彼の友人。
そういった人のつながりが竹内浩三という無名の兵士を「日本の詩人」に生まれ変わらせたといえる。
そして、そこにつながっていくのが、20代前半だった稲泉だ。
稲泉がこの作品を書き、大宅壮一賞を受賞したことで、
竹内浩三はこれからも「日本の詩人」であり続けるだろう。

『五月のように』は「青空のように/五月のように/みんなが/みんなで/愉快に生きよう」といった、
高い空をあおぐような詩も書いた「日本の詩人」なのだ。

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