04/11/2010 愛妻日記(重松 清):書評

今日も昨日につづいて
R18の本の紹介です。
昔、こっそり書いていたものの
蔵出しになります。
昨日は石田衣良さんでしたが、
今日紹介する『愛妻日記』は重松清さん。
どちらも直木賞作家というだけでなく
出す本出す本が話題になる、
人気作家でもあります。
石田衣良さんの『sex』でもそうですが、
重松清さんの『愛妻日記』でも
表現は過激です。
私はそれでもこういう官能小説を書かざるを得なくなる
作家の業(ごう)のようなものを
強く感じます。
子供たちの涙を描きながら、
大人たちの性もえがく。
それはもしかしたら
人間の営みとして
ひとつの根っこのようなものかもしれません。
じゃあ、読もう。
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直木賞作家重松清の、初の官能小説集である。
物語の運び、語彙の豊かさ、文章の組立て、そのいずれもが上手な書き手であるから、性の表現も豊穣であり、過激である。官能小説としても満足できる作品集だ。
それでいて、平野甲賀の装丁、重松清という作者名、「愛妻日記」というソフトな書名、講談社という大手出版社名、とくれば、この本のことを知らない人は、読んでいる私がこの本でどれほど興奮し欲情しているかはわからないだろう。それはこの作品の中で描かれた、密室の中で秘儀を繰り返す六組の夫婦の愉しみに似ている。
六つの物語はいずれも夫のゆがんだ性の発露によって展開する。しかしながら、それらは異常な性の行為なのだろうか。この本の宣伝コピーは「奥様には隠れて読んでほしいのです」とあるが、むしろ性の喜びを共有できないことの方が不思議な気がする。夫婦とはある意味で、この作品の夫婦たちがそうであるように、性の共犯者であるはずなのに。
ならば夫婦とは何だろう。男と女はどうして同居という煩わしい形態をとってまで夫婦という関係を結ぶのだろうか。
いつも一緒にいたいという感情の底には、性の関係を夫婦という自分たちの空間の中で行い続けたいという欲望があったはずだ。しかし、夫婦生活を続けるうちに、夫婦が行なう性の営みに何の刺激もなくなっていく。その果てには「饗宴」という作品に描かれたように、互いの肉体の衰えにおぞましさまで感じるようになっていく。
それは何故か。夫婦の関係こそどのようなタブーもない性の営みができうるはずなのに。夫婦の間の性だからこそゆがんだ行為さえも認めあえるはずなのに。何故夫婦は変化のない性を繰り返すのだろうか。
重松清は「妻に対する夫のゆがんだ…でも、だからこそまっとうでありうるはずの情欲を描いた」と書いている。その上で「小説の書き手として、これらの物語を僕は欲していたのだろう。今後も夫婦や家族の物語を書きつづけたいから、性から逃げたくなかった、のかもしれない」と続ける。
だから、読み手である私たちも夫婦の性から逃げないでいよう。そして、そのことを手がかりにして夫婦という関係のありようを考えてみるのも重要なことかもしれない。
(2004/01/18 投稿)

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