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01/14/2009    書評:海辺のカフカ
プレゼント 書評こぼれ話

  今朝(2008/01/14)のNHKBS2の「私の冊 日本の100」は、
  日本画家千住博さんの紹介する、村上春樹さんの『海辺のカフカ』でした。
  千住博さんといえば、「ウォーターフォール」(下図)のシリーズで有名ですが、
    
               千住博

  初めて作品を見た時は、思わず足がとまりました。
  品(ひん)があって迫力があって、「貴麗」(きれい)と書きたくなる作品です。
  そんな画を描く千住さんですが、『海辺のカフカ』を読んで、こう話しています。

     最後は希望

  実は、この『海辺のカフカ』は私にも印象深い小説です。
  というのも、この物語の書評を書くに際して、
  私はタイトルを「おいしいねじりパンの作り方」としました。
  この書評タイトルがすごく気に入っています。
  もしかしたら、このタイトルで、村上春樹さんが描こうとした
  作品世界を、言い尽くしているかもしれない。
  タイトルであってもこちら側の伝えたい意図を込めることが
  できるのではないかということです。
  今日は、以前の蔵出しですが、
  一挙に上下二冊の書評をお楽しみ下さい。
  いきますよ。
  では。

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)海辺のカフカ (上) (新潮文庫)
(2005/02/28)
村上 春樹

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sai.wingpen  おいしいねじりパンの作り方                   矢印 bk1書評ページへ

  村上春樹の新作「海辺のカフカ」を、ゆっくりと時間をかけて読んだ。パン生地がふっくらと焼きあがっていく時の暖かな匂いが身体の隅々に染み込んでいくような、読書の時間を過ごした。そして、たぶん、僕は少し無口になった。

 章立てされた物語のストーリーを語ることに意味はない。奇数章は記憶を求める<田村カフカ>という十五歳の少年の、偶数章は記憶を失った<ナカタさん>という初老の男の物語である。具象と抽象。現実と夢。癒しと暴力。ふたつの物語は、それぞれにねじれて絡み合う。そして、ひとつの長い物語になっていく。ちょうどねじりパンみたいに。

 できあがったねじりパンには、ふたつの材料が使われている。ひとつは哲学の方法である。ここでいう哲学とは、生きていくための技術みたいなものだ。長い物語の中で交わされる登場人物たちの多くの会話は、ソクラテスの対話法の実践ともいえる。鷲田小弥太の「はじめての哲学史講義」(PHP新書)によると「ソクラテスの対話法は、説得術であるとともに、真の認識へと人々を誘う教育術でもある」という。特に奇数章で語られる多くの会話が、十五歳の少年が未来に向けて生き続けるための教育術であるといえる。物語を読み終えた時、僕たちは生きることの意味を、少し考えている。

 もうひとつの材料は、村上春樹流の比喩の使い方である。直喩と隠喩。多くの比喩が対話法の哲学の狭まで、パン生地を膨らませるためのイースト菌の役目を担っている。これがあればこそ、物語は豊かで柔らかに完結しているといえる。困難な主題が多くの人たちに読まれるのは、この材料の力が大きい。

 村上春樹はこの長い物語の最後にこう書いた。「本当の答えというのはことばにできないものだから」(下巻・413頁)もう十五歳の少年ではない僕にとってできあがったねじりパンは少しつらい味だった。ことばにされない答えを見つけるのに、僕はやや年をとりすぎたかもしれない。
  
(2002/09/29 投稿)
下巻はこちら。
海辺のカフカ (下) (新潮文庫)海辺のカフカ (下) (新潮文庫)
(2005/02/28)
村上 春樹

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sai.wingpen  おいしいねじりパンの作り方、つづき。           矢印 bk1書評ページへ

  村上春樹の「海辺のカフカ」の上巻の書評で「ひとつの長い物語になっていく。ちょうどねじりパンみたいに」と書いた。僕としては、この「ねじりパンみたい」という表現が割りと気に入っている。「ねじりパン」という言葉が頭に浮かんだ時に書評が書けると思ったぐらいだから。あの書評を書いて二日ほど経ったが、もう少し修飾した方があの作品をもっと的確に評すことができたかもしれないと思っている。例えば「ひとつの長い物語になっていく。ちょうど三日前に近所のローソンで買ったねじりパンみたいに」と。

 村上文学の大きな特徴はこの比喩の使い方のうまさにある。試みにこの上下2巻の任意のページを開いてみよう。十五歳の田村少年が実の姉かもしれないさくらさんの家にかくまわれて、彼女と一夜を共にする場面(上巻)。田村少年はさくらさんの裸を想像してしまう。「<さっきから想像するのをやめようと思ってるんだけど、どうしてもやめられないんだ><やめられない?><テレビのスイッチが切れないみたいに>」。次に十五歳の田村少年が実の母かもしれない佐伯さんと一夜を共にする場面(下巻)。禁断のセックスのあとで。「でもなにを言えばいいのか、君にはわからない。ことばは時のくぼみの中で死んでしまっている。暗い火口湖の底に音もなく積もっている」。

 こういった文章のうまさがムードとなって村上春樹ワールドを築いている。読み手が思わず膝を叩いてしまう表現方法は、村上春樹が太宰治的書き手に近いことを証明しているように思える。つまり、自分(読み手)のことをこの人(書き手。ここでは村上春樹)が一番わかってくれている、という明白な誤解を与えてしまうということで。

 しかし、村上春樹は比喩を否定はしない。むしろ積極的に表現しようとさえしている。それが、長い物語の最後の、こんな言葉に表現される。

 世界はメタファーだ、田村カフカくん(下巻)。
 
(2002/10/02 投稿)

  



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