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プレゼント 書評こぼれ話

  今日紹介する辰濃和男さんの
  『ぼんやりの時間』のなかに
  こんな文章があります。

   すぐれた政治家は本質的に、すぐれた自然観の
   持ち主なのだと思う。政治家は、一本の草の花
   の繊細な美しさに陶然とする人であってもらい
   たいし、一匹のアリの動きに命の充実を感じる
   人であってもらいたいと私は思う。

  昨日突然の辞任表明をした鳩山総理に代わる
  新しいこの国のトップが
  まもなく決まるのでしょうが、
  アリとはいわなくても
  国民一人ひとりに
  命があることを、
  そしてその命には等しく血が流れていることを
  わかってもらえる政治家になってもらいたいと思います。
  単に自分たちの数のために
  総理を選ばないでもらいたい。
  そう願っています。

  じゃあ、読もう。

ぼんやりの時間 (岩波新書)ぼんやりの時間 (岩波新書)
(2010/03/20)
辰濃 和男

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sai.wingpen  蟻は歩きだすとき、まずどの足から動かすか             矢印 bk1書評ページへ

 こういう書名で、しかも著者の年齢が80歳ということになれば、老人の繰言のように聞こえてしまうかもしれない。
 企業戦士という言い方を今はしないのかもしれないが、大なり小なり、働く現場では「ぼんやり」などといった言葉は通用しない。せいぜい「いいよな、引退した身分の人は」と愚痴られるのが関の山だろう。
 ところが、この「ぼんやり」を「スローライフ」と言葉を変えれば、いささか様相が違う。現代的な生き方として多くの人の支持を受ける。
 言葉というのは、かくのごとく、奇妙である。
 かつて朝日新聞の人気コラム「天声人語」を長年担当してきた著者が「スローライフ」という言葉を知らないはずはない。しかし、著者は本書では「スローライフ」という言い方を終始使っていない。カタカナ表記のその言葉では表現しきれないものを、「ぼんやり」という日本語に込めたような気がする。

 本書はあわただしい現代に反旗を翻し、「ぼんやり」という言葉でしめされる時間の価値感を評価しようという思索的エッセイである。その材料として、串田孫一やキャサリン・サンソム、深沢七郎などのさまざまな書物がテキストになっている。
 著者はいう。「「動」や「働」や「がんばり」が大切だと考えるときは、「静」や「休」や「ぼんやり」もまた、いかに大切であるかを考えねばならぬ」、と。
 つまり、著者は現代社会における利便性や効率性をまったく否定している訳ではない。ただ、それだけでは人間として豊かになれないのではないかと警鐘を鳴らしている。

 著者が紹介して挿話のなかで最も感銘を得たのが、画家熊谷守一のそれだった。
 熊谷は都内の草庵で「蟻は歩きだすとき、まずどの足から動かすか」とぼんやり蟻を見ていたという。蟻がはっていることすら見向きもしなくなった現代に、それをじっと見つめつづける時間をもてることの、なんという贅沢だろう。
 そして、それはかつてフランス大統領であったミッテランの「詩のないエコロジーなんて、鉄製のなつめやしをオアシスに植えるようなものです」という言葉と、不思議に共鳴しあう。

 私たちは足元の蟻さえ見なくなった。
 あの働き者の蟻以上にせかせかと動いている私たちは、どこに行こうとしているのだろう。自分の足が左右どの足から動いているのかさえ知らないでいる。
 たまには、それさえやめて投げ出してみるのもいいではないか、と本書は教えてくれる。
  
(2010/06/03 投稿)

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