06/04/2010 巨人たちの俳句 (磯辺 勝):書評「余白に書かれた俳句」

この頃俳句はうまく詠めません。
朝日俳壇への投稿もボツの山です。
詠み手である私自身が納得していないのですから、
採用されるはずもありません。
原因は、なんとなくわかっています。
詠むのに力みがでています。
いい句を詠もうと頭でつい考えてしまいます。
そうではなく、
ふっと浮かんでくる句の方が、
いい句のことがよくあります。
今日の磯辺勝さんの『巨人たちの俳句』の
書評のタイトルではありませんが、
余白にふっと浮かんだ句。
いい俳句が詠みたい。
でも、そういうことから
逃れられたら一番いいのでしょうね。
じゃあ、読もう。
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文豪夏目漱石の俳句はかなり有名である。漱石自身も俳句が好きだったようで、松山の知人にこんな手紙を書いている。「近年俳句を作らず作らうとしても出来かね候。道後の温泉へも浸らねば駄目と存候」。
漱石のような人であっても、「作らうとしても出来かね」ることがあるのだ。
それを思うと、俳句という文芸がもっている特質のようなものが見えてくる。
作為ではなく、心の余白に書かれるもの。そのようにして俳句を詠んでいる人は多いのではないだろうか。そして、そのようにして詠まれたものこそ、佳句になるようにも思える。
本書は、小説家永井荷風、社会主義者堺利彦、民族学者南方熊楠、歌舞伎役者二世市川団十郎といった、それぞれの分野で功をなした巨人六人が残した俳句を通じて、彼らの人生や交遊を読み解こうとする意欲作だ。
彼らの俳句をたどろうとして、むしろ彼ら巨人たちの生き様にひかれ過ぎたふうもないではないが、自身俳人でもある著者の磯部勝は「俳句を、生きてゆくうえでのマチの部分、生活のなかの間合いとして生かし、その人の私的なものを表現する手段としてこそ、意味があるのではないだろうか」と書いている。
巨人たちが残した俳句は、けっして名句だと限らないが、彼らの人生の余白に書きとめられた本音のようなものだといえる。残そうという意思もなく、飾ろうとする野心もない。
本書に紹介されている、昭和二十八年の永井荷風の句「かたいものこれから書きます年の暮」には、俳句の形式はとっているものの、荷風の心からこぼれおちた意思のようなものを感じる。しかも、正面きって言うには気恥ずかしい思いが、この句には込められている。
分野は異なれ、六人の巨人たちはそのような素朴な俳句を残したのである。
余白に書かれた俳句には、人生の素直さがにじんでいる。
(2010/06/04 投稿)

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