07/06/2010 書評でふりかえるbk1書店と私 第八回 本こそ自由

その直後に書いた書評が
今回紹介した城山三郎さんの『無所属の時間で生きる』でした。
会社をやめるということは、
それまで所属していたものからの離脱ですが、
私は特にそのことでどうのこうの迷うことは
ありませんでした。
むしろ、所属されることにいささか疲れていたともいえます。

まったく反対の地平にあるものではないかな。
そこには自由な世界があって、
時には恋愛の、時には若者の、時にはビジネスの
時には歴史の時空さえ、超えるもののように思います。
そこでは誰もが自由です。
強いヒーローになることもできるし、地味な脇役の気持ちだって
想像できます。
城山三郎さんがいった「無所属の時間を生きる」とは
まるで本の世界を楽しむことそのものだったのではないかと
今ならそう思えます。

本も読みましたし、せっせとbk1書店に投稿もしました。
けっして私は物語のいい読み手ではないと思っています。
読んだ本をふりかえっても
物語が多いわけではありません。
特に最近の若い世代の物語については
ほとんど知らないということもあって、
いささか反省もしています。
やはり文学の世界でも、つながりということがあると思います。
村上春樹さんや吉本ばななさんが出てきて、
彼らにつながる文学シーンがあるのではないでしょうか。

![]() | 無所属の時間で生きる (新潮文庫) (2008/03/28) 城山 三郎 商品詳細を見る |


個人的な話だが、会社を辞めた。会社員として働いていたときは、あれもしたい、これもしたいと思っていたことが、実際目の前に大きな時間の塊となってあらわれると、そのあまりの大きさに茫然となっているというのが正直なところだ。組織に所属していた時に望んでいたものは何だったのだろう。なぜ、前に出ることができないのか。見上げれば天さえも望めない圧倒的な壁の前で足をすくませている。そんな自身が疎ましい。そのような時に、城山三郎氏のエッセイ集『無所属の時間で生きる』という書名が目にとまった。
「無所属の時間」とは、「どこにも属さない一人の人間として過ご」す時間のことだが、城山氏はその時間を「人間を人間としてよみがえらせ、より大きく育て上げる時間」と書く。城山氏がこのエッセイを書いたのが七〇歳の頃、氏の人生においての晩年に位置する(氏は二〇〇七年の三月に逝去)。その人生の多くを組織に所属しないで生きた作家人生だが、それは氏が邂逅した多くの経済人の生き様を通して到達したひとつの境地であったものと思われる。
但し、このエッセイに書かれた多くのことは、いまだ無常の世界でない。氏の地元茅ヶ崎のことを書いても、恩師との交流を描いても、日常の些細な事柄を描写しても、文章は生真面目であり、すっくと背筋が伸びている。これは氏が持ち続けた個性にほかならない。おそらくそのような生き方そのものは窮屈であったかもしれないが、氏の真摯な姿勢は、「無所属の時間」をもった多くの人たちにとって(もちろん、その中には書評子自身もはいるのだが)、ひとつの大きな指針になるような気がする。
読んでいてうれしかったのは「アラスカに果てた男たち」と題するエッセイの中に「星野道夫」の名前を見つけた時だ。アラスカの写真を撮り続けた(そして、何よりも上質な文章を書き続けた)星野について、城山氏は「ごく親しい人のことのように」と書く。氏と星野の間に交流があったのかは知らないが、なんという優しい表現だろう。氏が描いた経済と星野が表現しようとした自然。まるで合致しない世界でありながら、氏は同じ地平に立っている。そして、星野の世界もまた「無所属の時間」であったという。そうなのだ。「無所属の時間」とは、立ちはだかる壁ではなく、目の前に広がる豊沃な大地なのだ。まずは歩きだせ。
(2008/06/23 投稿)

応援よろしくお願いします。
(↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 今日もクリックありがとうございます)


レビュープラス
| Home |